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マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich、1901年12月27日 - 1992年5月6日)は、ドイツ出身の女優・歌手。
1920年代のヴァイマル共和国のドイツ映画全盛期に花開き、1930年代からはハリウッド映画に出演、1950年代以降は歌手としての活動が多かった。
Contents
経歴
生い立ち
1901年に、プロイセン王国近衛警察士官の次女としてベルリンで生まれる。幼くして父が病死、継父も第一次世界大戦で戦死した。生活費を稼ぐため酒場などで歌っていた。また、フランス語を独学で習得。18歳で国立ヴァイマル音楽学校に入学しヴァイオリニストを目指すが、手首を痛めて音楽家の道を断念した。
映画デビュー
1921年にマックス・ラインハルトの演劇学校に入学、翌年には『ナポレオンの弟』で映画デビュー。1924年に、助監督のルドルフ・ジーバーと結婚。同年12月には娘マリアを出産後、ジーバーとは別居となる。夫はカトリックであり、離婚が認められていなかった。
1930年、ベルリンの舞台に立っていたところを映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められ、ドイツ映画最初期のトーキー『嘆きの天使』に出演。大きく弧を描く細い眉[1]に象徴される、個性的かつ退廃的な美貌は、100万ドルの保険をかけたと宣伝された脚線美とともに称えられ、加えてセクシーな歌声で国際的な名声を獲得した。
アメリカへ
同年、パラマウントに招かれてアメリカ合衆国に渡り、ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でハリウッド・デビュー、アカデミー主演女優賞にノミネートされた(『モロッコ』は日本語字幕映画の第1作である)。『上海特急』でスターの座を確立する。ユダヤ人監督スタンバーグとのコンビで黄金時代を築く。
1935年の『西班牙狂想曲』がヒットしなかったのを最後に、スタンバーグ監督との公私にわたる関係を解消、しばらく低迷する。当時のドイツの指導者であるアドルフ・ヒトラーはマレーネがお気に入りだったようで、ドイツに戻るように要請したが、ナチス党を嫌ったマレーネはそれを断って、1939年にはアメリカの市民権を取得した[2]ため、ドイツではマレーネの映画は上映禁止となる。
第二次世界大戦開戦後の1940年代に入ると西部劇やブロードウェイの舞台にも立って活躍した。また、ドイツ軍の占領下のフランスからジャン・ギャバンも渡米しており交際、やがて、自由フランス軍にギャバンは志願したが、文通は続け、やがて仏領アルジェリアで再会した。
第二次世界大戦中の1943年からは、アメリカ軍のUSO(前線兵士慰問機関)の一員として活動、アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡り、反ドイツの立場を明確にした。戦地で兵士が口ずさんでいた「リリー・マルレーン」をおぼえ、対独放送でも歌った。なお、1944年にはバルジの戦い中のアルデンヌにおいてアメリカ軍の慰問を行った際に急襲してきたドイツ軍に捕えられそうになったが直前に回避し事なきを得た。
戦後、独ソ両軍による市街戦で壊滅したベルリンで、奇跡的に母親と再会、その2か月後に母は急死した。第二次世界大戦中の功績によりアメリカからは1947年に大統領自由勲章(アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与された。戦後しばらくパリでギャバンと暮らしたが次第に疎遠となり別れた。
歌手活動
若い女優の登場で映画出演の機会は減ったが、ラスベガスでのリサイタル依頼があり、成功をおさめ1950年代からは歌手としての活動が多くなり、アメリカ合衆国やヨーロッパを巡業。1958年からはバート・バカラックと組んでいる[3]。1960年には念願の故郷ドイツでの公演を行った。マレーネは「裏切り者」と罵声を浴びせられながらも、暖かい歓待も受けるという彼女に対するドイツ人の複雑な感情を見せつけられた。1970年の大阪万博(EXPO'70)と1974年に来日してコンサートを行った(実はもっと昔、1948年にも極東駐留の将兵への慰問のため日本にも立ち寄っており、その時に土産として買ったいわゆる豆カメラのひとつ「マイクロ」が報道され、同機の輸出が急速に伸びたという話がある[4])。
1976年、浮名を流したジャン・ギャバンと夫を立て続けに亡くした。
引退
1975年、コンサート中に足を骨折して活動を引退せざるをえなくなる[5]。 引退後はパリに隠棲。引退から時期がたってもファンレターは絶えず、「パリ市。マレーネ・ディートリヒ様」と書くだけで手紙が届いたという。引退後の姿はまったく謎に包まれており、人々の興味の対象となった。
