アメリカン・インターナショナル・グループ
アメリカン・インターナショナル・グループ(American International Group, Inc., AIG)は、多国籍の保険会社[注釈 1]。
Contents
アームストロング法からの半世紀
創業者は15歳で1907年恐慌を経験、成人すると下積みとして郵便に従事した(Pacific Mail Steamship Company)。
1919年、カリフォルニア州出身のコーネリアス・バンダー・スター(Cornelius Vander Starr)が中華民国の上海で保険代理店(American Asiatic Underwriters, AAU, later, part of American International Underwriters, AIU)を出した[注釈 2]。1921年スターは旅行先のニューヨークで自分の保険を売ってくれる店をいくつか見つけた(Globe & Rutgers Fire Insurance Company, etc.)。同年さらにアリコ(American Life Insurance Company, ALICO)を設立した。その後ピッツバーグでも販路を得た(National Union Fire Insurance Company of Pittsburgh, PA)。1931年、イギリス人と中国人をパートナーに東南アジア市場開拓を企てた(International Assurance Company, Intasco)。1932年、スターはラテンアメリカへ事業を拡大し、AIUニューヨーク事務所のジョージ(George Moszkowski)が同業の中米とカリブ海で持っている資産を買収しようと交渉した。1939年、AIU本部をニューヨークへ移転した。社内対立がおこった結果、AIUのヨーロッパ事業は縮小(イタリア・ドイツ・イギリス)、かわりに中米で拡大路線をとった。1940年キューバの中南米地域本部を設け、追ってすぐ南米にも5,6の事務所をつくった。[1][注釈 3]
フィスカル・エージェント
第二次世界大戦中の1941年、日本軍が上海を占領したとき、AIUの中国人会計士(Koong-Kai Tse, died March 9, 1998)が自社の記録を保管させてもらえるよう交渉した[2]。終戦後、上海事務所は彼の手引きにより営業を再開した。しばらくは利益をあげたが、やがて見通しが悪くなった(国共内戦の影響)。そこで1949年に主な従業員と記録をアジア地域本部(香港)へ移した。毛沢東政権の1950年後半にAIUは中華人民共和国から撤退した。[1]
一方、AIUは日本や西ドイツを占領する米軍に保険を売っていた。戦前からフランス、ベルギー、オランダを営業地域として活動していたが、それを拡大させる機会が訪れた。欧州の同業他社が戦後の金融引き締めで動けなくなったのである。その隙にAIUが需要を獲得していった。そうして開拓した欧州ビジネスは然るべくしてアメリカ事業と相乗効果をあげていった。環太平洋ビジネスにも注力した。1947年、フィリピン・アリコ(Philippine American Life Insurance Company)を立ち上げた。これも急成長した。1948年には東南アジア事業(Intasco)を再編してスターが支配した(American International Assurance Company, AIA)。60-70年後に国際問題となるAIAのテリトリーはマレーシア、シンガポール、タイ、そして香港であった。[1]
フィリピンには1902年すでにIBC(International Banking Corporation)とギャランティ・トラストが支店を開いており、これらモルガン系2行は合衆国政府のフィスカル・エージェントに指名された[3]。そして戦間期にAIUが代理した保険は、1905年のアームストロング法によりモルガン等のコンツェルンへ組み込まれたブランドであった。
再保険投資会社
1948年、スターは連携の甘かった営業網をまとめあげようと、バミューダ諸島に海外事業の親会社と再保険会社をつくった[注釈 4]。再保険会社はグループの投資計画も管理したが、その延長でグループ全体の持株会社となってゆく。1949年AIUを代理店とするアメリカ保険シンジケートを組成した(AIU Association)。このころアリコも奮起して、カリブ海から中東、アフリカへ至る世界市場へ進出した。AIU本体も、アリコのエリアだけでなく、オーストラリアにも生命保険を販売した。[1]
