横山エンタツ
横山 エンタツ | |
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本名 | 石田 正見 |
生年月日 | 1896年4月22日 |
没年月日 | 1971年3月21日(74歳没) |
出身地 | 兵庫県有馬郡三田町(現・三田市) |
コンビ名 | エンタツ・アチャコ |
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横山 エンタツ(よこやま エンタツ, 1896年(明治29年)4月22日 - 1971年(昭和46年)3月21日)は、大正・昭和期の漫才師・俳優。本名:石田 正見(いしだ まさみ)。花菱アチャコとのコンビ(エンタツ・アチャコ)で、「万才」に代わり「しゃべくり漫才」を発明し今につながる漫才ブームを作った。また、エンタツは現在の(全国的に流布した)漫才スタイルの元祖でもあった。漫才作家秋田實の良き相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。吉本新喜劇初期の出演者でもある。
来歴
兵庫県有馬郡三田町[1]で生まれ、祖父は藩医で父も医者であった。近所に軍人が多く父は日露戦争で軍医になったために祖父母のもとに預けられる。日露戦争終了後父が姫路で開業医になったので家族で移り住む。旧制兵庫県立伊丹中学校(現在の兵庫県立伊丹高等学校)を2年で中退し、馬賊になるといい家出し、職を転々とする。関西大学の夜間に通った説もある. 1914年、新派綾田五郎一座に入り初舞台。大正の初め頃にはソウル(京城)に叔父が住んでいたので頼ったが叔父は面倒みれないということで断念。演歌師に弟子入りしたり、炭坑で働いていたこともあった、満州から大連で新派連鎖劇の一座に入り、旅順、奉天、長春と転々、しかし座長が裁判官に拘引され一座を解散、残った仲間で満州で小中村千代兵衛の一座に、鉄嶺では活動写真巡業隊で声色師をやったがうまくいかず後に帰国、次に、時田一瓢一座に入り「横山瓢(よこやまひさご)」を名乗った。その後、堀越一蝶一座で「横山太郎」と改名、多くの巡業劇団に参加する. 1919年花菱アチャコと一座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが不評に終わる。しかし1922年、本格的に漫才を始め、中村種春(砂川捨丸の最初の相方。中村春代の師匠)とコンビを組んで東京で活躍した. 1923年夏に横浜の朝日座と契約し漫才、民謡、安来節の連中らと合流。同年9月に関東大震災に被災し倒れた家屋で鼻を骨折する。
1928年頃から、「横山エンタツ」を名乗り, 1929年8月31日から漫才師、浪曲師、踊り子などを引き連れて半年間アメリカ巡業に出る。巡業は失敗したがそこで見たチャップリンなどの喜劇に大きな影響を受ける。
帰国後、エンタツはアメリカで見た「店で買い物をしたときに、渡される買い物袋」を日本で生産してあてようとし、職人に作らせてデパートに売り込みに行ったが、「日本には風呂敷があるので不要です」と断られたと、アチャコはのちに語っている[2]。
1930年に吉本興業に入社し、アチャコとコンビを組む。秋田實の示唆もあり、漫才師として初めて背広姿で舞台にあがり、当時人気のあった東京六大学野球からネタをとった『早慶戦』などの「しゃべくり漫才」で人気を博す。玉子屋円辰や砂川捨丸に代表された古い香りを残す寄席芸である「万才(萬歳から呼び名が変わっていた)」では鼓を脇に持ち、和装であったものを、当時流行し始めた背広姿で普段の会話を思わせる展開の形式は画期的で、当初は舞台に出ると「今までの万才をやれ」と野次が飛んだという。しかし勃興した中産階級層を中心に人気が爆発し, 1934年に東京の新橋演舞場に出演し、漫才は落語と並ぶ地位を得たと言われるようになる。だが、この公演期間中にアチャコが中耳炎を患い、大阪に戻って間もなく公演直後に倒れ入院してしまう。このため、エンタツはアチャコとのコンビを解消し(舞台でのコンビ結成期間わずかに3年9箇月である[3])、杉浦エノスケと組む(ただし、その後も映画においてはエンタツ・アチャコのコンビを一部継続している。)。
