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| Name                = 吉田 拓郎
 
| Name                = 吉田 拓郎
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楽曲提供者としては'''入江剣'''<ref>好きだったモデル・[[入江美樹]]([[小澤征爾]]夫人)と好きだった女の子の名前(準ちゃんと思われる)を足したもの({{Harvnb|田家秀樹|2007b|pp=164,184,185}}、{{Harvnb|吉田拓郎|1994|p=176}})。</ref>の名も用いている。
 
楽曲提供者としては'''入江剣'''<ref>好きだったモデル・[[入江美樹]]([[小澤征爾]]夫人)と好きだった女の子の名前(準ちゃんと思われる)を足したもの({{Harvnb|田家秀樹|2007b|pp=164,184,185}}、{{Harvnb|吉田拓郎|1994|p=176}})。</ref>の名も用いている。
 
== 人物 ==
 
日本の[[シンガーソングライター]]の草分け的存在であり<ref name="prof ">[http://www.oricon.co.jp/prof/artist/30849/ オリコン芸能人事典-ORICON STYLE よしだたくろう]、[https://archive.is/20130702165524/http://www.fujipacific.co.jp/artists/artists/yoshidatakuro.html 吉田拓郎|アーティスト|株式会社フジパシフィック音楽出版(archive)]、[http://showplace.jp/artist/000183/profile | 吉田拓郎 | Museum of Modern Music]、[http://avex.jp/takuro/profile/ TAKURO YOSHIDA (吉田拓郎) avex official website PROFILE]</ref><ref>{{Cite news |title = 拓郎最後のツアー9公演3万枚が即日完売 |newspaper = [[日刊スポーツ]] |date = 2009-04-05 |author = |url = http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20090405-479041.html |accessdate = 2015-10-22 |publisher = [[日刊スポーツ新聞社]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20151022133745/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20090405-479041.html |archivedate = 2015年10月22日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}、[http://natalie.mu/music/news/98306 ナタリー - 拓郎から星野源まで、男性シンガーソングライター名盤紹介]、[http://panasonic.jp/diga/gallery/ DIGAとオヤジと音楽と。 ブルーレイ/DVDレコーダー]</ref>{{Sfn|シンコーミュージック|2013|p=6}}<ref name="nikkansports050529">[http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2005/sun050529.html nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー]</ref><ref name="hmv木田 ">[http://www.hmv.co.jp/news/article/1111100042/ 【コラム】木田高介の果たした大きな役割|HMV ONLINE]</ref><ref name=" Music70'なぎら">[https://web.archive.org/web/20161117161008/http://showplace.jp/interview/70s_yokosuka/talk04_03.html Museum of Modern Music70'sバイブレーション! なぎら健壱インタビューp3(archive)]、[https://web.archive.org/web/20161213120144/http://showplace.jp/interview/70s_yokosuka/talk04_04.html なぎら健壱インタビューp4(archive)]</ref>、1970年代初頭、マイナーであった[[フォークソング|フォーク]]と[[ロック (音楽)|ロック]]を、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である<ref name="chikyugekijou">[http://www.bs4.jp/chikyu-gekijou/onair/03.html BS日テレ - 「地球劇場〜100年後の君に聴かせたい歌〜」#3 ウタビト 吉田拓郎]、[http://www.tanimura.com/forum/article-5708 谷村さんの投稿 吉田拓郎登場!! - 谷村新司 Shinji Tanimura Official site]、[http://www.e-onkyo.com/news/286/ 『フォークソングの時代』 曲目メモ by 森山良子 - ハイレゾ音源配信サイト]、[http://www.musicvoice.jp/news/20160328038840/ 井上陽水、唯一無二の世界観で魅せた「UNITED COVER2」東京公演]</ref><ref name="元気です">[http://diamond.jp/articles/-/37334 【吉田拓郎「元気です」】 日本の音楽のあり様に革命を起こす - ダイヤモンド・オンライン]、[http://music-book.jp/music/news/column/38635 発売1ヶ月で40万枚を売り上げた吉田拓郎のメジャーデビュー作『元気です。』]、[https://allabout.co.jp/gm/gc/431272/ フォークソングをメジャーに!吉田拓郎 「元気です」 ロック・ポップス/国内ロック・ポップス、70年代の名盤の口コミ]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20090509084510/http://www.nhk.or.jp/zanmai/archive/090505.html 今日は一日 三昧(ざんまい)](archive)]<br />[https://itunes.apple.com/jp/album/yoshidatakurou-qing-chunno/id197288840 iTunes - ミュージック - 吉田拓郎「よしだたくろう 青春の詩」]<br />[http://www.bs-tbs.co.jp/songtosoul/onair/onair_04.html BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」 結婚しようよ/吉田拓郎 2008年1月24日放送]<br />[http://www.infochina.jp/jp/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=12&id=12924 田家秀樹 日本ライブ伝説(1)吉田拓郎と1970年代 野外へ放たれた叫び]<br />[http://ci.nii.ac.jp/naid/110004646497 吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響]<br />[https://web.archive.org/web/20090509084510/http://www.nhk.or.jp/zanmai/archive/090505.html 今日は一日 三昧(ざんまい)](archive)<br />[http://d.hatena.ne.jp/kuramae_jinichi/20061024/1203076647 吉田拓郎は青春の反抗者だったのか - 旅行人編集長のーと]、[http://www.drillspin.com/articles/view/819 第105回:「ロックと日本の60年」第6章 クイーンを筆頭に、まばゆきロック・アイドルの時代へ]</ref>{{Sfn|Jロック&ポップスCD名盤ガイド編集委員会|2001|p=19}}{{Sfn|馬飼野元宏|2014|pp=118-120}}<ref name="ダカーポ07321">「いま、ふたたびのフォーク!! 拓郎・陽水でメジャー化したフォーク史」『[[ダカーポ (雑誌)|ダカーポ』]]、2007年3月21日号、[[マガジンハウス]]、pp.107–119</ref>。また、[[ロック・フェスティバル|大規模ワンマン野外コンサート]]、[[ラジオ]]の活性化、[[コマーシャルソング|CMソング]]、[[コンサートツアー]]、[[プロデューサー]]、[[レコード会社]]設立などの[[先駆者|パイオニア]]として、日本[[ポピュラーミュージック]]史において特筆すべき役割を果たした{{Sfn|馬飼野元宏|2014|pp=118-120}}<ref>[http://www.bs-j.co.jp/anotoshi/92sp.html 「あの年この歌SP「日本の音楽を変えた4人」]『[[あの年この歌〜時代が刻んだ名曲たち〜]]』[[BSジャパン]]、2016年1月16日放送</ref><ref name="goethe.nikkei">[http://goethe.nikkei.co.jp/human/090623/03.html 吉田拓郎 Takuro Yoshida4]、[http://goethe.nikkei.co.jp/human/090623/04.html 吉田拓郎 Takuro Yoshida5]</ref><ref name="theband">[http://theband.hiof.no/albums/shangri-la.html Takuro Yoshida: Shangri-La] – [http://theband.hiof.no/ The Band Website] {{en icon}}</ref><ref>[http://takuro-yoshida.up.seesaa.net/image/takuro_catch.jpg すべては吉田拓郎から始まった―吉田拓郎展. TAKURO YOSHIDA ARTIST GALLERY TAKURONICLE 1970 >>> Just now]、[http://musicbird.jp/programs/takuro/ 126ch SUPER LEGEND 名盤チャンネル 吉田拓郎- Music Bird]、[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20130403/enn1304030711000-n1.htm 【時代のサカイ目】現代CMソング考 求められる視覚と聴覚への“瞬間刺激” - ZAKZAK]、[http://www.meehee55.com/takuro/special/10/100101yomiuri/20100101yomiuri.jpg 読売新聞、2010年1月1日]、[https://archive.is/20120917213431/http://utaten.com/interview/229?UCSID=2kjp7joeu99uq13si5ut8r6492 2月にエイベックスへ移籍した『吉田拓郎』にインタビュー!!(archive)]、[https://web.archive.org/web/20140222035508/http://www.musicman-net.com/artist/17994.html 吉田拓郎 3年ぶりの首都圏ライブ開催決定 | Musicman-NET](archive)、[http://www.joqr.co.jp/blog/dankai_sat/sp/post_42796.php 5月1日 ゲスト:富澤一誠さん - ドコモ団塊倶楽部]、[https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210 1月23日の放送は~|J-POP LEGEND FORUM|FM COCOLO][http://www.s40otoko.com/archives/23338 大編集後記その八。吉田拓郎が教えてくれた。 | 雑誌・昭和40年男]、[http://www.kobe-yamate.ac.jp/library/journal/pdf/univ/kiyo11/11nagai.pdf 日本における黎明期のロックコンサートとフェスティバル--1950〜70年代前半を中心に]、[http://www.bizcompass.jp/song/vol4.html 井上陽水「能古島の片想い」に見る片想いの美学 | Bizコンパス]、島崎今日子『安井かずみがいた時代』[[集英社]]、2013年、p281-283、381</ref>。[[日外アソシエーツ]]『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している<ref>『ポピュラー音楽人名事典』[[日外アソシエーツ]]、1994年、p661、ISBN 978-4816912238)。</ref>。2000年2月号の[[日経エンタテインメント!]]の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“[[J-POP]]の開祖”と記される<ref>日経エンタテインメント!、日経BP社、2004年2月号- P.28、29より</ref>。
 
 
== 来歴 ==
 
=== 生い立ち ===
 
[[1946年]][[4月5日]]に、[[鹿児島県]][[伊佐郡]][[大口町 (鹿児島県)|大口町]](のちの[[大口市]]、現:[[伊佐市]])で生まれる<ref name="Subaru">{{Cite book | 和書 | title = [[すばる (雑誌)|すばる]] | chapter = ロングインタビュー 吉田拓郎 家族・時代・仕事をめぐる対話 〈聞き手・[[重松清]]〉 | publisher = [[集英社]] | date = 2010年3月号 | isbn = | pages = 122-150 }}</ref>。その後、鹿児島県[[鹿児島郡]]谷山町(のちの[[谷山市]]、現:[[鹿児島市]])に転居し<ref name="Oitachi">吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日)</ref>、[[鹿児島市立谷山小学校 | 谷山小学校]]に二年生まで在学<ref name="Subaru" />(歌手の[[西郷輝彦]]と同期生)。その後は[[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]西霞町で育つ。拓郎という名前には「故郷を拓け」という意味が込められている<ref name="Oitachi" />。両親は[[朝鮮]][[羅南区域|羅南]]からの[[引揚者|引き揚げ者]]<ref name="Subaru" />。父は吉田家に[[養子]]に入った人で<ref name="Subaru" />、鹿児島県の[[郷土史家]]である[[吉田正広|吉田正廣]]<ref name="Subaru" /><ref name="Oitachi" />。兄は鹿児島[[ラ・サール高校]]出身で、母はラ・サール高校の学生寮で栄養士をしていた<ref name="Oitachi" />。両親の出身地は知らない<ref name="Subaru" />、母方の祖母が広島の出身と話している<ref name="Subaru" />。[[1955年]]に両親が別居し、[[立教大学]]に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居した<ref name="Subaru" />。同年4月、広島市立皆実小学校へ転校{{Sfn|田家秀樹|1994|p=160}}。鹿児島時代、音楽への関心はまったくなかったが、立教大学[[ジャズ]]研で[[ピアニスト]]を目指した兄が、夏休み等に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった<ref name="aerainfolk40">{{Cite book | 和書 | title = [[AERA]] in FOLK あれは、ロックな春だった! | chapter = ロングインタビュー 吉田拓郎 すべてを語る | publisher = [[朝日新聞社]] | date = 2006年4月5日号 | isbn = | pages = 40-45 }}</ref>。幼少期から[[気管支喘息|喘息]]持ちで体が弱かったため家にいる事が多く、母に本を買い与えられていたが、[[ウクレレ]]を買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めた<ref name="aerainfolk40"/>。皆実小学校~[[広島市立翠町中学校|翠町中学校]]の一学年上に[[長谷川和彦]]<ref>{{Cite book|和書|author=|date=1980年8月号|title=[[シナリオ (雑誌)|シナリオ]]|chapter=対談 長谷川和彦×相米慎二|publisher=[[日本シナリオ作家協会]]|pages= 8 - 17}}</ref>。[[1962年]]に[[広島県立広島皆実高等学校|皆実高校]]に入学し、[[器楽曲|インストゥルメンタル]]バンドを結成し、ウクレレを担当した{{Sfn|田家秀樹|2007b|pp=10}}。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡した<ref name="aerainfolk40"/>。
 
 
[[1965年]]に[[広島修道大学|広島商科大学]](現・広島修道大学)に入学し、[[カントリー・ミュージック|カントリー&ウエスタン]]部と[[応援団]]に入部した。中学の同級生と新たにバンドを結成し、[[ドラムセット|ドラムス]]を担当した。同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。この年、メンバーと上京し[[渡辺プロダクション]]に売り込むが[[グループ・サウンズ]]ブームも未到来の時代であり、相手にされなかった<ref>豊かなる日々 吉田拓郎、2003年の全軌跡、田家秀樹、2004年、[[ぴあ]]、p123</ref>。
 
 
=== アマチュア期 ===
 
[[1966年]]大学二年のとき、[[日本コロムビア|コロムビア]]洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場<ref name="aerainfolk40"/>。「[[テイク・ファイヴ]]」のリズムパターンに[[三里塚闘争]]から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を6弦の[[エレクトリック・ギター|エレキギター]]を12弦ギターに改造して歌唱し<ref name="aerainfolk40"/>、中国大会2位、全国3位となる<ref name="漂流記">ニッポンのうた漂流記、飯塚恆雄、2004年、河出書房新社、p107</ref>。『[[平凡パンチ]]』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが<ref name="aerainfolk40"/>、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く{{Sfn|田家秀樹|2007b|pp=144-145,165-206}}、単身上京した{{Sfn|田家秀樹|2007b|pp=144-145,165-206}}。 [[1967年]]に広島見真講堂で開催された『第1回[[ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト]]』中国地区大会ロック部門で優勝。[[在日米軍|米軍]][[岩国飛行場|岩国基地]]でも定期演奏し{{Sfn|田家秀樹|2007b|p=278}}<ref>[http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/19.html LOVE LOVE あいしてる]</ref>、[[アメリカ海兵隊|兵隊]]相手の演奏で初めて音楽の凄さを知った<ref>[http://morinaga-hiroshi.com/profile/profile97.html profile97 | www.morinaga-hiroshi.com book - 森永博志]</ref>。しかし、[[ベトナム戦争]]の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、[[河合楽器製作所|カワイ楽器]]在籍バンドでもあったことから、[[ヤマハ]]の関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した{{Sfn|田家秀樹|2007b|pp=291-298}}。翌[[1968年]]にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる{{Sfn|田家秀樹|2007b|pp=349-360,422-431}}。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『[[広島フォーク村]]』を結成<ref>[https://web.archive.org/web/20090326123529/http://www.chugoku-np.co.jp/keitai/page7-1.html ケータイde中国新聞 ケイタイでも読める「広島フォーク村」](archive)、[http://blog.livedoor.jp/keigo814/archives/2008-06.html 蔭山敬吾ブログ Welcome to GRACELAND & Keigo Kageyama's LABEL]、[https://web.archive.org/web/20020616131122/http://www.chugoku-np.co.jp/tokusyuu/bousouzoku/020523.html あの時の歌は…学都遠く - 暴走族](archive)</ref>{{Sfn|田家秀樹|2007b|pp=415-418,432-438}}。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、[[NHK広島放送局|NHK広島]]に出演したり、[[中国放送]]で[[ディスクジョッキー|DJ]]を担当したりした<ref>谷口由記「広島出身ミュージシャン年代記(クロニクル)[[FLASH (写真週刊誌)|EX FLASH]]」、[[光文社]]、2001年1月30日号、96–98頁</ref>。この頃激しい[[学園闘争]]が繰り広げられた[[広島大学]]の[[バリケード]]で囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い<ref>『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、田家秀樹著、[[毎日新聞社]]、2011年、p39</ref>、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいヤジを浴びせられた<ref name="elegy27">{{Harvnb|吉田拓郎|1980|pp=27-28}}<br />読むJ-POP 1945-1999私的全史、1999年、田家秀樹著、[[徳間書店]]、p121</ref>。
 
[[1969年]]には、[[河合楽器製作所|カワイ楽器広島店]]<ref>[http://shop.kawai.co.jp/mshiroshima/ カワイミュージックショップ広島]</ref>に就職内定したが{{Sfn|吉田拓郎|2002|pp=64-66}}、[[上智大学]][[全学共闘会議|全共闘]]のメンバー<ref>ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p47</ref>が自主制作([[ヒトラーユーゲント|ユーゲント]]レーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した{{Sfn|音楽出版社|2008|pp=27-28}}。
 
[[1970年]]3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した{{Sfn|シンコーミュージック|2007|p=40}}。また[[エレックレコード (オリジナル)|エレックレコード]]が、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、吉田の抗議で音源を録り直した。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ダウンタウンズ」を解散して上京した<ref name=" Music70'なぎら" />。
 
 
=== よしだたくろう期(1970年 - 1974年) ===
 
==== エレック所属期 ====
 
[[1970年]][[4月]]に、[[インディーズ]]レーベルのはしりであった'''[[エレックレコード]]'''に契約社員として就職する<ref name="earthmusiclibrary7">{{Harvnb|田家秀樹|2007|p=7}}</ref><ref>[http://www.seniorcom.jp/blog/view/39434 R−S20夜明け前?]-エレックレコード社長のべらんめえブログ、[https://web.archive.org/web/19990128074237/http://forlife.co.jp/elec/elec2.html FOR LIFE RECORDS -PARADISE DIGITAL](archive)</ref>。エレックはまともな仕事は取ってこれず{{Sfn|田家秀樹|1994|pp=141-142}}、[[愛川欽也]]が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、[[日本放送協会|NHK]]のオーディションで[[藤山一郎]]に落とされたりした<ref>[http://www.takuro-mania.com/2004/04_omiya.html ツアーMC]<br />[https://web.archive.org/web/20080218095555/http://www.wlpm.or.jp/life_st/concert/honda/intav.htm 本田 路津子・特別インタビュー](archive)</ref>。[[6月27日]]に『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を[[東京厚生年金会館]]で開催した際、客はほとんどいなかったが{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|p=77}}、当時イベントの企画などを手がけていた[[後藤由多加]]の目にとまり、コンサートなどで起用される<ref name="ritsumei">[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/08jasrac/zenki/12/kougi12.htm 「音楽文化・産業論 2008 I」 講師:後藤由多加 「インディーズ創世記」]</ref>{{Sfn|田家秀樹|2011|pp=52-53}}<ref>夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―1983年4月、富澤一誠著、音楽之友社、p41-42、51-52</ref>。後藤はこれを機に重要なパートナーとなる{{Sfn|吉田拓郎|1980|p=32}}。[[1971年]][[10月]]、後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション<ref name="pop">『ポピュラー音楽人名事典』[[日外アソシエーツ]]、1994年、p661、ISBN 978-4816912238</ref>『ユイ音楽工房<ref group="注釈">社名は[[小室等]]の愛娘・[[こむろゆい]]にちなむ([http://www.joqr.co.jp/blog/dankai_sat/archives/2010/01/130.html 1月30日 ゲスト:小室等さん、こむろゆいさん - ドコモ団塊倶楽部])。</ref>』を設立<ref name="pop"/><ref>夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、p60-63</ref>。11月には[[広島フォーク村]]の後輩・[[大久保一久]]が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供<ref>[[YOUNG GUITAR|ヤング・ギター]]・クロニクル Vol.1 吉田拓郎 これが青春、2007年、[[シンコー・ミュージック・エンタテイメント|シンコーミュージックエンタテイメント]]、p225</ref>。
 
 
==== CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期 ====
 
[[1972年]][[1月]]に[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]に移籍し、アーティスト兼[[プロデューサー]]として契約を結ぶ{{Sfn|吉田拓郎|1976|p=191}}。移籍と同時に発売した「[[結婚しようよ]]」が[[オリコンチャート]]3位、40万枚以上を売りあげた。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知された<ref name="週刊昭和48年">{{Cite journal|1=和書|author=[[田家秀樹]]|date=2009-05-03|url=http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=10344|journal=週刊昭和48年|volume=21|pages=pp. 14-16|title=特集 1970年代フォークソングの季節 サブカルチャーから若者文化の主流へ|publisher=[[朝日新聞出版]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151022112054/http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=10344|archivedate=2015年10月22日}}()</ref>。それまで[[サブカルチャー]]だったフォークが、[[メインカルチャー]]へ浮上する分岐点になった<ref name="週刊昭和48年" />。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まった<ref name="GOLD2013624">ニッポン放送「[[坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD]]」2013年6月24日放送、[http://www.sanspo.com/geino/news/20130624/oth13062405040008-n1.html 竹内まりや感激!拓郎と初共演「アイドルでした」]</ref>。2月26日に公開された[[近代放映]][[製作]]・[[東宝]][[配給]]の[[日本映画|映画]]『[[百万人の大合唱]]』([[須川栄三]][[映画監督|監督]])の劇中、「[[今日までそして明日から (よしだたくろうの曲)|今日までそして明日から]]」を歌唱<ref name="唄えば天国">佐々木淳・丹治史彦編『唄えば天国 - ニッポン歌謡映画デラックス 地の巻』[[メディアファクトリー]]、1999年、p227</ref>。[[6月]]には[[長野県]][[軽井沢町|軽井沢]]の「[[軽井沢聖パウロカトリック教会|聖パウロ教会]]」で[[四角佳子]]と[[結婚式]]を挙げた<ref name="anokoro旅の宿">[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/08/kiji/K20110807001361850.html 【1972年8月】旅の宿/よしだたくろう 幸せの絶頂期にリリースしたヒット曲]</ref>。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、[[結婚式|ブライダル]]業界にも大きな影響を与えた<ref>[[読売新聞]]、2009年12月9日、13面</ref>。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げた<ref name="jinz-bar">[http://jinz-bar.jp/modules/tinyd0/index.php?id=2 jinz bar - 前田 仁の「歌たちよ、どうもありがとう」第2回]{{リンク切れ|date=March 2015}}</ref><ref name="あがた">[http://www.cinra.net/interview/2012/10/09/000000.php あがた森魚が語る「ベルウッド・レコード」と、伝える技術の話]</ref>。
 
 
[[1973年]][[1月]]には、前年バックバンドを務めた[[柳田ヒロ]]のグループを発展させ[[新六文銭]]を結成。5月23日に、4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕される。8日間の[[拘留]]後、女子大生の虚偽であることが判明して[[不起訴]]となり、6月2日に釈放された<ref name="Extime-28">{{Cite journal |和書 |date = 2007-10-10 |title = '70年代ヒットパレード大特集 あのとき僕らの言葉が歌になった! 吉田拓郎が駆け抜けた節操なき10年 |journal = [[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]臨時増刊 Extime(エクスタイム) |issue = |pages = 28-34 |publisher = [[光文社]] }}</ref><ref name="nikkan133609">[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geinox/133609 プレイバック芸能スキャンダル史 吉田拓郎「金沢事件」 女子大生の狂言でCM自粛、放送禁止に]</ref>。釈放の翌日に、[[神田共立講堂]]のステージに立つ{{Sfn|シンコーミュージック|2007|p=126}}。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、[[コマーシャルソング|CM]]([[スバル・レックス]]([[富士重工]])、[[Technics|テクニクス]]([[パナソニック|松下電器]]))の自粛といった処置がとられた<ref name="nikkan133609" />。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した<ref>[[Myojo|月刊明星]]、1973年8月号、[[集英社]]、〈独占!よしだたくろう1800字自筆手記〉、p82-85</ref>。
 
 
拓郎は、[[梓みちよ]]に「[[メランコリー (梓みちよの曲)|メランコリー]]」、[[1974年]][[1月15日]]に、[[森進一]]に「[[襟裳岬 (森進一の曲)|襟裳岬]]」を提供する。この「襟裳岬」が[[第16回日本レコード大賞]]を受賞した際、上下とも[[ジーンズ]]の普段着で登場し、平然と賞を受け取った{{Sfn|石原信一|1985|pp=76-77}}。
 
 
=== 吉田拓郎以降 ===
 
==== フォーライフ・レコード設立 ====
 
1975年には、[[かまやつひろし]]に「[[我が良き友よ]]」を提供、この曲もヒットとなった。[[1975年]][[5月]]に、[[高額納税者公示制度|高額納税者番付]]1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして[[井上陽水]]とともに初のランク入りとなる(拓郎5位、陽水7位)<ref>『ラインダンス』、井上陽水、[[新潮社]]、1982年、p130</ref><ref>[[日本経済新聞]]、1975年5月2日、p16、[[朝日新聞]]、1975年5月2日、p23</ref><ref>ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p102</ref>{{Sfn|矢沢保|1980|p=249}}。
 
 
[[6月1日]]にCBSソニーの拓郎が、[[ポリドール・レコード|ポリドール]]の[[井上陽水]]、[[エレックレコード|エレック]]の[[泉谷しげる]]、[[ベルウッド・レコード|ベルウッド]]の[[小室等]]と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社<ref name="pop" />『[[フォーライフ・レコード]]を発起した<ref name="nikkansports050529" /><ref name="ritsumei" />。これを機に「'''吉田拓郎'''」と改名する。[[12月]]に、[[吉田拓郎のオールナイトニッポン|オールナイトニッポン]]最終回で[[四角佳子]]との離婚を発表する<ref>[http://www.asagei.com/12885 人気ラジオ番組「緊急ハプニング集」! | アサ芸プラス]、[http://www.musicman-net.com/relay/90-5.html#item-1 第90回 新田 和長 氏 5. 加藤和彦氏との音楽的な日々| Musicman-NET]</ref>。この年[[森山良子]]に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き"フォークの女王"に戻らせる<ref>青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p160</ref>。
 
 
[[1976年]][[4月]]に、フォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した[[川村ゆうこ]]をプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている<ref>[[日本経済新聞]]、2006年4月12日、20面</ref>。[[11月]]に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人の[[スプリット・アルバム]]『[[クリスマス (アルバム)|クリスマス]]』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶる事となった。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。[[6月]]には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する。[[7月]]に[[浅田美代子]]と再婚。[[9月10日]]に、井上陽水が[[大麻]]所持([[大麻取締法]]違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて[[東京地検]]に日参するなど陽水の救済に尽力した<ref>新宿ルイード物語、1988年、富澤一誠、講談社、p151-155</ref><ref>アサヒ芸能、2009年7月9日号、p39</ref>。
 
 
70年代後半には、[[キャンディーズ]]に「[[やさしい悪魔]]」、[[石野真子]]に「[[狼なんか怖くない (石野真子の曲)|狼なんか怖くない]]」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。[[1979年]]2月、『[[たくろうオン・ステージ第二集]]』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が[[浜口庫之助]]の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相である<ref>封印歌謡大全、2007年、石橋春海、[[太田出版]]、150-151</ref>{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|p=34}}。
 
 
1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員した<ref name=forlife_profile>[http://www.forlife.co.jp/artist/fl00071/profile/ 吉田拓郎プロフィール | FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT,INC.]</ref>。また、特別出演としてデビュー直後の[[長渕剛]]がステージに登壇した。
 
 
『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど{{Sfn|石原信一|1980|p=228}}、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『[[Shangri-La (吉田拓郎のアルバム)|Shangri-La]]』を発表した<ref name="theband" />。
 
 
==== フォーライフ・レコード社長を退任 ====
 
[[1982年]]6月に、ツアー最中の[[株主総会]]で、アーティスト業に専念するため、[[フォーライフ・レコード]]社長を退任すると発表された<ref name=forlife_profile/>。
 
 
[[1983年]]に[[浅田美代子]]と協議離婚する。
 
 
[[1985年]][[6月15日]]には、[[国立競技場]]で[[国際年|国際青年年]](IYY)記念イベント「[[国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW|ALL TOGETHER NOW]]」を[[小田和正]]とともに企画運営し、司会をつとめて、5万人の観客を動員した。同年、オールナイトライブ『吉田拓郎ONE LAST NIGHT IN つま恋』が開催された。
 
 
[[1986年]]に、映画『[[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]]』に[[高杉晋作]]役で出演。
 
 
[[1986年]][[12月]]に[[森下愛子]]と再々婚する。
 
 
==== テレビ出演の増加 ====
 
[[1988年]][[1月1日]]に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立する{{Sfn|吉田拓郎|1994|p=97}}。
 
 
この頃からテレビ出演が多くなり、[[1989年]]に[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で放送された『[[愉快にオンステージ]]』に[[ホスト]]として出演。さらに、[[1993年]]には、[[TBSテレビ|TBS]]系で放送されていた[[ドキュメンタリー]]番組『[[地球ZIG ZAG]]』の3代目司会者に[[高橋里奈|高橋リナ]]とともに起用された。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり<ref name=forlife_profile/>、CMソングとなった「すなおになれば」もヒットした。
 
 
1988年[[6月16日]]、[[日清パワーステーション]]にて、[[ライブハウス]]でのコンサートを行なう<ref name=forlife_profile/>。
 
 
[[1989年]][[2月8日]]、アルバム『[[ひまわり (吉田拓郎のアルバム)|ひまわり]]』を引っさげて行われた全国ツアーがスタート。同年[[3月15日]]に、[[東京ドーム]]でコンサートを行ない、5万人を動員する<ref name=forlife_profile/>。
 
 
[[新潟県]][[吉田町 (新潟県)|吉田町]]の有志団体“若者共和国”からの依頼で、[[1992年]]4月に「[[吉田町の唄 (曲)|吉田町の唄]]」を発売。[[2004年]]には吉田ふれあい広場に歌碑が建立される。
 
 
[[1994年]][[8月16日]]に参加した『日本をすくえ'94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』([[日本武道館]])はテレビ放送され、同年の大晦日には、『[[第45回NHK紅白歌合戦]]』に初出場を果たす。
 
 
[[1996年]]に、まだCDデビュー前だった[[KinKi Kids]]と共に『[[LOVE LOVE あいしてる]]』の司会を務め大きな話題を呼び、翌年の[[1997年]]には『LOVE LOVE あいしてる』のバックバンドを務めた[[LOVE LOVE ALL STARS]]共に制作した[[セルフカバー]]アルバム『[[みんな大好き]]』が20万枚以上の売り上げを記録した。
 
