松井一實
松井 一實[1](まつい かずみ、1953年(昭和28年)1月8日 - )は、日本の政治家、厚生労働官僚。広島県広島市長(2期)。
Contents
来歴
広島県広島市東区牛田出身[2]。広島市立牛田小学校、広島市立牛田中学校、広島市立基町高等学校、京都大学法学部卒業[2]。1976年、労働省入省。同期に金子順一元厚生労働事務次官、井原勝介元岩国市長など[3][2]。本省勤務の他、在英国日本国大使館で一等書記官を務めた。同期の金子官房長の部下として官房総括審議官を務めたのち、2008年、中央労働委員会事務局長を最後に退官した[2][4]。
広島市長選挙への出馬
広島市議会には元々自由民主党系会派が複数(「自由民主党・保守クラブ」「市政改革・地域デザイン・無党派クラブ」「爽志会」)存在し、広島市長選挙への対応をめぐっては各会派の対応が分かれ、保守票が分裂した結果、革新系の秋葉忠利市長に三連敗していた。しかし、秋葉が2011年の広島市長選挙への不出馬を表明したため、自民党系市議が結束し、その結果自民党・公明党の推薦を受けて立候補した松井が、民主党や社会民主党が支持する、秋葉市政下で副市長を務めた候補者ら5人を破り、初当選した[5]。
広島市長として
秋葉市政の見直し
広島市長就任後、秋葉前市長が推進してきた、下記の各事業の廃止・再検討を行った[6][7](詳しくは秋葉忠利#広島市長時代参照)。また、秋葉市政時代に悪化していた広島県庁及び広島市議会との関係改善にも言及した。
- ヒロシマ・オリンピック構想(2020年夏季オリンピック)の白紙撤回
- 旧市民球場跡地利用の再検討
- オバマジョリティ・キャンペーン撤廃及び折り鶴長期保存の再考
- 広島西飛行場市営化を断念
平和活動
秋葉の推進してきた政策については変更を示唆したが、核兵器のない世界の実現のための平和市長会議等の活動は継続する意向を表明した[8]。広島平和記念式典にて読み上げる平和宣言に、戦後初となる被爆者の体験談手記を引用した[9]。
核・エネルギー政策
福島第一原子力発電所事故に際しては、日本政府に対しエネルギー政策の見直しを要請する考えを示し[8]、歴代広島市長で初めて「脱原発」発言をした[10]。なお、広島市には島根原子力発電所を持つ中国電力の本社がある。
発言
「くれ、くれ」
2011年6月16日に、被爆体験記を出版した被爆者らと面会し意見交換を実施したが、その際、被爆者であることを理由として医療費支給を求められたことに触れ、「悪いことではないが、亡くなった人のことを思えば簡単に言える話ではない」、「『くれ、くれ』という権利要求みたいな気持ちではなく、『ありがとう』の気持ちを持つことを忘れないように」等の趣旨の発言をした。この発言に対し、日本共産党系の広島県原爆被害者団体協議会の金子一士理事長は、「被爆地の市長でありながら被爆者援護に対して無理解だし、広島の実相を知れば、このような発言はできるのか」と非難のコメントを発表した他、日本原水爆被害者団体協議会も発言の撤回を求めた[11][12]。
同年6月23日の広島市議会定例会にて、この発言について陳謝した[13]。
「サンフレッチェは2位でいい」
2013年12月3日に、地元の写真記者らとの懇親会で、サッカーJ1で優勝争いをしているサンフレッチェ広島について「2位でもいい」という趣旨の発言を行った。翌日の4日に報道陣の取材に発言を認め、「優勝を望んでいると言ったうえで、(今の本拠地に代わる)新スタジアム建設の検討に時間が取れるといいという意味で言った。誤解を受けたことは心からお詫び申し上げます」と話し陳謝した[14]。そして最終節にサンフレッチェ広島は2-0で鹿島アントラーズに勝利し、首位だった横浜F・マリノスは川崎フロンターレに0-1で敗れたことにより逆転優勝となった。その後12月12日に行われた優勝祝賀会ではチーム関係者に対しての謝罪を行い和解に至った[15]。
「私が寝たり起きたりしていてはいけないと、マニュアルには書いていない」
