アルカーイダ

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アル=カーイダが使用していた旗

アル=カーイダアルカイダアラビア語: القاعدة‎、翻字: al-qāʿidah英語: Al-Qaeda)は、イスラム主義を標榜するスンナ派ムスリムを主体としたテロ組織を指す。

1990年代以降、主としてアメリカ合衆国を標的とした数々のテロ行為を実行したとされ、2001年アメリカ同時多発テロ事件は、世界に大きな衝撃を与えた。

概要

アラビア語で「アル(الal)」は定冠詞、「カーイダ(قاعدةqāʿidah)」は「座る」を意味する動詞「カアダ(قعد, qaʿada)」の派生名詞で「大本」、すなわち「基地・基盤・座」を意味し、英語直訳は The Base[1]日本語ではアルカイダと書かれることも多い[2][3][4]外務省の文書には、「アル・カーイダ」「アル・カエダ」「基地」といった名称が紹介されている[5]

ウサーマ・ビン=ラーディンはアル=カーイダの精神的指導者であり、財力を用いて初期の反米闘争の組織を起ち上げた。アル=カーイダのナンバー2とされていたアイマン・ザワーヒリーはイスラーム神学者。
1986年、二人はサウジアラビアジッダで初めて会ったとされる[6]。組織作りや資金集め、組織の代表として声明などを出す役割はビン=ラーディンが担い、テロに関する宗教的な理論面や作戦面は、学識のあるザワーヒリーが担っていたとされる[7]
2011年5月にビン=ラーディンがアメリカ軍によって殺害されると、翌6月、アル=カーイダは、ザワーヒリーが新たな指導者に選出されたと発表した[7]

アル=カーイダの実態は不明点が多く、現在では、アル=カーイダが一つのまとまった組織なのかどうかで議論が分かれる。CIA元工作員でイスラム主義組織の専門家マーク・セイジマン(Marc Sageman)によると、アル=カーイダとは、軍隊のような明確な階級が存在する指揮命令系統の組織ではなく、 人々が自発的に集合する社会運動のようなものであって、 明瞭な境界や構成員が存在しない、とする。特に2001年のアメリカ軍によるアフガニスタン侵攻以降についてはビン=ラーディンの指揮によるものではなく、 地域ごとに自発的に集まった人々によってアル=カーイダの名の下に勝手にテロが行われていると指摘した[8]。 また、軍事力は明確なターゲットに対しては有効であるが、アメリカ軍と同盟国によってそれらが破壊され組織が拡散してしまった現在では、軍事力の行使とは異なる対策、すなわち人々が暴力的なテロ運動に参加することを阻止する必要があると指摘した[8]

また、ブッシュ家と深い関係にあるサウジアラビア王族のバンダル・ビン・スルターン(又はその背後のサウジアラビア総合情報庁)が、アルカーイダなどの過激派に対して、隣国イラクシーア派の軍事大国のシリアイランを弱体化させる目的に影で支援してきたとされ、駐シリアヨルダン大使やイラン、一部のジャーナリスト、学者は、アルカーイダの真の指導者はバンダルであると主張している[9][10][11]

起源

アル=カーイダの起源は、アメリカ中央情報局(CIA)パキスタン軍統合情報局(ISI)サウジアラビア総合情報庁(GIP)1978年以降のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻に対抗させるために、サイクローン作戦の名の下でムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)を訓練・育成し武装化させたことに始まる。

1980年代

1984年、アフガニスタンでのアラブ人ムジャーヒディーンを理論的に指導してきたムスリム同胞団アブドゥッラー・アッザームが教え子のビン=ラーディンをパキスタンペシャーワルに呼び入れ、アラブ諸国からアフガニスタンへ義勇兵を送り込む組織マクタブ・アル=ヒダマト(MAK)を結成した。この動きにイスラム集団の精神的指導者であるオマル・アブドッラフマーンジハード団指導者のアイマン・ザワーヒリーなどが合同し、35000人のムジャーヒディーンが世界各地からアフガニスタンに集まった。MAKは、ペシャーワルにゲストハウスを設けアフガニスタンジャラーラーバードなどに軍事訓練キャンプを建設し、ゲリラ戦を主体としてソ連軍と戦った。富豪であったビン=ラーディンは、CIAやサウジアラビア総合情報庁と共にMAKの運営やムジャヒディーンによる対ソ連戦の資金元となった。

