ウィリアムズF1
ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング(Williams Grand Prix Engineering)は、イギリスに本拠地を置くF1のレーシング・チームで、1977年にフランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドにより設立された。前身は1966年に設立されたフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ(Frank Williams Racing Cars)である。
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概要
1970年代に誕生したコンストラクターとしては最も成功を収め、過去にドライバーズタイトル7回、コンストラクターズタイトル9回(2010年時点)を獲得している。フェラーリ、マクラーレンと並び、F1を代表する名門チームである。
チームの特色は「頑固なエンジニア集団」と表現される。1980年代までは車作りは保守的で、ターボエンジンやカーボンファイバーモノコックの導入は他チームより遅かった。1990年代前半にはR&D能力を活かし、セミオートマチックトランスミッション、アクティブサスペンション、トラクションコントロールなどのハイテク競争をリードした。またドライバーとの契約時に技術知識に関する筆記テストを行うユニークな特徴がある[1][2]。
チーム内に明確な序列を設けず「チャンピオンは独力で勝ち取れ」という方針のため、コンストラクターズチャンピオンを獲得してもドライバーズチャンピオンを獲得できなかったことが他チームより多く、またドライバーに対してドライな態度を取る事も目立ち、チャンピオンを獲得したドライバーが契約を更新せずにチームを離脱することもあった(後述)。
2017年現在、チーム株式の過半数はオーナーのフランク・ウィリアムズが所有しているが、元チーム関係者のパトリック・ヘッドや、アメリカの病院経営者であるブラッド・ホリンガー、チーフテクニカルオフィサーのパディ・ロウといった人物も大株主に名前を連ねている[3][4]。かつてはトト・ヴォルフも株主の1人であった[3]。
マスコミでの日本語の表記は、昔から小文字を使わない「ウイリアムズ」が多い。
チームの歴史
1966年〜1976年 チーム創設と苦闘時代
1966年、フランク・ウィリアムズはプライベートチームの「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」を設立し、友人のピアス・カレッジやマックス・モズレーなどと共にF3やF2でレース活動を行った。1969年にはブラバム・BT26Aを購入し、F1参戦を果たす。カレッジは1967年にデビューしていたが、この年ウィリアムズに移籍して2位表彰台を獲得した。
1970年はイタリアのスポーツカーメーカーデ・トマソと提携し、マネージメント面をウィリアムズが、技術面をデ・トマソが担当した(コンストラクター名は「デ・トマソ」)。この年は一転して苦戦することとなり、第5戦オランダGPでカレッジが事故死してしまう。その後、ブライアン・レッドマン、ティム・シェンケンがドライブするも予選落ちや途中リタイヤを繰り返し、結局1度も入賞どころか完走さえできなかった。
1971年はマーチのプライベーターとして参戦。コンストラクターとしての自立を目指して、1972年には玩具メーカーのポリトイの大型支援を受け、初の自製シャーシとなるポリトイ・FX-3を開発した。しかし、資金難により投入が遅れた挙句、デビューレースのイギリスGPでいきなりクラッシュしてしまい、次戦から再びマーチ・721を使用した。終盤のイタリアGPで再び持ち込まれたが、サスペンション系に欠陥が見つかったため使用されなかった。
1973年には新たにイソとマールボロがスポンサーになり、コンストラクター名「イソ・マールボロ」として参戦。1974年にはフランクのイニシャル(Frank Williams)を冠した最初のマシンFW01がデビューした。
1975年にはコンストラクター名も「ウィリアムズ」と改め、ドイツGPにてジャック・ラフィットが表彰台(2位)を獲得する。しかし、慢性的な資金難から抜け出せず、持参金つきドライバーにシートを売って遣り繰りする状態が続いた。フランク自身も破産寸前にまで追い込まれたため、カナダの大富豪であるウォルター・ウルフに株式の一部を売却し、1976年には共同オーナーという形をとった。しかし、両者は1年限りで袂を分かち、フランクはチーム資産を売却。このチームは1977年よりウルフとして参戦することになる。
1977年〜1983年 再出発から頂点へ
1977年、フランクはエンジニアのパトリック・ヘッドとともに新チームを設立。ウィリアムズが70%、ヘッドが30%を出資し「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」として再出発した。この年は一時的なつなぎとしてマーチ・761を購入して参戦した。
ヘッドは部下のフランク・ダーニー、ニール・オートレイ、ロス・ブラウンらを指揮して、強力な技術部門を構築。1978年のFW06ではコンサバティブな設計を採りつつ、1979年には最新のグラウンド・エフェクト理論を盛り込んだFW07を投入し、一気に優勝戦線に割り込んだ。
運営面でもサウジアラビア航空やアルビラッド、TAGなど複数のサウジアラビア企業のスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。フランクは営業活動でサウジアラビアの王室関係者のオフィスにマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたという。
1979年の第9戦イギリスGPでクレイ・レガツォーニがチーム初勝利を挙げ、残り6戦でFW07は4勝をあげた。そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズをドライバーズチャンピオンへと導いた。
1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムのネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。
1982年はターボエンジン勢に馬力で劣るものの、熟成されたFW08を駆るケケ・ロズベルグが堅実にポイントを積み重ね、わずか1勝で年間チャンピオンを獲得した。また、リヤを4輪にした6輪車のテストを続けていたが、規定変更により実戦には持ち出せなかった。
1984年〜1987年 ホンダとの提携
1983年は1勝に終わるが、スピリットにエンジンを供給していたホンダと契約し、同年末よりV6ターボエンジンを搭載した。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。そんな中、1984年のアメリカGPでロスベルグが優勝し、ホンダエンジンとしては17年ぶりの勝利をものにした。新たにスポンサーとなったインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)は80年代を通して円形のロゴをフロントに載せ続けた。
1985年にはキヤノンとのメインスポンサー契約が成立。ナイジェル・マンセルが加入し、FW10はホンダの新設計エンジンを搭載した。決勝レース中のタイヤ磨耗に苦戦したが、シーズン終盤にはサスペンションを改善し、シーズン最後に3連勝を飾った。ちなみにマンセルはその口火となる地元イギリスでの第14戦ヨーロッパGPが初優勝、出走72戦目で当時としてはデビュー後最も遅い初優勝だった。
1986年にはピケが加入。ホンダエンジンを武器に9勝し、3度目のコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、チームオーナーのフランクが交通事故により半身不随となり療養している間に、チーム内ではピケ派とマンセル派のいさかいが生じた。自国ドライバーのマンセルをチームが支持したのに対し、ホンダはピケの契約金を一部負担していたことからピケを支持していた。両ドライバーが険悪な関係となった間隙を突かれてマクラーレンのアラン・プロストにドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。
