アントワーヌ・ラヴォアジエ

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ファイル:David - Portrait of Monsieur Lavoisier and His Wife.jpg
ジャック=ルイ・ダヴィッドによって描かれたラヴォアジエと妻マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズfrançais版の肖像画
ファイル:Lavoisier decomposition air.png
マリー=アンヌが描いた実験図。A側の方を熱してAは水銀、Eは空気である
ファイル:SeimiKaisouChemistry.jpg
宇田川榕菴により描かれた『舎密開宗』。蘭学として伝わったラヴォアジエの水素燃焼実験図
ファイル:Antoine lavoisier color.jpg
アントワーヌ・ラヴォアジエ

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(ラボアジェなどとも、フランス語:Antoine-Laurent de Lavoisier, [ɑ̃twan lɔʁɑ̃ də lavwazje]1743年8月26日 - 1794年5月8日)は、フランス王国パリ出身の化学者貴族質量保存の法則発見酸素命名フロギストン説を打破したことから「近代化学の父」と称される[1][2][3][4][5][6]

1774年体積重量精密にはかる定量実験を行い、化学反応の前後では質量が変化しないという質量保存の法則を発見[3][7][8]。また、ドイツの化学者、医師ゲオルク・シュタールが提唱し当時支配的であった、「燃焼は一種の分解現象でありフロギストンが飛び出すことで熱や炎が発生するとする説(フロギストン説)」を退け、1774年に燃焼を「酸素との結合」として説明した最初の人物で、1779年に酸素を「オキシジェーヌ(oxygène)」と命名した[9]。ただし、これはと酸素とを混同したための命名であった。

しばしば「酸素の発見者」と言及されるが、酸素自体の最初の発見者は、イギリスの医者ジョン・メーヨー血液中より酸素を発見していたが、当時は受け入れられず、その後1775年3月にイギリス自然哲学者教育者神学者ジョゼフ・プリーストリーが再び発見し、プリーストリーに優先権があるため、厳密な表現ではない[10]。なお、プリーストリーは酸素の発見論文を1775年に王立協会に提出しているため、化学史的に酸素の発見者とされる人物はプリーストリーである[11]

また、化学的には誤りではあったが物体の温度変化を「カロリック」によって引き起こされるものだとし、これを体系づけてカロリック説を提唱した。

参照: カロリック説

生涯

出生から学生時代

1743年8月26日、フランス王国パリに裕福な弁護士である父の下に生まれるが、ラヴォアジエが5歳の頃にを失い、莫大な遺産を引きついだ。そして叔母の下で育てられた[12]

1754年より1761年までマザラン学校français版化学植物学天文学数学を学ぶ。その後は父の職を継ぐべく法律家を目指した。

1761年からはパリ大学法学部に進学して1763年学士号を修得。翌年1764年には弁護士試験に合格して高等法院法学士となるがパリ大学在学中に同国出身の天文学者であるニコラ・ルイ・ド・ラカーユ博物学者ベルナール・ド・ジュシューからは植物学を学び、以前からラヴォアジエ家と親交があった博物学者、鉱物学者ジャン=エティエンヌ・ゲタールからは地質学鉱物学を、化学者のギヨーム=フランソワ・ルエルfrançais版からは化学を学んで自然科学に興味を持つようになる[2][12]。また、法学部に在籍しているにもかかわらず化学の講義を聴講したり[3]喜望峰に滞在して天文学の研究をしたり[5]、ゲタールと共にフランスの地質図作成に協力した[2]

その後もゲタールとアルザス=ロレーヌなどを旅行して各地を回った際、各地方の石膏に関心を示して比較研究をしたことがラヴォアジエの最初の研究であった[2]。この石膏に関する研究は後にラヴォアジエの特記すべき定量実験の兆しであり、推測ではない確実な実験が重視されている[9]