ソ連軍のアフガニスタンからの撤退後、闘争の舞台をイスラエルカシミールコソボアルジェリアなど世界各地の紛争地に求めるムジャーヒディーンが中心となって1988年にアル=カーイダを組織した。ここにおいてアブドゥッラー・アッザームはソ連軍撤退後に勃発したアフガニスタン内戦を最優先するのに対し、経済的な側面での実力者であった弟子のビン=ラーディンは世界各地でのテロ作戦を主張し両者の路線対立が表面化した。1989年にアブドゥッラー・アッザームは何者かに爆殺されMAK体制は崩壊し、アル=カーイダのメンバーはビン=ラーディンの傘下となった。ビン=ラーディンはアラブの英雄としてサウジアラビアに帰国した。

1990年代

1991年湾岸戦争が勃発し、当時サウジアラビアに帰国していたビン=ラーディンらがムジャーヒディーンによってイラク軍からサウジアラビアを防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王が断り[12]イスラームの2大聖地であるメッカマディーナを領有するサウジアラビアがアメリカ軍を常駐させたことは当時ムジャーヒディーン達の反米意識を高めさせた。

1992年、宗教指導者で民族イスラム戦線のハッサン・アル=トゥラビの招きでビン=ラーディンは密かにサウジアラビアを抜け出しスーダンに移った。スーダンではオマル・アル=バシールのクーデターが成功、ビン=ラーディンはスーダン滞在中に建設事業などを進める一方でアイマン・ザワーヒリーなどと組織を強化した。しかしテロを続けるアルカーイダはスーダンの厄介者となり、1995年にアイマン・ザワーヒリーはスーダンを離れ世界各地を転々とし、ビン=ラーディンは1996年にアフガニスタンに拠点を移した。

活動

1990年代

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ラムジ・ユセフ

アメリカ

1990年代に始まったアル=カーイダの闘争は、年を追って過激になった。1993年には、思想的指導者となったオマル・アブドッラフマーンや幹部のハリド・シェイク・モハメド、実行犯ラムジ・ユセフらが、ニューヨーク世界貿易センタービル爆破事件を引き起こした。1995年には、ウサーマ・ビン=ラーディンの資金提供元にハリド・シェイク・モハメドが起案し、ラムジ・ユセフが実行する予定だった、アジア各国空港発アメリカ行き旅客機の同時爆破を狙ったボジンカ計画が発覚している。

また、これに続く計画では、小型航空機をシアーズタワーアメリカ合衆国議会議事堂ホワイトハウスやCIA本部などに突入させる計画も練られており、これらの計画がアメリカ同時多発テロ事件の原案になっているとされる。

サウジアラビア

1996年には、在サウジアラビア米軍基地爆破事件を引き起こした。

ケニア・タンザニア

1998年には、在ケニアと在タンザニアアメリカ大使館爆破事件を引き起こし、アフガニスタンターリバーン政権は同年12月に採択された国際連合安全保障理事会決議1214で匿っているテロリストを国際司法機関へ引き渡すよう求められ、1999年の安保理決議1267[13]において、初めてビン=ラーディンとアル=カーイダを名指ししてテロリストの引き渡しが求められた。

2000年代

イエメン

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被害を受けた米艦コール

2000年には、イエメン沖の米艦コール襲撃事件を引き起こし、同年の安保理決議1333[14]でも再度、ターリバーン政権に対して、ビン=ラーディンとアル=カーイダを名指しして、テロリストの引き渡しを求めた。しかしターリバーン政権は、これらの決議に応じなかったため経済制裁を受けた。

アメリカ

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ハリド・シェイク・モハメド(拘束時)

2001年にハリド・シェイク・モハメド起案によるアメリカ同時多発テロ事件を引き起こした。これに対して同年10月にアメリカを中心とした有志連合諸国と北部同盟不朽の自由作戦を発動し、ビン=ラーディンとアル=カーイダ勢力を匿うターリバーン政権への軍事攻撃を始めたことにより、アフガニスタン紛争が開始された。

同年12月にターリバーン政権は打倒され、ハーミド・カルザイ暫定政権が発足した。これにより、アル=カーイダは資金的・人員的に打撃を受けたとされ、以降、アル=カーイダは個々の組織に分離し、それぞれが個別に活動を行っているとされている。

また、2002年の国際連合安全保障理事会決議1390で、ビン=ラーディンとアル=カーイダ関係者とターリバーン幹部らの資産凍結が決定されている。

アフガニスタン

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アメリカがアフガニスタンに投下したチラシ。ビン=ラーディンとアイマン・ザワーヒリーの賞金額を告げるもの。