 
==== フォーライフ・レコードの契約を解消から現在まで ====
 
[[1999年]][[9月30日]]に[[フォーライフ・レコード]]との専属アーティスト契約を解消し、[[2000年]][[4月]]に[[インペリアルレコード (日本)|インペリアルレコード]]に移籍する。移籍したのは、交友のある[[飯田久彦]]が[[テイチクエンタテインメント]]代表取締役社長に就任したからである。
 
 
[[2003年]][[4月]]に、[[肺癌|肺ガン]]手術のためコンサートツアーは延期となるが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から[[2006年]]まで毎年行われた。
 
 
[[2008年]][[8月3日]]に母校の[[広島修道大学]](旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した「[[今日までそして明日から (よしだたくろうの曲)|今日までそして明日から]]」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露された。
 
 
[[2009年]]2月に[[エイベックス・グループ|avex]]に移籍する<ref name="goethe.nikkei" /><ref group="注釈">20歳近く年下の[[松浦勝人]]社長に「avexでは若い人のアルバムをたくさんつくってヒットさせてきたけれど、これからやめようという人の音楽は初めてです」と言われ「面白いことを言う男だ」と好感を持ち移籍した</ref>。[[6月21日]]には、生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演予定)がスタートするが、[[7月8日]]開催の[[大阪]]公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定した。診察の結果、慢性[[気管支炎]]の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。
 
 
[[7月23日]]にも、つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となる<ref>[http://www.oricon.co.jp/news/confidence/67924/full/]</ref>。
 
 
[[2013年]][[1月30日]]発売の、前年のライブを収録した『[[吉田拓郎 LIVE 2012]]』([[Blu-ray Disc|Blu-ray]]・[[DVD]]・[[コンパクトディスク|CD]]付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する<ref>[http://www.47news.jp/topics/entertainment/oricon/music/123446.html 【オリコン】吉田拓郎、66歳でDVD最年長TOP10 P.マッカートニー記録抜く]{{リンク切れ|date=March 2015}}</ref>。
 
 
[[2017年]][[3月8日]]に『[[ニッポン放送]]「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『[[吉田拓郎 ラジオでナイト]]』をスタートすることが発表された<ref>{{Cite news |title= 吉田拓郎 ムッシュさん名曲「我が良き友よ」秘話語る「とにかくヒットを」|newspaper= スポーツニッポン|date= 2017-03-08|author= |url= http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/03/08/kiji/20170308s00041000219000c.html|accessdate=2018-06-11}}</ref>。
 
 
== シンガーソングライターとして ==
 
=== 音楽性 ===
 
;政治性を排除
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は<ref name="元気です" /><ref name="週刊昭和48年" /><ref>{{Cite news |title = 戦後70年 ここから変わった(4)…シンガー・ソングライター |newspaper = [[読売新聞]] |date = 2015-08-06 |author = 清川仁 |url = http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150806-OYT8T50105.html |accessdate = 2015-10-23 |publisher = [[YOMIURI ONLINE]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20151022141137/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150806-OYT8T50105.html |archivedate = 2015年10月22日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref name="tfm84316">{{Cite news |title = THE ALFEE 坂崎幸之助さん、フォークソングを語る! |newspaper = |date = 2014-08-17 |author = |url = http://www.tfm.co.jp/hv/?itemid=84316 |accessdate = 2015-10-23 |publisher = [[エフエム東京]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20151022145954/http://www.tfm.co.jp/hv/?itemid=84316 |archivedate = 2015年10月22日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>、従来のフォークファンからは“大衆に迎合して軟弱な歌を歌っている”“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”<ref group="注釈">客が“帰れコール”を浴びせたり、ステージに上がってわめいたりするのが1970年代に流行したのは1971年8月の[[第3回全日本フォークジャンボリー|第3回の中津川フォークジャンボリーでの暴動]]から。その後のコンサートで、このときのマネをする勘違いが流行った(頭脳警察、2004年8月・須田諭一著・河出書房新社、P231-232)。<br />耳を澄まして聴く歌詞に共感できれば拍手をし、気に入らなければ“帰れコール”を浴びせる。フォークと聴衆の関係はそのようなものという考え方があった(ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p132)。</ref>を浴び、石を投げられることもあった<ref name="nikkansports050529" /><ref name="元気です" /><ref name="週刊昭和48年" />。「[[日本のフォークシンガー|アングラ]]こそが[[フォークソング|フォーク]]」と信じて疑わない人たちはレコードが売れるとそれだけで商業的だとその歌手を敵視した<ref name="黒沢">[[黒沢哲哉]]『ぼくらの60〜70年代熱中記』、いそっぷ社、2012年、p98-101</ref>。
 
 
* [[1972年]][[4月22日]]に[[日本武道館]]で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦<ref>1972年4月22日[[日本武道館]]、音楽舎主催。文献によっては「音搦大歌合(おとがらみだいうたあわせ)」とするものもある([[サンデー毎日]]、1972年6月25日号、p43)。拓郎、岡林信康以外の出演者は、[[三上寛]]、[[六文銭 (音楽ユニット)|六文銭]]、[[ガロ (フォークグループ)|ガロ]]、[[はっぴいえんど]]、[[遠藤賢司]]、[[かまやつひろし]]、[[加川良]]、[[五つの赤い風船]]、[[山下洋輔|山下洋輔トリオ]]ほか。</ref>」なるイベントでは、[[岐阜県|岐阜]]の山から降りて久しぶりにステージに立った[[岡林信康]]の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった{{Sfn|田家秀樹|1994|p=163}}<ref>サンデー毎日、1972年6月25日号、p43</ref>。またビール瓶などモノを投げつけられ本当に帰る事もあったという(慶應三田祭事件)<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000055324 「ドキュメンタリー 頭脳警察」公開記念イベント11月11日編 - BARKS]</ref><ref name="柳井康弘" />{{Sfn|吉田拓郎|1980|pp=38-40}}。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だった<ref name="60年代194">60年代フォークの時代 - 日本のフォーク&ロック・ヒストリー1、p194</ref>。拓郎ほど人気を得たアーティストはそれまでいなかった<ref name="元気です" />。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターで<ref name=" Music70'なぎら" /><ref name="GOLD2013624" /><ref name="イエスタディ">イエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、永井晶子、[[ソニー・マガジンズ|CBS・ソニー出版]]、p77-78</ref>、雑誌に「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、[[フォーリーブス]]のコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」などと書かれた{{Sfn|シンコーミュージック|1992|p=14}}。フォーク仲間からもあまりに「あいつはフォークじゃない」と非難されるので、拓郎は「そんなら、おれはフォークじゃなくていい」と居直った<ref name="nmm7408" />。
 
 
* 反体制、反商業主義こそが、フォークソングの本質という生硬なフォークファンからは大きな批判を浴びたが、拓郎はマーケットに迎合したわけではなく、日々の生活の中で抱くまったく個人的な心情を、より日常的な言葉で歌ったに過ぎない{{Sfn|学研ホールディングス|2001|p=19}}<ref name="tomisawaKarte">[http://www.livefans.jp/column/tomisawaissei 富澤一誠のライブ・カルテ! 第44回 : 「岡林信康と吉田拓郎は特別な存在」]</ref>。むしろそうすることで、旧態依然としたフォークソングの閉鎖性から訣別しようとしたのである{{Sfn|学研ホールディングス|2001|p=19}}。フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる<ref name="60年代194" />。罵声が飛んでも歌い続ける姿勢が支持者を増やした<ref name="60年代194" />。全ての若者が[[プロテストソング|プロテスト]]系のフォークを支持しているわけではなく<ref name="昭和の歌100">[[小西良太郎]]『昭和の歌100 ―君たちが居て僕が居た』、[[幻戯書房]]、2016年</ref>、同世代の普通の若者からは絶大な支持を受けた<ref name="元気です" /><ref name="黒沢" /><ref name="tomisawaKarte" /><ref>[https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20160910-21-18185 NHKネットクラブ 番組詳細(SONGS「吉田拓郎~今だから人生を語ろう」)]、[https://www.kayou-center.jp/4 吉田拓郎が「SONGS」初登場「いくつになってもラブソングを歌い続けたい」]</ref><ref>ぼくらの時代、ぼくらの歌、田川律著、思想の科学社、p110<br />アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、P155-156<br />NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p19</ref>。[[北中正和]]は「1972年に[[連合赤軍]] [[あさま山荘事件]]が起こり、彼らの[[山岳ベース事件|リンチ殺人事件]]が発覚すると、[[学生運動]]に何らかの共感を抱いていた人たちの気分も引いてしまった。[[1960年代]]の余燼はどんどん消えていった。吉田拓郎の人気浮上は、そんな世相の変化を感じさせた」と論じている<ref name="Jポップ ">Jポップを創ったアルバム 1966〜1995、[[北中正和]]、[[平凡社]]、2008年、p40-43</ref>。[[寺島実郎]]は「吉田拓郎の『[[結婚しようよ]]』と[[井上陽水]]の『[[傘がない]]』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている<ref>[https://web.archive.org/web/20111129032826/http://www.nissoken.jp/hatugen/kiji20080801.htm 日本総合研究所 || 寺島実郎の発言 問いかけとしての戦後日本-(その5)日本人の心を映し出す歌謡曲の変遷](archive)</ref>。最初はメッセージ・フォークを歌っていて、1971年の[[第3回全日本フォークジャンボリー|フォークジャンボリー]]では、同イベントの形骸化批判の口火を切ったにも関わらず<ref>にほんのうた 戦後歌謡曲史、北中正和、新潮社、p165-166</ref>、その半年後には「結婚しようよ」をリリースするという"変節"に関して、[[伊藤強]]は「1972年には日本はすでに政治の季節を終えていた。終わってしまった季節に対して何を言っても意味はない。吉田拓郎は時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのに違いない」などと述べている<ref name="日本の歌手50-1">[[伊藤強]]『TV世代に夢をつれてきた 日本の歌手“50+1”人』、[[日本テレビ放送網|日本テレビ放送網株式会社]]、1990年、ISBN 9784820390152、p265-269</ref>。[[菊池清麿]]は「吉田拓郎の登場は、自作自演のスタイルはもちろんのこと、世代感をアピールする強烈なリアリティーを持つ新しい若者文化だった。これによってフォークの形態が大きく変わった」と論じている<ref>日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ、[[菊池清麿]]、[[論創社]]、2008年</ref>。[[スポーツニッポン]]の音楽担当記者だった[[小西良太郎]]は、「吉田拓郎が1970年『イメージの詩』でシングル・デビューして、歌謡曲の歌い手がよくやるプロモーション行脚で僕を訪ねて来たのには不審の念を飲み込んだ。それまで会ったフォーク勢は、マスコミにも白い眼を向け、レコードが売れることを拒否、自作の宣伝など以ての外の筈だった。その後吉田が、反抗するメッセージ臭のかけらもない曲を連発すると、案の定戦闘的なファンから猛反発を受けたがしかし、それらの曲が大ヒットすると吉田は時代を歌う旗手の一人になった。吉田はみんなの連帯ソングから"我が道をゆく"個人の精神を取り戻し、狙い撃ちでヒット曲を書き続けた。終始衰えを見せなかったのは、胸中の熱い血と歌声に色濃い覇気、作品にある鮮度、独自の姿勢を貫く意思の強さがあった」などと評している<ref name="昭和の歌100" />。60年代の[[日本のフォークシンガー|カレッジフォークや社会派フォーク]]とはまったく異なる地平で自身の「うた」をクリエイトしていた拓郎の音楽が瞬く間に大衆に受け入れられたのは、旧来の〈フォークソング〉が〈フォーク〉へと変貌していく時代の要請であると同時に、ある種の必然でもあった<ref name="唄えば天国" />。[[筒美京平]]は「吉田拓郎の『結婚しようよ』がヒットしたとき、初めて脅威を感じた」と述べている<ref>自由現代社編集部『魂のフォーク・ソング大全集』、自由現代社、2011年、ISBN 9784798217468 p48</ref>。馬飼野元宏は「フォーク史のいくつかの転換期の中でも、吉田拓郎の登場と、その後数年間の活動は日本のフォークシーン最大の山場といえる。拓郎がデビューから5年間に切り開いた功績と音楽シーンへの影響は計り知れないが、何より[[プロテストソング]]全盛だったフォークシーンから時代の舵を奪い取ったことが大きいのではないか」と述べている{{Sfn|馬飼野元宏|2014|pp=118-120}}。恩蔵茂は『ニッポンPOPの黄金時代』という2001年の著書で戦後の日本の[[ポピュラー音楽|ポピュラー・ミュージック(ポップス)]]の歴史を、序章「ザ・ヒット・パレードの興亡」から11章に分け論じているが、第10章である最終章、1970年代から今日(2001年)までのタイトルを「拓郎からJ-POPへ」としている{{Sfn|恩蔵茂|2001|pp=3-5}}。[[富澤一誠]]は「吉田拓郎が出なければ、今の[[J-POP]]はないといっても過言ではない」と述べている<ref>[http://www.joqr.co.jp/blog/dankai_sat/sp/post_42796.php 5月1日 ゲスト:富澤一誠さん - ドコモ団塊倶楽部]、[http://ironna.jp/article/4325 ディランがいなければ、吉田拓郎は「文学者」になっていただろう - iRONNA]</ref>。
 
 
;自作自演スタイルの一般化
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* [[綾織り|ダンガリー]]のシャツに[[ジーパン]]、[[ギブソン社|ギブソン]]のギター、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ<ref>針金を曲げてハーモニカ・ホルダーを作り、首にかけるスタイルも日本では拓郎が最初といわれる(『[[徳光和夫のトクセンお宝映像!]]』帰ってきたフォークソング伝説2、[[BS日本|BS日テレ]]、2012年3月14日放送)。</ref>、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う<ref>ステージに譜面台を持ち出したのも、ニューミュージック界では拓郎が最初といわれる(あいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、[[飛鳥新社]]、p49)。</ref>、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた<ref name="現代201335">週刊現代、2013年3月5日号 p136-137 「わが人生最高の10冊」</ref><ref>芸能界でコーヒー・ブレイク:私の音楽評論はラブレターだった、[[吉見佑子]]、八曜社、1980年、p10</ref>。
 
* [[泉麻人]]は「自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはずだ。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった」と述べている<ref name="昭和歌謡曲史">泉麻人『僕の昭和歌謡曲史』、講談社、p132–138</ref>。拓郎ほどその生きざまと歌がぴったり一致しているアーティストはいない<ref name="あいつの切り札">富澤一誠『あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人』、[[音楽之友社]]、1981年、p224-228</ref>。
 
*それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化した<ref name="tfm84316" />{{Sfn|学研ホールディングス|2001|p=19}}{{Sfn|坂崎幸之助|2003|pp=60-74}}。1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになった<ref name=" Music70'なぎら" />{{Sfn|坂崎幸之助|2003|pp=60-74}}。
 
* 拓郎の効果で[[ギター]]、[[綾織り|ダンガリー]]の[[シャツ]]、[[ジーンズ|ジーパン]]が非常に良く売れた{{Sfn|山本コウタロー|2009|p=4}}<ref group="注釈">本来フォークとは[[民謡]]という意味を持つため、日本のフォークとは趣旨もニュアンスも違うと考えた番組製作者が、「ジーンズサウンズ」という名称をラジオ番組のタイトルに付けたことがある。これは拓郎を始め当時のフォークシンガーがジーンズを穿く者が多かったため(永遠のJ-POP、2004年、島敏光、[[学研ホールディングス|学習研究社]]、p229、230)。</ref>。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|pp=5,20-21}}<ref name="moment7">[http://www.moment.gr.jp/7/music.html 7 - _... moment ...._]</ref><ref>[http://www.shinjukuloft.com/galaxy/archive/e/2008/post_143.php 浦沢直樹 - ルーフトップギャラクシーw]<br />[http://www.mitsubishi-fuso.com/jp/prfuso/2007/0706/forksong/index.html あの時代の風]<br />[http://shyglance.web.fc2.com/interview/pg648.html 「佐野史郎、はっぴいえんどと音楽を語る」 PART 2 of SPECIAL INTERVIEW]<br />[http://internet.watch.impress.co.jp/docs/column/president/20091029_323981.html 時代に合った新しい映画を出していきたい - INTERNET Watch]<br />[https://archive.fo/20140405163515/http://www.sotozen-net.or.jp/oshie/baika/kori28/kori28d.htm 4 - sotozen-net](archive)</ref>。拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ<ref>放送禁止歌手 山平和彦の生涯、p9</ref>。誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた<ref>ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、[[田口史人]]・[[湯浅学]]・[[北中正和]]監修、1996年、[[音楽之友社]]、p43</ref>。
 
 
;ニュー・フォーク
 
* 『YOUNG GUITAR』誌上で、拓郎のギターは従来のフォークに[[リズム・アンド・ブルース|リズム&ブルース]]のフィーリングと[[ビート]]が加わっただけで新しいものではないが、得意なギター伴奏に本当の心の歌を歌いあげている。素晴らしい詩人であり音楽家であり、とうとう日本にも真のフォーク・シンガーが生まれたと評された{{Sfn|シンコーミュージック|1992|p=4-7}}。
 
* 『新譜ジャーナル』は、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した{{Sfn|矢沢保|1980|pp=44-85}}。"第三の流れ"というのは、アングラフォーク、カレッジフォークに続く流れという意味である。1960年代のアングラに対して、1970年代の拓郎に始まる第3の波により、ニュー・フォークがメジャーとなった{{Sfn|矢沢保|1980|p=61,133}}<ref name="流行歌史">新版 日本流行歌史 下、古茂田信男、矢沢寛、[[島田芳文]]、横沢千秋、[[社会思想社]]、1995年、p63-64</ref><ref>[[菊池清麿]]『日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ、論創社、2008年、p245-246</ref>。ニュー・フォーク以外にも、アウト・フォーク、ジーンズ・フォークなどの呼び方もされたが<ref name="nmm7408">[[小西良太郎]]「日本のフォークは、いま... "フォーク"という四文字言葉、それは一体何なのだ」『[[ミュージック・マガジン|ニューミュージック・マガジン]]』、[[ミュージック・マガジン]]、1974年8月号、p24–27</ref>、これらは拓郎登場以降の呼び方である<ref name="nmm7408" />。
 
* 拓郎は当時のフォークファンの中では珍しく、若い女性ファンが多かった<ref>五つの赤い風船とフォークの時代、[[なぎら健壱]]、アイノア、2012年、p194-195</ref>。[[なぎら健壱]]は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」と述べている<ref name="Extime-28"/>。
 
* 1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期の[[ニューミュージック]]への架け橋にもなっていく<ref name="tomisawaKarte" />{{Sfn|坂崎幸之助|2003|pp=69-70,110-114}}<ref>日本流行歌変遷史、2008年、[[論創社]]、[[菊池清麿]]、p218-219、245-246<br />日本のフォーク&ロック史―志はどこへ―、1982年9月・田川律著・音楽之友社、p72-73<br />アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、p149、152-153<br />60年代フォークの時代、シンコーミュージック、p201-206、214<br />70's STAR・DUST、1996年、陣馬虫太郎、[[ヒット出版社]]、p113<br />わが青春の流行歌、1990年、池田憲一、白馬出版、p107<br />ザ・サクセス・ストーリー 矢沢永吉からY・M・Oまで、1981年、塩沢茂、冬樹社、p10<br />音楽する社会、1988年、小川博司、[[勁草書房]]、p49、50</ref>。
 
 
=== 影響を受けたミュージシャン ===
 
;洋楽の原点
 
洋楽の原点は[[ニール・セダカ]]、[[コニー・フランシス]]、[[リック・ネルソン]]や[[ヘンリー・マンシーニ]]などアメリカンポップスと[[パーシー・フェイス]]「[[夏の日の恋]]」など[[映画音楽]]だった{{Sfn|吉田拓郎|2002|p217}}。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、[[ローリング・ストーンズ]]、[[スペンサー・ディヴィス・グループ]]、[[サム&デイヴ]]、[[オーティス・レディング]]、[[サム・クック]]、[[ウィルソン・ピケット]]や後年、拓郎のレコーディングに参加した[[ブッカー・T&ザ・MG's]]などだった{{Sfn|田家秀樹|2007|p=151}}<ref name="enikki48">気ままな絵日記、p48-50</ref>。
 
 
;ボブ・ディラン
 
楽曲や生き方を含めて[[ボブ・ディラン]]の影響を強く受けたことはよく知られる<ref name="元気です" /><ref name="theband" /><ref>[http://www.club-willbe.jp/column/kato/01.html club willbe(クラブ・ウィルビー):インタビュー 加藤和彦さんは ...]</ref>。拓郎は「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、[[イデオロギー]]に憧れたのではない」と話している<ref>[[日本経済新聞]]、2006年4月12日夕刊、p20</ref>。
 
 
"フォークロックの神様"、"『[[風に吹かれて (ボブ・ディランの曲)|風に吹かれて]]』の[[プロテストソング]]の[[ヒーロー]]"、"[[ビートルズ]]に[[薬物|ドラッグ]]を教えた反逆者"といったボブ・ディランのイメージは、拓郎が深夜放送のラジオでやたらボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの、と[[中森明夫]]は述べている<ref>[[週刊現代]]、2012年2月25日号、p90</ref>。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫びまわったため、[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]から出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという{{Sfn|山本コウタロー|2009|p=3}}。日本に於けるボブ・ディランの最大の普及者でもある<ref>Gauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・[[東京ニュース通信社]]、p17</ref>。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという[[浦沢直樹]]や[[みうらじゅん]]は、拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話している<ref>ディランを語ろう、[[浦沢直樹]]・和久井光司、p38<br />Gauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・[[東京ニュース通信社]]、p38<br />[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080425/1009953/?ST=life&P=5 【みうらじゅん インタビュー5 米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集]<br />[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080425/1009953/?P=6 みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネット]<br />[http://www.hmv.co.jp/news/article/807140157/ みうらじゅんの「あぁ、青春ノイローゼ」な10曲|音楽|HMV ONLINE]<br />日本崖っぷち大賞、1998年、[[みうらじゅん]]、[[泉麻人]]、[[山田五郎]]、[[安斎肇]]、[[毎日新聞社]]、p183<br />[http://www.shinjukuloft.com/galaxy/archive/e/2008/post_143.php 浦沢直樹 - ルーフトップギャラクシーw]</ref>。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』を発売している<ref>ディランを語ろう、浦沢直樹・和久井光司、p48</ref>。
 
 
高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である<ref name="元気です" /><ref name="柳井康弘">{{Cite journal|和書|author=柳井康弘 |title=吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響 : 私生活フォークの成立と「僕の歌」をめぐって(芸術のロケーション) |date=2004-01-31 |publisher=慶應義塾大学 |journal=Booklet |volume=12 |naid=110004646497 |pages=83-92 |ref=harv}}</ref>{{Sfn|田家秀樹|2007b|p=82}}。
 
 
[[山本コウタロー]]が1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ([[:en:Desolation Row|Desolation Row]])』『[[女の如く|ジャスト・ライク・ア・ウーマン]]』『[[アイ・ウォント・ユー (ボブ・ディランの曲)|アイ・ウォント・ユー]]』と全てボブ・ディランの曲を挙げたという{{Sfn|山本コウタロー|2009|pp=64-65}}。
 
 
;パクリとアンチテーゼ
 
特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・[[盗作|パクリ]]を取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」<ref>[[AERA]] in FOLK あれは、ロックな春だった!、2006年、[[朝日新聞社]]、p43</ref>等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており<ref>1973年12月の対談(小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p18)。</ref>、[[小室哲哉]]との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている<ref>小室哲哉音楽対論 Vol.2、p40</ref>。
 
 
拓郎は[[関西フォーク]]が嫌いで{{Sfn|田家秀樹|2011|pp=44-45}}、関西フォークと自分の音楽の違いを"私たちの歌"と"私の歌"と述べている{{Sfn|田家秀樹|2011|pp=44-45}}。『[[イメージの詩]]』は、「岡林の『私達の望むものは』に感動はしたが、「"私たちは"と言えない。俺は"俺"っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|p=47}}{{Sfn|吉田拓郎|1980|pp=27-28}}。
 
 
=== 作詞法 ===
 
; 字余りの作詞法
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 曲作りに多用した"'''字余り'''、"'''字足らず'''という作詞法は{{Sfn|シンコーミュージック|2013|p=6}}<ref name="Music70'なぎら" /><ref name="初めて弾いた19">Go!Go!GUITAR特別編集『初めて弾いたこの一曲』ヤマハミュージックメディア、2009年、ISBN 9784636846928、p19</ref><ref name="スーパーヒット">[http://www.sonymusicshop.jp/m/item/itemShw.php?site=S&ima=3804&cd=DQCL000006003 Sony Music Shop | 吉田 拓郎・吉田拓郎 スーパー・ヒット・CD・DVD]</ref><ref>[http://www.sankei.com/entertainments/news/161104/ent1611040013-n1.html ディランから教わった「字余り」「字足らず」 吉田拓郎が思い語る えんび服で授賞式は想像できない]、[http://www.hochi.co.jp/entertainment/20161027-OHT1T50248.html 吉田拓郎「僕はディランのモノマネ」70歳での初ツアー終了]、[https://entertainmentstation.jp/75036 加川良の歌「教訓 Ⅰ」の時代をこえたリアリティ | 【es】エンタメステーション]、[http://www.j-cast.com/tv/2008/11/14030353.html?p=2 本当の「プロの歌」を聴きたい 演歌「復権」の背景とは : J-CAST]、[https://www.barks.jp/news/?id=1000134036 【インタビュー】中村雅俊「折り返し地点はとっくに過ぎたかなと。だから、先を目指すのではなく、今日をどう生きるか」]、[http://www.pia.co.jp/interview/ohashitakuya/index_2.html @ぴあ/インタビュー 大橋卓弥 - チケットぴあ]、[http://musicshelf.jp/blog/coverboy/2-page2.html SISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第二回 Page.2 - プレイリスト]</ref>、日本に於けるその元祖といわれ<ref name="毎日19961120">毎日新聞、1998年11月20日7面</ref>{{Sfn|音楽出版社|2008|pp=60}}<ref name="zakzak20161015">[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20161015/enn1610151530002-n2.htm 米大統領選に影響も…「反体制」の象徴、ボブ・ディランがノーベル文学賞 吉田拓郎は「彼がいたから今日がある」 (2/2ページ)]</ref>、後の[[シンガー・ソングライター]]に多大な影響を与えた{{Sfn|坂崎幸之助|2003|pp=60-74}}<ref name="スーパーヒット" /><ref name="zakzak20161015" /><ref>[http://yamadakenji.la.coocan.jp/yoshidatakuro.htm 山田兼士 字余りソングの詩的リズムについて 吉田拓郎の言語革命]『洪水』14号、[http://abecasio.s23.xrea.com/interview/post_11.html 阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について]</ref><ref group="注釈">桑田佳祐は自著「ロックの子」の中で、拓郎の"字余り"や"[[コマーシャルソング]]"にはまったと話している(ロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p89)。</ref><ref name="hidaka201610">[http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2016/10/post-6155.html 時代は変われど転がり続けて - 日高新報 Web Hidaka]</ref>。
 
** それまでの日本の歌謡曲や[[ポップス]]は、[[音譜]]ひとつにひとつの字、とぴったりハマっており、'''多少の字余り、字足らずは気にしない'''<ref name="初めて弾いた19" /><ref>guts、表現技術出版、1972年8月、p16</ref>、'''言葉を自由にメロディに載せる'''、或いは'''日本語の歌を強引に捻じ曲げる'''という手法は当時は革命であり、これは拓郎によって始まったものである{{Sfn|シンコーミュージック|2013|p=6}}{{Sfn|馬飼野元宏|2014|pp=118-120}}{{Sfn|坂崎幸之助|2003|pp=64-65}}<ref name="初めて弾いた19" /><ref>{{Cite web|url=https://www.joysound.com/web/s/karaoke/interview/201703/01|title=アーティストインタビュー:斉藤和義|work=[[JOYSOUND|JOYSOUND.com]]|publisher=[[エクシング]]|accessdate=2017-05-17}}</ref><!-- {{Sfn|別冊宝島編集部|2006|pp=50-51}}{{Sfn|石原信一|1985|p=204}}<ref name="トクセン">『[[徳光和夫のトクセンお宝映像!]]』帰ってきたフォークソング伝説2、[[BS日本|BS日テレ]]、2012年3月14日放送</ref>-->。字余りソングは当時顰蹙も買ったが、それはメロディを超えて、訴えたいことがたくさんあったからである<ref name="あいつの切り札" />。その[[オリジナル|オリジナリティ]]は半世紀近いキャリアを経た現在でも、全く衰えることはない{{Sfn|シンコーミュージック|2013|p=6}}。
 
** ミュージカル・ステーションの創業者・金子洋明は、1991年のインタビューで「日本のオリジナル曲も充実してきて、日本語と海外のサウンドという問題についていえば、日本語の壁は破れたんじゃないかと思います。拓郎が歌ってた時は"字あまり"っていわれてたけど、今、サザンが歌っても"字あまり"っていわないでしょう」と述べている<ref>{{cite book|和書 |author=村田久夫・小島智編|title=日本のポピュラー史を語る―時代を映した51人の証言|chapter=金子洋明インタビュー|date=1999-10-14|publisher=[[シンコーミュージック]]|isbn=4-401-613-40-6|pages=88-91}}</ref>。
 
** 他に「[[和音|コード]]と[[リズム]]の上に、歌詞をのせていくような」「メロディを歌うというよりも、詩を語っているような」「[[アドリブ]]で歌っているような」という表現もされた<ref>guts、表現技術出版、1972年8月、p16</ref>。
 
* この他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、[[起承転結]]の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であった{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|pp=36-37}}<ref>坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p182-183</ref>。
 
* [[小林亜星]]は、[[阿久悠]]の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察に於いて、「[[ニューミュージック]]の隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つの[[音符|オタマジャクシ]]に一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで「私は」と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じている<ref>言葉の達人たち、[[阿久悠]]、[[扶桑社]]、1993年、p201-226</ref>。
 