ドイツの大衆紙『ビルト』が、ある老女の写真を「現在のマレーネ・ディートリヒだ」とスクープを出したことがあるが、彼女の親族によって否定された。
それまで生まれた地ベルリンを語ることはなかったが、1989年のベルリンの壁崩壊の際には、いつになく興奮して「私は生粋のベルリンっ子よ、素晴らしいわ私の街は自由よ」と語ったという。
死去
1992年、パリ8区モンテーニュ大通りの自宅で死去。死因は肝臓と腎臓障害であったとされる。亡くなる前の12年間は寝たきりであったという。葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、その後遺骸がベルリンに移されベルリンでも葬儀が行われた。
その遺骸は同年、彼女の望み通りベルリンの母の墓の横に葬られた。死後、ベルリン中心のポツダム広場に隣接した広場が「マレーネ・ディートリヒ広場」と命名された。
2002年、ベルリン名誉市民となった。
自伝では同時代映画人達を毒舌も交えて回顧している。一度だけ組んだフリッツ・ラングには特に辛辣で、「いかにもドイツ人らしい野心家」と切り捨てている。ラングはユダヤ系のオーストリア人だが、同書ではユダヤ系もオーストリア生まれも区別なく、自らも含めて「ドイツ人らしい」という形容を良い意味でも悪い意味でも多用している。
主な出演作品
公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1930 | 嘆きの天使 The Blue Angel |
ローラ・ローラ | |
モロッコ Morocco |
アミー・ジョリー | ||
1931 | 間諜X27 Dishonored |
X27 | |
1932 | 上海特急 Shanghai Express |
上海リリー(マデリーン) | |
ブロンド・ヴィナス Blonde Venus |
ヘレン・ファラデイ | ||
1933 | 恋の凱歌 The Song of Songs |
リリー | |
1934 | 恋のページェント The Scarlet Empress |
ゾフィア(後のエカチェリーナ2世) | |
1935 | 西班牙狂想曲 The Devil is a Woman |
コンチャ・ペレス | |
1936 | 真珠の頚飾 Desire |
マドレーヌ・ド・ボープレ | |
沙漠の花園 The Garden of Allah |
ドミニ・エンフィルデン | ||
1937 | 鎧なき騎士 Knight Without Armour |
アレクサンドラ・ウラディノフ | |
天使 Angel |
マリア・エンジェル・バーカー | ||
1939 | 砂塵 Destry Rides Again |
フレンチー | |
1940 | 妖花 Seven Sinners |
ビジュー・ブランシュ | |
1941 | 焔の女 The Flame of New Orleans |
クレール・ルドゥー | |
大雷雨 Manpower |
フェイ・デュヴァル | ||
1942 | 淑女の求愛 The Lady Is Willing |
エリザベス・マッデン | |
スポイラース The Spoilers |
チェリー | ||
男性都市 Pittsburgh |
ジョジー・ウィンターズ | ||
1944 | キスメット Kismet |
ジャミラ | |
1946 | 狂恋 Martin Roumagnac |
ブランシュ・フェラン | |
1947 | 黄金の耳飾り Golden Earrings |
リディア | |
1948 | 異国の出来事 A Foreign Affair |
エリカ・フォン・シュルートウ | |
1950 | 舞台恐怖症 Stage Fright |
シャーロット・インウッド | |
1952 | 無頼の谷 Rancho Notorious |
アルター・キーン | |
1956 | 八十日間世界一周 Around the World in Eighty Days |
サロンのホステス | |
モンテカルロ物語 The Monte Carlo Story |
マリア・ド・クレヴクール侯爵夫人 | ||
1957 | 情婦 Witness for the Prosecution |
クリスティーネ | |
1958 | 黒い罠 Touch of Evil |
ターニャ | |
1961 | ニュールンベルグ裁判 Judgment at Nuremberg |
ベルトホルト夫人 | |
1964 | パリで一緒に Paris, When It Sizzles |
本人 | クレジットなし |