1987年はコンストラクターズを連覇し、ピケがマンセルとの戦いを制してチャンピオンを獲得した。また、ロータスに続いてアクティブサスペンションを投入し、イタリアGPで勝利している。ピケはこのシーズン限りでロータスに移籍、ホンダも運営に不満を持ち、ウィリアムズへのエンジン供給を打ち切った。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。
1988年 ジャッド時代
ホンダターボを失った1988年は、ノンターボのジャッドエンジンを搭載した。「ウィリアムズがジャッドエンジンを使用するにあたってホンダがジャッドとウィリアムズへ資金援助をしているのではないか」と噂になったが、ホンダはこれを否定した。マンセルが2回2位を獲得したものの、ジャッドエンジンの戦闘力不足、アクティブサスの熟成不足により成績は低迷。シーズン中盤のイギリスGP以降はノーマルサスペンションに戻す羽目になり、1978年シーズン以来の未勝利に終わった。
1989年〜1997年 ルノーとの黄金期
1989年にターボ禁止・NA統一が導入されるとルノーと契約し、マシンとエンジンの英仏共同開発路線を整えた。カナダGPではティエリー・ブーツェンが遅咲きの初優勝を達成しシーズン2勝を挙げた。
1990年にはリカルド・パトレーゼがサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポール・トゥ・ウィンを果たした。シーズン途中にはレイトンハウスから前衛的な空力設計者エイドリアン・ニューウェイが加入。堅実な性格のヘッドとの異なる個性が融合したFW14が生み出される。
マンセルが復帰した1991年は序盤にセミオートマチックトランスミッションのトラブルが多発。その後マクラーレンを急追するも、チームのミスなどが祟り、タイトルを逃した。
1992年はアクティブサスペンション[5]やトラクションコントロールを搭載したハイテクマシン、FW14Bが他チームを圧倒する速さで計10勝を挙げ、マンセルと共にダブルタイトルを獲得した。しかしマンセルはチームとの契約更新を巡る関係悪化から突如F1引退を表明(後にアメリカのCARTへ転向)、パトレーゼもベネトンへ移籍した。
1993年はFW14Bの正常進化形であるFW15C[6]を投入、1年間の休養から復帰したアラン・プロストと、テストドライバーから昇格したデイモン・ヒルがコンビを組んだ[9]。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは"0"と"2"となるが、プロストはフランス語で無能を示唆する"0"ではなく"2"を選んだ。プロストは4度目のタイトル獲得を最後に現役を引退し、ヒルは後半戦にかけて初優勝をふくむ3勝を挙げた。ウィリアムズは1992年から1993年にかけて24戦連続ポールポジションという記録を残し、F1マシンの電子制御の進化を牽引した。このシーズンを持ってメインスポンサーだったキヤノン、およびキャメルとの関係が終了。慣れ親しまれた「青・黄色・白・赤」のカラーリングも見納めになった。
1994年はロスマンズが新たにメインスポンサーとなり、ウィリアムズ入りを熱望していたアイルトン・セナが加入した。シーズン開幕前からこの組み合わせでチャンピオンは決定しているとさえ言われたが、ハイテクデバイス禁止を受けてデザインされたFW16は極端に不安定な特性をもち、ベネトンのミハエル・シューマッハに開幕連勝を許す。さらに第3戦サンマリノGPではセナがタンブレロコーナーのコンクリートウォールに激突、帰らぬ人となった(この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている)。イタリアの検察は過失致死の疑いでチーム首脳を告訴し、以後10年以上に渡り裁判が続くことになる(2005年に全員無罪が確定)。セナの後任にはテストドライバーのデビッド・クルサードが昇格したが、CARTの合間を縫ってマンセルもスポット参戦した。突如としてエースの重責を負うことになったヒルは、シューマッハが失格や出場停止となる間にポイント差を縮め、最終戦オーストラリアGPでの直接対決に持ち込んだが、シューマッハとの接触により涙を呑んだ(コンストラクターズは3連覇達成)。
1995年はベネトンもルノーエンジンを獲得し、同エンジンでの対決が注目された。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、シューマッハとロス・ブラウンの作戦に翻弄されたり、チームやドライバーのミス、FW17の信頼性に難があったことなどが災いし、ベネトンとシューマッハにダブルタイトルを奪われる結果に終わる。
1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わり、CARTチャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴが加入し、ヒルと二世ドライバーコンビを組む。ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得しあわや優勝と言う電撃的デビューを飾る。FW18が16戦12勝を挙げるほど他チームを圧倒する戦闘力を誇ったこともあり、チャンピオン争いはヒルとヴィルヌーヴの一騎打ちとなる。最終戦日本GPでヒルは史上初の親子二代チャンピオンを決定するも契約延長交渉が決裂、マンセル同様にチャンピオンがチームを去ることになった。これは1997年をもってルノーのワークス活動撤退が確定したことに伴い、ウィリアムズ側が新たにBMWエンジン獲得のためにドイツ人ドライバーとの契約を必要としていたためと言われる。そしてこの一件はウィリアムズにとって思わぬ大誤算を招く。ヒルに信頼を置いていたニューウェイの逆鱗に触れたこと(これに関する事前の相談もなかった)[10]に加え、ニューウェイがチームの株式保有を望んだことに対するチーム側との意見の不一致[11]も重なり、マクラーレンへの移籍を決断し出社拒否に至ったことから、チームとの間で法廷闘争にまで発展した。後年フランク・ウィリアムズ自身がヒル放出を「あれは大きな失敗だったな」と認める[12]ほど、後々チームにとって手痛い趣旨返しを食らうことになる。
翌1997年シーズンはヒルに替わりハインツ・ハラルド・フレンツェンが加入。「ヴィルヌーヴ+FW19の圧勝」という大方の予想に反してマシンのセッティングに苦慮し[13]、チームの戦略ミス[14]などもあって、ヴィルヌーブとフェラーリのシューマッハの激しいチャンピオン争いとなった。最終戦ヨーロッパGPの直接対決では、シューマッハとの接触を乗り切ったヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得、コンストラクターズタイトルも制した。このシーズン末をもってルノーエンジンはF1から一時撤退し、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。
1998年はスポンサーブランドがロスマンズからウィンフィールドに変更され、同チームでは珍しい赤いマシンカラーとなった。ルノーのカスタマー仕様エンジン(メカクローム)や、ニューウェイ去りし後のFW20シャシーの戦闘力不足などによりよもやの未勝利に終わり、コンストラクターズランキングでも移籍したヒルが初勝利をプレゼントしたジョーダンに肉薄されてしまった。シーズン終了後にはヴィルヌーヴとフレンツェンは揃ってチームを離脱する。
1999年はエンジン名をスーパーテックとし、新加入のラルフ・シューマッハが健闘したものの、優勝戦線からは遠ざかった。CARTチャンピオンとして迎え入れたアレッサンドロ・ザナルディは精彩を欠き、逆に、テストドライバーだったファン・パブロ・モントーヤがCARTでチャンピオンを獲得、更にジョーダンに移籍したフレンツェンが一時はチャンピオン争いに加わるほどの勢いを見せ、遂にコンストラクターズ争いでもジョーダンに抜かれると言う、様々な意味で皮肉なシーズンとなった。
2000年〜2005年 BMWとの提携