* [[小西康陽]]は「拓郎さんの『[[今日までそして明日から (よしだたくろうの曲)|今日までそして明日から]]』をはじめて聴いたときのインパクトは凄かったです。ほかの作品とは比べものにならないくらい、言葉が入ってきたんですよ。僕は[[ザ・フォーク・クルセダーズ]]も[[ジャックス (バンド)|ジャックス]]も[[岡林信康]]も聴いていたんですが、それらとはまったく違うインパクトがありました」などと述べている<ref name="10Artists">木村ユタカ編著『俺たちの1000枚 10 Artists × 100 Albums』、シンコーミュージック・エンタテイメント、2016年、ISBN 978-4-401-64350-9、p222-244</ref>。
 
* 拓郎の"字余り字足らずソング"については、同業者の中に批判する者もあり、[[赤い鳥 (フォークグループ)|赤い鳥]]は1974年のインタビューで「ただ言いたいことを言いたいんだったらシャベればいいんであって、音楽を使ってやっているんだったら、それは音楽に対する冒涜」<ref>フォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、p141-160</ref>、[[成毛滋]]は「だいたい"字余りソング"なんていうのはリズム音痴だから平気でできるんで、リズム感のいい人だったら気持ち悪くて聞いてられない。だけど、それをお客もやる方も喜んでやってるんだから、リズム音痴に向いてる音楽じゃないかって思う」などと批判している<ref>「ニューミュージック・マガジン」1972年11月号、p100</ref>。
 
 
; です・ます調の普及者
 
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* 作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、'''です・ます調(デス・マス調)'''と呼ばれ、[[松本隆]]とともにその"普及者"といわれる<ref name="初めて弾いた19" /><ref>ニューミュージック白書、1977年、p54</ref><ref name="よい子">よい子の歌謡曲、1983年、よい子の歌謡曲編集部編、冬樹社、p116-119</ref><ref group="注釈">音楽界に於ける、です・ます調の"創始者"については『新譜ジャーナル』1977年の[[ユーミン]]と松本隆の対談で以下のやりとりがある。ユーミン「松本さんの始めたデスマス体(この文献の表記)っていうのは、ゼッタイ新しかったわけでしょ。そういうのを浸透させたっていうのは、拓郎なんかも一端になっているかもしれないけど、松本さんがすごいインパクトを持っていたと思うの」(中略)松本「同時進行で僕と、[[遠藤賢司]]とか[[高田渡]]が始めていたね」と述べている(『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』p290-291)。</ref>。
 
** 拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた<ref>江口寿史の正直日記、2005年、江口寿史、河出書房新社、p73</ref>。
 
** 拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 などと述べている{{Sfn|吉田拓郎|1984|pp=146-148}}。
 
* こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。
 
** [[穂口雄右]]が手がけた[[キャンディーズ]]の「[[春一番 (キャンディーズの曲)|春一番]]」は、他の穂口作品の中で色合いが違う"です・ます調"で作られており、拓郎からの影響を指摘する論調が出た<ref name="よい子" />{{Sfn|石原信一|1985|p=97}}<ref>定本 はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p222<br />はっぴいえんどコンプリート、2008年、[[シンコー・ミュージック・エンタテイメント]]、p87<br />失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p203、206<br />「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p26</ref>。
 
 
=== 作曲法 ===
 
; 拓郎節とも呼ばれる個性の強いメロディライン
 
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* 拓郎のフォロワーが多く現れた理由としては、拓郎の曲がとっつきやすいといわれる'''テンションが少なくシンプルなコード進行'''であり、にもかかわらず'''非常に個性の強いメロディライン'''で構成されていることが考えられる{{Sfn|シンコーミュージック|2013|p=6}}<ref>[[月刊カドカワ#別冊カドカワ|別冊カドカワ]] 井上陽水、[[角川グループ|角川グループパブリッシング]]、2009年12月、p194、[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20160607/enn1606070830001-n2.htm 【発掘!流行り歌 徒然草】椎名林檎「ここでキスして。」(1999年) 年配には受け入れにくい「違和感」は大化けの予兆 デビュー秘話 (2/2ページ)]</ref>。
 
** フォークっぽい雰囲気を持ちながらポップでメロディアスな楽曲は<ref>[http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2016102802000143.html 吉田拓郎「古希」初ツアー 「そこらの70歳よりも元気なつもり」]</ref>{{Sfn|音楽出版社|2008|pp=64-68}}、オリジナル・ナンバーだけでなく、アーティストへの提供曲でも拓郎節が滲み出ている<ref name="pop" /><ref name="日本の歌手50-1" /><ref name="スーパーヒット" /><ref name="sixyouwakayou">昭和歌謡 勝手にベストテン、宝泉薫、[[彩流社]]、2009年、p48-51</ref>{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|pp=21-22}}。
 
** 拓郎節、拓郎調とも称される独特のコード進行については、小室等との対談<ref>小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p15-20</ref>や、[[小室哲哉]]との対談でその一端を言及している<ref>小室哲哉音楽対論 Vol.2、p38-40</ref><ref group="注釈">小室哲哉との対談は2008年11月5日の[[日本経済新聞]]朝刊の社説、1面コラムの春秋にも引用された。</ref>。
 
* [[近田春夫]]<ref>歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、1998年、[[アスペクト (企業)|アスペクト]]、p9234-239<br />筒美京平を否定する人たちがいた1980年代はじめ、近田が「筒美京平はすごい」と言ったことが筒美神話のはじまり(その意味は <small>考えるヒット4</small>、2001年、[[近田春夫]]、[[文藝春秋]]、p161)。</ref>は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で[[森田公一]]と拓郎にそれを感じる」と述べている<ref>定本 気分は歌謡曲、1998年、[[近田春夫]]、[[文藝春秋]]、p25</ref>。
 
* [[喜多條忠|喜多条忠]]は、拓郎を「当代一のメロディ・メーカー」と評価している<ref>この街で君と出会い、1975年、[[喜多條忠|喜多条忠]]、立風書房、p145<br />[[Char]]は『[[Char meets ???? 〜TALKING GUITARS〜]]』での[[仲井戸麗市]]との[[セッション]]で「[[JOHNNY, LOUIS & CHAR]]([[PINK CLOUD]])1979年のライブ盤『フリー・スピリット』に収録されている「籠の鳥」という曲は、拓郎がよく使ったG#sus4から作ったと話している(Char meets???? TALKING GUITARS〜Char×ギタリスト対談集〜vol.1、シンコーミュージック・エンタテイメント、2009年、p127)。</ref>。
 
* [[小西康陽]]は、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げ<ref name="10Artists" /><ref>歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p9</ref>、「一発で拓郎の曲と分かる、オリジナルのメロディを持っている、素晴らしい才能」と評している<ref name="10Artists" />。
 
* [[小林武史]]は、「あくまでこれは僕の見方ですけど、『吉田拓郎という作曲法』の人と言っていいんだと思う。何しろ、ものすごいオリジナリティがある。詞がウンヌンより曲作りがものすごい。それは『[[襟裳岬 (森進一の曲)|襟裳岬]]』一つ取っても分かる。拓郎さんもボブ・ディランから影響されているんだろうけど、[[Aメロ]]→Bメロ→[[サビ]]じゃない構成も普通にあって、"何なんだろう、あれ?"って思う」と話している<ref>[[月刊カドカワ#別冊カドカワ|別冊カドカワ]] 井上陽水、[[角川書店グループ|角川グループパブリッシング]]、2009年12月、p98</ref>。
 
* [[福田和也]]は、「吉田拓郎はメロディメーカーとしても、すごい独特。『襟裳岬』は本当に"話し出す"みたいなどこにもないメロディラインで完璧に[[オリジナル]]、[[山田耕筰]]のあとは吉田拓郎しかいないんじゃないか、と誰かが書いてた」などと話している<ref>[[SPA!]]、2009年8月4日号、p143、[[扶桑社]]、[[CIRCUS (雑誌)|CIRCUS]]、[[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]]、2009年12月号、p89</ref>。
 
* [[佐藤良明]]は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、「これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多様した拓郎らフォークシンガーの功績」と論じている<ref>J-POP進化論 「ヨサホイ節」から「Automatic」へ、1999年、[[佐藤良明]]、[[平凡社]]、p170</ref>。
 
 
=== 歌唱法 ===
 
[[山本コウタロー]]は、声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークII」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと話している{{Sfn|音楽出版社|2008|pp=64-68}}。
 
 
[[小坂忠]]や[[久保田麻琴]]、[[松任谷由実|荒井由実]]などのバックで[[ドラマー]]を務めた[[平野肇]]は、拓郎の『[[今はまだ人生を語らず]]』(1974年)の[[レコーディング]]に参加したが、「[[今はまだ人生を語らず|ペニーレインでバーボン]]」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんな[[ボーカル]]ははじめてだった。ロックの[[セッション]]もずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている<ref>『僕の音楽物語 <small>1972-2011 名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史</small>』、平野肇、[[祥伝社]]、p98-99</ref>。
 
 
[[織田哲郎]]は「日本のシンガーで声の説得力が最もあるのは拓郎さんであるというのが持論」と述べている<ref>[http://natalie.mu/music/news/228570 吉田拓郎の古希祝いトリビュートに民生、ミセス、鬼束、ポルノ - ナタリー]</ref>。
 
 
[[YO-KING]]は「拓郎さんの男っぽさが魅力でした。独特の拓郎節とでもいうべきメロディー。そして、あの声はやっぱり凄いですよ。説得力というか、迫力というか。きれいに歌おうと思ってない。大声でしゃべっているような感じで歌っちゃうのが、かっこいいじゃんという啓示を受けた気がする」と述べている<ref name="yomiuri20101022">[[読売新聞]]、2010年10月22日夕刊、p14</ref>。
 
 
小栗勘太郎は「自分の周りの極私的なことしか描いていないのに、時代の雰囲気が伝わってくる。拓郎の歌のリアリティは、虚飾を排したシンプルな歌詞が直裁に伝わる旋律と拓郎の声の合わせ技の妙」と解説している<ref name="元気です" />。
 
 
こうした作詞法<ref group="注釈">吉田拓郎のそれまでになかった、話し言葉のような歌が若者たちの心をとらえた(テレビ仕掛人たちの興亡、1990年、[[田原総一朗]]、講談社、p202)。<br />歌詞の中で、自分のことを「おいら」と呼ぶのも拓郎が始まりと思われる(日本崖っぷち大賞、1998年、[[みうらじゅん]]、[[泉麻人]]、[[山田五郎]]、[[安斎肇]]、[[毎日新聞社]]、p180)。<br />1組の男女の別れを切なく描いた詞が、最後の最後に「年老いた男」の俯瞰の目線に変わるこれまでにない詞の展開、方法論を持つ「マークII」(アサヒ芸能、2009年7月16日号、p189)。</ref>や作曲法、テーマ設定<ref group="注釈">[http://www.musicman-net.com/relay/66-5.html Musicman'sリレー 第66回 武部聡志]<br />「青春の詩」に見られるような、自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいい(僕の昭和歌謡曲史、泉麻人、講談社、2000年、p137)。<br />拓郎は、形態こそギターを弾きながら自作曲を歌うという、それまでのフォークと同じスタイルをとりながらも、歌う内容は全く変わっていた。自分の思ったことを歌う、歌いたいことだけを歌うというマイペースの姿勢に変わりはないが、社会問題をテーマにするのではなく、自分の身近な私生活をテーマにした(音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p49)。<br />反体制[[イディオム]]と青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、現在のロッカーもこの手法を無意識に踏襲(J-ROCKベスト123 1968-1996、1996年、[[講談社]]、p61)。<br />「旅の宿」「襟裳岬」等に共通する"和"の世界 "ジャパネスク"路線も、後のシンガーソングライターたちに無意識下に下敷きにされる(歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p122)。<br />例えば、[[田上雅充]]の「春うらら」は「旅の宿」をベースに[[春歌]]的趣味を加えたもの(決定版「一発屋」大全、2001年、宝泉薫、[[彩流社]]、p166)。<br />フツーの男が、とてもマガオでは言えないような話を平気で自然に歌に出来る力強さ(歌謡曲という快楽 <small>雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代</small>、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、[[彩流社]]、p26)。<br />[http://goethe.nikkei.co.jp/human/090623/01.html ファンに激震!人生、最後ツアー決定|吉田拓郎]</ref>、楽曲[[編曲|アレンジ]]、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった<ref group="注釈" name="odainterview">演歌にも通じる日本人の歌心に新しいスタイルを提示([http://www.aspect.co.jp/oda2007/interview/18.html 織田哲郎ロングインタビュー])。<br />[[笠井潔]]は「ユーミン、陽水の前史として拓郎がある。拓郎は自身が考えていること、感じていることを、そのまま歌にして歌うという近代的な表現意識を、非常に直接的に、シンプルな形で典型的に確立した。大衆歌謡としての自己表出という非常に明瞭な方法意識を確立させた。陽水にしても、中島みゆきにしても、60年代歌謡の水準をそのまま高次化したわけではなくて、いったん吉田拓郎に体現されているような近代的表出意識を転回点にした上で、もう一度60年代歌謡の位相に戻ってくるという形をとっている」などと論じている(ポスト歌謡曲の構造、1986年、足立里見著、五月社、p20、21)。<br />拓郎は演歌の歌唱法と歌詞法を超えて、身近な言葉を音(メロディ)に乗せえたいちばん最初の人。中島みゆきは、好むと好まざるとに関わらず、拓郎たちが領土化した発声と発想の路線上から出発した(中島みゆき その愛と歌の行方、1991年、菅間勇、春秋社、p210-212)。<br />小室等は、日本のフォークソングには拓郎と陽水という二つの大きな流れがある。それはアーティキュレイション(Articulation)であり[[フレーズ]]。拓郎の方が陽水よりポピュラリティがあって、日本の[[わらべ歌]]や[[民謡]]に非常に近いものがある。また言葉に対する感性のセンスがいい。陽水のほうはもっと英語に近いアーティキュレイションでの日本語。拓郎と陽水がやったことの成果、功績は大。二人がいなかったら日本語の歌って違った形になっていたと思う。だからユーミンには失礼だと思うけれど、拓郎と陽水がいなかったら、ユーミンがああいう形であったかどうかって、僕はそう思ってしまう。勿論、ユーミンも才能のある人だから、何らかの発見をしたかも知れないけども、でも拓郎と陽水という実績の上に、今のユーミンがあると思うし、日本の歌もその上にあると思うね{{Harv|石原信一|1985|pp=90-91}}。「拓郎、井上陽水、ユーミン、小田和正といった人たちが、非常に洋楽的なエッセンスと日本語の感性をドッキングさせる才能に長け、日本語としての生命力を保ちつつ曲を作るという意味で、エポック・メイキングだった人たちだった思う。拓郎辺りまでは、まだ七五調な日本語感性に踏みとどまっていたが、その後日本の音楽は限りなく英語感性に寄り添っていったと思う」(ジェネレーションF―熱狂の70年代×フォーク、2001年、小室等他、桜桃書房、p27)。などと論じている。<br />フォークからプロテスト性をそいだ形で「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現(ロックミュージックの社会学、2001年、[[南田勝也]]、青弓社、p139)。<br />ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p69</ref><ref>[http://abecasio.s23.xrea.com/interview/post_11.html 阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について]<br />[http://natalie.mu/music/pp/ishizakihuwie07 石崎ひゅーい×須藤晃「アタラズモトオカラズ」インタビュー (1/4) - 音楽ナタリー]<br />[http://musicshelf.jp/?mode=static&html=special_e02/index 小野瀬雅生 インタビュー|MUSICSHELF]<br />[http://www.cdjournal.com/main/cdjpush/andymori/1000000232 インタビュー:意識よりも“衝動”に忠実な全12曲を収録! andymori]</ref>。[[渡辺プロダクション]]のお抱え[[編曲家]]だった[[東海林修]]は「[[旅の宿 (よしだたくろうの曲)|旅の宿]]」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ<ref name="nabepro40nen">渡辺プロダクション社史「抱えきれない夢〜渡辺プログループ40年史〜」、1999年、「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会、p345</ref>。
 
 
=== 多様な音楽ジャンルへのアプローチ ===
 
アマチュア時代は長くロックバンド([[リズム・アンド・ブルース|R&B]]バンド)を組んでおり<ref name="theband" /><ref>[http://www.1242.com/radio/ty/archives/107 ザ・ダウンタウンズ時代の吉田拓郎。秘蔵音源お聴きのがしなく。]</ref>、[[ザ・ベンチャーズ]]や[[ボブ・ディラン]]、[[サム&デイヴ]]、[[ビートルズ]]らを渉猟した拓郎は{{Sfn|恩蔵茂|2001|pp=221-226}}、フォークのみに依拠したわけではない<ref name="theband" /><ref name="Jポップ " /><ref>[http://diamond.jp/articles/-/68101?page=2 はっぴいえんど、拓郎、ユーミン…Jポップ創始者たちが唄う“春の名曲”5選]、[http://momm.jp/interview/magazine01/02.html#interview_read Special Interview スペシャルインタビュー - MOMM | MusicMusic Scene VOL.02 田家秀樹]、日本ロック大系、白夜書房、〈上巻〉p194、ミッキー・カーチス、おれと戦争と音楽と、亜紀書房、p207</ref>{{Sfn|田家秀樹|2007|p=19}}。多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため{{Sfn|学研ホールディングス|2001|p=19}}、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある<ref>流行歌 気まぐれ50年史、1994年、矢沢寛、[[大月書店]]、p103</ref>。拓郎は「僕自身、まったくフォークに心酔してなかったのに、岡林がフォークの神様って言われてたけど、それが何か僕の方へ押しよせてきた。しかも神様じゃなくてヒーローとして。広島から出てきたわけの分からん奴が、いきなりヒーローになってしまった。僕にはフォークっていうのは胡散臭く思えて仕方なかった。でもフォーク・ムーブメント自体、僕にはおいしかったんですよ」などと話している<ref name="aerainfolk40"/>。[[篠原章]]は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」と論じている<ref>J-ROCKベスト123-1968-1996、[[篠原章]]、[[講談社]]、1996年、p61</ref>。[[相倉久人]]は、1976年6月14日、21日号の「[[日本読書新聞]]」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックや[[ソウルミュージック|ソウル]]にさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」と論じている<ref>[[相倉久人]]『相倉久人の70年代ロック&ポップス教養講座』[[音楽出版社]]〈CDジャーナルムック〉、2007年、p228-234</ref>。[[北中正和]]は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、[[短音階]]の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている<ref name="Jポップ " />。矢沢保は「もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、[[全学共闘会議|全共闘]]の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。拓郎の場合は、かつて[[全日本学生自治会総連合|全学連]]委員長だった[[香山健一]]が[[学習院大学]][[教授]]におさまりかえって[[自民党]]の[[走狗]]になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」などと批判している{{Sfn|矢沢保|1980|p=51,52}}。[[牧村憲一]]は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている<ref>[http://momm.jp/70/museum_talk/talk01_04.html 70'sバイブレーション!Museum Talk | Museum of Modern Music 1960 牧村憲一(音楽プロデューサー) × 松山猛(エッセイスト)× 高橋靖子(スタイリスト)4]</ref>。拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、[[ニューミュージック]]や[[日本のロック|ジャパニーズロック]]へつながっていく<ref name="ダカーポ07321" />。
 
 
[[桑田佳祐]]は著書で、拓郎の歌謡曲的な部分、[[コマーシャルソング]]の音作りに共感したことを曲作りを始めるきっかけとして挙げている<ref name="ロックの子">ロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p89</ref>。
 
 
1988年に拓郎の「たどりついたらいつも雨ふり」をカバーした[[氷室京介]]は、物心ついて最初に聴き始めた音楽は、洋楽ではビートルズ、日本では吉田拓郎であるとあかし、自身の中で拓郎はロック歌手であり、ボブ・ディランとか[[ニール・ヤング]]とかと変わらない存在であると話している<ref name="氷室ぴあ">ぴあMOOK「氷室京介ぴあ」[[ぴあ]]、2013年8月20日発売、p13</ref>。
 
 
=== アルバム製作 ===
 
; ロックバンドと共同でのアルバム制作
 
* 1stアルバム『[[青春の詩 (よしだたくろうのアルバム)|青春の詩]]』の製作にあたり、エレックレコードの専務兼プロデューサー・浅沼勇は自身が審査員を務めた[[ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト]]第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックス<ref group="注釈">ドラムは再建後のエレックレコード社長・[[萩原克己]]。</ref>を起用した。
 
** [[スタジオ・ミュージシャン]]と呼ばれるプロが[[歌謡曲]]歌手の音作りを専門としていた当時では、ひとつのロックバンドがアーティストと綿密に打ち合わせをしながら音を作っていく、という画期的な[[レコーディング]]であった<ref>エレックレコードの時代(2006年9月・アクセス・パブリッシング)p48</ref><ref group="注釈">同時期に[[はっぴいえんど]]が岡林信康のバック演奏を務めたことは有名だが、レコーディングは、はっぴいえんど主導で行われたといわれている(日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、[[白夜書房]]、1990年8月、〈上巻〉p120-121)。</ref>。
 
** 浅沼はマックスを起用した理由について「拓郎のフォークの荒削りな良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンドが必要と考えた」と述べている。
 
 
; アルバム・セールス時代の先鞭
 
* 1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『[[元気です。]]』は、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとして[[オリコン]]史上初の1位獲得アルバムである。それまでの1位獲得アルバムは、[[演歌]]か[[アイドル#女性アイドル史|女性アイドル]]か、[[洋楽]]に限られていて、演歌以外の男性歌手としても初の1位獲得であった<!-- 参考私設サイト http://homepage1.nifty.com/shislabo/no1_album/0001-0100.html-->。アルバムが売れない時代に<ref group="注釈">当時はシングルは売れても、アルバムは3千〜5千枚売れたらいい方であった(ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、[[音楽之友社]]、p282)。</ref>、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録<ref name="元気です" /><ref>Lapita 月刊吉田拓郎、小学館、p34</ref>、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた<ref>ニッポンのうた漂流記、[[河出書房新社]]、p134<br />ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p233<br />[[アサヒ芸能]]、2009年7月2日号、p36、37<br />guts、表現技術出版、1973年1月、p31<br />「伝説のメロディ 甦る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫...」[[BS朝日]]、2010年4月25日<br />[https://web.archive.org/web/20090413131805/http://e-days.cc/musicbar/musicman/murakami4.html ラガー音楽酒場 / 村上“ポンタ”秀一(ドラマー) | WEBマガジン e-days](archive)</ref>。アルバムがシングルレコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、拓郎や[[小椋佳]]、[[井上陽水]]らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである<ref>消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、p40、41</ref>。
 
 
; ライブ・アルバム
 
* 拓郎が人気者になった理由の一つに喋りの面白さが挙げられる{{Sfn|シンコーミュージック|2013|p=7}}。また拓郎の独持の口調「○○でアリマス」などの言い回しもよく流行った{{Sfn||田家秀樹|2007|p=25}}{{Sfn|石原信一|1985|pp=203-204}}。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『[[たくろうLIVE'73|LIVE'73]]』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる<ref name="earthmusiclibrary31"> {{Harvnb|田家秀樹|2007|p=31}}<br />豊かなる日々 〜吉田拓郎、2003年の全軌跡〜、2004年6月、田家秀樹著、[[ぴあ]]、p7</ref>。このライブで歌われた楽曲は大半が新曲。まだステージで一度も歌ったことのない新曲をライブで披露するという試みも前例のないものであった{{Sfn|田家秀樹|2011|pp=142-143}}。
 
 
=== コンサート・ツアー ===
 
* [[1973年]]秋、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する<ref name="nikkansports050529" /><ref name="Extime-28"/><ref name="LOVE LOVE海援隊 ">[http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/166.html 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】]</ref><ref name="earthmusiclibrary8">地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p8</ref><!--{{Sfn|吉田拓郎|1984|pp=136 -137}}<ref>[[日本経済新聞]]、2006年4月12日夕刊、p20<br />[[スポーツ報知]]、2009年6月22日、p24<br />[[日刊スポーツ]]、2009年6月22日、p23<br />1970音楽人大百科 日本のフォーク/ニューミュージック/ロック、学習研究社、p52-53<br />[[アサヒ芸能]]、[[徳間書店]]、2009年6月18日号、p32<br />「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p36-49</ref> -->。当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった{{Sfn|吉田拓郎|2002|pp=158-162}}。このことは、従来地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、地方のイベンターや、[[ぴあ]]に代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した<ref>[http://www.asakyu.com/column/?id=191 情報には色をつけない - asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース]<br />『ぴあ』の時代、掛尾良夫著、[[キネマ旬報社]]、2011年、p64-66<br />『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、p116-117<br />{{Harvnb|田家秀樹|1994|p=27,146}}<br />渡辺芸能ビジネスを創った男、新潮社、p153-160<br />読むJ-POP 1945-1999私的全史、田家秀樹著、徳間書店、1999年、p143-146<br />明日に向かって走れ、p136-137</ref>。
 
* 1973年10月に神田共立講堂で2日、[[渋谷公会堂]]で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。最初は[[日本武道館]]で1日だけと考えていたが、拓郎自身が「雰囲気もいや。音楽やるのに向いてない」と武道館を嫌い、別の同一会場で、当初1週間連続を計画したが、会場の都合が付かずこのような形態になった<ref>ヤング・ギター・クロニクル, vol. 2『かぐや姫 青春という夢・恋・歌』、p76</ref>。
 
* [[1975年]][[8月2日]]〜[[8月3日|3日]]に開催された「[[吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋]]」は画期的なものだった{{Sfn|シンコーミュージック|2013|p=6}}<ref name="tomi">[http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/tomi_reading?offset=10&seed=1335179201185 カルチャーエリア - 富澤一誠の55歳の決心! 234〜240/ Slownet SNS]</ref><ref name="yamahahimekuri">[http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990802 吉田拓郎 - おんがく日めくり | YAMAHA]</ref>。
 
*[[1979年]][[7月26日]]〜[[7月27日|27日]]に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった<ref group="注釈">外国では、イギリスの[[ワイト島音楽祭|ワイト島フェスティバル]]が有名。</ref>{{Sfn|田家秀樹|2007|pp=10-11}}。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めた<ref>ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p233</ref>。ゲストに[[小室等]]、[[長渕剛]]を迎え、2万4千人を集めた。デビュー2年目の長渕が一時の拓郎のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである<ref name="しゃべくり">『[[しゃべくり007]]』、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[日本テレビネットワーク協議会|系]]、2013年3月18日放送([http://japan.techinsight.jp/2013/03/nagabuti-kaerecall-syabekuri20130318.html Techinsight » 【エンタがビタミン】「帰れって言う、お前らが帰れ!」長渕剛が伝説の“帰れコール”について真相語る。])</ref><ref>俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、p185-198<br />[http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Drum/4406/TAKU794.html 吉田拓郎 Island Concert in 篠島]</ref>。
 
* [[2006年]][[9月23日]]、31年ぶりに[[ヤマハリゾートつま恋|つま恋]]で[[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]と「[[吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006]]」を開催した。
 
 
=== 音楽ビジネスへの影響 ===
 
==== テレビ出演拒否 ====
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 1972年「旅の宿」のリリース中に「テレビ出演拒否」を行う<ref name="prof " />{{Sfn|シンコーミュージック|2013|p=6}}<ref name="元気です" /><ref name="TKMCizumiya">[http://www.fujitv.co.jp/TKMC/BACK/TALK/s_izumiya.html 泉谷しげる - TKMC ARCHIVES NON EDIT TALK]</ref><ref name="guts19725">guts、1972年5月号、p8-11</ref>。理由は、テレビを最大限利用した[[藤圭子]]のような既成のプロ歌手とは逆の「テレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう!」と考えた意地だったと述べている{{Sfn|吉田拓郎|1984|pp=131-135}}。「テレビ出演拒否」は、拓郎を神格化させた大きな要素となるという見方もある{{Sfn|音楽出版社|2008|pp=48}}。
 
** 歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした<ref>ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p48</ref>。
 
** [[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]の出演について、[[日本放送協会|NHK]]は1972年にアプローチしたが出演を拒否した。そのため、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことが出来ないという常識が定着した<ref>紅白歌合戦と日本人、太田省一、[[筑摩書房]]、2013年、p123-126、[[サンデー毎日]]、1972年12月10日号、p40、1976年12月12日号、p33</ref>。
 
** 女性誌から週刊誌、月刊誌、ゴシップ誌、新聞と取材申し込みが殺到した{{Sfn|吉田拓郎|1984|pp=131-135}}が、「自分のいいたいことが正確に伝わらない」とマスコミ取材拒否も行った<ref name="prof " /><ref name="衝撃178">[[富澤一誠]]『ニューミュージックの衝撃』[[共同通信社]]、1979年、p178-181</ref>。
 
** 「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎はそれまでの[[タブー]]を破り、フォークにポリシーを持たせることで、[[歌謡曲]]とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた{{Sfn|恩蔵|2001|pp=221-226}}<ref name="衝撃178" /><ref>夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、p64-66<br />ぼくの歌・みんなの歌、森達也、講談社、p59<br />わが青春の流行歌、池田憲一、白馬出版、p110、148<br />Jポップとは何か、2005年、[[烏賀陽弘道]]、[[岩波書店]]、p70-71<br />ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p48</ref>。
 
** 彼のテレビ出演拒否を受け、フォークシンガーの多くが同様にテレビ出演を拒否した{{Sfn|吉田拓郎|1984|pp=131-135}}<ref>サンデー毎日、1974年10月6日号、「井上陽水のフォークの世界」p150-151、戦後世論のメディア社会学、[[佐藤卓己]]、[[柏書房]]、2003年、p183</ref>。これは各所属事務所、或いはレコード会社の戦略によるものであった<ref name="TKMCizumiya" /><ref group="注釈">[[泉谷しげる]]は「拓郎が『商業主義に染まりたくないからテレビには出ない!』なんてかっこよくいうもんだから、俺たちも『おおっ』ってなっちゃって。気がついたら振り上げた拳を下ろせなくなってさ。『弱っちゃったな、別にテレビ、嫌いじゃないんだけど』」などと述べている([[週刊現代]]2013年9月7日号、「スペシャル対談 大竹しのぶ×泉谷しげる 痛快!居酒屋で人生を語ろう」)。</ref>。
 