1952年スターの再保険会社が中堅火災保険会社の支配権を握った(Globe & Rutgers Fire Insurance Company)。これは昔にスターが代理した保険会社であった。この事業は1957年95万ドル以上の損失を計上した。再保険会社は1962年に同事業の代理店業務を売却して合理化を図った。そしてアメリカン・ホームと改名していたその会社の社長に、スターがモーリス・グリーンバーグ(Maurice R. Greenberg)を指名した。アメリカン・ホームは定期団体保険に特化するためアリコ・ニューヨークを設立した。モーリスはなんとアメリカン・ホームを勝手にやらせてブローカー業務に精を出した。そこでアメリカン・ホームは顧客と交渉して保険料を決めたり事実上の再保険業務を開拓したりした。ヘルスケアを担当してきたモーリスは医療保険を考案したけれども、アメリカン・ホームがそれを販売することはなかった。これが社内分業の始まりであった。[1]
株式公開と世界再編
1960年代後半AIUは他社の買収と再編成を推進した。このころピッツバーグにある火災保険会社の支配権を握った(National Union Fire Insurance Company of Pittsburgh, PA)[1]。この会社はメロン財閥と人的関係があった[4]。
1967年に再保険会社が持株会社としてAIGを設立した。このときモーリスが社長となった。翌年スターが死亡した。1969年AIGは株式を公開した。資本を充実させたAIGは株式交換によって、アメリカン・ホームやピッツバーグの火災保険会社(National Union)といった傘下企業に対する支配率を高めた。[1]
保険をろくに規制しない国が世界中に数多く存在した時代に、保険会社が投信を保有し、メロン系ドレフュス商会のファンドが抜群の売れ行きを見せ、銀行・保険・年金・投信というあらゆる経路でかき集めた貯蓄をファンド・オブ・ファンズがオフショア市場に投下した。そして現地に新たな産業と保険需要がおこった。
1972年、AIGは海外展開を目的とした18ヶ月計画をスタートした。同年アリコ・ジャパンは外資系で初めて日本で営業認可を得た。AIGグループの各部門は専門化していった。オイルショックにあって、オフショアの油田・ガス田掘削事業を対象とした保険をスタートした。危険計算に特化した部門が地球のありこちで起こった事故の統計を処理した。進出先のアイルランドには同地域を管轄する子会社をつくった。分業の進むグループ企業に対する支配力をAIGはさらに高めた。1976年AIUがリスク引受先を自社の完全子会社だけに決めた。1978年、AIGはスターの再保険会社を吸収した。1979年AIGは東欧諸国の国営保険事業とジョイント・ベンチャーをやりだした。そういう方法は中国とユーゴスラビアでも採られた。AIGは年率20%成長した。1979年の純益は年報によると2.5億ドルを超えていた。[1]
金融スキャンダルの足音
1980年代AIGは勇んでヘルスケアを手がけた。そしてさまざまな金融・投資会社へ資本参加した。不動産担保証券付保会社(United Guaranty Corporation)、スイス銀行(Überseebank AG, later Falcon Private Bank)、スイスの生保(Ticino Societa D'Assicurazioni Sulla Vita)、後のAIG航空(Southeastern Aviation Underwriters)、ヘルスケア・コンサルタント(Jurgovan & Blair)がAIGの手先となった。1981年AIGは石油会社と共同出資で(Presidio Oil Company)、109ものガス田の支配権を握った。エンタメや政治リスクまで商売にしてしまったAIGは、1984年にそれら色物事業を油田開発・エネルギー事業とくっつけてしまった(AIG Specialty Agencies Inc.)。それで強盗とか誘拐とかまで保険させた。一方、韓国は外債の累積に歯止めをかけるため国内保険業を保護していた。長い折衝の末、1987年AIGは同国で生保の営業認可を得て、外資系首位のシグナ(Cigna)と競争した。[1]
1987年AIGから2人の幹部が他社へ移った。ピッツバーグを地盤とするナショナル・ユニオン社長のジョセフ(Joseph P. DeAlessandro)とアメリカン・ホーム社長のデニス(Dennis Busti)である。ジョセフの後釜はモーリスの息子(Jeffrey W. Greenberg)であった。デニスの後継は違うジョセフで(Joseph R. Wiedemann)、ボストンの子会社レキシントン保険で社長をやっていた男であった。1990年までにAIGは兜町とシティとパリとチューリッヒの証券取引所へ上場した。[1]
