ユートピア
ユートピア(英: utopia, 英語発音: [juːˈtoʊpiə] ユートウピア)は、イギリスの思想家トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作『ユートピア』に登場する架空の国家の名前。「理想郷」(和製漢語)、「無何有郷」(無何有之郷とも、『荘子』逍遙遊篇より)とも。現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は現実の社会と対峙させることによって、現実への批判をおこなうことであった。
ギリシア語の οὐ (ou, 無い), τόπος (topos, 場所) を組み合わせ「どこにも無い場所」を意図とした地名と説明されることが多いが、記述の中では Eutopia としている部分もあることから、eu- (良い)と言う接頭語もかけて「素晴らしく良い場所であるがどこにもない場所」を意味するものであったとみられている。
ただし、「ユートピア」という言葉を用いるときには時に注意が必要である。現代人が素朴に「理想郷」としてイメージするユートピアとは違い、トマス・モアらによる「ユートピア」には非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的・牧歌的な理想郷(アルカディア)ではないためである(第3節、第4節参照)[1]。
なお、反対語はディストピア。
Contents
モアの『ユートピア』
モアの著作の正式名称は、Libellus vere aureus, nec minus salutaris quam festivus, de optimo rei publicae statu deque nova insula Utopia (『社会の最善政体とユートピア新島についての楽しく有益な小著』)という。
その内容は、
- 第1巻
- 第2巻、
- 「手紙」
の3部で構成され、「第1巻」はユートピアに行った男の話、「第2巻」は作者によるユートピアの様子のまとめ、そして「手紙」は作者がある友人に送った私信という体裁を取る。「手紙」では、ユートピアについて作者がこれまでまとめたことへの違和感と共に、友人に対しユートピアへ行った男に連絡して真意を問いただして欲しいと依頼して終わっている[注釈 1]。
ユートピアは500マイル×200マイルの巨大な三日月型の島にある。元は大陸につながっていたが、建国者ユートパス1世によって切断され、孤島となった。島の中の川はすべて改造されまっすぐな水路とされ島を一周しており、その中にさらに島がある。この、海と川で二重に外界から守られた島がユートピア本土である。ユートピアには54の都市があり、各都市は1日で行き着ける距離に建設されている。都市には6千戸が所属し、計画的に町と田舎の住民の入れ替えが行われる。首都はアーモロートという。
ユートピアでの生活は、モアより数世紀後の概念である共産主義思想が提示した理想像を想起させる。住民はみな美しい清潔な衣装を着け、財産を私有せず(貴金属、特に金は軽蔑され、後述する奴隷の足輪に使用されている)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究をおこなうとしている。
モアの『ユートピア』の実践
モアの『ユートピア』はユートピアの完成形が示されているだけで、そこに至るプロセスは示されておらず、現実社会で実現するのは困難である。しかし、16世紀にスペイン帝国が新大陸に入植した際に、広域国家が崩壊した中央・南アメリカ原住民の文化や秩序を白紙状態に戻して、知識人や宣教師の思いつきを実行に移せるチャンスを得た[2]。イエズス会は入植開始からパラグアイのグアラニー人を使って、モアの『ユートピア』に記されているとおりの生活を実現させる実験をイエズス会が追放される1767年まで行った[2]。
また、初代ミチョアカン司教になるフランシスコ会修道士バスコ·デ·キロガは、モアの『ユートピア』に影響を受け[2]、メキシコ市郊外に「サンタ・フェのオスピタル」と呼ばれる実験的セツルメントを構築した。
ユートピア文学
ユートピアという語はその後一般的となり、理想郷を意味する一般名詞にもなった。そこから、架空の社会を題材とした文学作品はユートピア文学と呼ばれる。マルクス主義からは「空想的」「非科学的」と批判されたユートピア思想であるが、理想社会を描くことで現実の世界の欠点を照らす鏡としての意義を持っている[1]。