ホンダ、ルノーに続くパートナーとして、F1に復帰したBMWと提携。ル・マン24時間レースでの共同プロジェクトを経て、2000年より2009年までの長期契約を締結した。登録名はBMWウィリアムズF1 (BMW Williams F1) となり、マシンカラーリングもBMWワークスの白と紺を基調としたものに変わった[15]。2000年はラルフ・シューマッハと、テストで抜擢した新人ジェンソン・バトンのコンビで戦い、ラルフが開幕戦を含む3回の3位表彰台を獲得し、コンストラクターズ3位となった。
2001年には同じく復帰したミシュランタイヤと組み、タバコスポンサーとの離脱を宣言する活動を進めた。ラルフが初優勝を含む3勝を挙げ、CARTから加入したファン・パブロ・モントーヤも初優勝するなど、新体制2年目で結果が表れ始めた。2002年はフェラーリに圧勝を許すも、公称1万9,000回転のBMWパワーを武器にモントーヤが5連続を含む7ポールポジションを獲得した。
2003年は序盤戦は低迷するも、FW25の改良とミシュランとのマッチングにより中盤以降4勝(ラルフ2、モントーヤ2)を挙げ、最終戦までフェラーリとコンストラクターズタイトルを争った。ちなみにラルフ・シューマッハのF1時代の優勝はすべてこの時期に達成されたものである。しかし、2004年はFW26の特異なハイノーズ(通称「セイウチノーズ」)が失敗し、最終戦ブラジルGPでのモントーヤの1勝に留まった。この年にはパトリック・ヘッドがテクニカルディレクターを退き、後任にはサム・マイケルが就任した。
2005年シーズンはドライバーを一新してマーク・ウェバーとニック・ハイドフェルドが加入したが、前年来のシャシー設計(特に空力部門)の失敗により2000年以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンに終わった。成績の低迷とチーム運営への介入を巡ってBMWとの関係は悪化。BMWはザウバーを買収してコンストラクターとして参戦することを決意したことから、ウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなった。
また、この2年に渡りB・A・Rとの間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、バトン自身がウィリアムズに多額の違約金を支払いB・A・Rに残留するという結末となった。
2006年 コスワースへの変更
BMWとの離別後はトヨタやホンダとの交渉が噂されたが、どれも実現には至らなかった。V8・2400ccエンジンへ変更となる2006年はコスワースと契約し、自動車メーカーのワークス化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」として参戦することとなった。また、タイヤメーカーもミシュランからブリヂストンへ変更された。ドライバーはウェバーが残留し、GP2初代チャンピオンであり、かつてウィリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子であるニコ・ロズベルグを起用した。
開幕戦でロズベルグがデビュー戦ファステストラップを記録するなど出だしは悪くなかったが、ワークスチームには遠く及ばず、コスワースエンジンも全くの信頼性不足でリタイヤが多く、現体制になって以来最悪のコンストラクターズランキング8位でシーズンを終えた。
2007年〜2009年 トヨタとの提携
2007年にはトヨタと契約し、2009年までカスタマーエンジンの供給を受けることになった。AT&Tがメインスポンサーになり、チーム名はAT&Tウィリアムズ (AT&T Williams) とされた。ドライバーはロズベルグが残留し、3rdドライバーのアレクサンダー・ヴルツがレースドライバーに昇格した。最終戦のブラジルGPではヴルツのF1引退を受け、トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム出身の中嶋一貴(中嶋悟の息子)がF1デビューした。マクラーレンの失格やワークスチームの失速に伴い、最終的にトヨタを上回るコンストラクターズランキング4位を獲得した。
2008年はチーム創設30周年にあたり、シーズン中に出走500回(トルコGP)、決勝レース50000周回(スペインGP)を達成した[16]。ドライバーは3年目のロズベルグとレギュラーに昇格した中嶋という、ヒル・ヴィルヌーヴ以来の二世コンビ。ロズベルグが2度表彰台を獲得したものの入賞の機会は少なく、コンストラクターズランキング8位に後退した。また、2009年に導入されるKERSの開発を見越してオートモーティブ・ハイブリッド・パワー社の株式を少数取得し、「ウィリアムズ・ハイブリッド・パワー」に改称してチームファクトリーに移転した。
2009年は大幅なレギュレーション変更があったが、レギュレーションの穴を突き、2層ディフューザを投入し議論の的となった。しかし、最終的にFIAから許可が出されたため他チームもこれを追随する形となった。シーズン序盤は2層ディフューザもあり、ウィリアムズの成績も序盤は上向くかと思われたが、信頼性の不足や中嶋がノーポイントに終わる不調もあり、コンストラクターズランキング7位に終わっている。今シーズンから規約で認められたKERSであったが、ウィリアムズは全F1チームの中で唯一フライホイール式のKERSを開発していた。しかし、実戦に投入されることはなかった。
トヨタとのエンジン供給契約はあと1年残っていたが、2009年10月14日に2009年末に契約を前倒しして終了することを発表した。これに伴い、2010年に使用するエンジンはコスワースとなる事も後日発表された。
2009年12月にはウィリアムズの株式をトト・ヴォルフに少数売却したことを発表した。のちに、売却比率が全体の10%であり、フランクが63%、ヘッドが27%を引き続き所有していることが明らかにされた[17]。
10年ほどスポンサーを務めたアリアンツが離脱・新興メルセデスGP(後年AMGがつく)のスポンサーとなった。
2010年〜2011年 再度コスワースと提携
2010年に投入したマシンFW32ではエンジンをトヨタからコスワースにスイッチした。また、ドライバーラインナップを一新し、ロズベルグとのトレードでブラウンGPからルーベンス・バリチェロを起用した。中嶋の後任にはテストドライバーから昇格したニコ・ヒュルケンベルグとなった。テスト・ドライバーにはバルテリ・ボッタスと新しく契約した。ブラジルGPにてヒュルケンベルグがチームにとって5年ぶり、コスワースエンジンにとって11年ぶりとなるポールポジションを記録した。しかし最終戦アブダビGP終了後の11月15日に、ヒュルケンベルグがチームを離脱し、同時にバリチェロとの契約を翌年も継続することが発表された[18]。
2005年以来、主要スポンサーとしてチームを支援していたRBS(ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド)が2010年末をもってスポンサーから撤退することが明らかとなっている。これは2008年末からの金融危機が原因である[19]。その他にオランダの家電機器であるフィリップスもウィリアムズからスポンサー撤退する事を発表している[20]。
2011年シーズンはバリチェロが残留する一方で、ヒュルケンベルグの後任としてベネズエラ人ドライバーのパストール・マルドナドを起用することを発表し、これに伴いPDVSA(ベネズエラ国営石油会社)などベネズエラ資本の複数のスポンサーを獲得。しかしそれでもRBS・フィリップスらの離脱による収入減少を補いきれない(一説には43%もの減収となったとされる[21])ため、チームはレーシングチームとしては異例となる自社の株式公開を計画し、2011年3月2日にフランクフルト証券取引所に株式を上場することを発表した[22]。フランク・ウィリアムズは株式の過半数を保有し続けるものの、主にパトリック・ヘッドらの所有株を中心に、発行済株式の約27%が市場に放出される。
この年は自社製超コンパクトギアボックス(十分な信頼性は確保されていた)以外に目立った体制変更はなかったが、5ポイント・コンストラクターズランキング9位という2006年以上の不振のシーズンとなった。(2006年当時のポイントシステムに換算するとこの年のウィリアムズはノーポイントである。)このためテクニカルディレクターのサム・マイケルを始めとする首脳陣が責任を取る形でチームを離脱。またフランク・ウィリアムズと共に同チームを長年率いたパトリック・ヘッドも、関連会社の運営に専念することになりF1の現場を離れた[23]。さらに過去5年にわたりメインスポンサーを務めたAT&Tが2011年末をもってメインスポンサーを降りた。