フランス科学アカデミー入会から結婚まで

1766年フランス科学アカデミーが『都市の街路に最良な夜間照明法』というテーマで論文を懸賞募集し、ラヴォアジエは最初に著した論文にもかかわらず1766年4月9日に1等賞を得て[5]、時のフランス国王であったルイ15世より金メダルが授与された。その後、ゲタールと地質図作成の旅行で集めた飲料水分析した結果を発表して[13]1768年5月18日にフランス科学アカデミーの会員となった。この頃よりイギリスの化学者で物理学者ヘンリー・キャヴェンディッシュ水素を発見したが、ラヴォアジエは燃焼に興味を示して、当時支配的であった四大元素説で「に変わることがある」という説があったが、同年末から翌1769年にかけて、水をガラス容器に入れて101日間も密閉状態で沸騰させた後に正確に重さを測る実験(「ペリカン[14]の実験」)を行い、「水は土に変化しうる」という説は正しくないことを示した。

1768年にフランス科学アカデミーから『空から巨大な石が落下して農夫が働いていた近くの地面にめり込んだ』という報告書の検討を依頼された際、ラヴォアジエは、空から巨大な石が落下することは絶対にないと思い目撃者の勘違いか嘘と返事した[15]

ラヴォアジエは裕福で資産を十分に持っており、実験器具を買うお金があったにもかかわらず、実験器具を買う費用を資産からは出さず、自分の資産を有利に運用しようと、1768年頃より徴税請負人の仕事(市民から税金を取り立て経済的に苦しめ国王に引き渡すかわりに自分は高収入を得る仕事で、しばしば市民を過剰に苦しめたので、当時の市民から憎まれていた職業)に就いた。また、ラヴォアジエにとって実験とは"道楽"であると物理学者の小山慶太は述べており[16]、週に1日は実験に耽り、ラヴォアジエはその1日を"幸福の1日"と呼んでいた[17]

1771年12月6日、徴税請負人長官のジャック・ポールズ(Jacques Paulze)のであるマリー=アンヌ・ピエレット・ポールズfrançais版と、パリにあるサンロック教会français版結婚する。二人の間に子供はできなかったものの、妻マリー=アンヌは夫ラヴォアジエの役に立とうと英語ラテン語イタリア語を学び、化学や絵画の描き方などを習得。そしてアイルランド科学者であるリチャード・カーワンやプリーストリーの論文や手紙をラヴォアジエのためにフランス語に翻訳し、実験の際には非常に細かい点までスケッチし、記録に残した[18]

様々な実験から『化学命名法』出版まで

1772年頃には貴族の地位を金で得た。1775年頃は火薬硝石公社の火薬管理監督官となり、翌1776年には兵器廠(砲兵工廠)に移り住み、そこに実験室をつくり、実験の大部分をそこで行うことになった。また、マリー=アンヌも自身のサロンを構え、客人を招いていた[13]。余談だが、この実験室は他の化学者達が集う場所として有名になった[6]。同実験室で大砲用の火薬を改良し、硝石の生産量を大幅に増やして火薬の製造力を増大させた[4][19]。そして、火薬に炭酸カリウムを入れると火力が上がることを発見して農家に報酬金を支払うことで硝石を作らせた。このようにラヴォアジエは農業にも関心を示し、後に王立農業学会、フランス政府の農業委員会に加わることとなった[4]

1774年1月に上記の「ペリカンの実験」より化学反応の前後では質量が変化しないことを見出し、質量は変化しないとする法則(「質量保存の法則」)を発見。

当時は燃焼を説明する理論としては、シュタールのフロギストン説が最も知られ、主流(正統)であった。同説は、燃焼とは一種の分解現象だと説明し、燃焼物中に含まれていたフロギストンが出てきて熱や炎となる、とされた。ただし、一般に燃焼によって重量が軽くなるのに対し、金属を加熱して金属灰にすると重量が増すことが明らかになっていて、その矛盾が課題になっていた。ラヴォアジエは1772年に、まずリンを燃焼させる実験を行ってその重量が増加することを確認し、それに続いて硫黄についても燃焼実験を行い同様に重量が増すことを確認したが、この燃焼実験のときに、空気が吸収されたことから、燃焼のときに重量が増加する原因は、空気が燃焼物に吸収されることによるのだと考え、1773年初頭に、燃焼と重量増加の問題を徹底的に調査しようと決意した。この段階で、ラヴォアジエはフロギストンの存在を否定したりはせず、「燃焼時にはフロギストンと空気が入れ替わる」とした[20]。またラヴォアジエは、吸収される空気は、ブラックが1755年ころ発見した「固定空気」(現在で言うところの「二酸化炭素」)ではないかと推定していた[20]。 なお、ラヴォアジエは1773年2月20日付けの実験ノートに「化学に於ける革命になる」と書いた[9]