1979 | ジャスト・ア・ジゴロ Schöner Gigolo, armer Gigolo |
ゼーメリング男爵夫人 | カメオ出演 |
1984 | MARLENE/マレーネ Marlene |
ナレーションのみ |
その他
- 真実のマレーネ・ディートリヒ Marlene Dietrich: Her Own Song(2001) - マレーネの孫デヴィッド・ライヴァ監督のドキュメンタリー。
- 永遠のヒロイン(NHK 2010年)
受賞歴
アカデミー賞
- ノミネート
- 1931年 アカデミー主演女優賞:『モロッコ』
ゴールデングローブ賞
- ノミネート
- 1958年 主演女優賞 (ドラマ部門):『情婦』
通称
本名はマリー・マグダレーネ・ディートリヒ(Marie Magdalene Dietrich)であるが、彼女はファーストネームとミドルネームを合わせて1つとして現在良く知られている通称を自身創造した。つまりMarie Magdaleneの太文字部分を合わせ、マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)とした。
第二次世界大戦開戦後アフリカ戦線で敵味方両軍の間でブレークした『リリー・マルレーン』はララ・アンデルセンが最初にリリースしたものである。原題は"Lili Marleen"とディートリヒの通称・マレーネ("Marlene")とスペルが若干異なるが、英語読みすると似た発音になる。彼女は"Lili Marlene"としてカバーして、連合軍兵士を慰問した。日本では『リリー・マルレーン』はマレーネのオリジナルと見なされているほどである。
参照
- ↑ ディートリヒ風メイクとして、現在でもメイクアップ技術の一つに数えられ、専門学校などでも学ばれている。
- ↑ Dietrich applied for US citizenship in 1937 ("Marlene Dietrich to be US Citizen". Painesville Telegraph, 6 March 1937.); it was granted in 1939 (see "Citizen Soon". The Telegraph Herald, 10 March 1939. and "Seize Luggage of Marlene Dietrich". Lawrence Journal World, 14 June 1939).
- ↑ Bach 1992, p. 395.
- ↑ 小倉磐夫 2001, pp. 141-142.
- ↑ 'Act follows suggestion of song's title', Toledo Blade, Ohio 7 Nov. 1973, p37.
参考文献
- Bach, Steven (1992). Marlene Dietrich: Life and Legend. Doubleday. ISBN 0-385-42553-8.
- 鈴木明 『わがマレーネ・ディートリヒ伝』 小学館〈小学館ライブラリー〉、1991年。ISBN 4-09-460007-8。
- 高橋暎一 『愛しのマレーネ・ディートリヒ』 社会思想社〈現代教養文庫1414〉、1992年。ISBN 4-390-11414-X。
- 小倉磐夫 『国産カメラ開発物語 : カメラ大国を築いた技術者たち』 朝日新聞社〈朝日選書684〉、2001年。ISBN 4-02-259784-4。
関連項目
- ディートリヒ
- グレタ・ガルボ
- アドルフ・ヒトラー
- エディット・ピアフ:シャンソン歌手。パリでマレーネと親友になる。
- ズビグニェフ・ツィブルスキ:俳優。『灰とダイヤモンド』に主演。マレーネの友人。
- リリー・マルレーン
- 嘆きの天使賞:ベルリン国際映画祭の賞の1つ。
- マレーネ・ディートリヒ広場
- 花はどこへ行った:ピート・シーガー作詞・作曲の反戦歌。マレーネが1962年にドイツ語とフランス語でカヴァーした。
- 淀川長治
- 小松政夫:「わりーね、わりーね、ワリーネ・ディートリヒ」という持ちネタがある。
- ジャン・コクトー:ピアフと並ぶ親友の1人。
- ジャン・ギャバン:恋人同士であった。
- ユル・ブリンナー:1950年代の恋人の1人だった。
- アーネスト・ヘミングウェイ:互いに「クラウト」、「パパ」と呼び合う。ベッドを共にしなかった数少ない男性の親友。
- エーリヒ・マリア・レマルク:1930年代後半にマレーネの恋人となる。『凱旋門』のヒロイン、ジョアン・マドゥーは、マレーネがモデルと言われている。
外部リンク
- 公式ウェブサイト (英語)
- マレーネ・ディートリヒ - allcinema
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