2012年〜2013年 ウィリアムズ・ルノー復活
2012年シーズンからルノーが15年ぶりにエンジンを供給することが2011年7月に決定。契約は2013年までの2年間で、エンジンのレギュレーションが変更される2014年はオプションとなっている[24]。ドライバーはバリチェロに代わりブルーノ・セナが起用された。また同年4月1日付でフランク・ウィリアムズはF1チームの取締役から退くことになった(ただし引き続きチーム代表を務め、役員会議には出席を続けるとのこと)。ウィリアムズ家の代表として、役員会には引き続きフランクの娘クレアが出席する。彼女はチームの広報部門に10年務めており、今回ドミニク・ライリーの退社を受けてマーケティング&コミュニケーションディレクターに昇進した[25]。第2戦マレーシアGP終了後の3月26日、フランク・ウィリアムズの後継者と見なされていたアダム・パーが3月30日付でウィリアムズ・グランプリ・ホールディングズPLCを退職することを発表。これを受け、ディアジオの前CFOで現在WPGHと2つのFTSE100企業の非常勤取締役を務めるニック・ロースが非総裁(Non-Executive Chairman、非常勤会長)に就任。支配株主のフランク・ウィリアムズが、株主で非常勤取締役のトト・ヴォルフ、経営最高責任者のアレックス・バーンズ、残りの取締役のサポートを受けながら会社の監督を続けていく[26]。第5戦スペインGPでは、パストール・マルドナドが自身初のポールポジションを獲得。決勝ではスタート時にフェルナンド・アロンソに抜かれ2位となったものの、ピットストップのタイミングが功を奏し1位に逆転。後半では2位となったアロンソからの追随をも守りきり、ウィリアムズにとって8シーズン・7年半ぶりとなる優勝を獲得した。しかし、レース終了後の優勝祝いの最中にガレージの燃料庫から出火、火災が発生という災難に見舞われた。幸いに命に関わるような重篤な負傷者はいなかったもののFIAによると、この火災で3チームの計31人が負傷したとのこと。貴重なデータを収めたコンピューターも廃棄となり、それらについて当面は他チームから借り受けて運用することになった。その後、マルドナドは光る速さは持っていたものの、安定性に欠けていたが終盤には再び安定したドライビングをし、セナはマルドナドほどの速さはなかったものの予選下位から追い上げる粘り強さやクレバーな走りで中団争いをすることもしばしばあり、76ポイントでランキング8位となった。同年11月にマルドナドの2013年シリーズ残留と、リザーブドドライバーだったバルテリ・ボッタスをレギュラードライバーとして起用することが発表された[27]。
2013年は一転して2年前の性能に逆戻りしたかのような戦闘力に苦労する事となった。予選最高位はカナダでのマルドナド13位ボッタス3位、決勝はマルドナドが第10戦ハンガリーGPの10位、ボッタスが第18戦アメリカGPの8位で、チーム成績は2年前の5ポイント・9位と同じになった。8月にパット・シモンズがチーフテクニカルオフィサーに就任した[28]。シーズン終盤にマルドナドはチーム離脱を表明、ロータスへの移籍を発表した。
2014年〜 メルセデスとの提携
2014年からF1のエンジンレギュレーションが大きく変更されることから、2013年5月にウィリアムズは、2014年より新たにメルセデスからエンジン供給を受けることを発表した[29]。メルセデスはウィリアムズにエンジン及びエネルギー回生システム(ERS)を含むパワーユニットを供給するが、トランスミッションはウィリアムズが独自開発する。ドライバーは残留したボッタスとフェラーリからフェリペ・マッサが移籍。テスト段階では従来の紺ベースだったが、マルティーニ・エ・ロッシとの大型スポンサー契約がまとまり、チーム名や塗装にマルティーニの意向が反映され、白地に赤青ストライプが車体に描かれた。2008年を最後に離れていたペトロブラスがブラジル人のマッサ加入に伴いスポンサーに復帰。マルドナドが離脱したもののPDVSAは契約期間が残っていた為に残り期間のスポンサー料が違約金として支払われ、BMWエンジンを失って以後、最も潤沢な資金を得てシーズンに臨む事となった。それでもフェラーリの半分の年間予算[30]である。 開幕戦オーストラリアGPではボッタスが前年を上回る5位入賞を果たし、1戦で前年1年間の総獲得ポイントを超えた。続く第2戦マレーシアGP、第3戦バーレーンGPでもマッサ7位、ボッタス8位とダブル入賞が続く。第8戦オーストリアGPの予選ではマッサがポールポジション、ボッタスが2番手とフロントローを独占した。ウィリアムズのPPは近年に2010,2012年に獲得しているが、フロントローを2台独占したのは2003年フランスGP以来の11年ぶりの出来事であった。なお、マッサ自身にとっても2008年ブラジルGP以来6年ぶりのPP獲得であった[31]。決勝は序盤トップと2位を先行したが、ピット作戦でメルセデス勢に逆転を許しマッサ4位、ボッタス3位初表彰台という結果となった。次戦イギリスGPではボッタスが予選Q1敗退・14番手ながら決勝で2位表彰台を獲得した。 この年は年間ランキング3位と2005年以来の好成績をあげた。 ちなみに、最終戦のアブダビGPではダブルポイントの効果もあり、2台で66ポイントを獲得。これにより、1レースで獲得したポイントが最も多いチームとしての記録を残した。
2015年もボッタス、マッサのコンビで参戦。序盤は表彰台に上がれないレースが続いたが、ボッタスが第7戦カナダGPで、続く第8戦オーストリアGPでマッサが表彰台を獲得する。第9戦イギリスGPでは2列目からマッサ、ボッタス共にロケットスタートでメルセデスを抜き去り1-2体制でレースを進めていた。しかしピット作戦でメルセデス2台に逆転されると、終盤に雨が降り出した際にウェットタイヤへ交換するタイミングを誤り、フェラーリのセバスチャン・ベッテルにも逆転されマッサ4位、ボッタス5位に終わった。 シーズンを通してメルセデス、フェラーリの後塵を拝するレースが多く、表彰台は両ドライバーとも2回ずつに留まり、ランキングではボッタス5位、マッサ6位となった。レッドブルの不振もありコンストラクターズは前年と変わらず3位でシーズンを終えた。
2016年もドライバーは変わらず。序盤は2015年と同じような成績であったがシーズンが進むにつれてポイントを獲得するのが精一杯という状況になっていき、メルセデス、レッドブル、フェラーリから大きく差をつけられた。同じメルセデス製パワーユニットを使用するフォース・インディアとコンストラクターズ4位を争う状況になったが及ばず5位となった。表彰台もカナダGPでのボッタスの3位のみに終わっている。イタリアGPでマッサがこの年で限りで引退することを発表した。また、テクニカルディレクターのパット・シモンズがこの年をもってチームを離脱[32]。
2017年は「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」としてのF1参戦40周年を迎えることから、シャシー名称を「FW40」とした[33]。ドライバーは当初、マッサの引退を受け、ボッタスの残留と前年ウィリアムズのリザーブドライバーを務めていたランス・ストロールの昇格を発表していた[34]。しかしその後、前年度王者のニコ・ロズベルグの電撃的引退に伴いボッタスがメルセデスに移籍し、その影響でマッサは引退を撤回して引き続きウィリアムズで走ることとなった[35][36]。ストロールには親であるローレンス・ストロールによる資金提供が強く関わっているとの声が強く、才能を発揮できるか勝負の年となる。なお、ウィリアムズで10代のドライバーが走るのは史上初のことである。メルセデスを離脱したパディ・ロウがチーフテクニカルオフィサーに[37][4]、前年末にフェラーリを離脱したディルク・デ・ビアが空力責任者にそれぞれ就任し技術陣の強化を行った[38]。
