苓北町
苓北町(れいほくまち)は、熊本県の西部、天草諸島の北西部にある町で、天草郡に属する。
Contents
概要
天草諸島の1つ、下島の北西端に位置する。広さは東西に9.76km、南北に12.3kmで、総面積は67.09km²。西は天草灘、北は千々石灘に面する。
天草全土が「苓州」と呼ばれていたことから、苓北と名付けられた。「苓」は「あまくさ(甘草)」を意味し、苓州の北部にある町ということからその名がついた。
細長く突き出た富岡半島は陸繋島として知られる。半島から伸びた砂嘴の巴崎は小天橋とも呼ばれ、県指定の天然記念物ハマジンチョウが群生する。
隣接市町村
地名
- 坂瀬川(旧坂瀬川村)
- 内田(旧志岐村)
- 上津深江(旧志岐村)
- 志岐(旧志岐村)
- 白木尾(旧志岐村)
- 年柄(旧志岐村)
- 富岡(旧富岡町)
- 都呂々(旧都呂々村)
歴史
数百年にわたって天草の中心地だった。1205年志岐光弘氏が志岐六ヶ浦ノ地頭となり、坂瀬川、志岐、都呂々、富岡を含む天草下島の北部一帯を約400年統治する。
戦国時代末期には全盛期を迎える。キリシタン大名志岐麟泉はイエズス会の宣教師を招いて布教を許し、キリシタンを受け入れた。これを通じて麟泉は南蛮貿易を行おうとしたが、実現はしなかった。
江戸時代には富岡に代官所が置かれ、約270年間天草全土の郡政を治め、天草の政治、経済、文化の中心地として繁栄した。
1953年(昭和28年)の町村合併促進法施行により、天草郡坂瀬川村、志岐村、富岡町、都呂々村の4町村の合併の機運が高まり、1955年(昭和30年)1月1日、都呂々村を除く3町村が合併、苓北町が誕生した。翌年、都呂々村が編入合併され、現在の苓北町となる。
年表
- 1889年4月1日 - 町村制施行に伴い、天草郡富岡町、志岐村、坂瀬川村、都呂々村が成立。
- 1955年1月1日 志岐村・坂瀬川村・富岡町が対等合併し、苓北町が発足。
- 1962年10月19日 - 町章を制定する[1]。
- 1956年9月30日 - 都呂々村を編入。
経済
産業
江戸時代から単味で磁器化する天草陶石の産地として知られており、今日でも磁器の原料として富岡港から大量に出荷されている。1990年代には九州電力苓北火力発電所が西海岸に建設され、その出力は熊本県内の電力需要の約3分の2をまかなうほどである。そのため町の財政は豊かで、天草市に合併しなかった。
姉妹都市・提携都市
国内
地域
人口
苓北町(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
行政
- 町長: 田嶋章二
教育
- 大学
- 高等学校
- 熊本県立天草拓心高等学校(マリン校舎)
- 中学校
- 小学校
- 特別支援学校
交通
空港・鉄道路線なし。
バス路線
一般路線バス
道路
高速道路なし。
一般国道
主要地方道
一般県道
その他の道路
航路
- 2011年9月末まで苓北町有フェリーにより「フェリーきずな」(重量200トン弱)が就航していたが採算難で休止となり、旅客専用の高速船プローバー5による運行となったが[2]、2013年10月に休止となった。その後地元の漁業関係者を中心に設立された苓北観光汽船により海上タクシーが就航したが[3]、2014年4月1日より新造の高速船「KizunaⅡ」での運航となった[4]。
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
- 富岡城跡
- 志岐城跡
- 妙見の滝
出身者
ゆかりのある人物
- 吉本隆明(思想家、詩人、評論家)- 両親が苓北町出身[5]
- 大仁田厚(プロレスラー)- 祖父が苓北町出身[6]
- コスメ・デ・トーレス(宣教師)- 苓北町で死去
参考文献
- 『図典 日本の市町村章』 小学館辞典編集部、小学館、2007-01-10、初版第1刷。ISBN 4095263113。
出典
- ↑ 『図典 日本の市町村誌』 224頁。
- ↑ 長崎(茂木)~天草(富岡)航路 10月から高速船へ 観光TVれいほく
- ↑ 【富岡港~茂木港】高速船の運航休止に伴い海上タクシーを運航します 天草観光ガイド「島旅」
- ↑ 4月1日から富岡・茂木間に新高速船【KizunaⅡ】が就航します
- ↑ 『熊本日日新聞』 熊本日日新聞社、2012年3月16日付夕刊。
- ↑ 『熊本日日新聞』 熊本日日新聞社、2014年10月10日付朝刊、31頁。
外部リンク