アフガニスタン紛争勃発以後、ビン=ラーディンとアイマン・ザワーヒリーは、アフガニスタンとパキスタンの国境線(デュアランド・ライン)付近のパキスタン領であるカイバル・パクトゥンクワ州や、パキスタン政府の実効支配が限定的にしか及ばない連邦直轄部族地域付近を逃亡中であると考えられていたことから、アメリカ軍はアフガニスタン新政権樹立後も、ビン=ラーディンやアイマン・ザワーヒリーを捕獲し、ターリバーンやアル=カーイダ残党、現地武装勢力を掃討するとの名目で、不朽の自由作戦を継続した。この戦いは主に、国境を挟んだパキスタン側の連邦直轄部族地域のワジリスタン地域で行われていることから、ワジリスタン紛争とも呼ばれている。

2010年5月21日にはアル=カーイダのナンバー3でアフガニスタンにおいてアル=カーイダを指揮するサイード・アル=マスリー(別名:ムスタファ・アブ・アル=ヤジド)が、アメリカ軍の無人攻撃機により殺害された。

パキスタン

2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、「アメリカ軍特殊部隊が、ビン=ラーディンの潜伏先と見られていたイスラマバード北東のアボッターバードにある邸宅で、ビン=ラーディンを殺害した」と、CNN報道した[15][16]。これに関して、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマがCNNの報道直後に声明を発表[17]しており、ビン=ラーディンとされる遺体をアメリカ当局が回収した事、及びDNA鑑定の結果、遺体がビン=ラーディンである事も判明したとされる。

イラク

2003年末以降、イラク戦争後のアメリカイギリスの占領統治下にあるイラクに、アル=カーイダ系テロリストが多数潜入・潜伏した。2004年春以降、アル=カーイダ系テロリストは、アメリカ人やその同盟国の民間人を標的とした数々の誘拐・殺害事件を実行した。2004年10月には、その残忍さから世界中に悪名を轟かせているアブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィー率いるアル=カーイダ系のスンナ派武装組織であるイラクの聖戦アル=カーイダ組織イラク日本人青年殺害事件を引き起こし、日本全土に衝撃を与えた。同組織は構成員にイラク国外出身者のムジャーヒディーンを多く含み、外国人を切断して殺害したり、イラク国内のシーア派住民を無差別に殺害するなどの極端に過激な闘争路線を取っていたことから、他のイラク国内の武装勢力としばしば対立した。

2006年10月には、イラクの聖戦アルカーイダ組織を中心とした5つのスンニ派武装組織が結集して、イラク中部を一方的に自国領土だと主張する過激派の統一機構であるイラク・イスラム国を結成した。


しかし、イラクの聖戦アルカーイダ組織の指導者であったザルカウィと、イラク・イスラム国の指導者であったアブー・ウマル・アル=バグダーディー(首長)、アブ・アイユーブ・アル=マスリ(戦争大臣)は、既にアメリカ軍イラク治安部隊の合同作戦で死亡しており、現在ではイラク国内のアルカーイダ系勢力は弱体化が進んでいると見られている。そして、イラク・イスラム国の新たな指導者アブー・バクル・アル=バグダーディーによる新指導体制について、イラクのマリキ首相は「早期に終結させる」と宣言している。

スペイン

2004年3月11日には、マドリード列車爆破事件が発生した。これに対してアル=カーイダの欧州軍事報道官を名乗る「アブ・ハフス・アル・マスリ隊」がアメリカ同時多発テロを引き合いに出しながらスペイン軍のイラク駐留を十字軍に準えて犯行声明を出した。 このテロ攻撃は総選挙の3日前に実行されたため、選挙結果に決定的な影響を与えることになった。 つまり、アル=カーイダの思惑通り、元々が反戦世論の強かったスペインにおいて、事件直後からイラク政策でアメリカ追従を続けてきた国民党ホセ・マリア・アスナール政権)に対して国民の批判が殺到、イラク撤退を求める市民のデモが相次ぐことになった。 またイラク駐留を推進するアスナール政権が、事件発生直後からバスク祖国と自由(ETA)による犯行を示唆していたことにより、「イラク撤退を避けるためETA犯行説を捏造したのではないか」と いう国民の不信を招いた。これに乗じてイラクからの即時撤退を公約に掲げる野党スペイン社会労働党は国民党を非難、劇的な逆転勝利による政権交代を成し遂げた。4月16日に首相に選出されたホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロは直後に公約通りにイラクからの撤兵を決定、4月18日から5月までに撤退を完了させた。