1941年、「爆笑エンタツ劇団」を旗揚げし全国を巡業する。
戦後はNHKで『気まぐれショーボート』(1950年〜1952年)、『エンタツちょびひげ漫遊記』(1952年〜1953年)、『エンタツの名探偵』(1953年〜1954年)など、長期にわたってラジオ番組のレギュラーを務めた。これらの番組は東映で映画化され、こちらもヒットとなった。
ただし、アチャコの戦後のしたたかな大成功と比較すると見劣りがし、漫才コンビ時代と立場が逆転することとなった。息子である花紀京には「自分には芸の力がない」と弱音を吐いていたこともあったという。
1953年12月24日に千日前グランド劇場改築の杮落しでエンタツはアチャコと久しぶりに客の前で「僕の家庭」を披露, 1963年にはNHKで放送された「漫才の歴史」の番組『漫才繁盛記』(構成:小林信彦)においても披露したが、ブランクを感じさせない名コンビぶりを発揮した。
エンタツは1969年、大阪市から市民表彰を受けた。1971年に脳梗塞で死去した。
人物
長男は関西テレビの元プロデューサー、長男の妻は吉本新喜劇の中山美保、次男は吉本興業に所属した喜劇俳優の花紀京[4]。横山ノックは弟子にあたる。
映画
1936年の公開の「あきれた連中」を皮切りにアチャコとのコンビで多くの映画に出演。
その他
- 「横山」の屋号を名乗る漫才師一門はエンタツを始祖とするが、本名は石田で、芸名の「横山」は出身地の三田市横山から採ったもの。
- 「エンタツ」は東京浅草蔵前にあった煙突に似ていた事から。初期には「横山エントツ」と名乗っていたという。
- 男女4人組の昭和歌謡バンド猫夜叉に「横山エントツ」と名乗る人物がいるが、他のメンバー(全員の芸名が横山姓)も含めてエンタツとは無関係である。
- 横山ホットブラザーズの「横山」は本名であり、エンタツ一門とは無関係である。
- オール阪神・巨人に「二代目エンタツ・アチャコ」を継がせる話が持ち上がったが、本人たちが「畏れ多い」と固辞した。二人ともエンタツ・アチャコの物真似も得意である。
- 2本の指でちょび髭を押さえて「ハッハー、照れくさー」と言うのが唯一用いたギャグ[5]。
- 「小説吉本興業」によればエンタツが突然林政之助に「コンビを変えたい」と直談判した。林は思惑があると感づいた。
- 二人の映画はストーリー中に突然往年のヒット漫才を始めるというものだった。当時は揶揄されたが現在では貴重な記録となり「上方漫才黄金時代」のCDボックスで「早慶戦」が収録された。
弟子
他多数
孫弟子
(ノックの弟子)。
曾孫弟子
(横山やすしの弟子)。
(横山プリンの弟子)
玄孫弟子
横山エンタツを演じた俳優
- 岸部一徳(1984-1985年・NHK『心はいつもラムネ色』 役名は「横川エンタツ」)
- 青野敏行(2012年・東海テレビ『鈴子の恋 ミヤコ蝶々女の一代記』)
- 板尾創路(130R)(2012年・舞台『吉本百年物語 キミとボクから始まった』)
- 大野拓朗(2017年・NHK『わろてんか』、役名は「キース」)
脚注
- ↑ 現在の三田市横山町(〒669-1534), 南が丘(〒669-1535). 横山駅が所在する
- ↑ 立川談志ひとり会特典CD「とっておきの二大対談・花菱アチャコ/手塚治虫」
- ↑ 矢野誠一『昭和の演藝 二〇講』p.68
- ↑ “花紀京さん死去 横山エンタツさん次男 新喜劇全盛期を支える”. スポーツニッポン (2015年8月6日). . 2015閲覧.
- ↑ ザ・ドリフターズの加藤茶が用いた「加トちゃん、ペッ!」とほぼ同じ動作であるが、これは加藤がエンタツのギャグを改作したわけではない(加藤のは、ちょび髭を付けるのに使用していた糊の力が弱くたびたび剥がれそうになったのを抑えていた仕草が転じたもので偶然の一致)。
もともとこの当時のドリフはあくまでミュージシャンであり他のコメディアンのギャグを拝借するようなことはしていなかった。
出典
- 「上方笑芸見聞録」長沖一