ストロールは開幕3戦でリタイアを喫し経験不足を露呈するが、初の母国レースとなる第7戦カナダGPで9位入賞を果たすと、次のアゼルバイジャンGPでは3位に入り、初の表彰台に立った。オーストリアGPでは予選ではマッサ17位、ストロール18位と低迷するも決勝ではマッサ9位、ストロール10位にまで追い上げ今シーズン初のダブル入賞を果たした。ハンガリーGPはマッサが体調不良を訴え欠場したため、リザーブドライバーのポール・ディ・レスタが代走を務めた[39]。これ以降は時折入賞する程度で、ランキングこそ昨年の5位と変わりはなかったが4位のフォース・インディアにはダブルスコアを付けられる結果となった。ただしウィリアムズはストロールの表彰台が1回あったのに対して、フォース・インディア勢は表彰台に上がることはなく、またこの年、1年を通じてトップ3チーム(メルセデス、フェラーリ、レッドブル)以外のドライバーが表彰台に上がったのもストロールのこの1回だけであった。マッサはシーズン終了をもって(2度目の)引退を表明した[40]。
2018年1月16日、ストロールの残留とセルゲイ・シロトキンの起用、そしてロバート・クビサのリザーブ兼開発ドライバー就任が発表された[41]。開幕を前に、2014年からタイトルスポンサーとなっていたマルティーニが2018年をもって契約終了となることが発表された。マルティーニは25歳以上のドライバーを起用することを要望していたが、ストロールは19歳、シロトキンは22歳と条件を満たしておらず、今回のドライバー選択が契約終了の一因ではないかとの見方をされていたが、クレア・ウィリアムズはこれを否定している[42]。パディ・ロウの手による新車FW41に期待が高まったものの空力に問題を抱え[43]、5月にはチーフデザイナーのエド・ウッドと空力責任者のディルク・デ・ビアが相次いで離脱する事態に陥った[44][45]。入賞したのはストロールが第4戦アゼルバイジャンGPで挙げた8位のみで、コンストラクターズランキング最下位に低迷している。
F1以外の活動
ウィリアムズはF1以外にも過去に下記のような活動を行っている。
- 1998年にはBMWと共同で、プロトタイプレーシングカー・BMW・V12 LMを開発し、シュニッツァー・モータースポーツによって、ル・マン24時間レースに参戦した。同マシンのエボリューションモデル、V12 LMRは1999年のセブリング12時間レースで優勝したほか、同じ年のル・マン24時間レースで総合優勝を果たしている。
- 国際自動車連盟(FIA)が2009年から復活させたフォーミュラ2(F2)用のシャーシ設計を行い、2009年3月2日にブランズ・ハッチでウィリアムズ・JPH01を発表した[46]。またF2のシリーズチャンピオンにはウィリアムズのF1マシンをテストする機会が与えられ[47]、2009年はアンディ・ソウセック、2010年はディーン・ストーンマンが起用された。
- 2009年に開発していたフライホイール式KERSを、ポルシェ・911 GT3 Rハイブリッドに提供したほか[48]、2012年にアウディがル・マン24時間に投入したR18 e-tron クワトロにも提供[49]。同年のル・マン24時間レースで総合優勝を飾った。
- 2013年には関連会社のウイリアムズ・アドバンスド・エンジニアリングが、ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(NISMO)と高性能スポーツカーの共同開発を行うことで合意。2014年より順次日産車をベースとした高性能市販車をリリースするとしている[50]。
- ジャガーランドローバー(JLR)とも提携関係にあり、2010年にジャガーブランドでハイブリッドスポーツカー『C-X75』を共同開発しているほか[51]、2016年からは共同でフォーミュラEへ参戦する[52]。
新人の登竜門
かつては、レギュラードライバーは30歳代のベテランしか起用しなかったり、技術も保守的といわれていたウィリアムズだが、1990年代半ば以降のドライバーに関しては、ザウバーやミナルディ、ジョーダンほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。ウィリアムズからF1デビューしたドライバーとしてデビッド・クルサード、ジャック・ヴィルヌーヴ、ジェンソン・バトン、ファン・パブロ・モントーヤ、ニコ・ロズベルグ、中嶋一貴、ニコ・ヒュルケンベルグ、パストール・マルドナド、バルテリ・ボッタス、ランス・ストロール、セルゲイ・シトロキンがいる。 このうちヴィルヌーヴ、バトン、ロズベルグはワールドチャンピオンを獲得している。
なお、1983年にイギリスF3参戦中のアイルトン・セナをテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた。ただし、当時のウィリアムズの方針では、セナはまだ若いということでレギュラードライバーとしての起用は見送られた。
ウィリアムズでF1初勝利を記録したドライバー
歴代のウィリアムズドライバーの中で10名がウィリアムズでF1初勝利を達成している。
- ケケ・ロズベルグ…1982年スイスGP
- ナイジェル・マンセル…1985年ヨーロッパGP(当時の最遅初勝利記録。続く南アフリカGPも連勝)
- ティエリー・ブーツェン…1989年カナダGP(当時の最遅初勝利記録)
- デイモン・ヒル…1993年ハンガリーGP(続くベルギーGP、イタリアGPも制し3連勝)
- デビッド・クルサード…1995年ポルトガルGP
- ジャック・ヴィルヌーヴ…1996年ヨーロッパGP(デビュー4戦目での初勝利)
- ハインツ・ハラルド・フレンツェン…1997年サンマリノGP
- ラルフ・シューマッハ…2001年サンマリノGP(ウィリアムズ3年半ぶりの勝利)
- ファン・パブロ・モントーヤ…2001年イタリアGP
- パストール・マルドナド…2012年スペインGP(ウィリアムズ7年半ぶりの勝利)
ウィリアムズでドライバーズタイトルを獲得したドライバー
- アラン・ジョーンズ(1980年)- 翌年もチームに残留。
- ケケ・ロズベルグ(1982年)- 翌年もチームに残留。
- ネルソン・ピケ(1987年)- 翌年はロータスに移籍。
- ナイジェル・マンセル(1992年) - その年をもってF1から引退(後に一時的に復帰)。
- アラン・プロスト(1993年)- その年をもってF1から引退。
- デイモン・ヒル(1996年) - 翌年はアロウズに移籍。
- ジャック・ヴィルヌーヴ(1997年)- 翌年もチームに残留。
変遷表
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料 オイル |
ドライバー | ランキング | ポイント | 優勝数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1969年 | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | ブラバムBT26A | テンプレート:Dunlop | フォードDFV (3.0L V8) |
ガルフ | ピアス・カレッジ | - | - | - |
1970年 | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | デ・トマソ505/38 | テンプレート:Dunlopテンプレート:Goodyear | フォードDFV | BP | ピアス・カレッジ ブライアン・レッドマン ティム・シェンケン |
- | - | - |
1971年 | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | マーチ701 マーチ711 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | モチュール | アンリ・ペスカロロ ジャン・マックス |
- | - | - |
1972年 | チーム・ウィリアムズ・モチュール | マーチ711 マーチ721 (ポリトイ)FX-3 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | モチュール | アンリ・ペスカロロ カルロス・パーチェ |
NC | 0 | 0 |
1973年 | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | (イソ-マールボロ) FX-3B IR |
テンプレート:Firestone | フォードDFV | フィナ | アンリ・ペスカロロ ハウデン・ガンリー ジャッキー・イクス |
10位 | 2 | 0 |
1974年 | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | (イソ-マールボロ) FW01,FW02,FW03 |