何でも屋のグローバル展開といったらベアリングス銀行であるが、AIGも似たようなもので、崩落の兆しも南米に現れた。
ガルシアショックがAIGを震撼させていた。1986年8月、AIGはエンロンとの保険契約を突然解約して保険料を突き返した。7ヶ月後ペルー政府はエンロンの完全子会社(Belco Inc.)を接収してしまった。3ヵ月後エンロンは2億ドルの損害を申告した。AIGとエンロンは年内に妥協することができなかった。紛争が仲裁機関に送られ、結局1988年の裁定により、AIGおよびその他保険者がエンロンに保険金1億6200万ドルを支払うことになったのである。[5]
環境破壊責任の所在
1980年代、三菱化成が出資したマレーシア企業(Asian Rare Earth Sdn Bhd)の放射性廃棄物は野積みされて住民に健康被害をもたらしていた。1992年7月11日、同国のイボー高等裁判所から営業停止命令が出た。そして三菱は福島第一原子力発電所事故が起きようとしている頃にこっそりと除染するのであった[6]。
このような環境破壊責任を1980年代のAIGが保険していた(environmental-impairment-liability insurance, EIL insurance)。1989年初めにモーリスが提案した。グループで販売している保険全種の保険料を、「環境税」として2%引き上げようというのであった。モーリスは「環境税」を元手に業容と市場の拡大を図ったが批判を浴びた。[1]
1992年、モーリスの息子エヴァン率いるアジア太平洋部門が43年ぶりの中国市場復帰を果した。1994年AIGはロンドンに投資銀行を設立した(AIG Combined Risks Ltd.)。直接金融、再保険、デリバティブなどに関係したリスクマネジメントを提供しながら、投資先の財務状態を把握できるという事業であった。これは丸ごとグループの金融部門に配属された。1994年ロシアとウズベキスタンでもグループ企業が生まれた。1995年AIGはタタ財閥と合意して、インド市場が開かれ次第、生保もそれ以外も共同出資でやってみることになった。1998年ブラックストーン・グループへ7%資本参加したが、その代わり同社の買収用ファンドへ12億ドル投資する約束をした。1999年初めには投信会社を183億ドルで買収した(SunAmerica)。サンアメリカが保有した9000人以上のアメリカ人ブローカーが織り成す販売網はAIGの生命保険を売りまくり、AIGはサンアメリカのつくった年金商品を地球規模の生保営業網で売りさばいた。2000年11月にHSBグループを12億ドルで買収した[注釈 5]。2001年には千代田生命保険を買収した。[1]
2000年アメリカ系保険会社で初めて支店を出したベトナムをふくめ[1]、進出先はどの国もなんらかの環境問題を抱えていた。皮肉にも、AIGなどが運用する保険料と、サンアメリカなどが運用するファンドが、乱開発の原動力となっていた。
電力とアルプスと粉飾決算
2001年8月、AIGが230億ドルでヒューストンの投信会社を買収した(American General Corporation)。この会社は年金商品とミューチュアル・ファンドに強いだけでなく、1200億ドルを超える受託資産をかかえながら生保・金融市場でもアメリカの主要なプレイヤーであったので、それを買収したAIGはいよいよプルデンシャル・ファイナンシャルに追随した。翌月アメリカ同時多発テロ事件がおきて、アメリカの保険業界は500億ドルの支払義務に苛まれた。AIGはそこでゴールドマン・サックスなどの合弁会社に参加して(Chubb Corporation)、バミューダに特大の保険会社をつくった(Allied World Assurance Company Holding Ltd.)。[1]