1774年4月にはレトルトを入れて加熱し、燃焼によりできた錫灰の重さを比較する「レトルトの実験」を行い、アイルランドの貴族で化学者のロバート・ボイルが提唱した「火の粒子(フロギストン)」は存在しない、と判断。同年の11月12日にフランス科学アカデミーでそれを発表した。なお、同年の10月にプリーストリーがフランスを訪れ、彼から、水銀灰を加熱すると何らかの気体が出てくる、その気体は燃焼を助ける、という話を聴いた[21]。 翌1775年に、ラヴォアジエは酸化水銀を強熱してある種の気体を得る実験を繰り返し[22]、その気体と「固定空気」(=二酸化炭素)とは別のものだと断定した[20]彼はこの気体と結合することでが生じる、と考えたので、この気体を「oxygène オクシジェーヌ」(酸の素となるもの、と言う意味)と命名した。

燃焼とは、この気体と物質が結合することだと気づいた。だが実は、スウェーデンの化学者で薬学者カール・ヴィルヘルム・シェーレが1773年頃にその物質をすでに発見しており「傷んだ空気」と呼んでいて、未発表であったにすぎなかった。

1777年に燃焼は「物質と気体が結合すること」と説明し、1779年にその気体を「oxygène(酸素)」と名付けた(実際は水素イオンであった[2])。

1781年にキャヴェンディッシュが、別の ある気体と酸素を混ぜてをつくり出した実験に関心を示したラヴォアジエは1783年にキャヴェンディッシュが行った実験を定量実験を用いて追試し、水は元素でないこと、物質が組み合わさってできているものであることを証明し、その別の気体を、水を作り出す素であるという理屈で「hydrogène イドロジェーヌ」(「水の素」という意味)と名付けた。最初はフロギストン説に肯定的であったラヴォアジエも1783年を機にしてフロギストンに関する論文を著し、フロギストン説を公然と完全否定するようになった[9]1782年から翌年の1783年にかけて同国出身の自然科学者、数学者、物理学者、天文学者であるピエール=シモン・ラプラスと共に氷熱量計を作り、1777年には、動物呼吸というのは、一種の燃焼であることを実験によって裏付けた[2][9]。(つまり酸素と結合することであると示した)。

1787年、ラヴォアジエは同国出身の化学者で医師のクロード・ルイ・ベルトレールイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボーアントワーヌ・ド・フルクロワfrançais版らとともに、新しい化学用語が書かれた『化学命名法』を著した。これは元素に新たな定義を与え、物質の命名法を定め、また、の成分が酸素と水素である、と記したものであった。ただし、これについては実はラヴォアジエに先立ってキャヴェンディッシュが既に発見していて、最初の発見者は彼なのだが、かなりの変わり者で人間嫌いだったキャヴェンディッシュはラヴォアジエの発表に何の関心も優先権も主張しなかったため、ラヴォアジエに優先権が発生することとなった。

同年の1787年からは彼が所有地を持つオルレアン地方議会で第三身分の代議員になっていた。フランスでは当時、専制的な王が無駄遣いや贅沢の限りをつくし、国民を苦しめており、1787年には貴族らも王権に反発し、反抗を始めていた。

フランス革命勃発、『化学原論』出版から処刑まで

1789年、ラヴォアジエは『化学原論English版(邦訳名:化学のはじめ)』を出版し、そこで現在の元素に相当する、33の単一物質のリスト[23] を示した。これにより、化学の革命を成し遂げた、ともいえる。(ただし、そのリストにはカロリック熱素)も含まれている[23])。 13個の図版はマリー=アンヌが手がけ、第一部には気体の生成分解、第二部は塩基に関する記述、第三部には化学の実験器具とその操作について書かれ、質量保存の法則についての明確な記述が書かれてある[24]。因みに『化学原論』は出版からその後の10年間、ヨーロッパ全土で標準的な教科書とされた[2]。なお同年、ラヴォアジエは新たに窒素ギリシア語で「生命がない」と言う意の表現「アゾティコス」(azotikos)に因んで「アゾート」(azote)と名付けた[25]