テンプレート:Firestone | フォードDFV | フィナ | アルトゥーロ・メルツァリオ ジャック・ラフィット |
10位 | 4 | 0 |
1975年 | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | FW02,FW03 FW04 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | フィナ | アルトゥーロ・メルツァリオ ジャック・ラフィット |
9位 | 6 | 0 |
1976年 | ウルフ-ウィリアムズ・レーシング Mapfre-Williams(FW04) |
(ウルフ-ウィリアムズ) FW04 FW05 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | フィナ | ジャッキー・イクス アルトゥーロ・メルツァリオ クリス・エイモン ワーウィック・ブラウン ハンス・ビンダー |
NC | 0 | 0 |
1977年 | ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング Jolly Club of Switzerland(FW04) |
マーチ761 | テンプレート:Goodyear | フォードDFV | テキサコ | パトリック・ネーヴェ | - | - | - |
1978年 | ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング | FW06 | テンプレート:Goodyear | フォードDFV | テキサコ | アラン・ジョーンズ | 9位 | 11 | 0 |
1979年 | アルビラド-サウディア・レーシング・チーム | FW06 FW07 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | モービル | アラン・ジョーンズ クレイ・レガッツォーニ |
2位 | 75 | 5 |
1980年 | アルビラド・ウィリアムズ・レーシング・チーム RAM/Penthouse-Rizla Racing(FW07) RAM/Rainbow Jeans Racing(FW07) RAM/Williams Grand Prix Engineering(FW07) Brands Hatch Racing(FW07) |
FW07,FW07B | テンプレート:Goodyear | フォードDFV | モービル | アラン・ジョーンズ カルロス・ロイテマン |
1位 | 120 | 6 |
1981年 | アルビラド・ウィリアムズ・レーシング・チーム TAG・ウィリアムズ・レーシング・チーム |
FW07C | テンプレート:Michelinテンプレート:Goodyear | フォードDFV | モービル | アラン・ジョーンズ カルロス・ロイテマン |
1位 | 95 | 4 |
1982年 | TAG・ウィリアムズ・レーシング・チーム | FW07C FW08 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | モービル | ケケ・ロズベルグ カルロス・ロイテマン マリオ・アンドレッティ デレック・デイリー |
4位 | 58 | 1 |
1983年 | TAG・ウィリアムズ・レーシング・チーム | FW08C FW09 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV,DFY ホンダRA163E (1.5L V6ターボ) |
モービル | ケケ・ロズベルグ ジャック・ラフィット |
4位(フォード) 11位(ホンダ) |
36 2 |
1 0 |
1984年 | ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング | FW09,FW09B | テンプレート:Goodyear | ホンダRA164E | モービル | ケケ・ロズベルグ ジャック・ラフィット |
6位 | 25.5 | 1 |
1985年 | キヤノン・ウィリアムズ・ホンダ・チーム | FW10 | テンプレート:Goodyear | ホンダRA164E,RA165E | モービル | ナイジェル・マンセル ケケ・ロズベルグ |
3位 | 71 | 4 |
1986年 | キヤノン・ウィリアムズ・ホンダ・チーム | FW11 | テンプレート:Goodyear | ホンダRA166E | モービル | ナイジェル・マンセル ネルソン・ピケ |
1位 | 141 | 9 |
1987年 | キヤノン・ウィリアムズ・ホンダ・チーム | FW11B | テンプレート:Goodyear | ホンダRA167E | モービル | ナイジェル・マンセル ネルソン・ピケ リカルド・パトレーゼ |
1位 | 137 | 9 |
1988年 | キヤノン・ウィリアムズ・チーム | FW12 | テンプレート:Goodyear | ジャッドCV (3.5L V8) |
モービル | ナイジェル・マンセル リカルド・パトレーゼ マーティン・ブランドル ジャン=ルイ・シュレッサー |
7位 | 20 | 0 |
1989年 | キヤノン・ウィリアムズ・チーム | FW12C FW13 |
テンプレート:Goodyear | ルノーRS1 (3.5L V10) |
エルフ | ティエリー・ブーツェン リカルド・パトレーゼ |
2位 | 77 | 2 |
1990年 | キヤノン・ウィリアムズ・チーム | FW13B | テンプレート:Goodyear | ルノーRS2 | エルフ | ティエリー・ブーツェン リカルド・パトレーゼ |
4位 | 57 | 2 |
1991年 | キヤノン・ウィリアムズ・チーム | FW14 | テンプレート:Goodyear | ルノーRS3 | エルフ | ナイジェル・マンセル リカルド・パトレーゼ |
2位 | 125 | 7 |
1992年 | キヤノン・ウィリアムズ・チーム | FW14B | テンプレート:Goodyear | ルノーRS3C,RS4 | エルフ | ナイジェル・マンセル リカルド・パトレーゼ |
1位 | 164 | 10 |
1993年 | キヤノン・ウィリアムズ | FW15C | テンプレート:Goodyear | ルノーRS5 | エルフ | アラン・プロスト デイモン・ヒル |
1位 | 168 | 10 |
1994年 | ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー | FW16,FW16B | テンプレート:Goodyear | ルノーRS6 | エルフ | アイルトン・セナ デイモン・ヒル デビッド・クルサード ナイジェル・マンセル |
1位 | 118 | 7 |
1995年 | ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー | FW17,FW17B | テンプレート:Goodyear | ルノーRS7 (3.0L V10) |
エルフ | デイモン・ヒル デビッド・クルサード |
2位 | 112 | 6 |
1996年 | ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー | FW18 | テンプレート:Goodyear | ルノーRS8 | エルフ | デイモン・ヒル ジャック・ヴィルヌーヴ |
1位 | 175 | 12 |
1997年 | ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー | FW19 | テンプレート:Goodyear | ルノーRS9 | カストロール | ジャック・ヴィルヌーヴ ハインツ・ハラルド・フレンツェン |
1位 | 123 | 8 |
1998年 | ウィンフィールド・ウィリアムズ | FW20 | テンプレート:Goodyear | メカクロームCG01 (3.0L V10) |
カストロール ペトロブラス |
ジャック・ヴィルヌーヴ ハインツ・ハラルド・フレンツェン |
3位 | 38 | 0 |
1999年 | ウィンフィールド・ウィリアムズ | FW21 | テンプレート:Bridgestone | スーパーテックFB01 (3.0L V10) |