2001年12月、被保険者エンロンが破綻した。AIGとは人的関係もあった(フランク・ジョージ・ウィズナー)。エンロン・スキャンダルが報じられる間に海底ケーブルが地球の海という海に敷設されてゆき、ミューチュアル・ファンドを利用した短期取引と時間外取引で一部の金融機関が不正な利益をあげた。2003年8月、AIGはゼネラル・エレクトリック・エジソン生命を買収した。9月から短期取引と時間外取引が社会問題化して2005年にかけて厳しい規制が敷かれた。AIGの粉飾決算は2004年2月26日のニュースレターによって指摘された[7]。10月に政府が精査する方針を明らかにした。米司法省と証券取引委員会がAIGを調べた。2005年、5億ドルの架空の損失引当金計上による粉飾、保険および証券法違反などの容疑でモーリス・グリーンバーグ会長、AIG、元CFOのハワード・スミス(Howard I. Smith)が起訴された。AIGの格付けはAAAからAA+に格下げされた。3月モーリス・グリーンバーグは会長を辞任し、後任にはマーチン・サリバン(Martin J. Sullivan)が就任した。2006年2月、16億4000万ドルを支払うことでニューヨーク州司法当局等との和解に合意した。この金額には、1980-90年代に滞納した企業年金3.4億ドルもふくまれていた[1]。
2007年8-10月、AIGの子会社がヴュルテンベルク=バイエルン保険(Württembergische und Badische Versicherung)を買収した。2008年5月下旬、グループのヨーロッパ総合保険部門(UNAT)がイギリス金融当局から126万ドルの罰金を課された[注釈 6]。2009年、AIGプライベート・バンクが先述のスイス銀行(Falcon Private Bank)を買収、同行が後の1MDBスキャンダルで問題化した[8]。2010年、特別取締役会委員会は投資銀行のロスチャイルドを独立アドバイザーとして起用した[9]。2011年2月にはニューヨーク連邦準備銀行のブライアン・ピーターズ(Brian Peters)を雇い事業リスクマネジメントを担当させた[10]。2012年4月、サンアメリカCFOのメアリー(Mary Jane Fortin)がヒューストンを地盤とするアメリカン・ジェネラルの社長にジェームズ・メロン(James Mallon)を指名した[11]。
「大きすぎて潰せない」
2007年にアメリカでサブプライムローン問題による金融危機が起こった。AIGもサブプライム関連の金融商品を20年以上前から抱えていた。そのため、住宅価格の低下や金融商品の格下げの影響を受け多額の損失を抱えた。AIGの地球規模が災いして、損失額は2008年通期で992億9000万ドルとなり、アメリカ企業史上最大の赤字額となった。
2008年6月15日、マーチン・サリバン最高経営責任者(CEO)が、サブプライム関連で過去最大の損失を出したことから、CEO職と取締役を辞任し、後任CEOにはロバート・ウィルムスタッド会長が就任した(Robert B. Willumstad)。しかし、後述の経営危機より巨額の公的支援が決定したことから、2008年9月18日に、ロバート・ウィルムスタッドはCEO兼会長を引責辞任し、後任にはエドワード・リディ元オールステート保険CEOが就任した(Edward Liddy)。
AIGは夏の終わりごろ145億ドルの支払不能に陥った[1]。リーマン・ブラザーズが経営破綻を起こした2008年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙は信用格下げに直面しているAIGが連邦準備制度理事会(FRB)に対し400億ドルのつなぎ融資を打診していると報じたが、FRBが融資を断っていたことなどからAIGの経営危機説が急浮上した。市場で破綻の懸念が広がり、株価は60パーセント以上も下落、翌16日には一時株価が1.25ドルにまで下落した。AIGは最大で750億ドルの調達を急いでおり、17日までに資金調達の目処がたたなければ、連邦倒産法第11章を申請する以外に手段はなくなるとの報道があった[12]。
FRBは当初、リーマン破綻時と同様に民間金融機関同士で資金の調達するよう促し、ゴールドマン・サックスやJPモルガン・チェースなどに融資を持ちかけていた。しかし、民間金融機関はAIGを支援するだけの資金の余力はなく融資を拒否した[注釈 7]。AIGが破綻すれば、4000億ドルのCDSなどが顧客や市場に多大な影響を及ぼすかもしれなかった[注釈 8]。
そこでFRBは方針を転換し、AIGの資産を担保とし、最大で850億ドルを融資することを決定した。これと引き換えに、アメリカ政府がAIGの株式の79.9%を取得する権利を確保し、政府の管理下で経営再建が行われることとなった[13][14][15]。AIGには当初、融資枠の850億ドルのうち借りなかった分については8.5%、実際に借りた分にはロンドン銀行間取引金利(LIBOR)に8.5%を加えた金利が課されることになった[16]。しかしFRBがその資金力で主導権を握り始めた。11月10日に発表された追加救済策ではLIBOR+3%に引き下げられた[17]。この金利はその後の追加支援策により、LIBORの水準にまで引き下げられた[18]。