**拓郎のテレビ出演拒否は後のテレビ界に大きな影響を与えた。1978年から始まった『[[ザ・ベストテン]]』は、テレビに出ないニューミュージック系歌手の曲を紹介したいという[[コンセプト]]で始まった番組であったが<ref>ザ・ベストテン、[[山田修爾]]、[[ソニー・マガジンズ]]、2008年、p188-189</ref>、『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだ<ref>テレビだョ!全員集合、長谷正人/太田省一、[[青弓社]]、2007年 p75、[[週刊朝日]]、1978年12月29日号、p37</ref>。
 
** [[相澤秀禎]]は「テレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と述べている<ref>アイドル工房―夢のつむぎ方―、1995年、[[相澤秀禎]]、[[スコラ]]、p121-122</ref>。
 
** [[1996年]]から音楽バラエティー番組『[[LOVE LOVEあいしてる]]』にレギュラー出演し、[[ジャニーズ事務所]]の[[アイドル]]・[[KinKi Kids]]と共に司会を担当したことで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあった{{Sfn|田家秀樹|2001|pp=164-165}}。「出てもいい」と思った大きな理由は、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げている{{Sfn|田家秀樹|2001|pp=164-165}}。
 
 
==== フォークの地位の向上 ====
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* フォークとロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となる<ref name="hmv木田 " /><ref name="柳井康弘" /><ref name="安井281299">島崎今日子『安井かずみがいた時代』集英社、2013年、p281-299</ref><ref>[http://www.tanimura.com/forum/article-5708 吉田拓郎登場!! | フォーラム - 谷村新司 SHINJI TANIMURA]</ref>。
 
* [[1971年]][[10月]]、アーティスト主体の音楽制作を目指し、拓郎と後藤由多加が中心となってプロダクション「ユイ音楽工房」を設立した<ref name="pop" /><ref name="jinz-bar" /><ref name="hamazo">[http://dss.hamazo.tv/c589768.html 牧村憲一さんへのインタビュー - デジタルサウンドシンポジウム@浜松]</ref><ref>昭和フォーク&ロック音楽堂、中村よお、青幻舎、2008年3月、p53<br />TV博物誌、1997年、[[荒俣宏]]、小学館、p189、190<br />フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p73<br />戦後ポピュラー日誌、1982年、柴田勝章、八曜社、p130、131</ref>。エレック在籍時には社員扱いだった拓郎の作品には[[作詞]]、[[作曲]]、歌唱の[[印税]]保証はなく、後藤に聞かされ初めて歌にそういう権利がある事を知った<ref>夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、p63</ref>。当時の音楽業界はレコード会社の権限が圧倒的に強く、自作自演が中心だったフォークとは無縁のようでいて、年3枚のアルバム契約の縛りや、自身の意向とは無縁のシングル盤リリースなど、対レコード会社との力関係は圧倒的にアーティストに不利だった{{Sfn|馬飼野元宏|2014|p=245}}。拓郎が1972年1月、CBSソニーに移籍した際、莫大な印税が振り込まれ驚き、アーティストの権利について初めて本気で考えたといわれる{{Sfn|馬飼野元宏|2014|p=245}}。アーティストの権利意識とビジネスとしての確立はここに端を発す{{Sfn|馬飼野元宏|2014|p=245}}。
 
* [[マスメディア]]での拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークの存在感を高め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった<ref>[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20150520/enn1505200830007-n1.htm 【ああ懐かしの雑誌黄金時代】『深夜放送ファン』 フォークシンガーがスターだった証し]<br />日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、[[白夜書房]]、1990年8月、〈上巻〉p193<br />われらフォーク世代、1975年、[[三橋一夫]]、山本コウタロー他著、荒地出版社、p177<br />ニューミュージック白書、1977年、エイプリル・ミュージック、p175<br />NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p19<br />ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p49</ref>。
 
** 「[[YOUNG GUITAR|ヤング・ギター]]」初代編集長の山本隆士は「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている{{Sfn|シンコーミュージック|2007|p=71}}。「ヤング・ギター」は、拓郎の才能をいち早く認め、デビュー前から頻繁に誌面で紹介し、強力に応援した<ref>[http://www.shinko-music.co.jp/main/ProductDetail.do?pid=0630858 吉田拓郎 これが青春 |シンコーミュージック・エンタテイメント]</ref>{{Sfn|馬飼野元宏|2014|p=192-198}}。
 
** 小説家の[[盛田隆二]]は「いつか拓郎の本を作りたい」と[[ぴあ]]に入社し、拓郎が出演した映画『[[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]]』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという。
 
** 『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話している{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|p=19}}<ref>日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修・シンコー・ミュージック、p232</ref>。
 
* 拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、出版、音楽関係者<ref>[http://www.yamaha.co.jp/ongakukiji/news.php?no=13900 元祖フォーク評論家の立志を後押しした「今日までそして明日から」〜富澤一誠 第2回]、[http://www.mishimaga.com/minna-music/001.html 第1回 からだが溶ける至福の体験 ブルガリアン・ヴォイス]<br />[http://www.oricon.co.jp/music/special/080213_02.html?mm 最強のミュージックマンが音楽を語る!!-ORICON STYLE ミュージック]<br />[http://www.bounce.com/interview/article.php/4029 庄司明弘インタビュー]<br />[http://www.mitsubishi-fuso.com/jp/prfuso/2007/0706/forksong/index.html あの時代の風]<br />[http://w3.bs-tbs.co.jp/songtosoul/mysong BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」|番組スタッフが選ぶわたしの一曲]<br />[http://bookweb.kinokuniya.jp/htm/4636823907.html 大人のためのフォークギター入門: 紀伊國屋書店BookWeb]<br />[http://www.pinpoint.ne.jp/manpokei/2006/12/12/ 磯田秀人ピンポイントフォーラム 倍音浴]</ref>、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者の代表的な人物が[[きくち伸]]である<ref name="kikchy ">[http://www.fujitv.co.jp/otogumi/kikchyfactory/amano.html レポート - フジテレビ]、[http://www.musicman-net.com/relay/67.html Musicman'sリレー きくち伸インタビュー]、[http://otogumi.fujitv.co.jp/lovekp/D20121107.html 2012年11月 - きくちPの音組収録日記 - フジテレビ]、[http://otogumi.fujitv.co.jp/lovekp/C153.html LOVE LOVEあいしてる(19) - きくちPの音組収録日記 - フジテレビ]</ref>。
 
 
==== コマーシャルソング ====
 
ニューミュージック系歌手による[[コマーシャルソング|CMソング]]製作のはしりである<ref>ニューミュージック′80 すばらしき仲間たち、立風書房、1980年、p88</ref><ref name="サカイ目">[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20130403/enn1304030711000-n1.htm 【時代のサカイ目】現代CMソング考 求められる視覚と聴覚への“瞬間刺激” - ZAKZAK]</ref>。早くからCMソングを自作自演し、反商業主義の[[プロテストソング]]と一線を画した{{Sfn|恩蔵茂|2001|pp=221-226}}<ref>音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p50</ref>。[[1960年代]]の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかった<ref name="メディア時代の広告と音楽">メディア時代の広告と音楽 変容するCMと音楽化社会、小川博司、粟谷佳司、葉口英子、小田原 敏、小泉恭子、増田聡、新曜社、2005年、p28、29</ref>。
 
 
;僕の旅は小さな叫び
 
CMソング第一号は[[1971年]]歌唱のみの「僕の旅は小さな叫び」<ref name="youngguitar216">[[YOUNG GUITAR|ヤング・ギター]]・クロニクル Vol.1 吉田拓郎これが青春、2007年、シンコーミュージックエンタテイメント、p216</ref>。<br />
 
[[パナソニック|松下電器産業]]「[[Technics]]」の立体オーディオ「[[4チャンネルステレオ]]」(SC-1550N)の発売に伴い、当時松下電器の宣伝事業部の堀川靖晃が、作詞・[[山川啓介]]、作曲・編曲を[[渋谷毅]]に依頼してCMソングを製作することになった。本CMソングは、「僕の旅は小さな叫び」という曲であり、作詞期間4週間、制作費約100万円と当時のCMソングとしては多額の費用がかかった<ref name="youngguitar216" />。
 
 
この年は他に[[セイコーホールディングス|SEIKO]]と[[タイアップ]]シングル「サヨナラ僕は気まぐれ」(作詞・作曲・唄。B面「青春の終わり」は作詞・作曲が拓郎で、唄がピピ&コット、[[三越]]とのタイアップシングル、非売品)を手がけた他<ref name="youngguitar216" />、[[中外製薬]]の『[[グロンサン|新グロンサン]]』のCMソングを歌い、[[全日本シーエム放送連盟|ACC]]([[全日本シーエム放送連盟]])全日本CM フェスティバル・シンギング部門で入賞<ref>ニューミュージックの本―日本のフォーク&ロック FM fan コレクション★POPS(2)、1978年、富澤一誠監修、[[共同通信社]]、p61</ref>。
 
 
;HAVE A NICE DAY
 
[[1972年]]には「旅の宿」のヒットに目をつけた[[富士フイルム|フジ・フイルム]]が拓郎にCMソングの製作を依頼し、拓郎作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を放送した(背景には1970年から[[日本国有鉄道|国鉄]]の“[[ディスカバー・ジャパン]]”キャンペーンが始まっていたことがある)<ref name="サカイ目" /><ref name="セイヤング1980">「セイ!ヤング」1980年1月4日放送</ref><ref>フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、[[新風舎]]、p76</ref>。彼のしゃべり言葉をそのまま生かし、歌に合わせて若者が自由にポーズをとるという内容が、この広告をヒットさせる大きな要因となった<ref name="キャッチフレーズ">ブレーン別冊『キャッチフレーズ3000選 戦後30年のヒット広告とコピー発想法』[[島森路子]]他、マドラ・グループ編著、[[誠文堂新光社]]、1976年、p65、128</ref>。"HAVE A NICE DAY"は[[流行語]]にもなった<ref name="inouchi">[http://homepage3.nifty.com/~inouchi/dvdram/hitsongmakersvol5.html HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜 BSフジ 「CMの中のJ-POP」2005年3月11日]</ref><ref name="富士フイルム">[http://www.fujifilm.co.jp/history/dai4-03.html 富士フイルムのあゆみ]</ref><ref>現代風俗史年表、若森繁男、河出書房新社、p244<br />テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代、[[長谷正人]]、太田省一編著、p148<br />タイアップの歌謡史、洋泉社、p87、136</ref>。『Have A Nice Day』第一弾(気ままに写そう編)に続き、『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編[[広島弁]]の歌詞で歌われており、[[方言]]で歌われたCMソングとして先駆的なものとなる<ref name="キャッチフレーズ" />。CMの作詞作曲料は85万円<ref name="youngguitar216" />。
 
 
1972年、「僕の旅は小さな叫び」で前年に続き[[全日本シーエム放送連盟|ACC]]全日本CMフェスティバル入賞<ref>ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p61-63</ref>。同年、[[りりぃ]]に[[山発産業]]フェミニンのCMソングを提供し、[[スバル・レックス]]([[富士重工]])のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく、後にレコード盤が製作された<ref name="youngguitar216" /><ref>Lapita 月刊吉田拓郎、2003年9月号、小学館、p38</ref>。
 
 
これら全てのCMソングの[[ソノシート]]、あるいはレコードは、全てステレオ購入者のオマケや、[[懸賞]]のプレゼントなどの非売品で、正規にレコード発売された物はない。当時はCMソングをレコード化して商売として売り出すという発想がまだない時代であった<ref name="youngguitar216" /><ref name="セイヤング1980" />。
 
 
これらをきっかけに企業はフォーク・シンガーをCMに起用するようになった<ref>フォーク名曲事典300曲、富沢一誠著、p208、209<br />みんなCM音楽を歌っていた、田家秀樹著、[[徳間書店]]、p46<br />すばらしき仲間たち ニューミュージック′80、立風書房、1980年、p88</ref>。[[広告]]の世界とは交流のなかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは「HAVE A NICE DAY」が成功してからである<ref name="inouchi" /><ref>『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、p122-123</ref><ref group="注釈">1970年代初頭ではまだ、テレビCMの世界で自らのサウンドスタイルを崩すことなく音楽制作を聞かせることができたのは、拓郎と[[大滝詠一]]だけであったといわれる([[文藝|文藝別冊]] 大瀧詠一―総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史、[[河出書房新社]]、2005年11月、p176-177)。「Cider'73」からはじまる[[大滝詠一]]が手掛けた[[三ツ矢サイダー]]の名作シリーズは、拓郎の「HAVE A NICE DAY」に対抗するため、当初[[コニカ|サクラカラー]]が[[はっぴいえんど]]にCMソングを依頼したもので、はっぴいえんどの解散でこれは流れたが担当者が大滝の楽曲を気にいり、大滝個人に三ツ矢サイダーのCMが持ち込まれたもの(はっぴいえんど伝説、1983年、萩原健太、八曜社、p158-159、牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』スペースシャワーブックス、2013年、p63、[http://www.1101.com/toriro/2005-12-30.html ほぼ日刊イトイ新聞 - 大瀧詠一さんと、トリロー先生の話を。第4回])。</ref>。<br />
 
[[小川博司 (社会学者)|小川博司]]は、「吉田拓郎がこの時期手掛けたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、[[コマーシャルソング|広告音楽]]対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている<ref>消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、p40-44、57</ref>。
 
 
[[桜井哲夫 (社会学者)|桜井哲夫]]も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分をこわしたこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、[[コマーシャルソング|CM音楽]]対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている<ref>思想としての60年代、[[桜井哲夫 (社会学者)|桜井哲夫]]、講談社、1988年、p128</ref>。
 
 
==== 新旧の音楽界の交流の活性化 ====
 
[[森進一]]に提供した「[[襟裳岬 (森進一の曲)|襟裳岬]]」の大ヒットをきっかけに[[渡辺晋]]は、拓郎の楽曲の実力を買って、[[キャンディーズ]]など多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した<ref>[[アサヒ芸能]]、[[徳間書店]]、2009年6月25日号、p39、2009年7月23日号、p189</ref>。[[渡辺プロダクション]]は、これを機に[[布施明]]へ[[小椋佳]]の「[[シクラメンのかほり]]」(1975年)、[[三木聖子]]へ[[松任谷由実|荒井由実]](1976年)の「[[まちぶせ]]」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|p=24}}<ref>アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、p157-158</ref>。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった<ref>日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、p27-28</ref><ref name="Jポップ批評26-140">別冊宝島編集部「音楽誌が書かないJポップ批評26」、別冊宝島804、2003年 [[宝島社]]、p140</ref><ref>[http://books.google.co.jp/books?id=AoFgIowII48C&printsec=frontcover&source=gbs_v2_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p111]</ref>。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつでもあるが、この後[[阿久悠]]や[[筒美京平]]のように歌謡曲側の作家が、それぞれ[[桑名正博]]、[[Char]]のようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった<ref>[[ホットドッグ・プレス]]、1980年2月号、[[講談社]]、p105</ref><ref>『阿久悠 命の詩〜『月刊you』とその時代〜』、講談社、2007年、p112、113</ref>。またCMソング作家だった[[小林亜星]]が作曲した「[[北の宿から]]」が[[1976年]]、[[第18回日本レコード大賞]]等を受賞するというようなケースも出てきた{{Sfn|矢沢保|1980|p=22}}。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった<ref>イエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、CBS・ソニー出版、p94-95</ref>。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークが[[アンダーグラウンド (文化)#文化としてのアンダーグラウンド|アンダーグラウンド]]から脱し市民権を得たともいえる<ref name="Jポップ批評26-140" /><ref>消費社会の広告と音楽、p41</ref>。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた<ref name="sixyouwakayou" />。「襟裳岬」は両者が邂逅した記念碑的作品であった<ref name="Jポップ批評26-140" />。拓郎は同年、[[浅田美代子]]に「じゃあまたね」を[[小柳ルミ子]]にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる{{Sfn|シンコーミュージック|2013|p=12}}<ref>[http://megalodon.jp/2010-0206-2024-39/otona.yomiuri.co.jp/people/graffiti/090520.htm 歌謡曲とフォークの架け橋めざして〜太田裕美さん]</ref><ref name="歌謡ポップス ">歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p122-125、194</ref><ref>失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p89<br />FM雑誌と僕らの80年代、恩蔵茂、2009年、河出書房新社、p40、41<br />青二才の頃 <small>回想の70年代</small>、p105<br />すばらしき仲間たち ニューミュージック′80、立風書房、1980年、p93<br />[[週刊朝日]]1975年12月26日号、p35-41</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20051231230730/http://www.ntv.co.jp/supertv/old/data/2003/1027/1027.html スーパーテレビ情報最前線 「吉田拓郎 『復活』への全軌跡」日本テレビ、2003年10月27日放送](archive)</ref>。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、[[原田真二]]をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献<ref name="hotexpress2">[http://www.hotexpress.co.jp/interview/111018_shinjiharada/page2.html#0 原田真二 アルバム『OUR SONG』 インタビュー PAGE2/音楽情報サイト: hotexpress]</ref><ref name="musicshelf">[http://musicshelf.jp/?mode=static&html=series_a14/index 原田真二セレクトのプレイリスト({{lang|en|MUSICSHELF}}インタビュー)]</ref><ref name="oda2007">[http://www.aspect.co.jp/oda2007/interview/13.html 織田哲郎ロングインタビュー第13回|織田哲郎Project2007]</ref>。
 
 
;ミュージシャン系プロデューサーの先駆
 
[[小室哲哉]]や[[つんく]]のプロデュース活動が活発になった頃、ミュージシャン系[[音楽プロデューサー|プロデューサー]]の先駆者としても紹介された{{Sfn|シンコーミュージック|2007|p=185}}。拓郎は"日本初のミュージシャン兼プロデューサー"と評される<ref name="Extime-28"/>。拓郎が[[フォーライフ・レコード|フォーライフ]]を設立した理由もミュージシャンがプロデュース権を強く持つ、プロデューサーシステムの確立を目指してのものであったし<ref>『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』、[[自由国民社]]、2003年、p222-223、明日に向かって走れ、p191-198、もういらない、p94-95</ref>、拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。職業作詞家との多くのコラボレーションは拓郎が初めてである。現在では見られない[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]+ [[浪曲|浪花節]]をベースとするコンポーザーである<ref name="歌謡ポップス " />。
 
 
;かまやつひろし
 
[[かまやつひろし]]との[[コラボレーション]]、1974年、[[デュエット]]「[[シンシア (よしだたくろう・かまやつひろしの曲)|シンシア]]」、1975年の[[オリコンチャート|オリコン]]1位「[[我が良き友よ]]」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。
 
 
こうしたロック、演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、[[子供番組]]などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあった<ref name="歌謡ポップス " />{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|p=38}}<ref>ムッシュ!、2002年、[[かまやつひろし|ムッシュかまやつ]]、[[日経BP社]]、p141-153<br />青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p142、152<br />「FM雑誌と僕らの80年代 『FMステーション』青春記」、恩蔵茂、河出書房新社、2009年、p41、42<br />「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」、2007年9月18日、p605、608</ref>。「シンシア」は、拓郎がファンだった[[南沙織]]への[[オマージュ]]曲で、同時代に活躍したアイドルの名前・愛称をタイトルに付けて唄うという珍しい楽曲<ref>地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p128</ref>。『[[ミュージックフェア]]』で共演もしている。
 
 
;キャンディーズ
 
1977年、[[渡辺晋]]から「[[キャンディーズ]]を大人にしてやってくれ」という依頼を受け、[[キャンディーズ]] の「[[やさしい悪魔]]」と「[[アン・ドゥ・トロワ]]」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた。
 
 
もともと拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組『[[吉田拓郎のオールナイトニッポン]]』にゲストで呼んだり(1975年3月4日、[[藤村美樹|ミキちゃん]]は風邪で欠席)、特に[[田中好子|スーちゃん]]ファンで<ref>[https://web.archive.org/web/20110428122304/http://www.sanspo.com/geino/news/110426/gnj1104260511018-n1.htm 吉田拓郎、田中好子さんとの思い出秘話 - 芸能 - SANSPO.COM](archive) </ref>、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある<ref>さよならのメッセージ、1978年、[[キャンディーズ]]、[[勁文社]]、p188、GO!GO!キャンディーズ― キャンディーズ革命、1977年、[[文化放送]]編、ペップ出版、p188</ref>。またキャンディーズが解散宣言をした時「アン・ドゥ・トロワ」のレコーディング中、「本当に解散するの?」と聞いたら、3人口をそろえて「申し訳ありません、事務所を通して下さい」と言われたと自著に書いている。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見た[[伊藤蘭|ランちゃん]]を書いたと言われており{{Sfn|石原信一|1980|p=120}}真偽は不明。女の子は「[[やさしい悪魔]]」のジャケットのランちゃんに似ている<ref>[http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/B000EAV8KM/ref=dp_image_text_0?ie=UTF8&n=561956&s=music]</ref><ref>[http://candies.sound.co.jp/records/photo/06sh293.jpg]</ref>。
 
 
「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た<ref>[http://homepage1.nifty.com/kobayasi/radio/19770812.htm 小室等の音楽夜話、FM東京、1977年8月12日]<br />拓郎はランちゃんが苦戦したのは、その日が生理だったからとマネージャーに言われたと記している{{Harv|吉田拓郎|1994|pp=121-122}}。</ref>。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲で、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「[[微笑がえし]]」、「[[わな (キャンディーズの曲)|わな]]」に次ぐ3位)<ref>[http://www.ransuemiki.com/wiki/index.php?1977%C7%AF%A1%A1%B7%EE%A1%A1%C6%FC%C8%AF%B9%D4%A1%A1%A5%AD%A5%E3%A5%F3%A5%C7%A5%A3%A1%BC%A5%BA%A5%D5%A5%A1%A5%F3%A5%AF%A5%E9%A5%D6%BB%E6%C2%E8%A3%B9%B9%E6 1977年発行 キャンディーズ ファンクラブ会報 No.9]</ref>。キャンディーズファン・[[石破茂]]も「音楽的に完成度が一番高い名曲」と話し<ref>[[毎日新聞]]、2008年4月3日夕刊2面</ref>、キャンディーズ自身も「私たちの代表曲」と話している<ref>[http://homepage1.nifty.com/kobayasi/radio/19770812.htm 小室等の音楽夜話、FM東京、1977年8月12日]</ref>。後期キャンディーズは、拓郎抜きに語れない<ref name="sixyouwakayou" /><ref>[http://musicshelf.jp/playlist/988308 自動改札のアイドルPOP考 VOL.2 - プレイリストから新たな音楽を発見]</ref>。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『[[大いなる人]]』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで“さよならキャンディーズ”と歌った<ref name="earthmusiclibrary37">地球音楽ライブラリー吉田拓郎、TOKYO FM出版、p158、159、209、210</ref><ref>[http://music-calendar.jp/kayou/2015092101 あの解散宣言の2ヶ月後にリリースされたキャンディーズ「アン・ドゥ・トロウ」]、GO!GO!キャンディーズ― キャンディーズ革命、1977年、[[文化放送]]編、ペップ出版、p254<br />失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p203</ref>。
 
 
このシングル2曲の他に、「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977暮れに発売された5枚組アルバム『[[CANDIES 1676 DAYS〜キャンディーズ1676日〜|キャンディーズ1676DAYS]]』に収録された「銀河系まで飛んで行け!<ref>失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p90</ref>」(いずれも『[[GOLDEN☆BEST キャンディーズ]]』に収録)を提供。なお「銀河系まで飛んで行け!」は、事務所の先輩・[[梓みちよ]]が気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルで出せなかったとされる。
 
 
;梓みちよ
 
[[梓みちよ]]のレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『[[メランコリー (梓みちよの曲)|メランコリー]]』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという{{Sfn|吉田拓郎|1994|pp=119-120}}。ただ、梓は拓郎はレコーディングには来なかったと話している<ref>[[垣花正のあなたとハッピー!]]、[[ニッポン放送]]、2010年9月20日</ref>。この曲の作曲は拓郎だが「緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる」と書かれた[[喜多條忠|喜多条忠]]の作詞もヒットした。それまでフォークの作詞家だった喜多条に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に喜多条が奮起して作詞を手掛けたもの<ref>WEEK-END Party 〜forever young〜、[[エフエムナックファイブ|NACK5]]、2007年4月20日</ref>。[[1976年]]、梓も[[第27回NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]で歌う際、この曲の短縮を要求され[[日本放送協会|NHK]]ともめたが出場した<ref>スキャンダル 紅白歌合戦、[[竹中労]]、みき書房、1979年、p186</ref>。
 
 
;原田真二
 
フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた[[原田真二]]は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ <ref>オデッセイ★原田真二編、1978年、ペップ出版、p65、66</ref>{{Sfn|石原信一|1980|pp=145-152}}原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた<ref name="hotexpress2" /><ref name="musicshelf" />。デビューにあたり原田の部屋探しから、原田の曲作りのため[[松本隆]]や[[瀬尾一三]]を交えて合宿させたり<ref>[http://musicshelf.jp/?mode=static&html=series_a14/index 原田真二インタビュー]<br />プロの作曲家というものが、いかに綿密な計算をしたうえで楽曲を創作しているかを説明するため[[筒美京平]]を盛んに聴かせたり{{Harv|石原信一|1980|p=147,148}}</ref>、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しい[[ピアノ]]の弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた"[[ニューミュージック]]系の人達はテレビに出ない"という風潮の時代に、原田には一転、[[パブリシティ]]のためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意した{{Sfn|石原信一|1980|pp=146-147}}<ref name="slownet62">[http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/tomi_reading/200610021404-3000000.html 第62回 ニューミュージックもテレビをメインに新戦略]</ref><ref>FLASH臨時増刊 Extime、p34</ref>。
 
 
こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入り<ref group="注釈">てぃーんずぶるーす6位、キャンディ10位、シャドーボクサー14位(期日不明)。(青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p213、日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修、シンコー・ミュージック、p92)。</ref>、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し<ref>『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房 p61</ref>フォーライフの危機をも救った<ref name="earthmusiclibrary10">地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p10</ref>{{Sfn|吉田拓郎|1980|pp=151-152}}<ref>アサヒ芸能、2009年7月9日号、p39、40</ref>。また原田は[[ヤマハ音楽振興会|ヤマハ]]出身の[[世良公則&ツイスト]]とともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いていなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した<ref name="slownet62" /><ref>1970音楽人大百科 日本のフォーク/ニューミュージック/ロック、学習研究社、p165<br />どうにもとまらない歌謡曲 −七〇年代のジェンダー、舌津智之、2002年、晶文社、p145<br />日本ロック大系〈下巻〉、1990年、月刊オンステージ編集部、白夜書房、p415<br />別冊太陽 日本のロック 50's〜90's、1993年、[[平凡社]]、p105、106<br />現代風俗史年表、若森繁男、河出書房新社、p300<br />青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p213<br />Media View 1970-1999 売れたものアルバム、2000年1月、東京書籍、p199<br />Jロック&ポップスCD名盤ガイド 2001年 立風書房 60、200、237頁</ref>。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった<ref name="oda2007" /><ref>[http://books.google.co.jp/books?id=AoFgIowII48C&printsec=frontcover&source=gbs_v2_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p11]</ref><ref>日本ロック大系〈下巻〉、月刊オンステージ編集部、白夜書房、p415-417<br />Jロック&ポップスCD名盤ガイド、立風書房 p200<br />J-ROCKベスト123 1968-1996、講談社、p158-160<br />新宿ルイード物語、1988年、富澤一誠、講談社、p155-157<br />「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」、2007年10月16日、p634-636、639</ref><ref>[http://books.google.co.jp/books?id=AoFgIowII48C&printsec=frontcover&source=gbs_v2_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p11]</ref>。[[アミューズ]]は、[[渡辺プロダクション]]を退職した[[大里洋吉]]が、原田を売り出すために設立したもの<ref>[http://www.musicman-net.com/relay/25-5.html#item-1 第25回 大里洋吉 氏 | Musicman-NET]</ref>{{Sfn|田家秀樹|1994|p=47,48,55,56}}<ref>「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」 [[デアゴスティーニ・ジャパン]]、2007年10月16日、p635</ref>。
 
 
;石野真子
 
[[石野真子]]については、[[阿久悠]]が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した<ref>歌謡曲の時代 歌もよう人もよう、[[阿久悠]]、2004年9月、[[新潮社]]、p207</ref>。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった<ref name=idol>アイドルという人生、石川順恵、1998年1月、[[メディアワークス]]/[[主婦の友社]]、p41</ref>。「[[狼なんか怖くない (石野真子の曲)|狼なんか怖くない]]」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった{{Sfn|吉田拓郎|1994|p=121}}<ref>「[[心に残るニッポンの歌]]」、[[テレビ朝日]]系、2009年1月1日<br />[https://web.archive.org/web/20101022155600/http://doraku.asahi.com/hito/interview/html/101015_02.html 石野真子さん(2/3) - インタビュー - ひと - どらく](archive)
 
<br />[http://www.nhk.or.jp/utacon-blog/030/62129.html 歌謡コンサートブログ:NHKブログ | スタッフだより | 『時代の歌]</ref>。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している<ref>[[日刊スポーツ]]、2008年3月26日、p17<br />アサヒ芸能、2009年7月23日号、p189</ref>。拓郎の曲は難しいと[[キャンディーズ]]も話していた。
 
 
吉田は石野真子に対して、デビューシングル「[[狼なんか怖くない (石野真子の曲)|狼なんか怖くない]]」「ひとり娘」、2作目「[[わたしの首領]]」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。
 
