司法省

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司法省(しほうしょう)は、1871年(明治4年)から1948年(昭和23年)まで設置されていた日本行政官庁。主に刑務所の管理や司法行政などを行っていた。

概要

大日本帝国憲法においては、建前上は三権分立の原則が謳われていたが、実際には、行政機関である司法省が、裁判所規則の制定権、判事を含めた裁判所職員の人事権を行使するための司法行政弁護士および弁護士会の監督権などを掌握していた。このため、具体的に司法省の中枢部に所属していた検事たちが日本国内の全ての判事人事権を掌握する形となり、身分的には検事が判事の下位の位置付けにあっても、実際には行政司法に対して自由に干渉を行うことが可能となっており、実際にも司法大臣による訓示などの形で判事たちへの干渉が公然と行われるなど、三権分立は有名無実のものであった。しかし、大日本帝国憲法下における判事は終身官とされており、仮に人事の面で司法省から不当な扱いを受けることはあっても判事の身分自体は生涯保証されていたため、10年ごとに最高裁判所事務総局からの再任拒否による失官の危険にさらされる現在の日本国憲法下の裁判官よりも個々の判事の独立は保証されていたとする見方もある。

日本国憲法および裁判所法の施行により、司法省が有していた裁判所に対する司法行政権最高裁判所に移管され、司法省は廃止された。しかし、これと同時に司法省の官僚たちの多くは最高裁判所事務総局へ移籍し[1]、今度は最高裁判所の内部から全ての裁判所と裁判官を支配・統制する形になった。このため、最高裁判所事務総局は建前こそ「最高裁判所の庶務を行う附属機関」とのみ定義されているものの、その実態は「司法省の戦後の再編成版」とも形容されるほどの[2]強大な権力を持つ行政機関であり、最高裁判所事務総局は司法省から受け継いだ裁判官たちの人事権を巧妙に駆使して、行政の方針に批判的な判決を書いた裁判官を下位の勤務地へ左遷したり、前述の通り行政の方針に批判的な判決を書いた裁判官の再任を拒否したり、「裁判官会同」や「協議会」と称して全国の裁判官たちを召集し、「この事件の場合にはこういう判断が正しいのではないか」といった判決の書き方の模範答案を示すなど、現在も大日本帝国憲法下の司法省と変わらない裁判官たちへの干渉や思想統制を公然と続けている[3]。このため、日本国憲法第76条の3に定める「裁判官の独立」は大日本帝国憲法の時代と何ら変わることなく有名無実のまま、現在に至っている。

一方、司法省官僚たちの中でも最高裁判所事務総局へ移籍せずに残った組は、戦後に法務省を設立し、こちらは日本国内の全ての検察庁検察官を統制し続けている。また、最高裁判所事務総局法務省は司法省の廃止後も判検交流と呼ばれる人事交流を行うなど、現在に至るまで互いに親密な関係を維持し続けている[3][4]

なお、弁護士会は戦後、日本国憲法の下における新たな弁護士法の施行に基づいて日本弁護士連合会を設立し、司法省からの独立を果たすことができた。しかし、法務省が2006年より日本司法支援センター(通称:法テラス)を設立し、弁護士会を法務省の事実上の傘下に置いたことによって、弁護士会が再び行政の支配下に置かれる危険性が指摘されている。このような法務省の政策は、かつて司法省が弁護士会を行政の支配下に置いていた状態になぞらえて「大司法省計画」とも呼ばれている[5]

諸外国には、司法省と呼ばれる官省が多数存在する。あるいは、外国における司法省は法務省と同じ意味を指すとも解釈できる。司法省および法務省の英名は、両者とも「Ministry of Justice」である。

歴代 司法卿・司法大臣

初代司法卿は江藤新平。内閣制度の下における初代司法大臣は山田顕義日本大学及び國學院大学の学祖)。

歴代司法次官

指定学校

1893年12月、司法省は判事検事登用試験受験資格[6]を、関西法律学校(現・関西大学)、日本法律学校(現・日本大学)、東京法学院(現・中央大学)、独逸学協会学校(廃止[7])、東京専門学校(現・早稲田大学)、明治法律学校(現・明治大学)、慶應義塾(現・慶應義塾大学)、専修学校(現・専修大学)、和仏法律学校(現・法政大学)の九校の私立法律学校卒業生に与えた[8](帝国大学法科大学卒業生は試験免除で司法官試補に任命された)[9]。この私立法律学校を司法省指定学校と呼ぶ[10]

脚注

  1. 司法省の人事課長から最高裁判所事務総局の初代人事局長になり、後に最高裁判所長官になった石田和外などがその代表である。
  2. 西川伸一『日本司法の逆説 最高裁事務総局の「裁判しない裁判官」たち』106-107ページ。
  3. 3.0 3.1 本多勝一・高見澤昭治『「司法改革」で日本の裁判は本当によくなるのか(3)』
  4. 2012年、法務省が刑事裁判の部門における判検交流を廃止したと発表された(朝日新聞2012年4月26日記事)。しかし、民事裁判の部門における判検交流については規模を縮小するものの引き続き存続される方針であるという(産経新聞2012年5月4日記事)。
  5. サンデー毎日』2012年5月27日号。
  6. 弁護士試験においては学歴は受験資格になかった。
  7. なお、直接の後身ではないが、独逸学協会学校を源流と位置づける大学として、獨協大学がある
  8. 明治26年12月14日司法省告示第91号
  9. 裁判所構成法(明治23年2月10日法律第6号)第65条第2項
  10. 高梨公之「五大法律学校物語①」法学セミナー、No.240、1975年

関連項目

参考文献

  • 山本祐司 『最高裁物語』 講談社(講談社+α文庫)、1997年
  • 西川伸一 『日本司法の逆説 最高裁事務総局の「裁判しない裁判官」たち』 五月書房、2005年
  • 新藤宗幸 『司法官僚 裁判所の権力者たち』 岩波新書、2009年
  • 瀬木比呂志 『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年