特融返済後ルクセンブルクへ
2008年10月3日には新しい経営方針として、生命保険事業を売却し中核事業の損害保険事業に資源を集中させる方針を発表した(Troubled Asset Relief Program)。売却して得られた資金はFRBからの借入金の返済に充てられる[19]。
2009年2月5日にニューヨーク証券取引所(NYSE)の株価が上場廃止の1つの基準となっている1ドルを一時的に割り込んだ。回復しなければ、上場廃止の可能性もあった[20]。しかし、NYSEは時限的に上場維持基準を緩和したため6月30日までは上場の維持が見込まれることとなった[21]。2009年3月11日にロンドンの金融商品部門で5000億ドルに及ぶ損失を出していた可能性を報道された[22]。2009年8月10日にエドワード・リディはCEO兼会長を辞任し、後任にはロバート・H・ベンモシェ(元メットライフCEO)が就任した。
2010年AIAグループが特融返済資金を集める目的で香港証券取引所に上場した。AIAはネーデルラント資本に組み込まれた。
2012年12月、米財務省はAIG株を全て売却すると発表したが、ワラントは売らなかった[23]。翌年AIGは特融を完済した。2014年バンカメがモーゲージ問題でAIGへ6.5億ドルを損害賠償した[24]。2015年8月12日、金融危機当時に米政府がAIGの支配株を取得したのは違法とした6月の連邦請求裁判所の一審判決を不服として、政府は控訴した[25]。2016年、AIGはモーゲージから撤退した[26]。そして重役にジョン・ポールソンと、カール・アイカーンの部下(Samuel Merksamer)が重役となった[27]。2017年3月、業績低迷によりピーター・ハンコック(Peter Hancock)がCEOを辞任した[28]。このときAIGはルクセンブルクに新たな拠点を設ける方針であった[29]。9月29日、米財務省がAIGを「システム上重要な金融機関(SIFI)」認定から外すと発表した[30]。
AIGボーナスベイビー
2008年10月7日、米下院で開かれた公聴会の席上で、AIGグループの保険子会社であるAIGアメリカン・ゼネラル社の幹部が、公的資金の投入による救済が決定した一週間後の9月22日から30日にかけてカリフォルニア州南部オレンジ郡の高級リゾート地に関係者を集め、総額44万ドル(約4500万円)の「会合」を繰り広げていたことが判明し、米下院のイライジャ・カニングス議員は「米国民が救済資金を出すのを横目に、マッサージを受け、マニキュアを塗っていたのか」と批判した。この件に関してはホワイトハウス広報官も「卑しむべき行為」と異例のコメントを行う事態となり、当初AIG側は「保険業界では常識的なことである」と正当性を主張していたものの、最終的には「もし開催を知っていれば中止させた」と弁明に追い込まれた[31]。
2009年3月、AIGが幹部社員に対して総計1億6500万ドル(約162億円)にもわたるボーナスを支給すると報じられた。ニューヨーク・タイムズ紙によると、ボーナスを支給される幹部は400人[注釈 9]。3月13日に支払われたボーナスは、400人に対し1億6500万ドル(約160億円)。ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ司法長官が17日に公表した結果によると、計73人が各100万ドル(約9800万円)超を支給され、そのうち11人はすでに退社しているという。支給額200万ドル超が22人おり、最高額は640万ドルである。これに対してバラク・オバマアメリカ大統領は「あらゆる手段を駆使してこれを阻止する」と宣言しており、アメリカ議会にて、国税である所得税においてボーナスの90%(地方税は10%相当であるから事実上は100%)を課税する法案が下院で可決され、上院で審議されている。上院のグラスリー議員は「日本の経営者にならって、頭を下げ謝罪して辞任するか、もしくは自殺するかを選んで欲しい。そうすれば私の気持ちは少しは晴れる」という発言を行い物議をかもした。一方、AIG側は「ボーナス支給は危機前の契約で決定されたもので、支払わないと法的責任が生じる」と弁明したが、社員の一部には「賞与返還要求は脅迫も同じ。脅迫に応じる道義的責任はない。」と居直り、逆に「脅迫」に反抗して法的処置を模索する動きまである[33]。米メディアは高額ボーナスを受け取ったこれら幹部・元幹部を「AIGボーナスベイビー(bonus baby)」と揶揄している[34]。
