豊臣国松

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豊臣(羽柴) 国松
時代 江戸時代前期
生誕 慶長13年(1608年
死没 慶長20年5月23日1615年6月19日
氏族 豊臣氏羽柴氏

豊臣 国松(とよとみ くにまつ、慶長13年(1608年) - 慶長20年5月23日1615年6月19日))は、江戸時代前期の人物で、豊臣秀頼庶子。母は秀頼の側室の伊茶[1]。妹に天秀尼がいるが、他にも庶弟がいたという伝承・噂が江戸時代からあった。

生涯

生後すぐに若狭京極家(秀頼の伯母・常高院の嫁ぎ先)に預けられた後、乳母の兄である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となった。これは秀頼の正室である千姫をはばかったものと見られている。結局、嫡子は生まれていない。

大坂冬の陣が起こると、秀頼の隠し子との詮議を受けぬよう、常高院と共に大坂城に入城。その時、生まれて初めて父秀頼と面会した。その後、和議が整ったのでそのまま滞在。

翌年の大坂夏の陣のおり、国松は秀頼と5月8日に盃を交わし、田中六郎左衛門(京極家侍、傅役、乳母の夫)・乳母と共に城を落ち延びた。

しかし、徳川方の捜索により[2]国松は京都所司代板倉勝重のもとに連行され、5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に斬首。享年8。田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら殉死を志願して同時に処刑されたという。

戒名は漏世院雲山智西大童子。墓所は京都市中京区誓願寺にあったが、1911年東山区豊国廟に移されている。

生存説

異説では、国松は薩摩国に落ち延びて島津氏に匿われた後、豊後国日出藩木下家の分家の交代寄合の祖、木下延次(木下延由)になったとされている。その決定的な根拠として延次の位牌には国松という文字が刻まれているという。

実際は島津氏は大坂の陣に参陣しておらず、大坂から国松を保護して連れ戻ることは困難である。ただし、関ヶ原の戦い後には宇喜多秀家が、大坂夏の陣後には明石全登の息子が薩摩国まで落ち延びたことがあり、そういう事実から創作された話と考えられる。ちなみに現在の鹿児島市には「豊臣秀頼の墓」なる真偽不明の“遺跡”が残っているなど、秀頼生存説も残っている。 また、出家して玉桂山華陽院の上人了的の弟子となった説もある[3]

ねねの兄・木下家定の三男・木下延俊を初代とする旧日出藩木下家の19代当主・木下崇俊によると、木下家には「国松は薩摩に落ちのびた」という一子相伝の言い伝えがあるという[4]。延俊が大坂の陣の際に陣取っていた備中島には大坂城につながる抜け道があり、それを使って国松は真田信繁の子真田幸昌とともに逃げ、薩摩藩の船で薩摩の伊集院へ落ちのびたのち日出藩に身を寄せ、延俊の死後、領地を分け与えられて立石藩主・木下延由となったというもの[4]。秀頼についての伝承はないが、鹿児島市谷山地区の木之下集落に秀頼の墓がある[4]

脚注・出典

  1. 伊勢出身の女中某や、小田原北条家の家臣成田氏の成田五兵衛の娘との説があるが、最近は渡辺五兵衛の娘説が有力である。
  2. 当時の追っ手には国松の顔を知る者がなかったため、先に国松の乳兄弟を捕らえた。後から捕らえられた少年達の内、国松と乳兄弟が抱き合って喜び合ったのを見て、国松の真贋を確認したと言われる。
  3. 『尾張群書系図部集』
  4. 4.0 4.1 4.2 「敗軍の将」の末裔が明かす大名家に伝わる極秘の言い伝え朝日新聞dot., 2015/8/31

参考文献

概説
生存説
  • 早瀬晴夫 『豊臣氏存続 : 豊臣家定とその一族』 今日の話題社、2006年ISBN 4875655673 
  • 前川和彦 『秀頼脱出 : 豊臣秀頼は九州で生存した』 国書刊行会、1997年ISBN 4336040575 
  • 前川和彦 『豊臣家存続の謎 : 秀頼父子は九州で生きていた 戦国の秘史』 日本文芸社、1981年 

外部リンク