トマス・モア以降、イタリアのトンマーゾ・カンパネッラは『太陽の都』(1602年)という、ルネサンス期のユートピア文学として『ユートピア』に匹敵する重要な作品を書いている。ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1726年)もさまざまな空想都市を描いたユートピア小説ともとれる(たとえば、音楽と数学を愛好する空中都市ラピュータなど)。
18世紀、フランス啓蒙主義の時代にはルイ・セバスティアン・メルシエの未来のパリを描く『二四四〇年』ほか、ヴォルテールなどさまざまな作家・思想家がユートピア文学を執筆した。『ソドムの百二十日間』のマルキ・ド・サドや、『愛の新世界』のシャルル・フーリエなどユートピアとは異質と思われる作家も、ユートピア的世界観・ユートピア文学の手法を使い、閉ざされた世界の中の地獄絵図や、行き着くところまで行き着いた理想社会を描いた[1]。
19世紀は資本主義の勃興の時代であり、その修正のための社会改良案や社会主義や共産主義が生まれるなど、現実の社会が加速的に繁栄をはじめ、その社会を現実に改造するための各種の思想に力が注がれたためか、ユートピア文学は非常に多く書かれたがあまり収穫がない[1]。その中で、ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』(1890年)は19世紀の優れたユートピア小説で、ほかとは異なった中世的で牧歌的な理想郷を構想している。他に今日まで記憶されている作品としてはサミュエル・バトラーの『エレホン』(1872年)、エドワード・ベラミーの『顧みれば』(1880年)などが挙げられる。
逆ユートピア(ディストピア)
20世紀に入ると、「理想郷」と宣伝されていた社会主義国家や独裁国家が現実の存在となったが、その理想と現実の落差を批判したり、科学の負の側面を強調した小説が描かれた。転倒したユートピア文学であることからこれらは逆ユートピア(ディストピア)と呼ばれる。たとえばH・G・ウェルズの『モダン・ユートピア』(1905年)、エヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』(1924年)、オルダス・ハックスレーの『すばらしい新世界』(1932年)、ジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年)や、エルンスト・ユンガーの『ヘリオーポリス』、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』、星新一の『白い服の男』などの小説によって管理社会、全体主義体制の恐怖が描かれた。また、手塚治虫の『火の鳥未来編』は『1984年』を粉本にしているとみられている。これらに描かれた国家は、一見すると平和で秩序正しい理想的な社会であるが、徹底的な管理により人間の自由が奪われている。当時の共産圏や今日の管理社会に対する予見であり、痛烈な批判である。またそれを生み出した過去のユートピア思想や、その背景となった文明自体も攻撃対象である[1]。
ユートピアの特徴
ディストピアを描いた小説が登場する前に書かれたユートピア小説も、現在の目から見るとディストピアではないかと思われるものが多いという説もある。これらの理想郷は、決して「自然の中の夢幻郷」ではない。それは人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾『合理的』な場所である。西ヨーロッパにおいてはこの模範はギリシャ社会を厳格に解釈したものに求められる。こうして生まれた「ユートピア」自体にディストピアの種が内包されていたのであるという説もある[1]。
以下に、過去のユートピア文学で表現されてきた「理想郷」にしばしば共通する特徴を挙げる。
- 周囲の大陸と隔絶した孤島である。
- 科学と土木によってその自然は無害かつ幾何学的に改造され、幾何学的に建設された城塞都市が中心となる。
- 生活は理性により厳格に律せられ、質素で規則的で一糸乱れぬ画一的な社会である。ふしだらで豪奢な要素は徹底的にそぎ落とされている。住民の一日のスケジュールは労働・食事・睡眠の時刻などが厳密に決められている。長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のために使う。
- 人間は機能・職能で分類される。個々人の立場は男女も含め完全に平等だが、同時に個性はない。なお、一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難で危険な仕事をさせている場合がある。