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- 現在
- ラグビーニュージーランド代表 - 2012年10月から2018年5月までの契約。ユニホーム胸部にロゴが入る。
- 過去
- マンチェスター・ユナイテッド - 2006年~2007年シーズンまでユニフォームスポンサー[注釈 10]。
- ジャパン・オープン・テニス選手権 - 2001年~2008年シーズンまでAIGがスポンサーとなった(AIGオープン)。
日本での営業
日本国内では、損害保険会社3社(1社はJTBとの合弁会社)などが傘下で営業している[注釈 11]。
AIGの日本進出は1946年に傘下のAIU保険会社が、当時日本を占領していたGHQの要請で、駐留アメリカ軍の資産の保険を始めたことによってなされた。1949年には日本人向けの営業も行なうようになった。
かつてはアリコジャパン(現・メットライフ生命保険)など生命保険会社3社も傘下に収めていたが、2010年から2011年にかけて、いずれも他社に売却された。アリコジャパンは日本で最初の外資系生命保険会社として1973年より日本人向けの営業を開始した。第三分野保険にかけては[注釈 12]、歴史的に外資系保険会社が強く、アリコもシェアが高かった。
日本国内傘下会社
- 保険事業持株会社
- AIG ジャパン・ホールディングス株式会社 - 2013年4月業務開始[35]。AIG損害保険・アメリカンホーム医療・損害保険・テックマークジャパン・AIGパートナーズなどの100%親会社。
- 損害保険事業[注釈 13]
- AIG損害保険 - AIG傘下の保険会社として[36]、自動車保険や海外旅行保険などを展開。2013年4月に日本法人化した。2018年1月に富士火災海上保険を吸収合併し、AIU損害保険株式会社からAIG損害保険株式会社へ商号変更[37]。
- アメリカンホーム医療・損害保険(アメリカンホームダイレクト) - 自動車保険の通信販売。2014年4月に日本法人化した。
- ジェイアイ傷害火災保険 - 50%出資。JTBグループとの合弁会社。旅行傷害保険などを展開。
- 関連事業
- AIGパートナーズ - 2013年4月に富士火災インシュアランスサービスとチャーティス・コーポレートソリューションズが統合。2018年1月にAIG富士インシュアランスサービス株式会社からAIGパートナーズ株式会社に商号変更。損害保険の代理・生命保険の募集など。
- テックマークジャパン - ワランティ業務など。
- AIGアセットマネジメント - グループ保険会社の債券運用の受託。
- AIGテクノロジーズ - IT関連サービスの提供。
- AIGビジネス・パートナーズ - グループ会社に対するシェアード・サービス、コンサルティングサービス。
- ティーペック - 電話による健康相談。
過去の日本国内傘下会社
- 損害保険事業
- 生命保険事業
- アリコジャパン - メットライフに売却(2010年11月)。現・メットライフ生命保険
- AIGスター生命保険 - 千代田生命の営業を承継。→プルデンシャル・ファイナンシャルに売却(2011年2月)
- AIGエジソン生命保険 - 東邦生命の営業を承継。旧GEエジソン生命。→プルデンシャル・ファイナンシャルに売却(2011年2月)
- AIG富士生命保険 - 旧・富士生命保険。→富衛集団に売却(2017年4月)[注釈 14]。現・FWD富士生命保険
- 金融サービス・資産運用事業
- AIGグローバル・リアルエステート・アジアパシフィック・インク(AIGGRE) - 不動産投資関連業務など。→米インベスコに売却(2010年12月)
- AIGジャパン・キャピタル・インベストメント - AIG Investmentsの代替投資部門。→パシフィック・センチュリー・グループに売却。
- AIGインベストメンツ - AIG Investmentsの資産運用会社。→パシフィック・センチュリー・グループに売却。
脚注
注釈
- ↑ 130以上の国・地域で事業を展開して顧客数は約8800万で、90の国と地域の拠点で従業員は約6万4千人である。欧州はロンドンのクロイドンとパリのラ・デファンスに、アジアは香港に本拠を置いている。2004年4月8日より2008年9月21日までダウ平均株価の構成銘柄の1つであった。株式はNYSE・東証・アイルランド証券取引所に上場している。米経済誌『フォーブス』が2014年に発表したForbes Global 2000(世界優良企業2000社番付)2014年版では全業種通算で世界第42位にランキングされている。