2014年8月20日未明に広島市で土砂災害が発生した際、市は20日午前4時15分に最初の避難勧告を発令し、広島県に自衛隊の派遣要請もしたが、松井は避難勧告後も市長公館にとどまり、午前7時15分まで登庁しなかった。これについて松井は22日の記者会見で「寝たり休んだりしながら情報を聞き、対策会議を開くということで関係者を招集した」と述べたが[16]、30日の記者会見で「寝たり休んだりしていた」との説明について改めて問われると「私が寝たり起きたりしていてはいけないと、マニュアルには書いていない」と反論した[17]。
人物
年譜
- 1953年1月8日 - 広島県広島市東区牛田で出生[2]
- 1976年 - 京都大学法学部卒業、労働省入省[2]
- 1989年 - 在英国日本国大使館一等書記官[2]
- 1993年 - 労働省婦人局婦人労働課長[2]
- 1994年 - 労働省職業安定局高齢・障害者対策部高齢者雇用対策課長[2]
- 2002年 - 厚生労働省大臣官房総務課長[2]
- 2006年 - 厚生労働省大臣官房総括審議官[2]
- 2008年 - 中央労働委員会事務局長[2]
- 2011年4月 - 広島市長選挙に無所属(自由民主党・公明党推薦)で出馬し、初当選。第36代広島市長就任[2]
- 2015年4月 - 広島市長選挙に無所属(自由民主党・公明党・民主党推薦)で出馬し、2選[20]。
家族・親族
松井家
父は広島の伝統工芸品「銅蟲」職人[19]。平和大通り中町付近、「大地にはえた手」を表すモニュメントにはハトが2羽飾られているが、このハトは、父・松井明雄が造ったものである[22]。43歳で死亡した母親は広島への原爆投下により被爆した[23]。つまり松井は被爆2世である[23]。松井によれば「被爆したのは母だが、ほとんど語らなかった。」という[23]。 妻、一男三女あり[2]。
脚注
- ↑ 報道等では松井一実の表記が用いられる。
- ↑ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 市長のプロフィール - ようこそ市長室へ - 広島市ホーム
- ↑ 厚労次官に金子氏起用 村木氏復帰、局長に 2012/9/3日本経済新聞夕刊
- ↑ 「【厚労省】医政局長に外口氏‐局長級人事を発表」薬事日報2007年8月17日
- ↑ 追跡2011ひろしま:県議選と広島市議選から1カ月 市政奪還、一途に影 /広島 毎日新聞広島版2011年5月11日
- ↑ 松井・広島市長 初の記者会見 五輪 一部開催も否定 中国新聞朝刊2011年4月15日、2011年4月25日確認
- ↑ 広島市長、ヘリポート了承へ 中国新聞朝刊2011年5月26日、2011年5月26日確認
- ↑ 8.0 8.1 下原知広 (2011年5月10日). “平和:核なき世界へ連携強化 長崎・広島市長 会談で確認”. 毎日新聞 . 2011閲覧.
- ↑ 広島66回目の原爆忌、平和記念式典開催 読売新聞 2011年8月6日
- ↑ 追跡2011ひろしま:広島市長が「脱原発」発言--訪問先長崎で /広島毎日新聞広島版2011年5月12日
- ↑ 広島市長:被爆者施策に「『くれ、くれ』じゃなく」発言 毎日新聞 2011年6月17日
- ↑ 松井・広島市長:被爆者への発言に被団協など反発 毎日新聞 2011年6月18日
- ↑ 市長「発言、十分心したい」 中国新聞 2011年6月24日
- ↑ 「サンフレッチェ2位でいい」 広島市長発言に苦情殺到
- ↑ 問題発言の市長と広島和解 「心底優勝してほしかった」
- ↑ 2014年08月22日臨時記者会見「集中豪雨災害への対応について」
- ↑ 2014年08月30日臨時記者会見「集中豪雨災害への対応について」
- ↑ 自身が被爆を体験した広島市長は、荒木武ら複数存在した。
- ↑ 19.0 19.1 19.2 候補に聞く(下)松井一実氏 - 広島市長選 - 中国新聞
- ↑ 広島市長選 松井さん市政継続読売新聞
- ↑ 候補者・開票情報広島県 - 2011統一地方選挙・衆院補選 - asahi.com
- ↑ Twitter(2011年3月5日)
- ↑ 23.0 23.1 23.2 松井一実広島市長 訪ねてもらい核廃絶発信
外部リンク
- ようこそ市長室へ - 広島市ウェブサイト