- 物理的にも社会的にも衛生的な場所である。黴菌などは駆除され、社会のあらゆるところに監視の目がいきわたり犯罪の起こる余地はない。
- 変更すべきところがもはやない理想社会が完成したので、歴史は止まってしまっている(ユートピアは、ユークロニア(時間のない国)でもある)。
以上のような、時計のように正確で、蜜蜂の巣のように規則的な社会像は、古代ギリシアの哲学者プラトンの『国家』[注釈 2]、『ティマイオス』[注釈 3]以来、ルネサンス期・啓蒙主義期に流行した『ユートピア』などの理想都市案から20世紀のディストピア小説、現実の共産主義国家のあり方までに共通するものがある[1]。
このような社会の理想としてあげられるのは、西ヨーロッパにおいては彼らによって再解釈された『古代ギリシャ』である。一説によればプラトンの時代はペルシアなどの脅威によりギリシア諸国が揺らいだ時期だったが、おそらく彼は理性を『ギリシャ的』なものと決めつけ理想化し、それに対立する非理性的で欲望に満ちあふれたもう一つの世界アトランティスを思い描いたのであろうとしている。
こうした理性を中心としたユートピア的理想社会に対し、バロック、マニエリスム、シュルレアリスムなど反発する思想的動きが相次いだ。現在の先進国では、ともすれば資本の効率的利用や社会の安全・健康増進・効率化を名目に、事実上の管理社会が実現されてしまうこともあるが、一方ではたとえば『ユートピア』的な都市・国土計画よりは、いいかげんでヒューマンスケールの迷路的な旧市街や、曲線的な街路を持った商業地・住宅地の混在が見直されてもいる。またフィクションの世界でも『ブレードランナー』的な一見悪夢のような混沌とした未来が、逆に人間的な世界として評価されることがある。
ユートピアとは、結局のところ、唯一の価値観、唯一の基準、唯一の思想による全体の知と富の共有は、たしかに反するものが存在しないという意味で平和で理想であるだろうが、その実現には人間的なものや自由をすべて完全に圧殺しなければ実現しえないことを明確に表したものであり、理性以外のすべてをそぎ落とした果てにあるものの機械的な冷酷さを表したものである。
ユートピア以外の理想郷
世界の理想郷伝説
- アイティオピア:ギリシャ神話南果ての国エチオピア。緑豊かな土地であったがパエトーンによる太陽神の御車暴走によって砂漠と化してしまった。ユートピアの語源との説も。
- アヴァロン:ケルト神話に登場する霧に包まれた伝説の島。アーサー王をはじめとして英雄達が集っているとされる。
- アガルタ:大洪水によって地底に移住したとされる人々の王国。モンゴルやチベットのラマ僧などにより、口承として流布されてきたという。地球空洞説の一つ。ちなみにその首都は「シャンバラ」である。
- アトランティス:プラトンの対話篇『ティマイオス』『クリティアス』に登場する古代の理想国家。豊かで強大であったが地震によって一夜にして海に沈んだという。
- アルカディア:ギリシャ南部に実在する地名だが、古より牧歌的な理想郷として知られている。
- エデン:旧約聖書の『創世記』に登場する理想郷。アダムとイヴが住んでいたというエデンの園。失楽園を経て、世界終末と共に再び地上にもたらされる至福の1000年が千年王国である。
- エリュシオン:ギリシャ神話における死後の楽園だが、「幸福諸島」として大航海時代の船乗りたちの探索の対象となった。フランス語でシャンゼリゼという。
- エル・ドラード:南米大陸を開拓したスペイン人(コンキスタドール)達のあいだで信じられた黄金の国(黄金郷)。
- オフィール:旧約聖書に出てくる黄金郷。現在のマリ共和国(あるいはジンバブウェ)ではないかとされている。17世紀末のドイツにディストピアとして作者不明のパロディ本(偽書)が出ている。
- カナアン:旧約聖書で神がイスラエルの民に約束したとされる乳と蜜の流れる地。
- キーテジ:近世ロシア人に伝わるロシア正教古儀式派の聖地。『奥ヴォルガの彼方の地』にあるとされた。古くは13世紀モンゴル帝国の侵攻により逃れたロシア正教徒によって造られ、古い純正な信仰が保たれていると言われている。そして17世紀のロシア・ツァーリ国(後のロシア帝国)による上からの宗教改革によって弾圧された、ロシア正教古儀式派(旧教徒)の理想郷とされ信じられた。
- ザナドゥ(上都):サミュエル・コールリッジの『クーブラ・カーン』に描かれている理想郷。元の夏期の首都、上都がモデル。