 
;なかにし礼
 
1977年、[[なかにし礼]]にアルバム製作を依頼し、なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売された。このアルバム中の「[[時には娼婦のように]]」が翌年、シングル・カットされ、なかにし歌唱の盤と[[黒沢年男]]の盤との競作となり、いづれも大ヒットした<ref>「昭和歌謡黄金時代 作詞家 なかにし礼の世界」[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]]、2012年8月8日放送、[http://book.asahi.com/booknews/interview/2012111500007.html なかにし礼「時には娼婦のように」 世間の常識にノン]、[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/05/kiji/K20110525000882960.html 【1978年5月】時には娼婦のように/ヤバすぎてテレビで歌えない?黒沢年男 事故で予感] </ref><ref name="kotoba2013 ">「特集 昭和ですよ!」『kotoba』2013年冬季号、[[集英社]]、p43</ref>。歌詞が際どい内容で、黒沢も尻込みして嫌がる程であったが「賛同者は拓郎一人だけだった」となかにしは話している<ref name="kotoba2013 " />。本曲は、すべてのテレビで[[要注意歌謡曲指定制度|放送禁止]]扱いになるなど物議を醸した<ref>『[[放送禁止歌]]』[[森達也]]、[[光文社]]、2003年、p70-71</ref>。
 
 
== ラジオ・パーソナリティとして ==
 
;しゃべり(MC)の魅力
 
ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「[[YOUNG GUITAR|ヤング・ギター]]」初代編集長の山本隆士は「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている{{Sfn|シンコーミュージック|2007|p=57,71}}{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|p=78}}。[[田家秀樹]]は「それまではレコード会社専属の作詞家、作曲家、歌手が音楽を手掛けるのが主流だったが、ラジオ番組がフォークシンガーたちに曲を発表する場所を提供したことで、吉田拓郎らがラジオで一時代を築いた結果、話が面白くて、曲が魅力的であれば誰でも世の中で注目を集められるようになった」と論じている。[[竹内まりや]]は「拓郎の話が面白くてラジオをずっと聞いていた。それまでラジオで話が面白い人はいなかった。そこも[[扇情主義|センセーショナル]]だった」などと話している<ref name="GOLD2013624" />。拓郎は1970年のデビューシングル「イメージの詩/マークII」(両A面)から、ラジオの深夜放送では曲がよくかかっていた<ref name="昭和歌謡曲史" />。しかし当時のテレビの歌番組は、深夜ラジオ出のお里が知れない新鋭を敬遠するようなムードがあり、テレビサイドから出演依頼の声がかかることはなかった<ref name="昭和歌謡曲史" />。有名なテレビ出演の拒否は、2年後に「旅の宿」が大ヒットしたことで、それを無視できなくなったテレビサイドからの出演依頼に対する反撥であったため、それまでの拓郎は、コアなモノ好きの若者の支持を集める「深夜世界のカルト・スター」だったのである<ref name="昭和歌謡曲史" />。
 
 
拓郎のファンになった切っ掛けとして[[長渕剛]]のようにギターやハーモニカを掻き鳴らして唄う姿に痺れたという人や、ルックスに惚れた、とにかく曲がよかったという人など色々だが、その他、コンサートでの"シャベリ"、"しゃべり"今でいう"[[MC]]"の面白さや歌唱時の声とは違う、喋るの時の低音でよく響く声の魅力を挙げる人も多い<!---<ref name=" Music70'なぎら4" />---><ref>[http://www.1101.com/saeki/2007-02-27.html 総武線猿紀行 総武線猿紀行第282回]、[https://archive.is/20130501150039/http://musicshelf.jp/blog/coverboy/-page2.html SISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第四回 Page.2 - プレイリスト]、[[en-taxi]] 第21号、2008年、[[扶桑社]]、p94</ref><ref name="historybook89">吉田拓郎'70-'90ヒストリーブック、p89</ref>。
 
[[ホリプロ]]で井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話している<ref>[http://www.thebeatlemania.com/brutus.html Et Tu BRUTE?]</ref>。
 
 
初期の拓郎の"しゃべり([[MC]])"は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあった<ref>ヒットの種、2008年、[[サエキけんぞう]]、[[東京ニュース通信社]]、p125<br />日本崖っぷち大賞、1998年、[[みうらじゅん]]、[[泉麻人]]、[[山田五郎]]、[[安斎肇]]、[[毎日新聞社]]、p180</ref>。
 
 
こうした拓郎の"しゃべり"を当時のアマチュアもよく真似た。この頃のフォークシンガーは自分の思ったこと、「バカ野郎、テメエ、この野郎」「テメエ、ブッ殺してやる」とか、あっさり平気で言っていた<ref>[[ミュージック・マガジン|ニュー・ミュージックマガジン]]1972年11月号、[[ミュージック・マガジン]]、p94</ref>。上京直後は、酒気を帯びてステージに上がることがあり、ステージマナーが悪いと叩かれた<ref>guts、表現技術出版、1970年8月、p12</ref>。
 
 
拓郎は1972年5月の「guts」のインタビューで「日本のフォークの連中はレコードは最高だけどステージがおもしろくない」と話しており<ref name="guts19725" />、後年始めたコンサートツアーと共にこうしたコンサート/ライブでの演出スタイル、ステージングに於いても草分けであった<ref name="柳井康弘" />{{Sfn|シンコーミュージック|2007|p=197}}<ref>[[別冊宝島]]1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、[[宝島社]]、2009年、p123<br />アサヒ芸能、2009年7月16日号、p190<br />[http://musicshelf.jp/blog/coverboy/-page2.html SISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第四回 <nowiki>[Page.2]</nowiki> - プレイリスト]
 
<br />近年のコンサート/ライブでは、こうしたMCも重要な構成要素とされるが、小室等は1980年に出した著書の中で、歌と直接関係を持たない、お客さん用のおしゃべりのような、くだらないことを拓郎にやらせた、覚えさせたのはファンに半分責任があると、MCに対する問題提起をしている(出会いは旅のなかで、小室等著、[[晶文社]]、1980年2月、p146)<br />ほぼ同じ内容の記述(新譜ジャーナル ベストセレクション'70s、2003年、[[自由国民社]]、p66)</ref>。これは後、多くのレギュラーを持った[[ラジオ]]の[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]でさらに活かされることになる。
 
 
;ミュージシャン・パーソナリティ
 
1971年10月に[[パックインミュージック]]の[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]に就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立した{{Sfn|シンコーミュージック|2013|p=6}}<ref>[http://www.1242.com/week/200802/?24 オールナイトニッポンドリームウィーク]</ref><ref>[http://books.google.co.jp/books?id=AoFgIowII48C&printsec=frontcover&source=gbs_v2_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p29]</ref><ref>別冊カドカワ 井上陽水、p205</ref>。深夜放送のDJを"パーソナリティと"いう呼び方に変え始めたこの頃から、各局はこぞってフォークシンガーを起用<ref>60年代フォークの時代 - 日本のフォーク&ロック・ヒストリー1』、p116<br />NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p19<br />フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p77<br />ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p120<br />セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、p22-29、56-58<br />[http://journal.ocn.ne.jp/people/vol27/people01.html 嘉門達夫 | OGな人びとVol.27 - OCN TODAY]</ref>。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎を始めとするフォークシンガー達が、[[ステータス]]を維持するための利害関係が一致した結果であった<ref name="FRhistory2-25">日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、p25-27</ref>{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|p=85}}<ref>別冊カドカワ 井上陽水、p205</ref>。それは商業的にも大きな可能性を秘めた市場の開拓であった<ref name="FRhistory2-25" /><ref>タイアップの歌謡史、2007年、速水健朗著、[[洋泉社]]、p83</ref>。[[亀渕昭信]]は「[[深夜放送]]ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、[[南こうせつ]]さん、[[さだまさし]]さん、[[松山千春]]さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている<ref>言葉の達人たち、[[阿久悠]]、[[扶桑社]]、1993年、p174、[http://journal.ocn.ne.jp/people/vol27/people01.html 嘉門達夫 | OGな人びとVol.27 - OCN TODAY]</ref>。また、「中島みゆきさんにしろ、吉田拓郎さんにしろ、自分の内面や生き方を、ちゃんと番組の中で晒していたから、パーソナリティーとリスナーの距離が近くて濃密な関係を築けた。生き方を晒していたことが、曲づくりにもつながって、ファンもそれを支持していた。キャラクターが強く、人間性が出ていたから、長い間アーティストとしての影響力を保てた」などと述べている<ref>[http://momm.jp/interview/radio01/radio03.html#interview_read - MOMM | Music Scene 亀渕昭信03]</ref>。
 
 
;楽曲のプロモーション
 
ラジオでレギュラー番組を持ち、ヒットを出すやり方は、その後のニューミュージック系歌手の常套手段となった<ref name="日本ロック大系194">日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、[[白夜書房]]、1990年8月、〈上巻〉p194</ref>。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。先に挙げたようにボブ・ディランを広く紹介したという功績は大きいし、[[ガロ (フォークグループ)|ガロ]]の「[[学生街の喫茶店]]」や[[ダウン・タウン・ブギウギ・バンド]]の「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だった<ref name="日本ロック大系194" /><ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.6、p83、87<br />関西フォーク70'sあたり、2003年、中村よお、幻堂出版、p76、78<br />アサヒ芸能、2009年1月29日号、p70、71、アサヒ芸能、2010年11月11日号、p71<br />[http://nakoto.syncl.jp/?keyword=作っ&p=diarylist&x... 大野真澄 連載 - なこと一覧]</ref>。
 
 
== ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍 ==
 
'''{{Main|吉田拓郎の作品一覧}}'''
 
 
== 出演 ==
 
=== 現在の出演 ===
 
==== テレビ ====
 
*「吉田拓郎の千夜一夜」→「吉田拓郎 YOKOSO」([[NHK BSプレミアム]]、[[2013年]] - )
 
 
==== ラジオ ====
 
* [[吉田拓郎 ラジオでナイト]](ニッポン放送、2017年4月2日 - )
 
 
=== 過去の出演 ===
 
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 -->
 
==== テレビ ====
 
; 音楽番組
 
* [[愉快にオンステージ]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、1989年10月23日・1990年1月29日)[[ホスト]]として出演。
 
* [[LOVE LOVE あいしてる]](フジテレビ、1996年 - 2001年3月31日)[[KinKi Kids]]と共に司会を担当。
 
* [[24時間まるごとライブ LOVE LOVE2000|ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること]](フジテレビ、1999年12月31日 - 2000年1月1日)KinKi Kids、[[篠原ともえ]]と共にメインパーソナリティを担当。
 
* 吉田拓郎〜これからも元気です(TBS、2001年2月10日)
 
* 吉田拓郎デラックス([[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK-BShi]]、2002年12月9日)
 
* [[拓郎マチャミのみんな歌えるスーパーヒット]](フジテレビ、2003年10月12日)
 
* 吉田拓郎&かぐや姫 in つま恋2006・総集編([[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]]、2006年10月29日)
 
* 大いなる明日へ 〜復活!吉田拓郎〜(NHK-BS2、2009年3月22日)
 
 
; テレビドラマ
 
* [[おはよう (テレビドラマ)|おはよう]](TBS、1972年7月5日 - 1972年10月25日) - マリの兄・吉野役
 
* [[あこがれ共同隊]](TBS、1975年) - ゲスト出演
 
* [[なつかしき海の歌]](TBS、1975年9月21日) - テレビ局AD・下沢役
 
* [[男なら!]](TBS、1979年9月4日) - 本人役で第22話にゲスト出演。
 
* [[しあわせ戦争]](TBS、1980年10月8日) - ミュージシャン・岸本衆役として第6話にゲスト出演
 
* [[幕末青春グラフィティ 坂本竜馬]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1982年11月16日) - [[高杉晋作]]役
 
* [[マッハブイロク|マッハブイロク・Big大作戦]](フジテレビ、2000年6月29日) - 本人役
 
 
; バラエティ
 
* [[地球ZIG ZAG]](TBS、1993年4月 - 1994年3月)隊長(司会)を担当。
 
* 吉田拓郎のお喋り道楽(TBS、1997年4月4日 - 9月26日)
 
* T×2 SHOW(テレビ朝日、2000年10月 - 2002年9月)[[高見沢俊彦]]と共に司会を担当。
 
 
; 旅番組
 
* 吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日) - [[牧瀬里穂]]・[[ラサール石井]]と共演。
 
* 吉田拓郎&中村雅俊・よみがえれ青春!シッチャカメッチャカ!広島の旅(TBS、1999年7月25日) - [[中村雅俊]]と共演。
 
* 吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅(テレビ朝日、2003年9月20日、2004年7月10日) - [[中村雅俊]]・[[眞鍋かをり]]らと共演。
 
 
; ドキュメンタリー番組
 
* 吉田拓郎TV特番『吉田拓郎 〜これからも元気です〜』(TBS、2001年2月10日)
 
* [[スーパーテレビ情報最前線]]『吉田拓郎 「復活」への軌跡』(日本テレビ、2003年10月27日)
 
* [[プレミアム10]]『今日までそして明日から〜吉田拓郎・35000人の同窓会〜』(NHK総合、2006年10月23日)
 
 
==== ラジオ ====
 
* [[パックインミュージック]]([[TBSラジオ]]、1972年4月 - 9月)
 
* たくろうの気ままな世界(TBSラジオ、1972年10月 - 1973年5月)
 
* バイタリス・フォークビレッジ([[ニッポン放送]]、1972年)
 
* [[吉田拓郎のオールナイトニッポン]](ニッポン放送、1974年4月 - 1975年12月、1980年10月 - 1982年3月)
 
* [[セイ!ヤング]]([[文化放送]]、1978年4月 - 1980年3月)
 
* [[ヤングタウンTOKYO]]・サタデーナイトカーニバル(TBSラジオ、1980年4月 - 1981年10月)
 
* フォーエバー・ヤング([[エフエム東京|TOKYO FM]]、1985年1月 - 1988年2月)
 
* 吉田拓郎 CLUB25→吉田拓郎 CLUB26→吉田拓郎 CLUB26プラスワン(TOKYO FM、1995年1月 - 1996年12月)
 
* [[オールナイトニッポンDX|吉田拓郎のオールナイトニッポンDX]](ニッポン放送、1997年10月 - 1998年3月)
 
* 吉田拓郎 それイケ!(ニッポン放送、1998年4月 - 1999年3月)
 
* [[Super Music Stadium|吉田拓郎のSuper Music Stadium]](ニッポン放送、2000年10月 - 2001年3月)
 
* 吉田拓郎とアスリートな彼女たち(ニッポン放送、2001年10月 - 2002年3月)
 
* [[セイ!ヤング21]](文化放送、2002年10月 - 2003年3月)
 
* [[吉田拓郎 わがままベスト10]](ニッポン放送、2003年10月 - 2004年3月)
 
* [[俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル]](ニッポン放送、2008年2月24日)
 
* 吉田拓郎 残暑お見舞い申し上げます(ニッポン放送、2008年8月)
 
* [[坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD]](ニッポン放送、2009年12月 - 2013年9月)
 
* 元気です!吉田拓郎(ニッポン放送、2010年10月 - 2012年3月)
 
 
==== 映画 ====
 
* 女子学園ヤバイ卒業(1970年) - 本人役
 
* [[百万人の大合唱]](1972年) - 本人役
 
* [[刑事物語#刑事物語 くろしおの詩|刑事物語 くろしおの詩]](1985年) - 屋台のラーメン屋の客役
 
* [[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]](1986年) - [[高杉晋作]]役
 
* [[微熱少年]](1987年) - カメラマン役
 
 
==== CM ====
 
* [[サッポロビール]]「サッポロ☆ドライ」(1988年) [[広岡達朗]]と共演
 
* [[宝ホールディングス|TaKaRa]]「純」レジェンド(1994年)
 
* [[サンヨー食品]]「[[カップスター]]」(1999年)
 
* [[ユニクロ]](2001年)
 
* [[黄桜]]おやじ倶楽部「辛口一献」(2007年)
 
 
==== NHK紅白歌合戦出場歴 ====
 
[[NHK紅白歌合戦]]には[[1994年]]に初出場。バックバンドは[[宮川泰]](キーボード)、[[日野皓正]](トランペット)、[[日野元彦]](ドラム)、[[大西順子 (ミュージシャン)|大西順子]](ピアノ)、[[石川鷹彦]](アコースティックギター)、[[渡辺香津美]](エレキギター)、金沢英明(ウッドベース)、[[吉田建]](ベース)、さらにバックコーラスとして[[五木ひろし]]、[[森進一]]、[[前川清]]という豪華の顔ぶれのステージとなった。
 
<table border="1" cellpadding="2" cellspacing="0">
 
<caption></caption>
 
<tr><th style="background:#ffeeeee;">年度/放送回<th style="background:#ffb5;">回<th style="background:#fbbbb;">曲目<th style="background:#ffgggggg;">出演順<th style="background:#fffffff;">対戦相手
 
<tr><td>[[1994年]](平成6年)/[[第45回NHK紅白歌合戦|第45回]]<td>初<td>外は白い雪の夜<td>11/25<td>[[松田聖子]](10)
 
</table>
 
 
== 関連人物 ==
 
=== 主な共演者・サポートミュージシャン(レコーディングを含む) ===
 
{|
 
|- style="vertical-align:top;"
 
|
 
'''あ行'''
 
*青山徹
 
*[[浅川マキ]]
 
*朝倉真司
 
*新井英治
 
*[[荒井由実]]
 
*石井宏太郎
 
*[[石川鷹彦]]
 
*[[石川鉄男]]
 
*石山恵三
 
*伊藤明夫
 
*[[稲葉政裕]]
 
*[[井上慎二郎]]
 
*井口喜典
 
*[[今井マサキ]]
 
*今泉正義
 
*[[岩崎元是]]
 
*内山修
 
*エルトン永田
 
*[[遠藤賢司]]
 
*大嶋吾郎
 
*[[大滝裕子]]
 
*[[大西順子 (ミュージシャン)|大西順子]]
 
*[[大村雅朗]]
 
*岡沢章
 
*奥野恵
 
*[[小倉博和]]
 
*[[小田原豊]]
 
*[[小原礼]]
 
|
 
'''か行'''
 
*[[加藤和彦]]
 
*金沢英明
 
*鎌田清
 
*鎌田裕美子
 
*[[かまやつひろし]]
 
*神本宗幸
 
*川上恭生(KYON)
 
*菊谷淳子
 
*岸義和
 
*[[木田高介]]
 
*[[木戸やすひろ]]
 
*国吉良一
 
*栗林稔
 
*小出道也
 
*[[後藤次利]]
 
*[[駒沢裕城]]
 
*[[小室等]]
 
|
 
'''さ行'''
 
*[[斎藤ノヴ]]
 
*坂井リエコ
 
*[[坂崎幸之助]]
 
*[[佐藤竹善]]
 
*[[佐藤準]]
 
*[[澤田駿吾]]
 
*重田真人
 
*[[島村英二]]
 
*[[清水信之]]
 
*[[清水仁]]
 
*[[陣内大蔵]]
 
*陣山俊一
 
*[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]
 
*砂原俊三
 
* 隅山時一
 
*[[瀬尾一三]]
 
|
 
'''た行'''
 
*[[高中正義]]
 
*[[高橋研]]
 
*[[高見沢俊彦]]
 
*[[田口清]]
 
*[[武部聡志]]
 
*武部秀明
 
*田代耕一郎
 
*館野江里子
 
*田中章弘
 
*[[田中清司]]
 
*田辺和博
 
*[[チト河内]]
 
*[[常富喜雄]]
 
*[[坪倉唯子]]
 
*[[トータス松本]]
 
*徳武弘文
 
*富倉安生
 
*[[富田京子]]
 
*[[鳥山雄司]]
 
|
 
'''な行'''
 
*中川雅也
 
*[[中沢厚子]]
 
*[[中島みゆき]]
 
*[[中西康晴]]
 
*[[中村哲 (作曲家)|中村哲]]
 
*成沢彰三
 
*[[西川進]]
 
*納見義徳
 
*[[野村義男]]
 
|}
 
{|
 
|- style="vertical-align:top;"
 
|
 
'''は行'''
 
*[[浜口茂外也]]
 
*[[林立夫]]
 
*土方隆行
 
*[[日野皓正]]
 
*[[日野元彦]]
 
*平野融
 
*[[Bro.TOM]]
 
*古川望
 
*[[古川昌義]]
 
|
 
'''ま行'''
 
*[[松尾一彦]]
 
*[[松田弘]]
 
*[[松任谷正隆]]
 
*[[松原正樹]]
 
*[[美久月千晴]]
 
*[[南こうせつ]]
 
*[[宮川泰]]
 
*[[宮田繁男]]
 
*宮下文一
 
*[[村石雅行]]
 
*[[村上秀一]]
 
*[[森高千里]]
 
|
 
'''や・ら・わ行'''
 
*矢島健
 
*[[柳田ヒロ]]
 
*山川恵子
 
*山田秀俊
 
*山中雅文
 
*[[山本拓夫]]
 
*[[湯川トーベン]]
 
*[[よしだけいこ]]
 
*[[吉田建]]
 
*[[吉田美奈子]]
 
*[[米倉利紀]]
 
*[[若子内悦郎]]
 
*渡嘉敷祐一
 
*[[渡辺格 (ミュージシャン)|渡辺格]]
 
*[[渡辺香津美]]
 
|
 
'''グループ'''
 
*[[愛奴]]
 
*[[THE ALFEE]]
 
*[[オフコース]]
 
*[[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]
 
*トマト ストリングス
 
*[[トランザム (バンド)|トランザム]]
 
*[[猫 (フォークグループ)|猫]]
 
*[[ハイ・ファイ・セット]]
 
*[[バズ (バンド)|バズ]]
 
*[[ピピ&コット]]
 
*マックス
 
*[[六文銭 (音楽ユニット)|六文銭]]
 
|
 
'''外国人'''
 
*エリック・ワイズバーグ
 
*[[ガース・ハドソン]]
 
*[[ジェイク・コンセプション]]
 
*[[デヴィッド・リンドレー]]
 
*[[ブッカー・T・ジョーンズ]]
 
*マーク・ゴールデンバーグ
 
*ラス・カンケル
 
*[[リーランド・スカラー]]
 
|}
 
 
=== 3度の結婚 ===
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
; '''[[四角佳子]]'''
 
* 最初の四角佳子との結婚は、拓郎が路上で4人を相手にケンカしてメチャクチャにぶちのめされたのを四角が介抱したのがきっかけ<ref name="guts19725" />。
 
* 二人の結婚式は1972年6月、[[軽井沢]]の教会で行われたが、婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。
 
* スターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。
 
* 拓郎の酒癖の悪さは有名で、上京当時は酔って週に1度はケンカをやったという<ref name="guts19725" />。
 
* 四角との間には三度の結婚歴で唯一の子供(娘・一般人)がいる<ref>「[[たくろうLIVE'73]]」ライナーノーツより</ref>。
 
 
; '''[[浅田美代子]]'''
 
* 二人目の妻となった浅田美代子は拓郎自身もファンで、当時21歳で人気絶頂期だった浅田を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した。
 
* 後に浅田が芸能界に復帰し「[[オシャレ30・30]]」等の[[トーク番組]]でその時のことを詳しく話し、当時の拓郎の行状が明らかになった。ゲスト出演して電話番号を交換すると後日(浅田の誕生日の前夜に)拓郎から電話がかかってきて「今、[[小室等]]さんと飲んでるんだけど、誕生祝いしてあげるから0時過ぎたら来なよ」と誘われた。マネージャーからは会ってはいけない、と釘をさされていたが、言われた酒場に行くと拓郎一人しかいない。「小室さんは?」と聞くと「ああ今帰ったよ」と言った。
 
* 一説には男子トイレの前で拓郎が通せんぼをして「俺と結婚しろ!」と浅田に迫ったところ、浅田は恐怖と照れと喜びが混ざって頭の中が真っ白になり、思わず「ハイ」と承諾してしまった、とも言われている。
 
* なお拓郎からプロポーズを受けた浅田美代子の返事は 「……ハゲない?」だった<ref>この話は少し前があって、二人が付き合っている頃、拓郎の実家に行ったら、拓郎の祖父ら先祖の写真が飾られてあって、その人たちがみなハゲていたため、こういう返事になったとのことである(トーク番組での浅田の発言)</ref>。
 
* 最初にこの二人の交際報道が出た時は、まだ四角との離婚は成立しておらず、この結婚には[[内田裕也]]・[[樹木希林]]夫妻の奔走があったという<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/05/kiji/K20110515000817750.html 【1973年5月】赤い風船/浅田美代子 危なっかしが“いい宣伝”に ...]</ref>。
 
* 以上、2度の[[結婚披露宴|結婚式の披露宴]]の司会は、いずれも[[山本コウタロー]]と[[南こうせつ]]のコンビが務めた<ref>「[[吉田拓郎の公演#吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島|1979年篠島ライブ]]」での山本のMC</ref>。
 
 
; '''[[森下愛子]]'''
 
* その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の[[竹田かほり]](現・[[甲斐よしひろ]]夫人)と一緒にやって来た。森下は当時、[[根岸吉太郎]]との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚した{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|p=34}}。
 
* 「吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅」<ref>テレビ朝日、2003年9月20日、2004年7月10日放送</ref>や『[[坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD]]』<ref>2013年4月15日放送</ref>での、拓郎と[[中村雅俊]]の話では、拓郎と森下をくっつけたのは中村。中村から拓郎に夜に電話があり「いま、森下さんと飲んでるんだけど来ませんか」と誘われ、朝8時まで3人で飲んだ。中村はTBSのドラマの撮影が朝8時から[[松竹大船撮影所|大船]]であったので、「拓郎さん、[[ホテル]]に行っちゃいなさい」とアドバイスしてその場を去り、2時間半遅れで大船に到着した。拓郎と森下はその後ホテルに行ったと話している。
 
* 「[[オシャレ30・30]]」に出演(1988年5月15日)した森下自身の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]みたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けという<ref>OSHARE 30・30 VOL2、日本テレビ放送網、1989年6月、p186-187</ref>。
 
* 他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。これらもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けであった<ref name="asahi
 
1982212">[[週刊朝日]]、1982年2月12日号、p136</ref><ref>歌謡曲という快楽 <small>雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代</small>、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、[[彩流社]]、p172</ref>。
 
* ただ、「(ドラマ『純と愛』の)主人公のような夫がほしいなぁ」とも吐露。拓郎さんは違うのか?と問われ「まだまだ調教が必要。」と答えている<ref>2013年3月1日NHK総合『あさイチ』内のインタビュー映像にて。</ref>。
 
 
; '''その他'''
 
: 自分の持ち番組に、自身がファンのアイドル・女優をゲストで呼び、その後結婚というパターンを[[長渕剛]]が[[石野真子]]との結婚の時にした<ref name="sixyouwakayou" />{{Sfn|吉田拓郎|1980|pp=112-123}}<ref>俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、p214-215<br />よい子の歌謡曲、1983年、よい子の歌謡曲編集部編、冬樹社、p120-121<br />歌謡曲という快楽 <small>雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代</small>、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p19</ref>。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの[[構成作家]]をしていた[[秋元康]]<ref name=idol/>。ハワイの教会で行われた長渕と石野の結婚式の[[仲人]]を務めたのは拓郎と浅田夫妻(当時)であった<ref name=idol/><ref name="asahi
 
1982212"/>。
 
 
=== 交友関係 ===
 
==== ミュージシャン ====
 
; '''[[浅川マキ]]'''
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 浅川マキのファンだった拓郎は、アマチュア時代に広島から上京し、[[渋谷ジァン・ジァン]]で唄う浅川を見に来ていたという<ref name="幻の男たち">[[浅川マキ]]、幻の男たち、講談社、1985年、p151-158</ref>。拓郎のブレイク直前には二人でジョイントコンサートも行っている<ref>[http://www.meehee55.com/takuro/watashmo/watashimo11/lavende/asakawa%20 吉田拓郎と浅川マキ・ジョイントコンサート1972年]</ref><ref>[http://www.officej1.com/70avna_gard/folk4.htm 吉田拓郎、かぐや姫、井上陽水、山崎ハコ、ガロ、ケメ、イルカ、リリー]</ref>。
 
* 写真家・TAMJIN(田村仁)が拓郎の写真を長く撮り続ける切っ掛けとなったのは、田村が撮った浅川マキのファーストアルバム『浅川マキの世界』の写真を拓郎が気に入り撮影の依頼をしたのが始まりで、[[中島みゆき]]も同じ理由<ref>TAKURO YOSHIDA ARTIST GALLERY. TAKURONICLE 1970-Just nowパンフレット、p14、15</ref>。
 
* 浅川マキは著書『幻の男たち』の中で拓郎とのエピソードを書いている。1980年代半ばに雑誌で拓郎の「女ともだち」を拓郎自身が写真で撮るという企画があって、拓郎は田村と共に浅川の部屋を訪れ浅川を撮った。撮影後、拓郎が「前にこの部屋に来た、新宿で一緒に飲んだ帰りだった」といった。しかしこれは拓郎の記憶違いで、拓郎が来たのは拓郎の深夜放送にゲストで呼ばれた日の後、と書いている<ref name="幻の男たち" />。
 
 
; '''[[THE ALFEE]]'''
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* [[1981年]]、オールナイトニッポンの番組企画で、拓郎のメドレー曲の製作を依頼された"[[東京都立墨田川高等学校|墨田川高校]]の拓郎"こと[[坂崎幸之助]](覆面バンド・[[THE ALFEE#BE∀T BOYS|BE∀T BOYS]])は「待ってました」「俺しかできないだろ」と、遊びで製作に励み、歌も生ギターの弾き方も[[MC]]もコピーする徹底ぶり見せた。高校時代の青春・拓郎と仲良くなれた坂崎は、「僕のフォーク人生はこれで終わってもいい」と思ったという。この完成度から、1988年に形を変えて復活した際は大人気となり、レコード発売や全国ツアーを行った<ref>音楽的日乗 スローハンドVol.2、p17<br />地球音楽ライブラリー アルフィー、2004年、TOKYO FM出版、p336-339<br />別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、p34</ref>{{Sfn|坂崎幸之助|2003|pp=60-74}}。
 