- ↑ スターは上海で中国人に保険を売った最初の西洋人だった。
- ↑ WSJ, "AIG to Pay Nearly $300,000 Over Apparent Cuba Sanctions Violations", 2014/5/8
- ↑ American International Underwriters Overseas Ltd.(AIUO) and American International Reinsurance Company Inc.(AIRCO)
- ↑ Hartford Steam Boiler (now part of Munich Re). HSB sets the standard in equipment breakdown insurance and other specialty insurance and reinsurance coverages worldwide.
- ↑ コールセンター管理不行き届き。デューディリジェンスを果さないまま商品を販売していた。
- ↑ モルガンはAIGの監査役会にFRB出身のエレン(Ellen V. Futter)を就けていた。
- ↑ AIGが保有するCDSの相当量はゴールドマンが売りつけたものであった。さらにゴールドマンは次の特融を天引きして世論に叩かれるのであった。
- ↑ 「クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)」と呼ばれる、今回の危機の引き金となった複雑な金融商品を扱っている部門に所属する社員であるが、複雑な業務のため人材流出を防がなければならなかったとリディ会長は述べている[32]。
- ↑ 契約金は4年で8060万ユーロ(約113億円)でイングランドで当時の最高契約額だった。
- ↑ しばしば、アメリカンファミリー生命(アフラック)がAIGグループだと間違えられるが、アフラックは系列ではない。
- ↑ 第三保険分野とは、がん保険、医療保険、傷害保険といった生保と損保の中間部分。
- ↑ 損保の保険料収入では、AIUが第8位、アメリカンホームが第11位で外資系としてはトップである。通販専業損保ではアメリカンホームが業界最大規模となっている。
- ↑ 2016年11月14日、AIGはAIG富士生命保険を売却し、日本の生命保険事業から撤退を発表した[39]。
出典
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 International Directory of Company Histories, Vol.109.
- ↑ The New York Times, "Koong-Kai Tse, 91, Insurance Executive", MARCH 18, 1998.
- ↑ Bankers Magazine, Vol.64, 1902, pp.114, 915.
- ↑ Who's who in Commerce and Industry, Volume 14, 1965, p.595. "NEWITT, Kenneth Chadbourne, b. Pitts., aug. 8, 1912; m. Mary Seaver, June 21, 1937; 1 son, Frank Seaver, Scurity Analyst Union Trust Co, Pitts., 1937-46, investment officer Mellon Nat. Bank and Trust Co., 1947-49, asst. v,p., 1949-51, vice pres., 1951----; director National Union Fire insurance Co., Allegheny gen. Hosp. Served as It. USNR, 1943-46."
- ↑ The New York Times, "COMPANY NEWS; Enron Reports Insurance Award", December 17, 1988.
- ↑ The New York Times, "Mitsubishi Quietly Cleans Up Its Former Refinery", By KEITH BRADSHER, MARCH 8, 2011.