- シバの女王の国:旧約聖書に出てくる謎の国。女王とソロモン王の邂逅の話。現在のエチオピア周辺(イエメン?)と推測されている。
- ジパング:マルコ・ポーロによって伝えられた東方の黄金郷(東方見聞録)。昔の日本の事だと考えられている。
- シャンバラ(シャングリ・ラ):チベットでカイラス山の麓にあると信じられている理想郷。
- ティル・ナ・ノーグ:ケルト神話で、戦いに敗れた後に妖精になって暮らすという「常若の国」。
- 桃源郷:陶淵明が『桃花源記』の中で描いた理想郷。秦の時代の戦乱を逃れた者達の子孫が平和に暮らす里。
- 常世の国:日本神話に登場する、海の彼方にある理想郷。死者の国ともされる。
- ニライカナイ:琉球列島に伝わる、海の彼方の理想郷。ここから福も災いももたらされるとされる。沖縄の墓などが海に向かって作られているのはこのためである。
- パイパティローマ:波照間島に伝承される、南方にあるという理想郷。
- ヒュペルボレイオス:ギリシャ神話北風神ボレアスの住むトラキアより、さらに北方にあるとされた長寿国。
- プレスター・ジョンの国:ヨーロッパ伝説の東方キリスト教王プレスビュテル・ヨハンネス(プレスター・ジョン)の治める国。
- ヘスペリス:ギリシャ神話西果てのアトラス山脈の麓にあるとされる。スペインのヒスパリス(セビリア)。天空を背負って立っているアトラースの娘たちの世話する「ヘスペリデスの園」にはヘーラーの果樹園があり、龍に護られた黄金の林檎のなる樹など、パラダイスの語源、モデルになったとされる。
- 蓬莱:中国の東方に浮かぶ島で、神仙が平和に暮らし不死の仙薬が手に入るとされる。蓬莱のほか、方丈・瀛州をふくめて三神山とよばれる。四霊の一体である霊亀の背の上に存在するとも言われている。
- マグ・メル:ケルト神話で、死や栄光によって到達できるという喜びの島。アイルランド西方の島、もしくは海中の王国とされている。この島には様々なアイルランドの英雄や修道士が訪れた。
- 無何有郷:中国、老荘思想の理想郷。
- 龍宮(竜宮城):浦島太郎にでてくる理想郷。浦島太郎が助けた亀の背中に乗って行った乙姫のいる宮。四方四季という一度に四つの四季が同時に見られる場所である。
- ワクワク:中世アラブ世界で、東方の彼方にあると考えられていた土地。日本(倭国)が由来とする説がある。
童話などの理想郷
- イーハトーブ :宮沢賢治の作品に登場する架空の地名。郷土岩手県にちなんでいる。
- オズ(の国) :童話『オズの魔法使い』に出てくる王国。東西南北を治める魔女がいるとされる。
- ネバーランド :童話『ピーター・パン』に出てくる土地。子供が年を取らないといわれている。
映画
脚注
注釈
出典
参考文献
- 巖谷國士 『シュルレアリスムとは何か』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2002年3月。ISBN 4-480-08678-1。
- モア, トマス 『ユートピア』 平井正穂訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年1月。ISBN 978-4-00-322021-4。
関連項目
- 空想的社会主義
- 空想から科学へ
- 空想科学
- 社会改良主義
- エベネザー・ハワード(田園都市構想)
- 未来少年コナン(イギリスの空想的社会主義ユートピアの世界観の影響を受けている。)
- レッチワース
- フェビアン協会
- トマス・モア
- レフ・トルストイ(有島・武者小路・徳富への影響)
- オリエンタリズム
- 理想
- 菊池理夫(政治思想学者)
- 有島武郎(北海道狩太村「有島共生農場」)
- オウム真理教(日本シャンバラ化計画)
- 加藤完治(満蒙開拓移民)
- 徳富蘆花(蘆花恒春園)
- 宮沢賢治(イーハトーブ)
- 武者小路実篤(「新しき村」)
- ヤマギシ会(ヤマギシズム社会)
外部リンク
- 『ユートピア』の周辺 : モアの取材源 (PDF)
- 渡辺金一、一橋大学機関リポジトリ(社会科学古典資料センター年報、1984年3月)
- ユートピア展望 : ユートピアの原点、そして現在から未来へ
- 『ユートピアだより』再考 - 労働における精神の自由について (PDF)
- 髙橋在也、千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書、2008年3月
- Utopia and Utopianism (英語)