* [[高見沢俊彦]]が、現在のようにピンでテレビやラジオに出演するのは『T×2 Show』([[テレビ朝日]]系、2000年10月 - 2002年9月)の司会を拓郎と担当してから。それまでは積極的にテレビには出ず、出演依頼も断り、場を仕切るなど考えもしなかったが、高見沢の面白さに目を付けた拓郎から「お前はテレビが性に合う」「将来必ず財産になるから」「俺の横にいるだけでいい」などと説得されやむなく出演した。ところが進行役は全てやらされたという。しかし、今では心の底から拓郎さんには感謝している、と述べている。また高見沢の“[[王子]]”キャラは拓郎がそう呼んだのがきっかけで始めたもの<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110109/ent11010912340105-n2.htm 【ビジョン】THE ALFEE、高見沢俊彦の本音「今さら路線変更できない」]<br />[http://www.yomiuri.co.jp/otona/people/takamizawa/090122.htm 実は「王子」に抵抗があった : タカミー王子の秘密 : 生き方!]<br />[http://news.livedoor.com/article/detail/5005026/ 【エンタがビタミン♪】「ロックには見た目も大事」。高見沢俊彦、堂々宣言。還暦になっても王子を貫く!]<br />[http://r25.yahoo.co.jp/interview/detail/?id=20070719-90004833-r25&page=1&order=104 高見沢俊彦 | ロングインタビュー | R25.jp]</ref>。高見沢は“王子”キャラの元祖である<ref>[[別冊カドカワ]] <small>総力特集 高見沢俊彦</small>、2007年、[[角川ザテレビジョン]]、p12、13、31<br />あきらめない夢は終わらない、2004年、[[高見沢俊彦]]、[[幻冬舎]]、p181-183、201-203</ref>。[[THE ALFEE|アルフィー]]にとっても拓郎は[[キーパーソン]]となる<ref>別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、p18、34</ref>。
 
 
; [[飯田久彦]]
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 拓郎と同じく歌手出身のレコード会社社長経験者という共通点もあり、懇意にしている。
 
* 拓郎が[[フォーライフ・レコード]]から[[インペリアルレコード (日本)|インペリアルレコード]]に移籍したのは、飯田が[[テイチクエンタテインメント]]代表取締役社長に就任したからである。また、飯田がエイベックスの取締役に就任した後、拓郎も飯田を慕いエイベックスに移籍した<ref>[[坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD]]内の発言より</ref>。
 
 
; '''[[泉谷しげる]]'''
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 泉谷は、[[エレックレコード]]の後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めた<ref>わが奔走―IT'S MY LIFE、1988年、泉谷しげる、[[ロッキング・オン]]、p59-60、90-96<br />泉谷しげるの治外法権、1994年、泉谷しげる著、徳間書店、p61-63<br />坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p27</ref>。
 
* 1999年の[[かまやつひろし]]の[[還暦]]を祝うパーティーで、その泉谷や[[松任谷由実|ユーミン]]、[[井上陽水]]、[[堺正章]]、[[桃井かおり]]、[[THE ALFEE|アルフィー]]、[[今井美樹]]、[[石井竜也]]、[[NOKKO]]らが集まって<ref>ま、いいか、1999年、[[森山良子]]、[[毎日新聞社]]、p234、235</ref>東京飯倉の[[キャンティ (イタリア料理店)|キャンティ]]で会食したおり、拓郎が酔って「お前らみんな音楽を愛していない」などと延々とまわりに絡むので、泉谷が「しつこいぞ」とブチ切れ、フォークを持ってテーブルを乗り越え拓郎に掴みかかり大乱闘となった<ref name="サンデーハッピーパラダイス">ニッポン放送「[[三宅裕司のサンデーハッピーパラダイス]]」2008年8月31日放送</ref>。まわりの男は、堺正章や、かまやつひろしのような[[小僧]]ばかりで(拓郎談)誰も止められず、ユーミンからは「やれ!やれ!」とケンカをけしかけられるわで引くに引けず(泉谷談)、ようやく[[森山良子]]が「外でおやんなさいよ」と一喝、ケンカをやめさせた<ref>[http://realsound.jp/2014/03/kenkenartist.html 泉谷しげると吉田拓郎の喧嘩にも遭遇…ムッシュかまやつ『ARTiST』で秘話明かす]<!-- ニッポン放送「[[坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD]]」2011年7月11日放送 --></ref><ref name="shigeru-izumiya20110712">[http://ameblo.jp/shigeru-izumiya/day-20110712.html 兎猫豚(うびょうとん)のみらい日記 2011年07月12日 スーパーバンド!]</ref><ref>[http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/89689/full/ 吉田拓郎と泉谷しげるが12年ぶりに和解 ラジオで大げんか懐かしむ ORICON STYLE]
 
[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/topics/entertainments-14831-t1.htm 犬猿の2人ついに…泉谷しげると吉田拓郎が12年ぶり和解]<!--<br />アサヒ芸能、2009年8月6日号、p96 --></ref>。
 
 
* この、かまやつひろしの誕生日パーティーで、拓郎が酔ってネチネチカラんで泉谷とケンカ→森山良子が一喝、という流れはフォーライフから泉谷が抜けた1970年代後半頃にもあり、最後のケンカ1999年以来、泉谷と拓郎は断絶状態になっていたが2011年7月、12年ぶりにラジオで再会し和解した<ref name="shigeru-izumiya20110712" />。
 
 
; '''[[忌野清志郎]]'''
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 拓郎は、1971年7月から[[ライブハウス]]・[[渋谷ジァン・ジァン]]で定期コンサートを始めたが、当時拓郎の[[前座]]をよく務めていたのが「僕の好きな先生」や「2時間35分」などを[[アコースティック]]でやっていた[[RCサクセション]]だった。[[忌野清志郎]]は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという<ref>小室哲哉音楽対論 Vol.2、p313-314<[http://www.fujitv.co.jp/TKMC/BACK/TALK/kiyoshiro.html TKMC ARCHIVES NON EDIT TALK]></ref>。とは言っても、特に確執があったわけではない。拓郎はこの頃の事を振り返り「RCとはあの頃よく同じステージに立ってたよ。弾き語りで歌も暗いイメージのフォークソングが多い中で、アコースティックでもポップでR&B的な存在は見ていて楽しかった」と語っている<ref>オールナイトニッポンGOLD 2012年10月8日放送分</ref>。
 
* 逆に、拓郎は清志郎が好きだったようで、[[NHKラジオ第1放送|NHK-AM]]『若いこだま』 の[[DJ]]等を務め、1970年代のニューミュージック系ミュージシャンの売り出しに功績のあった[[吉見佑子]]が1970年代の後半、[[RCサクセション#『シングルマン』 〜 「わかってもらえるさ」(暗黒期)|まったく売れていなかったRCサクセション]]の廃盤になっていたアルバム『[[シングル・マン (RCサクセションのアルバム)|シングル・マン]]』の[[RCサクセション#「ステップ!」 〜 『BLUE』(復活・ブレイク期)|再発に業界を奔走した時]]も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身の番組「[[セイ!ヤング]]」でRCの曲をプッシュした<ref>芸能界でコーヒー・ブレイク、[[吉見佑子]]、八曜社、1980年、p98-105</ref>。
 
* 清志郎は『LOVE LOVEあいしてる』にもゲスト出演(1998年12月5日)しており、アルバム『[[Hawaiian Rhapsody]]』で拓郎に「こころのボーナス」を提供した<ref>[http://www.musicman-net.com/relay/67/a_5.html きくち伸インタビュー]<br />[http://www.musicman-net.com/relay/68/a_1.html Musicman'sリレー 第68回 吉田建氏]<br />[http://www.jp-music.jp/cd2.htm JP MUSIC - CD詳細・試聴]</ref>。
 
* 清志郎がテレビで[[奥田民生]]と初共演した時には、「オマエ広島(出身)かぁ 何だ、それで吉田拓郎に顔が似てるのかぁ〜」とムチャ言ったこともあった。
 
 
; '''[[小田和正]]'''
 
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* 同期でもある小田は、拓郎を盟友と呼び認めている<ref name="YES-NO86">YES-NO 小田和正ヒストリー、小貫信昭、[[角川書店]]、2000年、p86-87</ref><ref>[http://www.sanspo.com/geino/news/110919/gnj1109190504011-n1.htm 吉田拓郎、小田和正と30年ぶりラジオ! - 芸能 - SANSPO.COM]</ref>。初めて会ったのは、コンサート会場の通路。ギターの弦が切れて予備がないため、面識のない拓郎に頼むと「あ、いいよ」と快く貰えたのがきっかけ<ref name="YES-NO86" />。小田が売れたのはずっと後だが、拓郎は既に大スターだった。初期の拓郎について小田は「[[ラジカル]]なイメージだけかと思えば、実はそうではなく、すごくロマンチックでナイーブな、でも強い言葉を持ってるシンガー」と評していた<ref name="YES-NO86" />。
 
* その後、拓郎のラジオ番組でゲストに呼んだ小田に初体験の話を聞き、小田ファンから大量の[[カミソリ]]を送りつけられる事件があり<ref>『ザ・ビッグヒットトゥモロー』[[エフエム東京]]、1984年10月13日放送</ref>、付き合いが少々濃くなったのは、前記の[[1982年]]に小田が"日本グラミー賞"を作ろうと奔走したときから。結局この構想はミュージシャン仲間の賛同が得られず頓挫したが、これは[[1985年]]、[[国際年|国際青年年]](IYY)記念イベント"[[国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW|ALL TOGETHER NOW]]"(6月15日、[[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立競技場]])の下敷きとなり、[[亀渕昭信]]の音頭取りもあって、これの運営に拓郎と小田は大きく関わった。コンサートのオープニングアクトでもあった拓郎のバックバンドは[[オフコース]]が務めた。
 
* この後、[[1994年]]の長崎・普賢岳噴火災害救済コンサート(3月13日、[[長崎市公会堂]])、「日本をすくえ'94」(8月16日、[[日本武道館]])、[[1996年]]の阪神・淡路大震災救済支援コンサート(9月14、15日、[[神戸ワールド記念ホール]])と、三度の[[チャリティ]]コンサートを拓郎と小田、[[泉谷しげる]]で企画運営<ref group="注釈">当初は泉谷が1人で募金ライブを敢行、これに拓郎が「スーパーバンド」という概念を加え、その後泉谷と拓郎、小田が軸となって「スーパーバンド」としてチャリティコンサートを行う(アサヒ芸能、2009年8月20日号、p97)。</ref>。復興支援を目的とした「スーパーバンド」の発案は拓郎という<ref name="shigeru-izumiya20110712" />。長崎・普賢岳噴火災害救済コンサートは、ギター・泉谷、ベース・拓郎、キーボード・小田、ツインドラム・[[浜田省吾]]、[[大友康平]]が基本メンバーのスーパー・バンドを結成し、[[井上陽水]]や[[忌野清志郎]]、[[さだまさし]]、[[南こうせつ]]などのゲストミュージシャンの曲を演奏するというものだったが、即席バンドで短期間の合宿ではなかなか上達せず、どんどん[[和音|コード]]が簡略化されて、さらに拓郎が「親しくない奴と2日以上いられない」とダダをこねたりでピンチを迎えた<ref>[http://www.echofield.net/?p=1008 Archive(アーカイブ)普賢岳チャリティライブ | Echofield]</ref>。しかし、なんでも弾ける[[坂崎幸之助]]がこのピンチを救い、無事開催できたという。
 
* 同じ1994年8月16日には、[[日本武道館]]で「スーパーバンド」による「日本をすくえ'94」チャリティコンサートが行われた。このコンサートの[[ドキュメンタリー]]番組「日本をすくえ'94」が、小田和正のナレーションで同年9月14日に[[テレビ朝日]]系『[[水曜特バン!]]』枠でテレビ放送された<ref>[http://www.union-music.com/artistfile.php?id=22 アーティスト ファイル UNION MUSIC OFFICE ユニオン音楽事務所]</ref>。この中で拓郎の傍若無人ぶりにオロオロする泉谷と小田がテレビに映し出された。長崎でやった「スーパーバンド」のメンバーが全員揃うということで拓郎は引き受けたのだが、うち数人が参加出来ないという話になって、さらに出演が確定していないミュージシャン、出演交渉もしていないミュージシャンの名前が[[スポーツ新聞]]に出てしまい、各所属事務所から苦情の電話が掛かり出演交渉が暗礁に乗り上げ拓郎が激怒、「まわりに迷惑をかけてまでやることはない」「コンサートは中止だ」などと泉谷と小田に迫った。泉谷は「オレと拓郎、小田、[[伊勢正三]]、大友康平の5人だけでもやりたい」と「何とか開催したい」という二人の意見を却下し続け、最後に小田が「流そう(中止しよう)」と言うと、それまで散々中止すると言っていたのに拓郎は「やる。俺が決めた」と言い出した。泉谷は「拓郎は、いざ練習が始まると、この曲はイヤだ、あれは歌わないって言い出す。あまりにわがままなんで、そこまで言うならオレと小田さんで会見やって武道館は中止と発表しようと。ところが、やめると言うとイヤだと言うんだよ。あれは振り回された小田さんもショックだったんじゃないか」と当時の思い出を話した。日本武道館時の「スーパーバンド」は、この後メンバーを加えたもの。こうして拓郎と小田は苦労を共にした間柄となって、打ち上げの席で酔った拓郎が小田の膝枕で寝るということもあったという{{Sfn|吉田拓郎|1984|p=62}}。それでも泉谷は拓郎を引っ張り出して、[[東日本大震災]]支援ライブのため「スーパーバンド」を蘇らせたいという。
 
* [[2000年]][[4月3日]]放映の「LOVE LOVE あいしてる」にゲスト出演した際、小田は拓郎を「コイツ、コイツ」と呼び「拓郎さんをコイツと呼べる人がいるなんて」と[[KinKi Kids]]を驚かせた。他に1994年の対談でも小田は「拓郎の曲っていうのが、近い将来、また"くる"と思う」と話していた{{Sfn|田家秀樹|1994|pp=140-151}}<ref>TIME CANT' WAIT、1990年、小田和正、朝日新聞社、p67-69<br />YES-NO 小田和正ヒストリー、2000年、小貫信昭、角川書店、p85-86、132、148-152、240、262<br />Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、TOKYO FM出版、p205<br />[http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/40.html LOVE LOVE あいしてる]<br />吉田拓郎・お喋り道楽、p90-91<br />風のようにうたが流れていた、小田和正、宝島社、p122-123、126、127<br />坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p74<br />シンプジャーナル ベストセレクション'80s、p160-163、166、167</ref>。
 
* [[2013年]][[12月25日]]放映された、小田がMCを務める『[[クリスマスの約束#2013年:クリスマスの約束2013|クリスマスの約束]]』([[TBSテレビ|TBS]])に拓郎が初出演し、小田は「1970年代、多くの若者が背伸びして何かを求めていたあの時代、歌には強いメッセージが求められていました。そこに、カリスマと呼ばれるシンガーがいました」と拓郎を紹介した<ref>[http://rankingbox.jp/article/40 【ライヴレポ】小田和正『クリスマスの約束』で、吉田拓郎と共演。ミスチル桜井とは新曲を共作し披露]</ref>。
 
 
; '''[[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]'''
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* [[山田パンダ]]は師と仰ぐ拓郎を年上と思っていたが、年下と分かり、デビュー時に自ら一歳さばを読み、拓郎と同学年としてきた。彼をずっと同い年だと思ってきた拓郎は会うたび「おい!馬鹿野郎!」と呼び続けてきた。パンダは、30年以上たった[[2005年]]に[[還暦]]を迎えた際、年齢詐称していたことを公表した。
 
* まだ3人が高円寺の風呂のない部屋に3人別々に住んでた時に、拓郎はすでにスターになっていて豪華マンションに住んでいた。3人は「[[神田川 (東京都)|神田川]]」みたいに拓郎のマンションの前を通って風呂屋に本当に行っていたが、ある日、拓郎がベランダで長い髪なびかせて、朝ブローをしてるのを目撃し、山田パンダは「あんなマンションに住んで、朝ブローして。あれが夢だ、こうせつ」と[[南こうせつ]]にプレッシャーをかけていた。
 
* かぐや姫の最初のアルバムに拓郎が参加したが、かぐや姫のアルバムなのに3人の写真より拓郎の写真のほうが大きく掲載されており、「吉田拓郎プロデュース」という字が大きく載っていた。
 
* [[2000年]]に、かぐや姫が22年ぶりに再結成したのは、[[1999年]]の「南こうせつ サマーピクニック」で、井上陽水とゲスト出演した拓郎が、南こうせつと[[伊勢正三]]を見て「陽水も俺もいる。何でかぐや姫がいないんだ?」と、山田パンダを無理やり東京から九州まで呼びつけたのがきっかけ<ref>坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p142-145、149</ref>。
 
 
; '''[[加藤和彦]]'''・'''[[安井かずみ]]'''
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 加藤はまだ売れていなかった頃の拓郎を認め、大切なギター(GIBSON J-45)を15万円で<ref>気ままな絵日記、p120-121</ref>譲った<ref>このギターから[[石川鷹彦]]の演奏で知られる「リンゴ」等、多くの楽曲が生み出された(アサヒ芸能、2009年7月2日号、p36-38、[http://store.ishibashi.co.jp/ec/sp/shtml/takuro/ マニア・プチ対談「吉田拓郎のギターを語る」])。</ref>。<!-- 加藤の追悼放送では師弟関係という訳ではないように思える この2人は師弟関係にあって仲がよかった<ref>日本ロック学入門、1986年、相倉久人、新潮社、p88</ref>。-->この2人は非常に仲がよかった<ref>日本ロック学入門、1986年、相倉久人、新潮社、p88</ref>。
 
 
* [[小田和正]]が、[[1982年]]に"日本グラミー賞"を作ろうと奔走し、[[六本木]]で拓郎や[[松任谷由実|ユーミン]]や[[矢沢永吉]]、[[さだまさし]]らを集めて飲み会をした時、加藤が「拓郎は生意気なのは許せるけど[[松山千春]]が生意気なのは許せない」と怒って帰ったというエピソードがある<ref>TIME CANT' WAIT、1990年、[[小田和正]]、[[朝日新聞社]]、p67-69<br />YES-NO 小田和正ヒストリー、2000年、小貫信昭、[[角川書店]]、p148-151</ref>{{Sfn|田家秀樹|1994|pp=141-142}}。
 
 
* 作詞家・[[安井かずみ]]の自宅は「川口アパート(プール付き)」([[川口松太郎]]が造った高級マンション)と呼ばれ[[加賀まりこ]]、[[野際陽子]]、[[コシノジュンコ]]や当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは[[大使館]]のような世界で、拓郎はカルチャー・ショックを受けた<ref>晴れときどき拓郎 Younger than yesterday、2003年7月、小学館、p280-282</ref>。誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いを更に強くした。
 
 
* 同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」と言われ大ゲンカとなり泣かれて、「拓郎にいじめられた」と言い触らされたこともあったという。
 
 
* 1994年に安井が亡くなり、拓郎は「安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある」と述べている<ref>吉田拓郎・お喋り道楽、1997年10月、[[徳間書店]]、p80-88<br />晴れときどき拓郎 Younger than yesterday、p292</ref>。
 
 
* [[2009年]]10月、加藤和彦が亡くなった後、拓郎は「[[坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD]]」で加藤を追悼し、加藤との思い出を話した。
 
** 出会いは1971年、拓郎がセルフプロデュースしたアルバム『人間なんて』のレコーディングに加藤が参加してから。これは[[木田高介]]の紹介だったと思うという。このレコーディングで加藤は、拓郎が知らなかった[[スライドギター|ボトルネック奏法]]や[[ジェームス・テイラー|ジェームス・テイラー奏法]]などを披露し拓郎を驚かせた。このアルバムの制作に先立ち、拓郎が[[フィンガー・ピッキング|スリーフィンガー]]で作った「[[結婚しようよ]]」を「[[パックインミュージック]]」で[[弾き語り]]で流したところ、大きな反響があり、シングル化の予定をしていた。ところが、この「結婚しようよ」の弾き語りバージョンは「[[今日までそして明日から]]」によく似ていて、「同じだとつまらない、何か他のアレンジはないか」と考えていたため、この「結婚しようよ」や「どうしてこんなに悲しいんだろう」「自殺の詩」などの[[編曲]](アレンジ)を加藤に頼むことにした。
 
** [[安井かずみ]]とは、加藤と知り合う以前から付き合いがあり、仕事を一緒にしたのは、1973年の[[猫 (フォークグループ)|猫]]の「戻ってきた恋人」の作詞を頼みに行ったのが最初<ref name="安井281299" />。拓郎は安井に気に入られ、[[柳田ヒロ]]、[[加賀まりこ]]を交えた4人で毎晩、[[六本木]]の[[ディスコ]]に行っていたという<ref>文藝別冊 追悼特集加藤和彦、河出書房新社、2010年、p196</ref>。
 
** 安井と加藤が結婚してからは家族ぐるみで付き合いがあり、1986年には、安井と加藤のプロデュースによりアルバム『[[サマルカンド・ブルー]]』を出した<ref name="安井281299" />。ただ、拓郎はこの二人の作品は自分のイメージと違うので、本当はやりたくなかったが、「[[ニューヨーク|NY]]でレコーディングするから」「(拓郎が好きな)[[ホイットニー・ヒューストン]]に会わせてあげるから」などと口説かれて仕方なくやったと話している。そのときは結局、[[シンディー・ローパー]]に会わされて終わった<ref name="安井281299" /><ref name="AllnightGOLD20091020">「[[坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD]]」2009年10月20日</ref>。
 
** 1994年に安井が亡くなり、1年後に加藤が[[中丸三千繪]]と再婚してからは、拓郎は加藤とは疎遠となり、以後は、まったく付き合いがなかった<ref name="安井281299" /><ref>文藝別冊 追悼特集加藤和彦、p177</ref>。これは加藤が中丸のために、安井に近かった人を意図的に遠ざけたためである。加藤と付き合いはなくなっても拓郎は、「若者たちが自分の手でつくる『日本の若者のポップシーン』の先駆けとなったのは、[[フォーク・クルセダーズ]]であり加藤和彦に間違いない」と、まわりに話し続けていたという<ref name="AllnightGOLD20091020" /><ref>地球音楽ライブラリー吉田拓郎、p24、25、66、67</ref>。
 
 
; '''[[かまやつひろし]]'''
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 拓郎は、「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。
 
* かまやつは、当時流行の最先端を行っていた業界人らと付き合い、拓郎を安井のマンション「川口アパート(プール付き)」等、そういう人達が集う場所に連れて行った<ref name="安井281299" />。
 
 
; [[KinKi Kids]]
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* KinKi Kidsとの出会いは音楽バラエティ「[[LOVE LOVE あいしてる]]」(1996年 - 2001年)での共演がきっかけで、度々テレビやラジオで共演し、プライベートでも交流をするほど仲良くなった。
 
* 「LOVE LOVEあいしてる」で、KinKi Kidsへのギター指導を企画されたときは全くその気にならなかったというが、彼らが休憩の合間の時間に階段で一生懸命練習しているのを見かけ、それ以来熱心に指導したという<ref>ラブ ラブ KinKi Kids、スタッフKinKi、1997年、太陽出版、p12-24</ref>。番組の企画を通じて二人のギター・作詞法・作曲法は数年かけながらも徐々に上達していき、[[2000年]]には堂本光一作曲・堂本剛作詞・吉田拓郎プロデュースのシングル「[[好きになってく 愛してく]]」を発売するまでに至った。
 
* [[堂本光一]]は「拓郎さんとの出会いが音楽を教えてくれた」「番組で拓郎さんに、いきなり『曲を作れ!』と言われて。初めて作った曲を持っていったときに『よく作ったね』って言ってくれたのは、今も忘れない」「拓郎さんは俺たちに『あ、自分にも、曲が作れるんだ』って思わせてくれた」「今、俺が曲を作っているのも、あの当時のことがキッカケ。たぶん、あの出会いがなかったら、今まで作った曲たちも生まれていなかったと思うよ」等と話している<ref>『[[ポポロ (雑誌)|ポポロ]]』2009年4月号、麻布台出版社、p124</ref>。
 
* [[堂本剛]]も「自分の思ったことを歌詞にしてメッセージとして投げるという男の人生を目の当たりにして、音楽の自由を感じた<ref>2011年11月12日NHK-FM「今さらですが突然KinKi Kids生放送」</ref>」「拓郎さんと出会ったことにより楽器を弾くことにも繋げて頂いた<ref>[[TBSテレビ]]『[[カミスン!]]』2011年11月7日放送</ref>」等と話している<ref>[http://realsound.jp/2014/02/post-316.html 堂本剛が開拓したジャニーズ「アーティスト路線」 - Real Sound]</ref>。
 
 
; '''[[武田鉄矢]]'''
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 拓郎に憧れて上京し、エレック・レコードに入った<ref name="LOVE LOVE海援隊 " />。ところが入った途端、拓郎は[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]に移籍してしまった。
 
* 付き合いが始まったのは、だいぶ後の武田が映画を撮り始めてからで、[[1982年]]からの映画『[[刑事物語]]』の主題歌「唇をかみしめて」を拓郎が手掛けたり、[[1985年]]、映画『[[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]]』に拓郎は[[高杉晋作]]役で出演した。これは[[坂本龍馬|坂本竜馬]]を演じた武田が「ずっと背中を追いかけてきた拓郎に一回、こっち側を向いて勝負して欲しい」と相手役として遮二無二拓郎を説得したもの。最初は「お前、頭からアブラをかぶっているのか?頼むから近づくな!」と酷く嫌われていたという<ref>アサヒ芸能、2009年7月30日号、p187</ref>。また武田は拓郎を高杉晋作役で起用した理由について、「拓郎の声はアジテーターの声であり、たった一声で千とか万の若者が後について行くような声。それは高杉晋作もそんな声だったんじゃないかと思うという持論で、俳優では出せないと思い拓郎にお願いした」と説明している<ref name="LOVE LOVE海援隊 " /><ref name="oshaberi159">吉田拓郎・お喋り道楽、p159-176</ref>。
 
* 武田は拓郎を"我々[[団塊の世代|団塊]]のトップアイドル、カツコ良かった"と表現している<ref>ニッポン放送「[[テリー伊藤のってけラジオ|テリーとたい平のってけラジオ]]」2009年4月17日放送</ref>。武田は[[テレビドラマ]]への進出について「僕は吉田拓郎さんみたいな歌手になりたかった。でも、どうあがいてもなれなかった。それで仕方なく横に流れたんですね。それはテレビに出るということだったんです」と話している<ref>プレイボーイの人生相談 1966-2006』、[[週刊プレイボーイ|週刊プレイボーイ編集部]]、[[集英社]]、2006年、p123頁</ref>。
 
 
; '''[[中島みゆき]]'''
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* [[1980年]][[8月10日]]、[[NHK-FM放送|NHK-FM]]で『[[拓郎105分]]』という特番が放送された。この番組は長年(プロデビュー10周年)音楽業界に貢献してきた拓郎を讃え、他のミュージシャンが拓郎に感謝状を贈るという内容であった。この番組で、学生時代に拓郎の追っかけをしていた中島みゆきが、拓郎のことを「よた、よた」と呼んでいた<ref>中島みゆきデータブック、1995年、[[落合真司]]、[[青弓社]]、p20<br />魔女伝説―中島みゆき、1982年、こすぎじゅんいち、[[ソニー・マガジンズ|CBS・ソニー出版]]、p80<br />中島みゆき・言葉の向こう側、1998年、落合真司、青弓社、p92</ref>{{Sfn|音楽出版社|2008|pp=72}}。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが理由は不明。
 
* 拓郎は、自身のソングライティングが不調に陥った[[1995年]]、中島に直に楽曲提供を依頼。拓郎が詞曲の両方を他人に依頼したのは初めてのことで<ref>地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p83、212<br />産経新聞、1996年9月25日夕刊、p8<br />最初は詞だけの依頼だったが、拓郎に今さら頭が上がらず、色々注文を付けられ詞も曲も書くことになったと中島は話している(満月みゆき御殿 『GB』中島みゆきファイル from 1980、1999年、[[萩原健太]]他著・ソニー・マガジンズ、p287)</ref>、渡された曲が「永遠の嘘をついてくれ」で、拓郎からの当初の[[リクエスト]]は「夢のない[[遺書]]のような曲を」であったが、全く逆の疾走感に溢れる[[実年]]ソングとなった<ref>中島みゆき読本、音楽出版社、2009年、p128</ref>。この曲の歌詞が中島の拓郎に対する感情を思わす内容であったため、両方のファンから様々な憶測をよんだ。2006年のつま恋コンサートで、シークレットゲストとして登場した中島がこの曲で拓郎とデュエット、このコンサートの名シーンの一つとなった<ref>地球音楽ライブラリー 中島みゆき、2006年、[[ヤマハ音楽振興会|財団法人ヤマハ音楽振興会]]監修・TOKYO FM出版、p194、217、218</ref>{{Sfn|音楽出版社|2008|pp=52}}。
 
*中島は拓郎を尊敬しており、彼女の楽曲に数曲、拓郎調の楽曲があるといわれることもある<ref>中島みゆき読本、p132、133</ref>。
 
*拓郎も中島を尊敬していると公言している。彼女のライブでバックミュージシャンとしてギターを弾きたいと数年前からオファーしているが実現しておらず、彼女がオールナイトGOLDにゲスト出演した際に直接オファーを試みたが、ライブの間じっと演奏してられるかなど質問返しされて結局YesともNoとも答えてもらえなかった。拓郎によると「どうしても『悪女』を歌う中島みゆきのバックでギターを弾きたい」らしい。この時のゲスト出演について、中島に「瀬尾さんが行くって言うから来た」とコメントされると「なんだよそれー!」と拗ねていたらしい模様が放送された。
 
 
; '''[[長渕剛]]'''
 
{{trivia|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* 長渕剛が本格的に音楽の道を志すきっかけになったのは、フォークコンサートでトリを務めた拓郎の歌を聴いて大きなショックを受けてからで、「拓郎はカッコ良かった。オレたちの世代にとっては、みんなの憧れだった」と話している<ref>俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、p8、9、75-85<br />NEXT、1984年1月、富澤一誠、[[潮出版社]]、p106-108]<br />[http://www.blue-jug.com/vol-01/01-20.html 長渕剛インタビュー]<br />[http://www.fujitv.co.jp/DOMOTO/guest/140.html 堂本兄弟、2004年2月29日]</ref><ref name="篠島 ">[http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Drum/4406/TAKU794.html 吉田拓郎 Island Concert in 篠島]</ref>。長渕が最初にユイ音楽工房に所属したのは拓郎がいたからである<ref>
 