カストロール ペトロブラス |
ラルフ・シューマッハ アレッサンドロ・ザナルディ |
5位 | 35 | 0 |
2000年 | BMW・ウィリアムズF1チーム | FW22 | テンプレート:Bridgestone | BMW E41 (3.0L V10) |
カストロール ペトロブラス |
ラルフ・シューマッハ ジェンソン・バトン |
3位 | 36 | 0 |
2001年 | BMW・ウイリアムズF1チーム | FW23 | テンプレート:Michelin | BMW P80 | カストロール ペトロブラス |
ラルフ・シューマッハ ファン・パブロ・モントーヤ |
3位 | 80 | 4 |
2002年 | BMW・ウィリアムズF1チーム | FW24 | テンプレート:Michelin | BMW P82 | カストロール ペトロブラス |
ラルフ・シューマッハ ファン・パブロ・モントーヤ |
2位 | 92 | 1 |
2003年 | BMW・ウィリアムズF1チーム | FW25 | テンプレート:Michelin | BMW P83 | カストロール ペトロブラス |
ファン・パブロ・モントーヤ ラルフ・シューマッハ マルク・ジェネ |
2位 | 144 | 4 |
2004年 | BMW・ウィリアムズF1チーム | FW26 | テンプレート:Michelin | BMW P84 | カストロール ペトロブラス |
ファン・パブロ・モントーヤ ラルフ・シューマッハ マルク・ジェネ アントニオ・ピッツォニア |
4位 | 88 | 1 |
2005年 | BMW・ウィリアムズF1チーム | FW27 | テンプレート:Michelin | BMW P84/5 | カストロール ペトロブラス |
マーク・ウェバー ニック・ハイドフェルド アントニオ・ピッツォニア |
5位 | 66 | 0 |
2006年 | ウィリアムズF1チーム | FW28 | テンプレート:Bridgestone | コスワースCA2006 (2.4L V8) |
カストロール ペトロブラス |
マーク・ウェバー ニコ・ロズベルグ |
8位 | 11 | 0 |
2007年 | AT&Tウィリアムズ | FW29 | テンプレート:Bridgestone | トヨタRVX-07 (2.4L V8) |
ペトロブラス | ニコ・ロズベルグ アレクサンダー・ヴルツ 中嶋一貴 |
4位 | 33 | 0 |
2008年 | AT&Tウィリアムズ | FW30 | テンプレート:Bridgestone | トヨタRVX-08 | ペトロブラス | ニコ・ロズベルグ 中嶋一貴 |
8位 | 26 | 0 |
2009年 | AT&Tウィリアムズ | FW31 | テンプレート:Bridgestone | トヨタRVX-09 | - | ニコ・ロズベルグ 中嶋一貴 |
7位 | 34.5 | 0 |
2010年 | AT&Tウィリアムズ | FW32 | テンプレート:Bridgestone | コスワースCA2010 (2.4L V8) |
- | ルーベンス・バリチェロ ニコ・ヒュルケンベルグ |
7位 | 69 | 0 |
2011年 | AT&Tウィリアムズ | FW33 | テンプレート:Pirelli | コスワースCA2011 | - | ルーベンス・バリチェロ パストール・マルドナド |
7位 | 5 | 0 |
2012年 | ウィリアムズF1チーム | FW34 | テンプレート:Pirelli | ルノーRS27-2012 (2.4L V8) |
トタル | パストール・マルドナド ブルーノ・セナ |
8位 | 76 | 1 |
2013年 | ウィリアムズF1チーム | FW35 | テンプレート:Pirelli | ルノーRS27-2013 | トタル | パストール・マルドナド バルテリ・ボッタス |
9位 | 5 | 0 |
2014年 | ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング | FW36 | テンプレート:Pirelli | メルセデスPU106A Hybrid (1.6L V6ターボ) |
ペトロナス | フェリペ・マッサ バルテリ・ボッタス |
3位 | 320 | 0 |
2015年 | ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング | FW37 | テンプレート:Pirelli | メルセデスPU106B Hybrid | ペトロナス | フェリペ・マッサ バルテリ・ボッタス |
3位 | 257 | 0 |
2016年 | ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング | FW38 | テンプレート:Pirelli | メルセデスPU106C Hybrid | ペトロナス | フェリペ・マッサ バルテリ・ボッタス |
5位 | 138 | 0 |
2017年 | ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング | FW40 | テンプレート:Pirelli | メルセデスM08 EQ Power+ | ペトロナス | フェリペ・マッサ ランス・ストロール ポール・ディ・レスタ |
5位 | 83 | 0 |
2018年 | ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング | FW41 | テンプレート:Pirelli | メルセデスM09 EQ Power+ | ペトロナス | ランス・ストロール セルゲイ・シロトキン |
*太字はチャンピオンを獲得したドライバー
*斜体になっているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
脚注
- ↑ 『GRAND PRIX SPECIAL』(ソニー・マガジンズ)2008年8月号 p.23
- ↑ 『GRAND PRIX SPECIAL』がドライバーに対する筆記テストの有無について取材したところ、フェラーリ・BMWザウバーの2チームは「ノーコメント」、残る7チームは「筆記テストは行っていない」と答えている。
- ↑ 3.0 3.1 トト・ヴォルフ、ウィリアムズの株式を全て売却 - F1-Gate.com(2016年3月10日)
- ↑ 4.0 4.1 “ウィリアムズF1、パディ・ロウのテクニカルディレクター就任を正式発表”. F1-Gate.com (2017年3月16日). . 2017閲覧.
- ↑ 商標の関係から当時チームでは「リアクティブサスペンション」と称していた
- ↑ 当初は1992年シーズン途中にFW15の投入を予定していたが、FW14Bでも十分な戦闘力であったため見送り、1993年度レギュレーションに合わせたFW15Cとして投入した。
- ↑ 『F1速報』 7/16号「フランスGP号」 第9巻13号、ニューズ出版、1998年7月16日発行、39頁。
- ↑ 「“フライング・フィン”飛んでしまったマクラーレン」『F1グランプリ特集』 1993年4月号、第5巻4号、ソニー・マガジンズ、79 - 81頁。
- ↑ 当初はプロストのチームメイトとしてミカ・ハッキネンと契約したが、フランク・ウィリアムズが1993年シーズンのエントリーを忘れていたため、ウィリアムズが参戦するには他の全チームの承認が必要となる事態となった。ハッキネンを取り返したかったピーター・コリンズ(ロータス)が認めなかったため、ウィリアムズはハッキネンを諦めることとなったという報道と[7]、ロータス側は「93年もハッキネンは残留」と発表したが、それは口約束という情報を掴んだウィリアムズがロータスと交渉。コリンズはハッキネンを手放す意思はなかったが、金銭的条件(6億円)次第では応じようと目論むもウィリアムズ側がその条件を受け入れるつもりはなく、結局1992年12月14日にデイモン・ヒルとの契約を発表したという報道がある[8]。
- ↑ 『GPX(F1 Grand Prix Xpress)』 BELGIUM GP 山海堂、30-31頁、1997年。
- ↑ “ニューイ離脱を悔やむウィリアムズ代表”. ESPN F1. (2012年2月27日) . 2012閲覧.