イギリス

2005年7月7日には、ロンドン同時爆破事件が発生し、「欧州の聖戦アルカーイダ組織」名義でイラクとアフガニスタンからの各国軍の撤退を求める犯行声明が出された。後にこの犯行声明は信憑性が薄いとされたが、同年9月1日にアルカーイダが公式に犯行を認める声明を発表した。犯行は海外にいるアルカーイダ首謀者の計画によって進められ、イギリス国内のムスリムが実行したものと見られている。

ドイツ

2004年12月ベルリン訪問中のイヤード・アッラーウィーイラク首相の暗殺を試みたラフィク・ヨセフ他2名のテロリスト逮捕される[18][19]

アジア

一連のボジンカ計画はフィリピン警察が1995年にマニラにあるアルカーイダのアジトに踏み込んだことにより発覚した。ボジンカ計画には、東南アジア各国から出発したアメリカ航空機を同時爆破する計画の他にも、フィリピンに訪問したヨハネ・パウロ2世暗殺する計画も含まれていた。

1997年にはアルカーイダの母体となったイスラム集団ルクソール事件を引き起こし、日本人観光客も死亡している。

イスラーム主義組織「ジェマ・イスラミア」(JI)が主導した2002年のバリ島爆弾テロ事件では、アルカーイダ幹部のハリド・シェイク・モハメドらが関与したことが判明しており、ジェマ・イスラミアは2005年にもバリ島爆弾テロ事件を起こしている。

ラシュカレトイバが主導したと見られる2006年のムンバイ列車爆破事件と2008年のムンバイ同時多発テロでもアルカーイダの関与が疑われている。

また、パキスタンで起こった、2007年のパキスタン・モスク立てこもり事件と2008年9月のイスラマバード・マリオット・ホテル爆破テロ事件でもアルカーイダの関与が疑われている。

新疆ウイグル自治区では中華民国時代から、イスラム教徒のウイグル人による東トルキスタン独立運動がある。そのうち東トルキスタンイスラム運動は、中華人民共和国共産主義政権からの独立を目指すために「あらゆる手段を講じても独立を勝ち取る」と宣言しているが、その中でアルカーイダとの係わりを示唆している。2008年4月11日の夕刊フジでは、中国政府が中国全土がテロのターゲットになる恐れがあることを懸念していると報じられた。東トルキスタンイスラム運動は、2008年7月21日に発生した昆明バス爆破事件や、カシュガルで発生した警察に対するテロ事件にも関わっていると見られ、アメリカ、中国両政府からアルカーイダとの強いつながりが疑われる組織として認定されている[20]

日本

ボジンカ計画の予行演習としてラムジ・ユセフが実行した1994年のフィリピン航空434便爆破事件では、日本人一人が死亡した。

アメリカで逮捕されたアルカーイダ構成員からの証言によると、2002年に日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップでテロ活動を計画したが、日本にイスラム教徒が少なく協力者が得られないなどの理由で白紙化されたという。また2002年から2003年にかけてにアルカーイダ系組織「ルーベ団」の幹部のアルジェリア系フランス人リオネル・デュモンが偽造旅券で日本へ4回入国し、新潟に潜伏していた事が判明している。関係して5名の外国人が警視庁等に逮捕された。

2004年10月にはイラクで、イラクの聖戦アルカーイダ組織がイラク日本人青年殺害事件を引き起こしている。

2007年2月キャンプ座間迫撃弾により攻撃された際には、米ABCテレビは日本及びパキスタン情報筋の話として日本国内でアルカーイダと関係の深いパキスタン人武装組織によるネットワーク化が進んでいると伝えた。

2007年10月29日日本外国特派員協会で行われた講演の中で、鳩山邦夫法務大臣が「私の友人の友人がアルカーイダ」と発言。「2、3年前は何度も来日していたようだ」とも語った。現役閣僚の発言として大きな波紋を呼び、のちに一部発言を訂正した。詳しくはアルカーイダ発言を参照のこと。

評価

久しくイスラム教の指導者はテロがあるたびに「テロはイスラム教の教えに反する」との声明を出している。

2005年12月9日に閉幕したイスラム諸国首脳会議でも、あらためてテロはイスラム教の教義に反すると明確化された。しかし、イスラム教として、テロ指導者が背教者であるとのファトワは出していない。また、殺害への懸賞金どころか、首謀者等の逮捕についての努力も見られない。