[http://www.musicman-net.com/relay/90-4.html 第90回 新田 和長 氏 4. 歴史の瞬間と渦の中で〜「目利き」であることの重要性| Musicman-NET]</ref>。
 
* [[1979年]]に[[愛知県]][[篠島]]で行われた拓郎のオールナイトコンサートに出演した長渕が、拓郎ファンから「帰れコール」を浴びながらも歌い続けたエピソードはよく知られる<ref name="篠島 " /><ref name="しゃべくり" />。長渕は「あのステージがなかったら今はなかった」と話している<ref name="しゃべくり" />。
 
* ただ、1994年に[[祭りのあと (桑田佳祐の曲)#すべての歌に懺悔しな!!による論争|長渕と桑田佳祐が揉めたときは]]、拓郎は桑田の方の肩を持つ発言を行い、長渕をトーンダウンさせた<ref>長渕剛vs桑田佳祐、矢吹光、1995年3月、[[三一書房]]、p154</ref>。
 
* 2012年の拓郎の3年ぶり復活ライブの最終日(NHKホール)の際には自ら拓郎の楽屋を訪ね、久々の再会を果たしている。そのことが後日、坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLDで語られた(その場には山下達郎&竹内まりや夫妻や南こうせつもいたらしい)。
 
 
; '''[[桑田佳祐]]'''・'''[[原由子]]'''
 
* 桑田佳祐は1985年の著書『ロックの子』の中で、「フォークは大嫌いだったが唯一、拓郎が好きだったのは、拓郎の歌謡曲的な部分だった、拓郎の[[コマーシャルソング]]の音作りに共感したことが、自身が曲作りを始めるきっかけ、拓郎を聴いて『これなら曲が作れる』と思った」などと述べており<ref>ロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p89</ref>、1980年8月10日にNHK-FMで放送された『[[拓郎105分]]』では、一番影響を受けた拓郎の曲として「Have a Nice Day」<ref name="富士フイルム" />(1972年[[富士フイルム]][[コマーシャルソング|CMソング]])を挙げた。1985年の[[サザンオールスターズ]]のアルバム『[[KAMAKURA]]』には、拓郎からの影響を思わせる『[[KAMAKURA#収録曲|吉田拓郎の唄]]』という楽曲を収録している<ref name="hidaka201610" /><ref>[http://jisin.jp/news/2598/6208/ 「“エリー”って誰?」意外と知らないサザントリビア10( トリビア ... - 女性自身)]</ref>。2003年夏に拓郎が癌治療で休業中には、『吉田拓郎の唄』の批判めいた歌詞部分を大幅に変更、拓郎をより賛美する内容にしてライブで歌唱し、遠い地から拓郎にエールを送った。拓郎は、2008年2月24日の「[[俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル]]」の放送で療養中、桑田から復帰を願いギターの[[フェンダー・テレキャスター|テレキャスター]]を贈ってもらったエピソードを披露した。桑田も、同年3月11日の「[[桑田佳祐のオールナイトニッポン]]」で、その経緯について触れ「ふらっと入った楽器店にあったギターを見た時、拓郎さんがバーンと浮かんだ。拓郎さんにこれを弾いてもらいたいと思った」「高校の頃、色んなフォークが流行ってたんだけど、拓郎さんだけが輝いて見えた。私が今ここにいられるのも拓郎さんが物凄く大きな切っ掛けになっている」などと話した<ref>2008年3月11日「[[桑田佳祐のオールナイトニッポン]]」</ref>。1986年ごろに拓郎の自宅へ招かれ、酔っぱらって無断で[[ビートルズ]]のピクチャーレコードを持ち帰ってしまい、のちにこのことを後悔し前述の[[フェンダー]]テレキャスターを送る共にそのピクチャーレコードを吉田本人に返したが、レコードについては吉田が「君とのいい思い出にしよう」という理由で送り返されたというエピソードがある<ref>[http://japan.techinsight.jp/2011/03/kuwata-takurou-record.html 桑田佳祐と吉田拓郎との隠された過去。今日までそして明日から。] - [[Techinsight]] 2011年3月</ref><ref>『[[桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜]]』2009年5月18日放送分</ref>。[[原由子]]も拓郎の大ファンで、中学の時、深夜放送で拓郎の[[四角佳子]]との結婚宣言を聞き、布団で泣いたという<ref>原由子『娘心にブルースを』1998年、[[ソニーマガジンズ]]、p171</ref>。
 
 
; '''[[浜田省吾]]'''
 
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* [[広島フォーク村]]時代からの先輩・後輩である[[浜田省吾]]とは、師弟関係にある<ref>別冊宝島編集部「音楽誌が書かないJポップ批評26」、別冊宝島804、2003年 [[宝島社]]、p 28</ref>。拓郎は、1970年にプロデビューして上京した後も、広島フォーク村のイベントなどに出演するため、度々帰郷。この頃は、[[スーパーマーケット|スーパー]]の階段の催し場やレコードショップの横、などで歌うこともあった<ref>Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、1996年、[[TOKYO FM出版]]、p379</ref>。こうした折に付いてまわったのが浜田で、空港までの送り迎え等も浜田の仕事であった<ref>あいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、[[飛鳥新社]]、p24、25</ref>。浜田らが「[[愛奴]]」を結成して[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]のオーディションを受ける際も拓郎の自宅を訪れ相談。「愛奴」プロデビュー前の[[1974年]]、拓郎の全国ツアーのバックバンドに「愛奴」を起用し浜田は[[ドラムセット|ドラム]]を担当した<ref>[http://www.musicman-net.com/relay/137-4.html 第137回 高橋信彦氏 | Musicman-NET]</ref><ref>Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、p26、27<br />「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p48、49</ref>。「愛奴」の起用は[[ザ・バンド]]に断られたため回ってきたもの<ref name="theband" />。拓郎はツアーの直前にボブ・ディランとザ・バンドのコンサートをロサンゼルスまで観に行き、そこでザ・バンドを真ん中に、ディランがステージの端で歌うステージングに驚き、同じように「愛奴」を真ん中に、拓郎が端で歌うというステージングをやったが、浜田のドラムがヘタ過ぎて目立ち、同じようには出来なかったという<ref name="GOLD2013624" />。
 
* 浜田は、[[1997年]]に拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカバーした(拓郎自身も、コーラスとアコースティクギターで参加している)。ちなみに[[1985年]]に開催された『[[吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋]]』でもドラムでゲスト参加していたりと、長きに渡って交流を持ち続ける<ref>坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p70-71</ref>。
 
 
; '''[[松本隆]]'''
 
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* 職業作詞家としてデビューしたての松本隆に[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]の、これまた若いディレクター/プロデューサーだった白川隆三から担当の新人歌手・[[太田裕美]]売り出しのため作詞依頼がきた。これに拓郎は「お前ら(太田+松本+白川のトリオ)は売れない」と酔って松本に毒付いた。結局このトリオ+[[作曲家]]・[[筒美京平]]での4曲目のシングルが大ヒットした「[[木綿のハンカチーフ]]」で無事拓郎を見返せた。太田は拓郎をいっぱいいじめたという<ref>松本隆対談集 KAZEMACHI CAFE、ぴあ、p70<br />アサヒ芸能、2009年7月23日号、p189</ref>。
 
* 拓郎はその後、[[原田真二]]の売り出しに松本隆を起用した他[[1978年]]、初の二枚組アルバム『ローリング30』制作にあたり、ほぼ全曲の作詞を松本に依頼し二人で[[箱根]]の山に篭り、一人の作詞家との完全な共作がどれ程のものになるのか、という試みを行っている<ref>地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p41<br />[http://www.geocities.jp/qbwby511/takuroinkumamoto20070930bytosi コンサートMC]</ref>。松本はこの時の拓郎との共同作業を通してより物語性を深め、[[1980年代]]に[[アイドル]]のヒットメーカーとして本格的に花開くことになる{{Sfn|音楽出版社|2008|p=84}}。松本にとっても[[マイルストーン]]的な作品となっている<ref>地球音楽ライブラリー、p43</ref>。
 
 
; '''[[森山良子]]'''
 
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* 森山は、まだ無名時代の拓郎を自身のラジオ番組(キョーリン・フォーク・カプセル、[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ関東]]?)に度々呼ぶなど、拓郎を可愛がったという。
 
* 森山は1971年から1972年にかけて結婚、長女([[森山奈歩]])出産のために休養した。そのブランクのために1973年はパッとせず。この時代になると拓郎らシンガーソングライターが台頭してきて当時、"歌謡曲歌手"というイメージがついていた森山は、アルバムが売れない状況になっていた。
 
* 1974年の[[賛美歌]]アルバムの完成と「ある日の午後」のヒットで盛り返した森山に1975年、「襟裳岬」を大ヒットさせた拓郎が前記の恩を返す形で「[[歌ってよ夕陽の歌を]]」を提供。曲もヒットしたことで森山のイメージは再び"フォークの女王"に戻った(同曲で[[第26回NHK紅白歌合戦|NHK紅白歌合戦]]に出場)<ref>青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p160<br />和田誠インタビュー その三、1989年、[[和田誠 (評論家)|和田誠]]、[[話の特集]]、p122-142</ref>。
 
 
; [[山下達郎]]・[[竹内まりや]]
 
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* 山下達郎は拓郎について「僕と拓郎なんてある意味、今の音楽界で両極端、対極じゃないか」と過去に発言している<ref>どーもとドーモ、2000年、[[KinKi Kids]]、[[新潮社]]、p177</ref>。山下は拓郎がプロデュースした1975年の[[TBSテレビ|TBS]]ドラマ『[[あこがれ共同隊]]』の主題歌「[[風の街 (山田パンダの曲)|風の街]]」に、[[山田パンダ]]の[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]としてレコーディングに参加した。この時、拓郎にそのコーラスの歌唱指導をされて以来、拓郎とは一回も口を聞いたことがないと話していた<ref>[http://www.sound.jp/yuming/concert/c_arai/1974Xmas/74xmas.html 山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブック2002/5/26]</ref>。
 
* 2012年8月13日の「[[坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD]]」で、坂崎から「拓郎さん、日本ではどんな音楽が好きなんですか?」という話題が出た中で、「みんな意外なところでね、俺、山下達郎とか好きなんだよ、あいつのボーカルが好きなんだよ、達郎の声とか(彼の)奥さんの[[竹内まりや]]の声は、かなり俺(胸に)クるんだな。あそこの夫婦のファンだね。これ、このラジオで本邦初公開だけど」と告白した。
 
* この発言がきっかけとなり、同年10月1日の同番組で、お互いソロアーティストとしての立場で初共演を果たした<ref name="natalie77474">[http://natalie.mu/music/news/77474 ナタリー - 山下達郎、本日ANNで吉田拓郎とメディア初共演]</ref><ref>[http://wmg.jp/artist/tatsuro/news_43235.html 今夜よる10時からの『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』に山下達郎初登場!何と吉田拓郎さんとメディア初共演が実現!]</ref>。この放送で山下は"私的吉田拓郎史"を言わせてもらえば2時間は喋れると話し、18歳の時、[[東長崎駅|東長崎]]のレコード店でアルバイトをしていた時、ちょうど拓郎のアルバム『[[元気です。]]』(1972年)が出た頃で、その『元気です。』と[[カーペンターズ]]の「[[ア・ソング・フォー・ユー]]」の2枚が飛ぶように売れて10枚[[問屋]]に注文しても1枚しか来なかったという思い出や、前述の「風の街」のレコーディングで拓郎に歌唱指導された話、その時のしこりで[[吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋|1975年のつま恋]]にもコーラスとして参加を要請されたが「絶対イヤ」と断った話などをした。
 
* 拓郎の方はそんな話はまったく知らず、山下を認識したのは[[1980年代]]になってから、毎年行く[[ハワイ]]で「[[LOVELAND, ISLAND]]」(1982年)を聴いて、こんな[[ウェストコースト・ロック|ウェストコースト風サウンド]]を歌いこなせる日本人ボーカリストがいるのか、と感激したのが最初と話した<ref name="natalie77474" />。ちなみに、この日の出会いがきっかけとなり、番組後には互いのメルアド交換をし、夫妻ともどもメールするほどの仲になっている<ref>[http://www.sanspo.com/geino/news/20130617/oth13061705040012-n1.html 吉田拓郎×竹内まりや、ラジオで初共演!]</ref>。
 
* 2013年6月24日には竹内が「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」に単独出演し、番組内で拓郎の名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」を竹内本人のアレンジにより3人で演奏した。
 
 
; '''その他ミュージシャン'''
 
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* [[イルカ (歌手)|イルカ]]は、[[2007年]]他界した夫の神部和夫ともども、最も古くからのフォーク仲間で全国を[[ドサ回り]]した間柄。当時は2人が所属した[[シュリークス]]が非常に人気があり、拓郎のほうが[[前座]]だった。神部はいい声の持ち主だったが、拓郎が出てきてから「もう自分がうたっているような歌の路線はこれからはダメだ。綺麗にうたっていくんじゃなくて自分のメッセージをガンガンうたっていく世の中に変わったな、これからは俺の時代じゃない」と話していたという<ref>坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p102</ref>。イルカがソロデビューして曲作りを始めた時、拓郎は自宅の居間で親身になってアドバイスしたという<ref>ここは私の学校、2003年11月、[[祥伝社]]、p66</ref><ref>とんがらし、1975年9月、八曜社</ref>。シュリークスの持ち歌で、イルカのレパートリーでもある「クジラのスーさん空を行く」は、神部の詞、拓郎の作曲。
 
 
* [[古井戸]]の金崎芳樹([[加奈崎芳太郎]])が1971年8月頃、エレック・レコードに入社が決まり、一度会社に挨拶に行こうと事務所を訪ねると、部屋の隅でダンボールの梱包をしているオジさんと、奥の机で電話している拓郎がいて、拓郎に「社長さんはどこですか?」と聞いたら梱包をしているオジさんが社長で、拓郎は[[電リク]]をしていた<ref>音楽的日乗 スローハンドVol.1、2006年、[[自由国民社]]、p103-104</ref>。加奈崎も[[仲井戸麗市]]も、拓郎さんには可愛がってもらいましたと述べている<ref>フォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、P178<br />坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p118</ref>。
 
 
* 1971年11月6日、[[慶應義塾大学]]で行われたコンサートは、俗に"'''慶應三田祭事件'''"と呼ばれる。これは[[頭脳警察]]伝説として有名だが、[[はっぴいえんど]]の事務所と確執のあった頭脳警察が観客をアジりながら、えんえんと演奏を続けて居座り、次に出たはっぴいえんどの[[大滝詠一]]が「前のバンドが僕らのぶんもやってくれたので」と言ったため観客が反撥、石の飛ぶ中1曲だけ「はいからはくち」をやって帰ってしまったもの。その次の出番だったのが拓郎で、一人で全部を受けとめる羽目となり、ビール瓶が飛んで来て1曲も演奏出来ないまま引き下がった。この事をまったく知らなかった大滝は後で拓郎に「お前らよお、あれ、あの後も観客を静めるのに大変だったんだぜ、俺は」と散々言われたという。拓郎は頭脳警察にも憤慨していたが、その後、[[PANTA]]と話す機会を得て好意を持ち[[パックインミュージック]]で『頭脳警察セカンド』からシングルカットされた「いとこの結婚式」という拓郎のヒット曲を意識したような曲をプッシュしたり、頭脳警察をゲストで呼んだりしたがこの曲はヒットしなかった{{Sfn|田家秀樹|1994|p=156}}<ref>頭脳警察(2004年8月・須田諭一著・河出書房新社)p164-166<br />定本 はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p60、139、140、193<br />吉田拓郎・お喋り道楽、p219-220<br />関西フォーク70'sあたり、2003年、中村よお、幻堂出版、p78<br />ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p122<br />ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p89<br />[http://natalie.mu/music/news/23775 ナタリー - ドキュメンタリー頭脳警察公開記念イベントで貴重発言続々]<br />[http://www7.plala.or.jp/keeplistening/1971-2.html haruomi hosono 1971]</ref>。
 
 
* [[小室等]]が1972年頃、グループを組もうと女性ボーカルを捜して[[りりィ]]を決めかけていたが、その後りりィは長い旅に出てうやむやに。りりィはあの時、連絡がついていたら「今頃は私が拓郎と結婚してたんじゃないかな」と話している(小室と拓郎が非常に近い関係のため)<ref>小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p122</ref>。
 
 
* [[丸山圭子]]は1972年、コンテストで優勝すると[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]と[[エレックレコード]]からスカウトが来た。当時ソニーは[[郷ひろみ]]や[[天地真理]]らがいてばりばりアイドルの時代。普通だったらソニーを選びそうだが、エレックは拓郎がいて、まわりから(これからは)シンガーソングライターみたいに曲をつくりながら歌っていったほうがいいよと言われてエレックに入ったという<ref>[http://www.moment.gr.jp/30/interview.html _... m o m e n t ...._丸山圭子ロングインタビュー]</ref>。しかしまもなく拓郎はソニーに引き抜かれる。
 
 
* [[山本コウタロー]]は1973年、[[一橋大学]]卒業時に「たくろう・スーパースター」という拓郎をテーマにした[[卒業論文|卒論]]を書いた。しかし内容に不満が残ったため、プロデビュー後、鹿児島や広島にまで足を運んで取材し、2年後に出版したのが「誰も知らなかったよしだ拓郎」という題名の本である<ref>[http://natalie.mu/news/show/id/24429 ゆるふわ愛され音楽ニュースサイト - ナタリー 山本コウタローの名著「誰も知らなかった吉田拓郎」文庫化]</ref>{{Sfn|山本コウタロー|2009|p=4}}。"現役ミュージシャンが書いた現役ミュージシャンの[[伝記]]" という非常に珍しい本で<ref>われらフォーク世代、1975年、[[三橋一夫]]、山本コウタロー他著、荒地出版、p35-36</ref>特にアマチュアだった広島時代について詳しく書かれており、拓郎について書かれた文章の多くは、かつてはこの本を参考にしていた{{Sfn|田家秀樹|1994|p=156}}。何故、吉田拓郎でなければいけなかったかについては、日本の音楽を変えていく、次の世代に大きな波及力を残していくアーティストは、吉田拓郎以外には考えられなかったと述べている{{Sfn|音楽出版社|2008|p=67}}<ref name="60年代194">60年代フォークの時代 - 日本のフォーク&ロック・ヒストリー1、p194</ref>。
 
 
* [[加川良]]との交遊。→[[元気です。#解説|「加川良の手紙」]]。この他、加川は拓郎の「金沢事件」を揶揄した『2分間のバラッド』という曲を作っている<ref>加川1974年のアルバム『アウト・オブ・マインド』に収録</ref>。
 
 
* [[井上陽水]]と[[石川セリ]]が出会ったのは、石川と[[松任谷由実]]がゲストで出ていたラジオの生放送(TBSラジオ、[[林美雄]]の[[パックインミュージック]]、1975年11月26日)のスタジオに、石川のファンだった陽水と拓郎が酔って乱入したのが最初<ref>[http://www.ishikawaseri.com/blog/2008/10/post-133.html 石川セリ公式サイト Seri Ishikawa Official]<br />もう書いてもいいですね。、2005年、廿楽正治、有朋書院、P170</ref>{{Sfn|別冊宝島編集部|2006|p=72}}。陽水は「あの時、オレたちは赤坂でウロウロしてて、拓郎の頭の中に"今日はユーミンがラジオに出てる"というひらめきがなければ、まったく違った人生をオレは歩いていたでしょう」と話している<ref>井上陽水 FILE FROM 1969、p180、181</ref>。
 
 
* [[NSP (バンド)|NSP]]が[[高等専門学校|高専]]仲間の3人組となったのは、拓郎が1971年に組んだ3人組のミニバンドの路線を狙ったのがきっかけ。NSPは当初ロック志向であったが、フォークブームでロックがまったく受けず、フォークグループに転換した。オリジナルを作り始める前のレパートリーは拓郎の曲が中心だったという<ref>[[NSP (バンド)|NSP]]『八月の空に翔べ』、八曜社、1978年、p29、148、149</ref>。NSP1973年のデビューアルバムに収録された「僕の夏休み」というオリジナル曲に"ギターを弾いてマークツーを二人で歌うはずだったのに"という歌詞が出る。[[きくち伸]]はその歌詞に出てきた「マークII」ってどんな曲なんだろう?、と本屋で調べて、よしだたくろうを知り、以降拓郎を追いかけるようになったと話している<ref name="kikchy " />。
 
 
* [[岡本おさみ]]の詞を使うことになったのは、岡本からの売り込みによるもの<ref>この歌 あの歌手(下)、読売新聞社文化部、1997年、社会思想社、p108</ref>。岡本との曲作りは手紙や電話でのやりとりで、プライベートでのつき合いはほとんどなかった<ref>[[朝日新聞]]、2010年12月4日、[[be (朝日新聞)|be on Saturday]]-e1、2、うたの旅人:新婚旅行で書いた詞 「旅の宿」、[http://www.bs-asahi.co.jp/uta/prg030.html BS朝日 - うたの旅人 旅の宿 2010年12月4日放送]</ref><ref>うたのことばが聴こえてくる、1984年、岡本おさみ、八曜社、p165<br />AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p44</ref>。岡本が送ってきた詞に数年後、拓郎が曲を付けて世に出ることがあったという。「[[襟裳岬 (森進一の曲)|襟裳岬]]」に関しては、拓郎にかなり歌詞を変更されたため共同作業だったと思うと岡本は述べている<ref>旅に唄あり、1980年10月、[[岡本おさみ]]、八曜社、p14-15</ref>。
 
 
* 1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいた[[ガロ (フォークグループ)|ガロ]]の[[大野真澄]]は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われていたため、ガロの解散、所属レコード会社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より[[水原弘]]や[[服部良一|服部メロディ]]など、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが当時は全編カバー集を作っても売り方がわからない時代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『[[ぷらいべえと]]』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている<ref>音楽的日乗 スローハンドVol.2、2006年、自由国民社、p29</ref>。
 
 
* [[1976年]]、[[ペドロ&カプリシャス]]に在籍時の[[高橋真梨子]]と酒を飲み、ソロになると聞いて盛り上がり、「一緒にやろうよ」などと[[フォーライフ・レコード|フォーライフ]]に来ないかと熱心に口説いた。拓郎の自宅近くまで二人で歩き、高橋は「フォーライフに入る」と約束した。ところがその後高橋が所属した事務所が、レコード会社は[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]と決めていて「お願いしますフォーライフで」と頼んでも社長から「ダメ!」と言われ、それっきり縁がなくなった。拓郎は「それはビクターに行かれてよかったと思います。フォーライフに来てたらえらいことになってた」と話した<ref>「吉田拓郎 YOKOSO」[[NHK BSプレミアム]]、2013年6月12日放送</ref>。
 
 
* [[松任谷由実]]は、デビューしたての頃(その当時の姓は「荒井」) "女拓郎" と呼ばれたと<ref name="rouge">松任谷由実、ルージュの伝言、1984年5月、角川書店、p8-11</ref><ref>[[週刊朝日]]、1979年3月12日、p16、[http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/yumiyori/20110805-OYT8T00743.htm 【yumiyoriな話】第36回 最終回 井上陽水さん] [[YOMIURI ONLINE]]([[読売新聞]]、2011年8月13日17面)</ref>。このため、それまで聴いたことがなかった拓郎の曲を聴いた。感想は、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいものと思った。拓郎らの音楽とは違う、これを区別する例えとして"[[四畳半フォーク]]"って言葉を自分が考え出した」と自著で述べている<ref name="rouge" />。
 
 
* [[松任谷正隆]]は、1971年の拓郎のアルバム『人間なんて』にミュージシャンとして参加しプロデビューした<ref>[http://www.musicman-net.com/relay/87-3.html Musicman-NET 第87回 松任谷正隆氏.3]、[http://www.ntv.co.jp/don/don_02/contents_02/2009/11/post-19.html 1951年11月19日 日本をリードする音楽プロデューサー松任谷正隆が生まれた日]</ref>。
 
 
* [[中村雅俊]]とは、[[1975年]]『[[俺たちの勲章]]』の挿入歌「いつか街で会ったなら」の[[レコーディング]]以来の付き合い<ref>吉田拓郎・お喋り道楽、1997年10月、[[徳間書店]]、p270-285</ref>。『俺たちの勲章』は、中村主演の『[[われら青春!]]』と同じプロデューサーで、気心知れていたため、大ファンだった拓郎に音楽を頼めないかと、中村がプロデューサーにお願いしたもの<ref name="YOKOSO中村">[http://www.nhk.or.jp/fm-blog/1000/174350.html 俳優、音楽、人生...尽きぬ話が語り明かされる!明日4日(水)BSプレミアムで放送『吉田拓郎YOKOSO "中村雅俊"』]</ref><ref>ニッポン放送『[[坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD]]』2013年4月15日放送、[http://www.sanspo.com/geino/news/20130413/oth13041305010003-n1.html 中村雅俊、坂口良子さんとの思い出語る - 芸能社会 - SANSPO.COM]、[[テレビ東京]]『L4 YOU!』2013年4月10日放送、[http://tvtopic.goo.ne.jp/program/info/634950/index.html 「L4YOU!」- ゲストトーク〜中村雅俊〜]</ref>。中村雅俊がニューミュージック寄りのイメージがついたのは拓郎の楽曲提供が切っ掛けだった<ref>青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p161</ref>。「拓郎は憧れ以上の存在だった」と中村は話している<ref name="YOKOSO中村" /><ref>[[垣花正のあなたとハッピー!]]、[[ニッポン放送]]、2010年8月24日</ref>。[[1999年]][[7月25日]]には『吉田拓郎&中村雅俊の蘇れ青春!広島の旅!』という番組が[[TBSテレビ|TBS]]で放送された。
 
 
* [[矢沢永吉]]とは[[キャロル (バンド)|キャロル]]時代から付き合いがあり、矢沢はソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたという{{Sfn|吉田拓郎|1980|p=154}}<ref>アサヒ芸能、2009年7月2日号、p38-39</ref>。こうした関係からか、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢が拓郎のラジオ「[[セイ!ヤング]]」(1979年7月7日放送)と「[[吉田拓郎のオールナイトニッポン|オールナイトニッポン]]」(1981年6月6日放送)の2度ゲスト出演した。「オールナイトニッポン」では、拓郎が矢沢を「永ちゃん」「永吉君」「永吉」「オマエ」(矢沢も拓郎を「拓郎」「オマエ」(矢沢が年下))と呼んだ。「自分の曲をプライベートで聞くか」と聞かれた矢沢は「あまり聞かない」と答えたが、拓郎は「よく聞く、それも寝るとき自分の曲を聴きながら寝る」と言っていた<ref>[http://www.koarachan-filter.blogspot.com/2006_09_01_archive.html 吉田拓郎オールナイトニッポン・ゲスト矢沢永吉]</ref>。
 
 
* 拓郎に憧れ多大なる影響を受けたと語る[[所ジョージ]]<ref name="LOVE LOVE1999619 ">[http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/129.html LOVE LOVE あいしてる:1999/06/19]</ref>は、『LOVE LOVEあいしてる』に三度ゲスト出演した。[[1997年]][[11月29日]]に初めてゲスト出演した際、拓郎の曲の中で「恋の唄」が好きだから、もう歌わないならを自分が作詞・作曲したことにさせてほしい、その代わりに自分の曲を10曲あげる、と交換条件を申し出た<ref>[http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/56.html LOVE LOVE あいしてる:1997/11/29]<br />坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p100</ref>。「恋の唄」は、拓郎自身も一番好きな歌と公言していたが、所の申し出を承諾し、所はお返しに「精霊もどし」という、[[グレープ (ユニット)|グレープ]]の「[[精霊流し (曲)|精霊流し]]」をパロディにした曲を渡した。二度目のゲスト出演した際、所は、自分が作った曲のことを「拓郎さんもすごい歌を作りますね」とネタにして笑わせた<ref>[http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/96.html LOVE LOVE あいしてる:1998/09/26]</ref>。後に、この曲を、所に返した<ref>坂崎幸之助のJ-Friends1、p100</ref>。所は「恋の唄」の2番を書き加えた曲を、[[1999年]]、自身のアルバム『[[洗濯脱水]]』に収録している<ref name="LOVE LOVE1999619 " />。所は[[日本音楽著作権協会|JASRAC]]に登録されている作詞者・作曲者名も書き換えようとしたが、認められなかったという。所は拓郎曲のパロディ楽曲を複数発表している(『[[LIVE 絶滅の危機]]』)。
 
 
* 元[[19 (音楽グループ)|19]]で現[[3B LAB.☆S]]の[[岡平健治]]の父親は、拓郎らと広島フォーク村に参加したミュージシャンであった<ref>[http://www.cap.or.jp/inte/inte9911.html 19インタビュー]</ref>。広島フォーク村の実質の活動期間は2年程であったが、1978年に第II期広島フォーク村として再び活動を行った。この時に参加したミュージシャンには[[上綱克彦]](元[[柳ジョージ&レイニーウッド]])や[[原田真二]]、[[村下孝蔵]]らがおり、広島フォーク村の拓郎の一応の後輩となる<ref>[http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2010/11/19665_196999bst_197219735_1197.html 青い瞳のステラ、1962年 夏.../柳ジョージ&レイニーウッド -  広島FM 食卓ON楽]<br />[[中国新聞]]、2007年7月29日、p10<br />AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p82<br />[http://www.alles.or.jp/~soramame/top.html 広島フォーク村]</ref>。
 
 
* 拓郎のフジテレビ系音楽番組「[[夜のヒットスタジオ]]」への初出演は1980年6月30日。その約8ヶ月前の1979年11月12日に出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなりキャンセル。この時に拓郎の代役として「夜ヒット」初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかった[[CHAGE and ASKA]]であり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「[[万里の河]]」大ヒットの土壌が育つこととなった。彼らも拓郎、陽水を聴いていた世代。[[飛鳥涼]]は「いまだに陽水さんに会うと緊張するし、拓郎さんに至っては話もできない」と話している<ref>小室哲哉音楽対論 Vol.1、p105</ref>。
 