- ↑ Schiff's Insurance Observer
- ↑ Monetary Authority of Singapore, "MAS Directs Falcon Bank to Cease Operations in Singapore", Last Modified on 26/11/2016, Retrieved on 4/3/2018
- ↑ Bloomberg AIG取締役会委員会:ロスチャイルドをアドバイザー起用-WSJ紙 2010/05/12 12:11 JST
- ↑ BusinessInsurance, "AIG hires New York Fed's Peters to enterprise risk management job", 2/4/2011, Retrieved 5/3/2018
- ↑ HoustonBusinessJournal, "James Mallon to lead American General Life Cos.", Apr 12, 2012, Retrieved Mar 5, 2018.
- ↑ AIG、深刻な資金繰り悪化に直面(リンク切れ), NIKKEI NET(2008年9月16日), 2008年9月17日閲覧
- ↑ <AIG>救済に方針転換 連鎖破綻への懸念強く…米政府(リンク切れ), 毎日新聞(2008年9月17日), 2008年9月17日閲覧
- ↑ “米FRBがAIGに最大約9兆円融資へ、政府が株式79.9%取得”. ロイター. (2008年9月17日) . 2011閲覧.
- ↑ FRB: Press Release--Federal Reserve Board, with full support of the Treasury Department, authorizes the Federal Reserve Bank of New York to lend up to $85 billion to the American International Group (AIG)--September 16, 2008
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- ↑ 米政府、AIGに300億ドルの追加支援実施へ=関係筋、ロイター、2009年3月2日、2009年9月15日閲覧
- ↑ アリコなど3社売却へ…AIG生保、事実上の日本撤退(リンク切れ), 読売新聞(2008年10月3日), 2008年10月4日閲覧。
- ↑ Bloomberg.co.jp: 米AIGの株価が1ドル割れ、政府救済後に時価総額半減-上場廃止も 2009年2月5日付
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- ↑ 阿部伸哉 (2009年3月11日 夕刊). “米AIG 50兆円損失か 英の金融商品部門 業績悪化の原因(リンク切れ)”. 東京新聞
- ↑ 日経新聞電子版 「米AIG、公的管理から脱却へ 米財務省が全株売却」 2012/12/11付
- ↑ WSJ, "Bank of America to Pay $650 Million to AIG in Mortgage Disputes", July 16, 2014, Retrieved March 3, 2018.
- ↑ ウォールストリート・ジャーナル 米政府、AIG救済問題で控訴-6月の判決に不服 2015年8月13日 9:20 JST
- ↑ Reuters, "AIG to spin off mortgage unit, cut jobs in sweeping overhaul", January 26, 2016
- ↑ 日経新聞電子版 「米保険大手AIG、「物言う株主」を取締役に」 2016/2/12
- ↑ 日経新聞電子版 「米AIG、ハンコックCEOが辞任へ、業績低調で引責」 2017/3/10
- ↑ 日経新聞電子版 「米AIG、英EU離脱後の拠点をルクセンブルクに」 2017/3/9
- ↑ 日経新聞電子版 「米財務省、AIGの規制を解除 金融システム影響減」 2017/9/30
- ↑ 救済1週間後に豪遊、AIGに批判噴出、2008年10月8日、産経ニュース
- ↑ 『日本経済新聞』2009年3月19日夕刊、2面
- ↑ 米AIGの欧州部門従業員、賞与返還要求は「脅迫」と反発、2009年3月29日、ロイター
- ↑ AIGボーナスベイビー〜深刻な財務省の人手不足(2009年3月26日、JBpress)
- ↑ AIG ジャパン・ホールディングスが保険持株会社に - AIGプレスリリース
- ↑ AIU保険会社について(AIU保険会社公式ホームページ)
- ↑ 法人番号公表サイト
- ↑ 法人番号公表サイト
- ↑ 読売オンライン11月15日付記事(リンク切れ)
関連項目
- バークシャー・ハサウェイ - AIGの抱えきれなくなったリスクを有償で引受けている(アスベストなど)。