一般的に、ムスリムの多数派、とくにイスラム諸国の政府や宗教指導者はアルカーイダの破壊行為をテロと批判している。しかし、イスラエルアフガニスタンイラクの情勢に関して日常的に反米意識を募らせているムスリムの中にはアルカーイダに心情的な共感を寄せる向きがあるとも言われる。アメリカ同時多発テロ事件の際には狂喜乱舞するパレスチナ民衆の映像がマスコミを通じて全世界に流れた。構成員に関しては、異教徒・非イスラム的な生活習慣に取り囲まれ、孤立を感じたヨーロッパなどのムスリム移民の間からアルカーイダに身を投じる者があったことが指摘されている。

その一方、いわゆる「イスラム原理主義過激派」の起こすテロが一般のムスリムをも巻き込んできたこと、またイスラム教が説く慈悲・寛容の精神から外れているとして、「過激派」は現地でもムタタッリフィーン(過激主義者)と称され、社会から異端視されることが多いとされる。

関連組織

関連事件

出典

  1. Kay, Ernest (1986). Arabic Computer Dictionary: English-Arabic, Arabic-English (English). Multi-lingual International Publishers. 
  2. ネイティヴによる「القاعدةْ」の発音 アラブ首長国連邦の男性”. Forvo. . 2014閲覧.
  3. ネイティヴによる「القاعدة」の発音 エジプトの女性 (1)”. Forvo. . 2014閲覧.
  4. ネイティヴによる「القاعدة」の発音 エジプトの女性 (2)”. Forvo. . 2014閲覧.
  5. 国連安保理決議第1267号、第1333号、第1390号、第1988号及び第1989号に基づく資産凍結措置対象リスト (PDF)”. 外務省. . 2013閲覧.
  6. Atkins, Stephen E. (May 31, 2011). The 9/11 Encyclopedia. ABC-CLIO, 456–. ISBN 9781598849219. Retrieved on May 6, 2011. 
  7. 7.0 7.1 貫洞欣寛 (2011年6月17日). “ザワヒリ容疑者が後継 アルカイダ、テロ続行か”. 朝日新聞 
  8. 8.0 8.1 Marlena Telvick. “Al Qaeda Today”. PBS. . 2011閲覧.
  9. Saudi Prince is real leader of al-Qaeda ALALAM 2013年10月19日
  10. ‘Bandar Bush’ is back calling the shots on ISIL’s advance through Iraq Intrepid Report 2014年7月7日
  11. Global Terrorism and Saudi Arabia: Bandar’s Terror Network Global Reseach 2014年1月11日
  12. Jehl, Douglas (December 27, 2001). "A Nation Challenged: Holy war lured Saudis as rulers looked away". The New York Times. pp. A1, B4. Retrieved September 5, 2009.
  13. 安保理決議1267(訳文) 外務省
  14. 安保理決議1333(訳文) 外務省
  15. Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan www.cnn.com.「Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan」May 1, 2011 11:31 p.m. EDT
  16. “ビンラディン容疑者が死亡、米大統領演説へ”. CNN.co.jp (CNN). (2011年5月2日). オリジナル2011年5月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110503235600/http://www.cnn.co.jp/world/30002624.html 
  17. President Barack Obama is expected to announce that Osama bin Laden is dead. Movie Stream2011/5/1 EDT. CNN.com
  18. Huggler, Justin (2015年9月17日). “Islamic terrorist shot dead after Berlin attack on policewoman”. テレグラフ. http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/germany/11872727/Islamic-terrorist-shot-dead-after-Berlin-attack-on-policewoman.html . 19 September 2015閲覧. 
  19. “German police kill known Islamic terrorist in western Berlin after he attacked and seriously injured female officer with a knife”. DMG Media. (2015年9月17日). http://www.dailymail.co.uk/news/article-3238837/German-police-kill-known-Islamic-terrorist-western-Berlin-attacked-seriously-injured-female-officer-knife.html . 19 September 2015閲覧. 
  20. Eastern Turkistan Islamic Movement”. MIPT Terrorism Knowledge Base (2007年5月17日). . 2007閲覧.
  21. エルサレム神殿アラビア語で「バイト・アッ=マクディス」(بيت المقدس Beit al-Maqdis)という。


関連項目