 
* 「テレビ出演拒否」のきっかけを作った[[布施明]]からは30年後に正式に謝罪を受けた。ただし最近も布施サイドから曲の依頼があるが「俺は絶対に書かない」と言っているという話もある<ref name="Extime30">FLASH臨時増刊 Extime、p30</ref>。また2006年、つま恋の復活コンサートの大成功で、この年の『[[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]』の目玉とも言われた拓郎が出場を辞退したのは布施が出るからとも言われた<ref>[[週刊新潮]]、2006年12月14日、p44</ref>。
 
 
* [[松山千春]]は「拓郎が嫌い」とラジオや自著で発言<ref>「らいぶ」、[[学研ホールディングス|学習研究社]]、1996年6月、p29</ref>。これを聞きつけたか拓郎も「松山が嫌い」と発言する事態となり{{Sfn|石原信一|1985|p=53}}、犬猿の仲ということになっていた。2000年7月29日に「LOVE LOVEあいしてる」に松山がゲスト出演。並んで座ったが2人の会話はなく拓郎は終始無言、松山の独演会となった。拓郎嫌いの理由については、[[岡林信康]]が好きだったが岡林のあと<ref>岡林は、はっぴいえんどとロックをやり始めたため、怒ったフォークファンが怖くなり[[対人恐怖症]]になって歌を辞めると宣言し渡米、帰国後も京都の寒村に穏棲したりし表舞台に立たなくなった(バンザイなこっちゃ!、2005年・岡林信康著・[[ゴマブックス]]、p227、278、ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p127)。</ref><ref>ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p127</ref>拓郎派と[[加川良]]派に分かれ、加川良のほうが好きになったため、好きの反対なら「拓郎→嫌いだろ」と説明した<ref>[http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/183.html 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】]</ref>。松山以外にも拓郎は「LOVE LOVEあいしてる」、注目の第1回放送(1996年10月5日)の[[オープニング]]で、唐突に「[[さだまさし]]嫌い」と発言した<ref>[http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/01.html トーク 特別編集版 - 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】]</ref>。1997年9月20日放送の同番組で、さだまさしがゲスト出演したとき、拓郎はさだが嫌いな理由を「[[バイオリン]]を弾くから」と説明している。
 
 
* [[高橋ジョージ]]がもっとも影響を受けた番組は、拓郎が司会を務めていた「バイタリス・フォークビレッジ」([[ニッポン放送]])という。このラジオとは別に、テレビに出た拓郎がレコードとはまったく違うアレンジで「[[旅の宿 (よしだたくろうの曲)|旅の宿]]」を弾くと頭の中が真っ白になるほどのショックを受け「こんなスゴいことができるなんて...これはギターを買わないとダメだ!」と急いで[[通販]]でギターを買ったのが本格的に音楽を始めた切っ掛けという<ref>東北ロックンロール物語、2008年、[[高橋ジョージ]]、[[ワニブックス]]、p61-62</ref>。
 
 
* [[篠原ともえ]]とは、「LOVE LOVEあいしてる」で共演する前に、番宣番組で共演しているが、篠原の濃いキャラに嫌悪感を抱いた拓郎は完全無視を決め込み、それでもめげない篠原に「なんだお前!?触るんじゃねぇ!!」と激怒し、追い払った。さらに「LOVE LOVEあいしてる」に篠原もレギュラー出演することを聞いた拓郎は、「アイツが出るなら、俺は番組を降りる!!」と断言。しかし、それを知らない篠原は、ほぼ毎日のように拓郎と接触し、何とかして仲良くなろうと思っていた。その努力が実ったのか、拓郎の口から「お前はウルサイけど、いないと寂しい。」との言葉が出て以来、仲が深まるようになった。ちなみに篠原は拓郎のことを「音楽の大先生」として尊敬しているが、初めて会ったときにブチ切れされた時、篠原は「もう芸能界で生きていけない」と思ったらしい。
 
 
* [[YO-KING]]は拓郎ファンとしてよく知られ、私設のファンクラブにも入っていたという<ref name="yomiuri20101022" /><ref>[http://www.cdjournal.com/main/special/magokoro-brothers/474/3 真心ブラザーズ4週連続企画 『YOUNGER THAN YESTERDAY』 - 第3週目]、[http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~usami/platon.html ラジオ「PLATOn」出演記 - C-faculty - 中央大学]、[http://archive.eco-reso.jp/talk/magokoro/ エコレゾトーク - エコレゾ ウェブ]</ref>。YO-KINGは「僕の世代には、拓郎さんをそんなに聞き込んだ人はいない。だから、そこがおもしろがられているんだと思います。それでデビューから20年以上もやってこられたんじゃないかと思います」などと話している<ref name="yomiuri20101022" />。YO-KINGも一番好きな曲という「流星」を2001年にカバーしている。
 
 
==== ミュージシャン以外 ====
 
{{内容過剰|date=2018年4月|section=1}}
 
 
* [[明石家さんま]]は拓郎の大ファンで、さんまが音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演した(1996年11月9日)<ref>[http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/04.html 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】]</ref>のは拓郎が司会だったから。拓郎の凄さをもうひとつ理解していない[[KinKi Kids]]に、さんまは拓郎の素晴らしさを一生懸命説明したという<ref>「LOVE LOVEあいしてる」完全読本、1999年、キンキ・オールスターズ、飛天出版、p84、85</ref>。この後、拓郎が『[[さんまのまんま]]スペシャル2001』(2001年12月28日)にゲスト出演したのも、さんまからの強いオファーがあったため。さんまは「"イメージの詩"を人生の教科書とし(拓郎をまねて)[[ハイライト (たばこ)|ハイライト]]を吸って生きてきた。今は[[マールボロ (たばこ)|マルボロ]]ですけど」と話し、自身が[[カラオケ]]で歌うのは「イメージの詩」ぐらいという。ところが拓郎は「体のこと考えて軽い[[フロンティア (たばこ)|フロンティア]]に変えたんですよ」「僕の作る歌、全部ウソだから。信用してる人がおかしい」などと話し、さんまと拓郎ファンをがっかりさせた<ref name="Subaru" /><ref>[http://www.ktv.jp/mamma/backnumber1987.html || KTV || 関西テレビ放送 [ 番組 さんまのまんま : バックナンバー]</ref>。
 
* [[志村けん]]とよく飲み、電話で呼び出せる仲良し<ref>[http://www.takuro-mania.com/2000/00.html 吉田拓郎LIVE〜夏と君と冷したぬき〜]<br />[http://career.cobs.jp/level1/yoko/2011/05/post_947.html 有名人同士の意外な交友関係(2011/05/04) | コブス横丁 | COBSキャリア]</ref>。志村の著書のあとがき・解説を拓郎が書いている<ref name="ojisan">変なおじさん、[[新潮社]]、2002年、38頁</ref>。
 
* [[爆笑問題]]の[[太田光]]は「泣ける名曲」として拓郎の「流星」(1979年)を挙げている<ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/best/updating_dex/nextweek/036/index.html 決定!これが日本のベスト]</ref><ref name="striketv">[http://www.tv-asahi.co.jp/striketv/contents/backnumber/006/index.html テレビ朝日|ストライクTV 2011年11月7日放送]</ref>。太田は拓郎に会って「この曲は僕の曲にしてください!」って頼んだら、拓郎に「そういえば[[武田鉄矢]]もおんなじようなこと言ってたな」と言われたという<ref name="striketv" />。「流星」は「時代を越えて愛され続ける名曲」と評される<ref>[http://www.cdjournal.com/main/news/inoue-yosui/35595 フォーライフレコード設立35周年記念!井上陽水・吉田拓郎・小室等ら、70年代後半の名曲をコンパイルした高音質コンピ盤発売!]、[http://www.ricoh.co.jp/release/2010/1005_1.html 新企業CMに俳優の向井理さんを起用 / ニュースリリース | リコー]</ref>。歌詞は拓郎の唯一の子供である[[四角佳子]]との間にできた娘のことを歌ったものといわれている。[[ピース (お笑いコンビ)|ピース]]の[[又吉直樹]]は、創作活動の原点となるほど拓郎から影響を受けたと話しており<ref>{{Cite news |title = 関ジャム 完全燃SHOW、2015-09-27twitter |newspaper = |date = 2015-09-27 |author = [[テレビ朝日]] |authorlink = |url = https://twitter.com/kanjam_tvasahi/status/648038257750478849 |accessdate = 2015-09-27 |publisher = [[関ジャム 完全燃SHOW]] |archiveurl = http://web.archive.org/web/*/https://twitter.com/kanjam_tvasahi/status/648038257750478849 |archivedate = 2015-09-27 }}{{Cite news |title = 関ジャム 完全燃SHOW |newspaper = |date = 2015-09-27 |author = [[テレビ朝日]] |authorlink = |url = https://twitter.com/kanjam_tvasahi/status/648038257750478849 |accessdate = 2015-09-27 |publisher = [[関ジャム 完全燃SHOW]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20150927091144/http://www.tv-asahi.co.jp/kanjam/ |archivedate = 2015年9月27日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}{{Cite news |title = 関ジャム 完全燃SHOW |newspaper = |date = 2015-09-27 |author = |authorlink = |url = http://tv.so-net.ne.jp/schedule/105144201509272315.action |accessdate = 2015-09-27 |publisher = Gガイド.テレビ王国 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20150927104541/http://tv.so-net.ne.jp/schedule/105144201509272315.action |archivedate = 2015年9月27日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>、[[カラオケ]]でも拓郎の曲をよく歌うという<ref>[http://www.mbs.jp/akashiya/archive/201102.shtml 痛快!明石家電視台、2011年2月14日放送]</ref><ref>[http://www.oricon.co.jp/entertainment/interview/2011/peace0815/index.html ピース『憧れの人・ダウンタウンへの想いや、青春時代のベストソングを語る!!』-ORICON STYLE]</ref>。他に[[ダチョウ倶楽部]]も拓郎ファンという<ref>{{Cite news|title =ダチョウ倶楽部×キンキ、敬愛する吉田拓郎カバー披露|newspaper =|date =2014-04-18|author =|authorlink =|url =https://twitter.com/kanjam_tvasahi/status/648038257750478849|accessdate =2015-09-27|publisher =[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]|archiveurl =https://web.archive.org/web/20150927105817/http://natalie.mu/owarai/news/114743|archivedate =2015年9月27日|deadlinkdate =2017年9月}}</ref>。
 
* [[秋吉久美子]]は[[1972年]]高校三年生の時、将来を決めかね追い詰められた気持で夜中、ラジオで拓郎の深夜放送を聞いていると、拓郎が夏休み1ヶ月で[[四国]]に行って『[[旅の重さ#映画|旅の重さ]]』を作るのでヒロインを募集する、と言うのを聞き、"ああ、ちょうど夏休み1ヶ月間か、どっかに行っちゃいたいなあ"と思いオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけだったという<ref>[http://www.nonnakamura-presents.com/70s-genfuukei-harajuku/talk-show/ TALK SHOW | 中村のん プレゼンツ]、[地球は私の仕事です] 女の仕事、[[朝日新聞社]]、1997年9月、p230-231</ref>。秋吉は"あたしは岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、などで育った"と話している<ref>勝手にさせて、[[秋吉久美子]]著、河出書房新社、1986年3月、p52</ref>。秋吉のデビュー作・映画『旅の重さ』は音楽を拓郎が担当した。拓郎はこの『旅の重さ』のヒロインオーディションに審査員として参加したが秋吉に最低得点を付け、[[高橋洋子 (俳優)|高橋洋子]]には気づかなかったと話している。
 
* [[仲村トオル]]は、将来の目標が見出せなかった大学時代の夏休みに、友人に誘われて行った拓郎の1985年のつま恋オールナイトコンサートに感銘を受け、俳優として生きていくと決意したという<ref>[http://doraku.asahi.com/hito/interview/html/110405_03.html 仲村トオルさん(3/3) - インタビュー - ひと - (どらく)]</ref>。
 
* [[江口寿史]]は「マークII」(1985年)という拓郎に心酔する高校時代の自身を描いた短編を書いているが<ref>江口寿史のお蔵出し、1994年4月、自著、[[イーストプレス]]、p13-27に収録</ref>、[[レコード・コレクターズ]]増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、拓郎のアルバム『[[元気です。]]』を私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎の評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と、同誌に対する皮肉を述べた上で、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と話している<ref>[[レコード・コレクターズ]]増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」、2010年11月、[[ミュージック・マガジン]]、p41</ref>。
 
* [[柴門ふみ]]は「ある世代の人々にとっての[[美空ひばり]]、ある世代の人々にとっての[[石原裕次郎]]が特別な意味合いを持っように、私たちの世代にとってのその人は、よしだたくろうである。たくろうが衝撃だったのは、そのストレートなダミ声と、かわいい笑顔であった。それまでのフォークシンガーの貧乏臭い顔([[岡林信康]]とか[[高石ともや]])と比較して、まるで太陽の明るさの邪気のない笑顔であった。オカッパ頭の、人なつっこい丸顔のたくろうに、当時の女の子はみんなシビレたのだ。駄々っ子のようなたくろうのダミ声を復刻版で久しぶりに聴き直す。すると、当時私のまわりにいたボーイフレンドの誰よりもたくろうを愛していたことを確認した。[[徳島県|徳島]]時代の同級生の男の子たちの誰も現在の私の作品に影響を与えていないが、たくろうの歌のいくつかは、私ののちの作品につながるものを感じさせてくれる」<ref>青春とはなんだかんだ、柴門ふみの'70s青春記、[[柴門ふみ]]、[[小学館]]、1994年、p813</ref><ref name="tokyojin">{{Cite book | 和書 |author = [[柴門ふみ]] | title = [[東京人 (雑誌)|東京人]] | chapter = あのころの熱をもう一度 フォークの季節 拓郎に恋をした | publisher = [[都市出版]] | date = 2011年9月号 | isbn = | page = 75 }}</ref>「『[[イメージの詩]]』に14歳の私のハートは打ち抜かれました。毎日毎日聞き続け、その言葉は40年たった私の体の芯の部分に残っていて、今でもふとした瞬間に立ち上がってくることがあります」などと話している<ref name="tokyojin"/><ref>[http://www.nhk.or.jp/fm-blog/200/194409.html 70年代、青春のスーパースター・吉田拓郎を熱く語る 「吉田拓郎・これが青春」 柴門ふみ]</ref>。
 
* 漫画家では他に[[喜国雅彦]]が拓郎の大ファンで、拓郎のカバーバンド「マサ拓Z」としても活動している<ref>『シンプジャーナル・ベストセレクション'80s』p376、[http://www.nhk.or.jp/gogomari-blog/2013/10/28/ 2013年10月28日 | 午後まりブログ:NHK - NHKオンライン]、[http://www.livebarxyz.com/schedule/2014/05/z.html 6F)マサ拓Z - Live Bar X.Y.Z.→A LIVE SCHEDULE] </ref>。
 
* [[みうらじゅん]]の名前が[[ひらがな]]表記なのは、吉田拓郎の初期の名義が「よしだたくろう」だったことに由来している<ref name="現代201335" /><ref name="日経">[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080425/1009953/?ST=life&P=5 みうらじゅん インタビュー5 米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集]、[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080425/1009953/?P=6 みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネット]</ref><ref name="恩返し">[http://www.1101.com/ongaeshi/050610index.html ほぼ日刊イトイ新聞- じゅんの恩返し12]</ref>。みうらが50代半ばにしてまだ[[ロン毛]]にしているのも、あの頃の拓郎さんを引きずっているからという<ref name="現代201335" /><ref name="恩返し" /><ref>[http://www.sony.jp/headphone/special/park/powerspot/episode3.html 第三回 : アレ?ここウチの地元? テーマ曲 「伽草子」 吉田拓郎]</ref>。みうらは拓郎の初[[エッセイ]]集「気ままな絵日記」が[[バイブル]]といい、自身の[[文体]]はどんな文豪より拓郎の影響を受けていると話している<ref name="現代201335" /><ref name="恩返し" /><ref>[[en-taxi]] 第21号、2008年、p100<br />[http://www.tbsradio.jp/mj/2008/02/index3.html みうらじゅんの「サブカルジェッター」]<br />日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、[[泉麻人]]、[[山田五郎]]、[[安斎肇]]、[[毎日新聞社]]、p174、183</ref>。みうらは「昔は吉田拓郎に憧れて、髪の毛のばして、ギターを弾くってのが大概のルールだったんですけどね。それは[[スチャダラパー]]あたりでなくなっちゃった」「80年代は吉田拓郎さんの話を熱く語るのって絶対ダメだったね。何だか話しちゃマズイような雰囲気があった。やっと出来るようになったのは[[真心ブラザーズ]]の[[YO-KING|倉持君]]からですよ」と解説している<ref>みうらじゅん対談集 正論。、みうらじゅん、[[コアマガジン]]、2009年、p231、234</ref>。みうらも[[えのきどいちろう]]も「拓郎さんを選んでなかったら、今の仕事はしていない」と話している<ref>「[[みうらじゅんの「サブカルジェッター」〜2番目がいいんじゃない]]」、[[TBSラジオ]]、2008年1月26日放送、[https://web.archive.org/web/20080516101536/http://www.tbsradio.jp/mj/2008/01/ 番組公式サイト ジェッター回顧録2008年1月]</ref>。
 
* [[泉麻人]]も、今の仕事をするキッカケを与えてくれた一冊は、拓郎の著書「気ままな絵日記」で、「こういう[[エッセー]]みたいな文章なら書ける」「こんな本だったら出してみたい」と思ったと話している。
 
* 中学時代の[[中森明夫]]は「[[吉田拓郎のオールナイトニッポン|オールナイトニッポン]]」の拓郎の扇動にすっかり感化され、「[[#つま恋オールナイトコンサート|つま恋オールナイトコンサート]]」は、その拓郎から招集をかけられたようなものだったと話している。行くか行くまいか最後まで迷ったが、18歳未満の終夜観客は不可とのお達しが出たことで断念したという。中森にとって「東京は、拓郎らフォーク歌手やアイドルが棲む街」で、つま恋の行われた1975年に初めて上京し、[[原宿]]のペニーレイン<ref group="注釈">ペニーレインは原宿にあった伝説のバー。当時、ユイ音楽工房社長だった後藤由多加が飲食店事業の一環として1974年に立ち上げた。拓郎の楽曲「ペニーレインでバーボン」で有名になり、修学旅行のコースにもなった"1970年代原宿の象徴"ともいわれる名店([http://www.bunkatsushin.com/varieties/article.aspx?id=2595&bc=2 原宿ペニーレインを舞台化!! - 文化通信.com]、[http://pennylane.forlife.jp/category/pennylane pennylane | あの頃僕らはペニーレインで公式サイト ペニーレインとは]、[http://www.oricon.co.jp/music/musicstreet/1055/ 『Vol.14 フォークソング+朗読劇 レコード会社の新しい試み』]、[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/04/29/kiji/K20140429008061900.html 拓郎名曲の舞台 主演に“インディーズの歌姫”抜てき])。休日は終日満員となり、マッチが一日500個消えていき、地方から上京したヤングが地元に持ち帰るマッチはプレミアムがついて売れたという([[週刊サンケイ]]、1975年5月8日号、p38-40)。1990年に閉店、2006年に復活した。</ref>{{Sfn|石原信一|1980|p=46}}などにも行き東京を感じた。「1975年に上京していなければ、私は表現者になっていない」と話している。中森は拓郎を「かつて体制と闘った若者のカリスマが、時代を経て、今や老いた団塊の星として病と闘っている」と述べている<ref>週刊現代、2011年8月13日号、p126</ref>。
 
* [[森達也]]も拓郎の深夜放送を夢中になって聴いたという<ref>放送禁止歌手 山平和彦の生涯、p247</ref>。
 
* 拓郎と[[矢沢永吉]]ファンという[[重松清]]は「拓郎や矢沢は、地方に住む僕たちに『上京の物語』を与えてくれた」と話している<ref>[http://www.bukatsu.com/rotary-50th.html 茅ヶ崎ロータリークラブ 創立50周年記念講演 直木賞作家・重松清『命を語ることば』]</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/nie/note/feature/books/03kiji/01-04.html 重松清さん×糸井重里さんの対談|作家による読書の楽しさを伝える対談]</ref><ref>[[週刊現代]] [[講談社]] 2009年10月17日号71頁</ref>。
 
* [[箭内道彦]]は、[[松山千春]]や吉田拓郎に憧れ、中学二年からギターを始めたという<ref>[http://www.hbc.co.jp/radio/carnavi/album/a12_1023/index.html 10月23日放送 「クリエイティブディレクター箭内道彦さん」]</ref>。
 
* [[任天堂]]の[[役員 (会社)|専務取締役]]情報開発本部長で[[ゲームクリエイター]]・[[宮本茂]]は、大学時代に拓郎にハマったと話している<ref>[http://www.nintendo.co.jp/wii/interview/r64j/vol1/ 社長が訊く『Wii Music』 - 任天堂]</ref>。
 
* [[2013年]]、[[サッカー日本代表]]の[[内田篤人]]が「拓郎の曲を聴き込んでいる」との新聞記事を読みCDを大量にプレゼントした<ref>[http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00247933.html サッカー・内田篤人選手、吉田拓郎さんの曲でコンフェデ杯へ闘志 - FNN]</ref><ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/japan/news/20130608-OHT1T00004.htm 内田、吉田拓郎ソングで士気アップ!プレゼントCD持参]</ref>。内田の一番好きな拓郎曲は「[[外は白い雪の夜]]」という。
 
* この他、[[江田憲司]]、[[高須基仁]]、[[佐々部清]]、[[逢坂誠二]]、[[森永卓郎]]らが、拓郎から特に大きな影響を受けたと話している<ref name="Subaru" /><ref>[http://www.eda-k.net/media/magazine/201009/20100928.html 「月刊ミュージックスター」にインタビュー記事掲載 - 江田けんじNET]<br />[http://ameblo.jp/eda-kenji/entry-10768260442.html 吉田拓郎・・・我が青春|江田 けんじオフィシャルブログ Powered by Ameba]<br />[http://news.livedoor.com/article/detail/3624169/ 内外タイムス - 高須基仁のメディア国士無双]<br />[http://www.1101.com/hondana/2008-08-19.html ほぼ日刊イトイ新聞 - あのひとの本棚。]<br />週刊現代 2009年10月17日号、p71<br />en-taxi 第21号、p96-99<br />『[[ライオンのごきげんよう]]』(2012年6月15日放送分)より。[http://kakaku.com/tv/channel=8/programID=406/episodeID=571439/ 価格.com - 「ライオンのごきげんよう」2012年6月15日(金)放送内容]、[http://www.asagei.com/8792 森永卓郎の俺が震えた1曲、吉田拓郎「人間なんて」 | アサ芸プラス]</ref>。
 
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== 脚注 ==
 
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=== 注釈 ===
 
 
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=== 出典 ===
 
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== 参考文献 ==
 
=== 著書 ===
 
* {{Cite |和書|author=吉田拓郎|title=気ままな絵日記 |date=1972 |publisher=立風書房|isbn= |ref=harv }}
 
* {{Cite |和書|author=吉田拓郎|title=明日に向かって走れ |date=1976 |publisher=八曜社|isbn= |ref=harv }}
 
* {{Cite |和書|author=吉田拓郎|title=俺だけダルセーニョ |date=1984 |publisher=集英社|isbn= |ref=harv }}
 
* {{Cite |和書|author=吉田拓郎|title=ふたたび自分の事は棚に上げて |series=BIG ORIGINAL BOOKS |date=1994 |publisher=小学館 |isbn=978-4093653220 |re
 
f=harv }}
 
* {{Cite |和書|author=吉田拓郎 |title=もういらない |date=2002-04 |publisher=祥伝社 |isbn=4-396-42035-8 |ref=harv}}
 
 
 
=== 解説書等 ===
 
* {{Cite |和書|author=石原信一|title=吉田拓郎 挽歌を撃て|year=1980|publisher=八曜社 |isbn= |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=矢沢保 |title=フォーク俺たちのうた |date=1980 |edition=改訂新 |publisher=あゆみ出版 |ncid=BN11565436 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=石原信一|title=俺たちが愛した拓郎|year=1985|publisher=八曜社 |isbn=978-4-8270-0082-5 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=シンコーミュージック|title=フォーク黄金時代(1969〜1978) {{small|(CUT-UP-FROM [[YOUNG GUITAR]])}}||year=1992|publisher=シンコーミュージック|isbn=|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=田家秀樹|authorlink=田家秀樹 |title=吉田拓郎ヒストリー1970-1993 |series=ぴあbook. ぴあmusic collection ; 4 |publisher=ぴあ |date=1994-01 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=キンキオールスターズ |title=「LOVE LOVEあいしてる」完全読本 |date=1999-10 |publisher=飛天出版 |isbn=978-4894401594 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=田家秀樹|title=J-POP時評 1989-2001 音楽の向こうに現代が見える |date=2001-08-15|publisher=ヤマハミュージックメディア|isbn=4-636-20982-6 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=Jロック&ポップスCD名盤ガイド編集委員会|title=Jロック&ポップスCD名盤ガイド | year=2001 |publisher=[[学研ホールディングス|立風書房]] |isbn=4-651-82048-4 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=恩蔵茂 |title=ニッポンPOPの黄金時代 |date=2001-11 |publisher=[[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]] |isbn=4-584-12025-0 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=坂崎幸之助 |title=坂崎幸之助のJ-POPスクール |date=2003 |publisher=岩波書店 |isbn=4007000603 |series=岩波アクティブ新書, 60 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=吉田拓郎 |title=晴れときどき拓郎―Younger Than Yesterday. |date=2003-06 |publisher=小学館 |isbn=978-4093796224 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=別冊宝島編集部|title=音楽誌が書かないJポップ批評44 拓郎&陽水と「フォーク黄金時代」|series=別冊宝島1346|date=2006-08|publisher=宝島社|isbn=978-4796654258 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=田家秀樹|title=吉田拓郎|series=地球音楽ライブラリー|date=2007-01-15|publisher=TOKYO FM出版|isbn=978-4-88745-179-7 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=シンコーミュージック |title=吉田拓郎これが青春 |date=2007-01-31 |publisher=[[シンコーミュージック・エンタテイメント]] |isbn=9784401630851 |series=ヤング・ギター・クロニクル, vol. 1 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=田家秀樹 |title=いつも見ていた広島 : ダウンタウンズ物語 : 小説吉田拓郎 |date=2007-09 |publisher=小学館 |isbn=9784093797122 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|editor=音楽出版社|title=吉田拓郎読本|year=2008|publisher=音楽出版社|isbn=978-4-86171-041-4 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=山本コウタロー|title=誰も知らなかった吉田拓郎|date=2009-12-11|publisher=イーストプレス|isbn=978-4-7816-7016-4 |ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=田家秀樹|title=70年代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら|year=2011|publisher=毎日新聞社|isbn=978-4-620-32046-5|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=シンコーミュージック|title=日本の男性シンガー・ソングライター|series=ディスク・コレクション|date=2013-09|publisher=シンコーミュージック・エンタテイメント|isbn=9784401638857|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=馬飼野元宏|title=日本のフォーク完全読本|date=2014-06-30|publisher=シンコーミュージック・エンタテイメント|isbn=978-4401639724|ref=harv}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.153-0051.com/takeda/index.html 竹田企画]
 
* [http://www.sonymusic.co.jp/artist/TakuroYoshida/ 吉田拓郎 | ソニーミュージック オフィシャルサイト]
 
* [http://www.forlife.co.jp/artist/fl00071/ 吉田拓郎 | FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT,INC.]
 
* [http://www.teichiku.co.jp/artist/takuro/ 吉田拓郎 - IMPERIAL RECORDS]
 
* [http://avex.jp/takuro/ TAKURO YOSHIDA (吉田拓郎) avex official website]
 
* [http://www5f.biglobe.ne.jp/~nobu-yamada/fouku11.html 吉田拓郎の詩]
 
* [http://takuro.sitev.net/other_works.html 吉田拓郎提供曲]
 
 
 
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2018/8/6/ (月) 07:11時点における最新版

吉田 拓郎
出生名 吉田 拓郎
別名 よしだ たくろう
入江 剣
生誕 (1946-04-05) 1946年4月5日(78歳)
日本の旗 日本 鹿児島県伊佐郡大口町
(現:伊佐市
出身地 日本の旗 日本 広島県広島市(現南区
学歴 広島商科大学(現:広島修道大学)卒業
ジャンル J-POP
フォークソング
ニューミュージック
ロック
職業 シンガーソングライター
作詞家
作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカル
コーラス
ギター
ハーモニカ
ベース
パーカッション
活動期間 1970年 -
レーベル ELEC
1970年 - 1971年
CBS SONY/ODYSSEY
1972年 - 1975年
FORLIFE
1975年 - 1999年
IMPERIAL
2000年 - 2009年
avex trax
2009年 - )
事務所 竹田企画
共同作業者 新六文銭
瀬尾一三
愛奴
かまやつひろし
松任谷正隆
ブッカー・T・ジョーンズ
加藤和彦
LOVE LOVE ALL STARS
吉田建
武部聡志
鳥山雄司
公式サイト 吉田拓郎 avex official website
著名使用楽器
ギブソンJ-45
マーチンD-35
ヤマハL-53
フェンダー・テレキャスター(ビグスビー・アーム付きモデルなど多数)
フェンダー・テレキャスター・シンライン
ギブソン・レスポール
ヤマハCPX-15NA
ボブ・ディラン

吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本シンガーソングライター作詞家作曲家編曲家音楽プロデューサーフォーライフ・レコードの第2代社長である。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。鹿児島県伊佐郡大口町(現:伊佐市)出身。広島商科大学(現:広島修道大学)卒業。血液型A型。身長176.5cm。

夫人は四角佳子1972年 - 1975年)→浅田美代子1977年 - 1983年)→森下愛子1986年 -)。

楽曲提供者としては入江剣[1]の名も用いている。

脚注

  1. 好きだったモデル・入江美樹小澤征爾夫人)と好きだった女の子の名前(準ちゃんと思われる)を足したもの(田家秀樹 2007b, pp. 164,184,185、吉田拓郎 1994, p. 176)。