同年1789年7月14日にはバスティーユ襲撃が勃発しフランス革命が進行。当時ラヴォアジエはパリで貴族階級の補足代議員を務めていた。

1790年には各温度を測り、体積の蒸留水の質量を測定して新しい質量の単位を決議するため新度量衡法設立委員会の委員を務めた。この頃にはラヴォアジエの実験の対象は気体の化学から、呼吸と燃焼の関係性を調べる生理学的なものに移っていった[26]

1791年に徴税請負制度が廃止されたが、ラヴォアジエはフランス国王ルイ16世に財政的な腕が買われて国家財政委員に任命された。ラヴォアジエはフランスの金融や徴税制度を改革しようとした。

フランス革命がひたひたと進行する中、1792年ラヴォアジエは政府関係の職を全て辞任し、兵器廠にあった住居(実験室でもある住居)からも引っ越し、科学アカデミーの活動に専念する。しかし、革命によりフランス科学アカデミーも閉鎖となり、ラヴォアジエの呼吸と燃焼に関する生理学的な実験は途中で終わった。

1793年11月24日には革命政府は(それまで専制的な王の手先・共犯者となり市民を苦しめていた者である)徴税請負人を全員逮捕すべく指名手配した。彼ら徴税請負人は、市民から正規の税に加え、しばしば不当で高額な手数料をさらにとり、市民を苦しめていたためである。ラヴォアジエは自首したが、徴税請負人の娘と結婚していたことなども理由に投獄された。しかし、ラヴォアジエはそこまで酷い徴税はせず、むしろ税の負担を減らそうと努力していた[2]

1794年5月8日、革命裁判所における審判で「フランス人民に対する陰謀」との罪[27][28]死刑判決が下った。ラヴォアジエの弁護人はラヴォアジエの科学上の実績を持ち出して弁論を行ったが「共和国科学者は不要である[29]」と裁判長ジャン=バティスト・コフィナルEnglish版に指摘され、その日のうちにコンコルド広場にあるギロチンで処刑された。なお、ラヴォアジエが投獄、処刑された理由については、革命指導者の一人で化学者でもあったジャン=ポール・マラーが、かつて学会に提出した論文が審査を担当したラヴォアジエによって却下されたこと(定量実験をモットーとするラヴォアジエによれば「実験もせず憶測の内容であったため」却下)への逆恨みによるものである、とも伝えられている[30]

同国出身の天文学者であるジョゼフ=ルイ・ラグランジュは、ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」[31] とラヴォアジエの才能を惜しんだ[32]

2013年現在ではパリの市役所には、ラヴォアジエの功績を讃えて像が飾られている。

ギロチンの都市伝説

ラヴォアジエがギロチンにかけられる際、処刑後の人に意識があるのかを実験するため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言して実際に瞬きを行なったという話がある。[33]しかしながらラヴォアジエの処刑は35分間で26人を処刑する流れ作業の途中で行われ、その場にはラグランジュら数名の科学者が立ち合ってはいたものの、警察官の列によってギロチンから隔離されており、そのような実験をする時間も猶予もなかった。また、実験を依頼されたのはしばしばラグランジュとされているにもかかわらず、ラグランジュの著書にそのような記述は全くない。よってこれらの話は事実ではなく、ボーリュー医師の1905年の論文などをもとに1990年代以降創られた都市伝説であると考えられる。1998年にディスカバリーチャンネルで放送された番組『ギロチン』の中で、神経外科医の解説とともに出所不明のまま取り上げられてしまったことで[34]、この都市伝説が広まってしまったと歴史家のジェンセンは指摘している。[35]

また、かつてサーモフィッシャー・サイエンティフィック社がラヴォアジエのデスマスクを所有していると主張した時期があるが、こちらも贋作であると考えられる[35]

