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細川 忠利 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正14年11月11日(1586年12月21日) |
死没 | 寛永18年3月17日(1641年4月26日) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
藩 | 豊前小倉藩主→肥後熊本藩主 |
氏族 | 細川氏、長岡氏 |
細川 忠利(ほそかわ ただとし)は、江戸時代前期の大名、豊前小倉藩の第2代藩主。後に肥後熊本藩の初代藩主。
生涯
生い立ち
細川忠興の三男で、母は明智光秀の娘・玉子。幼名は光千代。はじめ長岡姓を称したが、慶長5年(1600年)に徳川家康の命で細川へ復姓し、細川内記を名乗った[注釈 1]。幼少時は病弱だったため玉子がキリスト教の洗礼を受けさせたともいわれている。同母兄に細川忠隆(細川内膳家)、細川興秋。
熊本藩主
世子だった長兄の忠隆が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に廃嫡されたために、江戸に人質に出されて第2代将軍徳川秀忠の信頼を得ていた忠利が慶長9年(1604年)に世子となった。次兄の興秋は翌年の慶長10年(1605年)に細川家を出奔した。弟の家督相続の決定に不満を持ったためとされる[注釈 2]。
慶長13年(1608年)、小笠原秀政と登久姫(松平信康の娘)の次女で徳川秀忠の養女の千代姫(保寿院)と縁組し、千代姫は慶長14年(1609年)4月24日、豊前国中津城に輿入れした。元和5年(1619年)、長男光利(のち光尚と改名)が誕生。
元和6年(1620年)に父から家督を譲られて小倉藩主となる。元和8年(1622年)には、慶長12年(1607年)に出奔して大坂城に入城し、大坂の陣を大坂方として戦い、戦後浪人となっていた米田是季を帰参させ、のちには家老にした。
寛永9年(1632年)、肥後熊本藩の加藤忠広が改易されたため、その跡を受けて小倉から熊本54万石に加増移封された(後任の小倉城主には忠利の義兄弟である小笠原忠真が就任した)。忠利は熊本藩の初代藩主となり、父・忠興は隠居所として八代城に住んだ。寛永14年(1637年)の島原の乱にも参陣し、武功を挙げている。
寛永18年(1641年)、父に先立って死去した。享年55。長男の光利(光尚と改名)が跡を継いだ。墓所は熊本県熊本市の妙解寺。
人物
- 父親の忠興からバランスのとれた食事をとるように諌められた書状を送られている。実際に忠利が病にかかった時には、忠興から同じ物をたくさん食べないように念を押して忠告され、鶏卵が痰によくないこと、疱瘡に鮑が大毒であることを指摘されている[1]。
- 忠利は江戸で人質となっていたため関ヶ原の戦いでは功績がなく、また2人の実兄を差し置いて世子となったことを気にしていたという。残された手紙[2]をみると、徳川家や父・忠興はもちろん、廃嫡された長兄・忠隆ほか叔父・叔母などに細やかに心遣いをしている様子がうかがえる。
- 武の時代から幕藩体制に移りつつあった新しい時代に、妻の実家・徳川家と個性の強い父・忠興との間の調和に心労しつつも、細川家を大名家として保つのに成功した。
- 加藤家改易後の熊本藩を任されたように幕府からも信頼されており、「いずれ藤堂高虎のように江戸に常駐するのではないか」という噂が立つほどであった。寛永11年(1634年)には参勤交代の改善策を幕閣に提案し、それが採用されてもいる。忠利が死んだ際、徳川家光は「越中早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と嘆いている。
- 外様大名でありながら幕府側の代理者として行動することが多かったため、他の大名には煙たがられたという話も伝わっている。
- 徳川家光の乳母春日局は明智氏の縁者であり、明智氏の血を引く忠利に対しては好意的であったとされる。
- 少年時代に江戸に居たため、秀忠の代の幕府の有力な旗本たちと幼なじみであったことも、結果的には忠利に有利に働き、旗本たちとの太いパイプを利用して幕府の動向を掴んでいた[3]。
- 武芸に熱心で、特に剣術においては柳生宗矩に師事し、大名の中では鍋島元茂と並ぶ柳生新陰流の代表的な剣士の一人である。宗矩も忠利を高く評価し、秘伝である「兵法家伝書」を与えている。また、晩年の宮本武蔵を招き、客人として遇したことでも知られている。
- ワインを好み、輸入するだけではなく、家臣に命じて自らの領地であった豊前小倉藩(現在の北九州市等)で日本初の国産ワインを造っていた。[4]
- 遺言により、熊本市の岫雲院 (春日寺)にて荼毘に付されたが、愛養の鷹が二羽殉死したと伝えられている。
伝記
細川忠利が登場する作品
・斎藤光顕『細川忠利兵法異聞』(郁朋社、2012)