- ↑ 「質問があるなら直に訊け:フランク・ウィリアムズ」、『F1 RACING 日本版』2008年7月号、三栄書房、 36頁。
- ↑ 『F1 RACING 日本版』2010年3月号 三栄書房、31頁
- ↑ モナコGPとベルギーGPではウェット路面でのタイヤ選択を誤り、シューマッハに勝利を許した。
- ↑ スポンサー各社のロゴもこの配色に統一され、通常は赤いバドワイザーのロゴも紺色とされていた。
- ↑ これらの記録は、1977年創設、1978年から参戦したウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングの成績であり、1973年、1974年に参戦したイソ-ウィリアムズと1975年、1976年の旧ウイリアムズ(ウルフに売却)、1977年のマーチのシャーシで参戦した分は入っていない。
- ↑ Struggling Williams' sale of stake was 10%(this is london)
- ↑ ウィリアムズ、ニコ・ヒュルケンベルグの離脱を発表(F1TopNews.JP)
- ↑ “RBS ウィリアムズとの提携は来年限り”. GPupdate.net. (2009年2月26日) . 2009閲覧.
- ↑ “フィリップス、ウィリアムズのスポンサーを終了”. F1 Gate.com. (2010年11月6日) . 2010閲覧.
- ↑ ウィリアムズ、上場でスポンサー減少か - ESPN F1・2011年2月10日
- ↑ F1ウィリアムズが上場へ=独フランクフルト市場 - 時事通信・2011年2月7日
- ↑ ヘッド「F1離脱はウィリアムズにとってベスト」 - GPUpdate.net・2011年11月28日
- ↑ ウイリアムズ・ルノー復活! 2012年から2年契約(オートスポーツweb 2011年7月4日)
- ↑ ウィリアムズ卿、取締役退任へ(ESPN F1 F1ニュース、速報 2012年3月2日)
- ↑ アダム・パー、ウィリアムズを退職(F1-Gate.com 2012年3月26日)
- ↑ “ウィリアムズ、パストール・マルドナドとバルテリ・ボッタスの起用を発表”. F1 gate.com. (2012年11月28日) . 2012閲覧.
- ↑ "ウィリアムズの新技術ボス、パット・シモンズQ&A". Topnews.(2013年8月22日)2014年3月7日閲覧。
- ↑ ウィリアムズ、メルセデスとの長期エンジン契約を発表 - F1-Gate.com・2013年5月30日
- ↑ 財政的なアンバランスを指摘するマルヤ(ESPN F1)
- ↑ “フェリペ・マッサ、6シーズンぶりのポールポジション獲得に“感動的””. F1-gate.com. (2014年6月22日) . 2014閲覧.
- ↑ “シモンズが今年末でウィリアムズ離脱”. ESPN F1. (2016年12月21日) . 2016閲覧.
- ↑ “幻の「FW39」。F1参戦40周年のウイリアムズ、来季はシャシー名のしきたり破る”. AUTO SPORT web (2016年11月2日). . 2016閲覧.
- ↑ “【正式発表】ウイリアムズ、マッサの後任に18歳ストロールを起用。ボッタスの残留も確定”. AUTO SPORT web (2016年11月3日). . 2016閲覧.
- ↑ “メルセデス、バルテリ・ボッタスの起用を正式発表”. F1-Gate.com (2017年1月17日). . 2017閲覧.
- ↑ “ウィリアムズ、バルテリ・ボッタスに代えてフェリペ・マッサの起用を発表”. F1-Gate.com (2017年1月16日). . 2017閲覧.
- ↑ “パディ・ロウがウイリアムズの取締役に就任へ。メルセデスF1から人員引き抜き、体制強化か”. AUTOSPORTweb (2017年2月2日). . 2017閲覧.
- ↑ “ウィリアムズ、ディルク・デ・ビアが空力責任者に就任”. F1-Gate.com (2017年2月17日). . 2017閲覧.
- ↑ “ウィリアムズ、体調不良のマッサに代えてポール・ディ・レスタを起用”. F1-Gate.com (2017年7月29日). . 2017閲覧.
- ↑ “マッサ、2017年末でのF1引退を発表。ウイリアムズのドライバー選考は大詰めに”. AUTOSPORTweb (2017年11月5日). . 2017閲覧.
- ↑ “CONFIRMS SERGEY SIROTKIN TO JOIN LANCE STROLL IN 2018”. williamsf1.com (2018年1月16日). . 2018閲覧.
- ↑ “マルティーニがウイリアムズとのタイトルスポンサー契約を終了。F1から撤退へ”. AUTOSPORTweb (2018年2月28日). . 2018閲覧.
- ↑ "ウイリアムズF1、シーズン中盤までにパフォーマンスを向上させるべくリカバリープログラムを開始". AUTOSPOTweb(2018年5月15日). 2018年5月16日閲覧。
- ↑ “ウイリアムズF1の古参チーフデザイナーがチームを離脱”. AUTOSPORTweb (2018年5月11日). . 2018閲覧.
- ↑ “ウィリアムズ、空力責任者のディルク・デ・ビアがチームを離脱”. F1-Gate.com (2018年5月31日). . 2018閲覧.
- ↑ F2マシン「ウィリアムズJPH01」発表(F1-Gate.com)
- ↑ 新設のF2王者、ウィリアムズのF1テスト参加へ - MSNスポーツ
- ↑ ウィリアムズ、ポルシェにKERS技術を提供(F1TopNews.JP)
- ↑ Williams Hybrid Power Chosen As Supplier By Audi Sport - Williams Hybrid Power・2012年3月1日
- ↑ F1のウイリアムズとニスモが技術提携を発表! 協力して日産車ベースの高性能モデル開発へ! - autoblog日本版・2013年6月28日
- ↑ C-X75 - Jaguar Japan
- ↑ ジャガー「FEでの成功にはウイリアムズが鍵」 - オートスポーツ・2015年12月17日
関連項目
- モータースポーツ
- F1世界チャンピオンの一覧
- F1コンストラクターの一覧
- AT&T
- セガ 1993年のスポンサー。但し、日本法人ではなく、イギリス法人がスポンサードした。FW15Cにボディとリアウィングの部分にSEGAのロゴとセガの看板キャラクター、ソニック・ザ・ヘッジホッグを貼り付けた。またドライバー側面にペダルに足を置く絵をスポンサーロゴとしていた。