島津忠恒
島津忠恒 / 島津家久 | |
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時代 | 安土桃山時代-江戸時代前期 |
生誕 | 天正4年11月7日(1576年11月27日) |
死没 | 寛永15年2月23日(1638年4月7日) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 薩摩藩(島津家当主) |
氏族 | 島津氏 |
島津 忠恒(しまづ ただつね) / 島津 家久(しまづ いえひさ)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。通称又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。
戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子で、最初の妻の亀寿は兄から引き継いだ島津義久の娘。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。
経歴
天正4年(1576年)11月7日、島津義弘の三男として生まれた。伯父島津義久に男児がなかったために島津家は父義弘が継いだが、長男が夭折、文禄2年(1593年)、次兄島津久保が朝鮮で病いにより陣没したため、又八郎が豊臣秀吉の指名により後継者と定められた。
後継者となる前は、蹴鞠と酒色に溺れる日々を送っており、朝鮮出兵中の義弘から書状で注意を受けていた。しかし、後継者になると父や伯父たち同様に本来備わった優れた武勇を発揮した。慶長の役では慶長3年(1598年)、父・義弘に従って8,000の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せている(泗川の戦い)。
『絵本太閤記』によると、城に攻め寄せてきた、董一元率いる明の大軍4万余りに対して、逞兵1千を率い、城外に討って出て、縦横無尽に槍を突き立てたり、多くの明の兵士を切り捨てたりしたという。城を守っていた大将の義弘と兵5千も、機を見て城外に討って出て、遮二無二突き破り、明人の首3万を討ち取ったという[注釈 1]。この後、明人・朝鮮人は、島津義弘の軍威を恐れ「怕ろし[注釈 2]のしまんず」と云ったとされる。
ただ、態度や性格が直ったわけではなく、朝鮮の役でも忠恒の横暴に苦しんだ雑兵が朝鮮側に逃亡したという記録がある[1]。
慶長4年(1599年)、専横の傾向ありとして対立していた家老伊集院忠棟を京都伏見の島津邸で自らの手で謀殺し、同年に国許で反乱(庄内の乱)を起こしたその子伊集院忠真とは一旦は和解して油断させた上で、慶長7年(1602年)、日向国の野尻で催した狩りの最中に射殺し、供の者も誅殺した。これには徳川家康の内諾があったとするのが定説で、忠真は忠恒(家久)の妹婿で、義兄弟の関係にあり朝鮮の役でも共に闘った仲でもあったが、。
慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで父の義弘が西軍に属したため、講和交渉をしていた伯父の義久に代わり、徳川家康に謝罪のために上洛し、本領を安堵された。同年、薩摩の内城に入り、父・義弘と伯父・義久より家督を継いだが、実権は元和5年(1619年)までは父・義弘に握られていた。
慶長11年(1606年)、徳川家康から偏諱を受け、家久と名乗った。
慶長14年(1609年)、3,000の軍勢を率いて琉球に出兵し、占領して付庸国とした(琉球との融和政策を図る義久とは対立していたとされている)。また、明とも密貿易を執り行い、鹿児島城(鶴丸城)を築いて城下町を整備したり、外城制や門割制を確立する[2]など薩摩藩の基礎を固める一方で、幕府に対しては妻子をいちはやく江戸に送って参勤交代の先駆けとした。
慶長18年(1613年)、奄美群島を琉球に割譲させ、代官や奉行所などを置き、薩摩藩の直轄地とした。
元和3年(1617年)、将軍徳川秀忠から、松平の名字を与えられ、薩摩守に任官される[3]。
寛永15年(1638年)、死去。享年62。殉死者が9名出ている[2]。家督は次男の光久が継承した。
人物
- 和歌・連歌・茶の湯を嗜み、剣術は東郷重位から学んだとされる[2]。鹿児島湾の別名である錦江湾という呼び名は、忠恒が詠んだ「浪のおりかくる錦は磯山の梢にさらす花の色かな」という歌に由来するとされる。
- 正室であり、いとこ同士でもある亀寿(父は島津義久)とは不仲であった上に2人の間に実子ができないため、幕府にかけあって2代将軍・徳川秀忠の子・国松丸(後の徳川忠長)を養子にしようと画策した。後継者問題は後々まで尾を引き、忠恒(家久)による義久の家老・平田増宗の暗殺も、家督相続にからんだものといわれている。増宗の子孫も、1634年までに皆殺しにした。
- 隠居中とはいえ家中に影響力を持つ伯父であり、義父でもある義久の生存中は、側室を持つことを遠慮したと言われている[4]が、慶長14年(1609年)に尚寧王を連れて江戸におもむいた機会に側室を囲うことに関して江戸幕府の言質を得ようとして成功している[5]。慶長16年(1611年)に義久が死去すると、すぐに亀寿を国分城に別居させ、あてつけのように側室を8人抱えた。それら側室との間に39歳から死ぬまでの間に33人もの子女を儲け、それらの子を次々と分家の家督相続者や重臣らの養子あるいは妻として押しつけ、自身に権力を集中させることに成功した。
- 後年、大坂の陣における真田信繁(幸村)の評として有名な「真田日本一の兵(つわもの)」という言葉を手紙に残したのは島津忠恒である[注釈 3]。
逸話
正妻である亀寿とは不仲であった。彼女が亡くなったおりに、亀寿付きの奥女中宛に以下のような和歌を送っている。
- 「あたし世の 雲かくれ行(いく) 神無月 しくるる袖の つはりもかな[6]」
- (意訳:はかない世の中よ、亀寿はこの神無月に亡くなってしまった。涙で袖が濡れるほどか、といわれるとそこまでではないが)
実際に妻である亀寿の墓を建てていないことや、福昌寺跡にある島津家歴代の墓の中で、島津忠恒/亀寿夫妻の墓のみが並んでいない事からも、亀寿との不仲であったことや、彼女を冷遇していたことが伺える。しかし、この和歌の「もかな」は「もがな」と読んで「~だったらなあ」と訳すべきで、「この涙に濡れる袖が、まちがいであったならばなあ」と解釈すべきだとする意見もある[7]。
継室の一人である島津備前守忠清(母は亀寿の姉妹)の娘の生母(堅野カタリナ)は隠れキリシタンであることが発覚し、同時に隠れキリシタンであることが発覚したその一族と共に1633年に種子島に流罪となっている。
関連作品
脚注
注釈
出典
- ↑ 北島万次 『豊臣秀吉の朝鮮侵略と民衆』 岩波新書、2012年、157-161頁。ISBN 9784004313908。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 島津顕彰会 編 『島津歴代略記』、1986-10。
- ↑ 村川浩平 『日本近世武家政権論』 日本図書刊行会、2000-10。ISBN 9784823105289。
- ↑ 山本博文 『島津義弘の賭け』 中央公論新社〈中公文庫〉、2001-10。
- ↑ 桃園恵真「持明夫人」、『鹿児島大学法文学部研究紀要』第1号、1965年12月。
- ↑ 『鹿児島県史料』旧記雑録後編5、鹿児島県、1984。
- ↑ 本郷和人 『戦国武将の明暗』 新潮社〈新潮新書〉、2015-03-20。ISBN 978-4-10-610609-5。