ラヴォアジエの元素表

ラヴォアジエは、『化学原論』で、次の33項目を単一物質[36]として挙げている。光と熱素、土、ホウ酸基の4つは、現在では元素として扱われていない。

分類 元素
自然界に広くあるもの(5つ) 、カロリック(熱素)、酸素窒素水素
非金属(6つ) 硫黄リン炭素、塩酸基(塩素)、フッ酸基(フッ素)、ホウ酸基
金属(17つ) アンチモンヒ素ビスマスコバルトスズモリブデン
ニッケル白金タングステン亜鉛マンガン水銀     
土(5つ) ライム(酸化カルシウム)、マグネシア、バリタ(酸化バリウム)、アルミナシリカ

脚注

  1. ドイツ思想家フリードリヒ・エンゲルスはその著書『自然の弁証法』で、「「近代化学の父」と呼ぶ人物にはジョン・ドルトンが相応しい」としている。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 世界大百科事典 1972, p. 246.
  3. 3.0 3.1 3.2 ラボアジエとは - コトバンク、2013年3月27日閲覧。
  4. 4.0 4.1 4.2 ロイド 2012, p. 411.
  5. 5.0 5.1 5.2 グランド現代百科事典 1983, p. 352.
  6. 6.0 6.1 世界文化大百科事典 1971, p. 8.
  7. 大宮 2005, p. 42.
  8. 臺、鈴木 2008, p. 184.
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 万有百科大事典 1974, p. 642.
  10. Kuhn 1996, pp. 53–60; Schofield 2004, pp. 112–13。進展中だった科学革命の中でプリーストリーの他にスウェーデンの化学者、薬学者カール・ヴィルヘルム・シェーレが個別に酸素を発見しているため、正確に特定することは困難だが、結果としてラヴォアジエが最初に酸素を「酸素(oxygène)」と命名したことに変わりはない。またアメリカ科学史家の トーマス・クーンは『科学革命の構造』の中でパラダイムシフトの概念で説明しようとした。
  11. 桜井 2009, p. 65.
  12. 12.0 12.1 万有百科大事典 1974, p. 641.
  13. 13.0 13.1 廣田 2013, p. 33.
  14. ここでのペリカンはペリカンではなく形が鳥のペリカンに似ていることからペリカンと名付けられた蒸留器を指す。
  15. コリン・ウィルソン (1989年6月30日). 世界不思議百科. 青土社. 
  16. 小山 2013, p. 66.
  17. 小山 2013, p. 67.
  18. 川島, 慶子 (2006), “ラヴワジエ夫人:化学革命の女神か?” (PDF), サイエンスネット (数研出版) (26): 6-9, http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/26/Sc26_2.pdf . 2011閲覧. 
  19. 参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ
  20. 20.0 20.1 20.2 廣田 2013, p. 29.
  21. 廣田 2013, p. 28.
  22. 注 - 水銀を12日間加熱した
  23. 23.0 23.1 Traité élémentaire de chimie, p.192。[1]  [2]
  24. 万有百科大事典 1974, p. 643.
  25. 桜井 2009, p. 57.
  26. 大日本百科事典 1971, p. 424.
  27. 参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ
  28. あるいは「水と有害物質タバコに混入した」との架空の罪。
  29. La République n'a pas besoin de savants ni de chimistes.
  30. 但し、マラーは投獄に関与があった可能性までは排除できないが、1793年7月13日に殺害されており、処刑に関与があったとは考えにくい。
  31. Il ne leur a fallu qu'un moment pour faire tomber cette tête et cent années, peut-être, ne suffiront pas pour en reproduire une semblable.
  32. No. 728:DEATH OF LAVOISIER、2013年4月14日閲覧。
  33. 斬首 ― 切断された人間の頭部は意識を有するか - X51.ORG、2013年4月14日閲覧。
  34. Adams, C. "Triumph of the Straight Dope," Ballantine Books: New York, NY 1999. なお番組で解説した神経外科医のRobert Finkは後の取材に対し、この話は知り合いから聞かされた話であり、話の出所までは確認していなかったと答えている。
  35. 35.0 35.1 Jensen, W. B. "Did Lavoisier Blink?" J. Chem. Educ. 2004, 81 (5) , 629.
  36. 敢えて訳せば元素とも訳せる。

参考文献

関連項目