中山忠能

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中山 忠能(なかやま ただやす、文化6年11月11日1809年12月17日) - 明治21年(1888年6月12日)は、江戸時代末期から明治時代前期にかけての公家政治家である。明治政府の議定。父は藤原北家花山院流権大納言中山忠頼、母は正親町三条実同の娘・綱子。子に中山忠愛中山忠光正親町公董[1]。娘の中山慶子孝明天皇典侍で、明治天皇を産んだことから、忠能は明治天皇の外祖父に当たる。

生涯

天保11年(1840年)、参議となる。この年亡くなった光格上皇に対する諡号復帰の問題で、1人反対論を唱えて注目される(ただし、この反対論は諡号復活に対してではなく、退位した天皇に「天皇号」を贈ることに対しての疑問であり、在位中の天皇が崩御した場合に限るべきというものであった)。

弘化4年(1847年)、権大納言となる。嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国マシュー・ペリーが来航して通商を求めた際には攘夷論を主張し、条約締結を巡り、関白九条尚忠を批判する。安政5年(1858年)、江戸幕府老中堀田正睦上洛して条約の勅許による許可を求めた際には、正親町三条実愛らと共にこれに反対した。

その後、議奏となる。公武合体派の公家として万延元年(1860年)、孝明天皇から和宮と14代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられた。その経緯から翌文久元年(1861年)、和宮の江戸下向に随行するが、これが一部の過激な尊皇攘夷派からの憤激を生み、文久3年(1863年)に議奏を辞職して失脚した。また同年には、子の中山忠光が尊皇攘夷派を率いて、天誅組の変を起こすが敗れ、長州へ逃れた後、暗殺された。

元治元年(1864年)、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変では長州藩の動きを支持した。忠能は長州藩を支持して変事を成功させることで、復帰を考えていたらしいが、禁門の変は結果的に失敗し、忠能は孝明天皇の怒りを買って処罰された。慶応2年(1866年)、孝明天皇が崩御すると復帰を許される。

慶応3年(1867年)、中御門経之・正親町三条実愛らと組み、将軍徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅明治天皇から出させることにも尽力。その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。その後、曾孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を担当。明治21年(1888年)、80歳で薨去。薨去直前に大勲位菊花大綬章を受章した。

官職および位階などの履歴

※日付は明治4年までは旧暦

栄典

墓所

東京都文京区豊島岡墓地

著作

『中山忠能日記』(原題は『正心誠意』)全3巻

脚注

  1. 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年、180頁。
  2. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。


日本の爵位
先代:
叙爵
侯爵
中山家初代
1884年 - 1888年
次代:
中山孝麿

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