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シーラーズ شیراز | |
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位置 | |
シーラーズの位置の位置図 シーラーズの位置 | |
座標 : 東経52度32分0秒北緯29.61667度 東経52.53333度 | |
行政 | |
国 | イラン |
州 | ファールス州 |
郡 | シーラーズ郡 |
市 | シーラーズ |
地理 | |
面積 | |
市域 | 340 km2 (131 mi2) |
標高 | 1,486 m |
人口 | |
人口 | (2006年現在) |
市域 | 1,204,882人 |
人口密度 | 3,609.8人/km2 |
公式ウェブサイト : http://www.shiraz.ir/ |
シーラーズ(شیراز , Shīrāz)はイラン南西部の都市。ファールス州の州都。人口は1,050,000人(1996年)。ザグロス山脈中に位置し、海抜1486m。
1750年から1794年まで、ザンド朝ペルシアの首都であった。
町の名は、古くはエラム語でティラジシュ(Tiraziš)と書かれていた。ティラチス(tiračis)、あるいはチラチス(ćiračis)と呼ばれていたと考えられる。その名は、シラージシュ(širājiš)として古代ペルシア語に入り、音変化を経て、現代ペルシア語のシーラーズ(Shirāz)となった。
セメント製造や、砂糖、肥料、繊維製品、木製品、金属加工などの生産が主な産業。シーラーズはイランの電気産業や石油精製の一大拠点でもある。また、絨毯や花卉栽培でも有名。
地理・気候
標高1500m前後に位置する高原都市であり、ケッペンの気候区分のステップ気候(BSh)に属するが、地中海性気候(Csa)の要素もある。夏は日中は35度以上に達するが、朝晩は涼しく乾燥し、熱帯夜になることは稀である。冬は降水量が多くなり、朝晩は氷点下まで下がるが日中は比較的暖かい。そのため、この温和な気候を利用してブドウや柑橘類、綿、米などが栽培されているなど農業も盛んである。過去には1998年7月12日に最高気温43.2度を記録し、最低気温としては1973年1月5日に-14・0度を記録している。
名所・旧蹟
- ハーフィズ廟
- サアディー廟
- マスジェデ・ジャミイ寺院 (875年)
- シャー・チェラーグ廟 (14世紀)
- ナシール・アルムルク寺院 (19世紀)
- ナスィーロル・モルク・モスク
イランの文化遺産協会によれば、シーラーズには歴史的な意義を持つ200を越える旧蹟がある。
また、シーラーズの付近には、ペルセポリスやビシャプール、パサルガダエ、フィルーザバードなどの古都の遺跡がある。
歴史
言い伝えによるとシーラーズの町はタフムーラスによって創建されたという。
ファールス州は紀元前700年ごろから栄えた強大なアケメネス朝ペルシア帝国の中心地であった。約2500年前の都ペルセポリスの遺跡が、シーラーズ市から北東に60kmのところに残る。フィルーザバードやパサルガド(パサルガダエ)の遺跡も同じくアケメネス朝時代のものである。
7世紀ごろに、アラブ人が勢力を拡大し、ブワイフ朝で都となり、モスクや城壁などが整備される。 ホラズム・シャー朝やセルジューク朝の領地となり、チンギス・カンの軍勢の侵攻ではこの地の地方長官が降伏する。13世紀以降、シーラーズは学問の中心地となり、詩人サアディーやハーフィズ、哲学者モッサー・マドラーらを輩出し、芸術や文学が花開いた。1382年から数年間はティムールに占領され、1393年にはティムールに再び占領される。1630年には洪水で町の大部分が破壊され、1668年にも洪水に見舞われる。1504年、イスマーイール1世の軍勢に占領され、以降、サファヴィー朝の時代を通じてアッバース1世が都のエスファハーンと同じようにシーラーズを整備するなど、16世紀には20万人の人口を擁し、シーラーズの発展はピークを迎える。サファヴィー朝が衰退すると、1724年にアフガニスタン人によって征服されるなど町の発展に翳りが出る。ナーディル・シャーの統治時代には蜂起も起こり、その鎮圧で町は破壊された。
1750年、ザンド朝が起こると、1762年にシーラーズはその都となり、カリーム・ハーンは、要塞や城壁、バザールなど多くの建築物を改修、再建し、シーラーズは繁栄を取り戻した。灌漑施設も整備された。しかし、アーガー・モハンマド・シャーがガージャール朝を起こすと、要塞などを取り壊し、テヘランに遷都されてしまう。1824年には地震で町の一部の破壊も経験する。1853年には再度、大地震が起こった。1910年にはユダヤ人がイスラム教徒の少女を殺害した、という噂からポグロムが発生、多くのユダヤ人が犠牲になった。1945年にはシーラーズ大学が開設される。
パフラヴィー朝の時代には、シャーはシーラーズを「イランのパリ」にすべく大金を投じ、町は数あるイランの都市のなかでもとくに近代的な大きな都市となった。1971年には、ペルシア帝国の建国から2500周年を記念するイラン建国二千五百年祭典が、ペルセポリスとシーラーズで催された。
しかし、イラン革命の後、シーラーズは政府からパフラヴィー時代の退廃の象徴と見なされるようになり、衰退した。革命から30年以上が経過した現在も、パフラヴィー朝時代に建設が開始された未完成の建造物がいくつも放置されている。これは、革命政府がシーラーズのような近代的な都市よりも、エスファハーンのようなイスラム文化の中心的な都市をイランのイメージとして尊重したためである。
交通
シーラーズ国際空港がある。イランで2番目に利用者の多い空港である。シーラーズ地下鉄の建設は2001年に開始され、2014年に国内3番目の地下鉄として開通した。鉄道はバンダレ・アッバースとエスファハーンとの間に便がある。シーラーズ駅は1999年に新築されたが市街地から離れている。
シーラーズ大学
シーラーズ大学は1960年代、1970年代には英語で教育が行なわれ、イラン国内でも有数の優れた大学であった。
現在、そのほかの主な大学に、
- シーラーズ医科大学
- シーラーズ・イスラム・アザド大学
- マルヴダシュト・イスラム・アザド大学
などがある。
シーラーズの出身者
姉妹都市
ギャラリー
- Shiraz Botanical Garden.jpg
シーラーズ・ボタニカル・ガーデン(エラム庭園)