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松前 重義(まつまえ しげよし、1901年(明治34年)10月24日 - 1991年(平成3年)8月25日)は、日本の官僚・政治家・科学者・教育者・工学博士で、東海大学創立者である。内村鑑三に師事したクリスチャン[1]である。日本社会党衆議院議員で、ソ連との交流促進に尽力した。戦後すぐに、逓信院総裁(戦前の逓信大臣、のちの郵政大臣)を歴任。静岡県静岡市の名誉市民[2]。
来歴・人物
熊本県上益城郡嘉島町に生まれる。合併前の大島村で村長を務めた松前集義が父である。祖父松前熊太郎、曾祖父松前叶は熊本藩士。
旧制熊本県立熊本中学校から熊本高等工業学校を経て東北帝国大学工学部電気工学科を卒業する。
逓信省に技官として入省し、無装荷ケーブルなどを発明して通信技術の進歩に貢献した。1937年11月に「無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究」[3]により東北帝国大学工学博士を授かる。技官より文系出身者を優位とみなす逓信省の組織構造にあたり、新体制運動へ傾倒する[4]。
1940年に大政翼賛会が発足すると総務局総務部長に就任するが、主導権を争う内紛から辞表を求められて辞任する。1941年に逓信省工務局長に就任する。太平洋戦争開始後の1943年に航空科学専門学校を、1944年に電波科学専門学校[5]をそれぞれ創立する。
日米開戦の当初は賛成したが、開戦後に日本の生産力はアメリカに遠く及ばない現実を知り[6]各方面へ報告したことから、勅任官であるが二等兵として召集されて1944年に南方戦線へ送られた[7][8][9]。マニラでは南方軍総司令官寺内寿一元帥の配慮[10]により、軍政顧問として勤務して無事に復員し、のちに技術院参議官として終戦を迎える。
戦後は逓信院総裁に就任するが、1946年4月に辞任して9月に公職追放となる。追放解除後に1952年の総選挙で右派社会党から衆議院議員に初当選して以後6回当選する。中道保守系の有力議員として社公民路線を提唱した。日本社会党員ながら原子力基本法制定に尽力し、東海大学工学部に原子力工学専攻を設置している。電波科学専門学校は戦後に旧制大学東海大学となり、学制改革に伴い新制大学東海大学となる。自らは一官僚であり、資産を持たない松前は、借入金や寄付だけで大学建設に挑んだため、大学はたびたび財政危機に陥り、松前自身も苦労が絶えなかった。しかし、事業家としての才にも恵まれた松前は、斬新な学部の設置や、学校法人のM&Aなど、従来までみられなかった学園経営を展開し、東海大学を日本有数の大学に育て上げた。
自ら注力した日本初のFM放送局であるFM東海の処遇で、郵政省と争った。
ソ連政府の提案によるソ連と東欧との交流組織「日本対外文化協会」(対文協)を石原萠記、松井政吉らとともに1966年に設立して会長を務めた。ソ連初の野球場としてモスクワ大学松前重義記念スタジアムの建設に尽力するなど、国際交流事業を展開して各国の政府機関や大学から勲章や名誉博士を受けた。
日本柔道選士権大会で優勝歴がある兄の顕義に影響されて熊本高等工業学校で寝技主体の高専柔道に励み、1969年に全日本柔道連盟理事、1979年に国際柔道連盟会長にそれぞれ就任し、1983年頃から全日本学生柔道連盟陣営として講道館と対立した。
三池工業高校を甲子園で優勝させた手腕を見込み、監督の原貢を東海大相模高校の硬式野球部監督に招聘した[11]。
1991年8月25日に89歳で死去する。
松前一族
長男の松前達郎は東海大学総長、二男の松前紀男は東海大学学長、三男の松前仰は北海道東海大学学長をそれぞれ務めた。達郎の長男である松前義昭は東海大学理事長、副総長を、紀男の長男松前光紀は東海大学医学部教授[12][13]をそれぞれ務めている。義昭、光紀ともに東海大学の出身である。
無装荷ケーブル
1932年にいわゆる「無装荷ケーブル通信方式」を提唱した。
長距離ケーブルでは2線間の静電容量により損失があるが、ケーブルに一定間隔で装荷コイル[14]を挿入してインダクタンスで釣り合いをとる装荷式で、1899年にミカエル・ピューピンが特許を取得した。装荷式は損失による減衰が少ない長所から真空管発明以前である当時の主流となったが、信号の反射や歪曲、遅延時間増大、遮断周波数より高域の信号は使用できない、などの欠点もあった。
1932年に「増幅器などを使用して装荷しないケーブルを利用すれば、高効率で、遮断周波数は存在せず搬送を利用した多重化にも有利である」とした「長距離電話回線に無装荷ケーブルを使用せんとする提案」[15]を発表し、小山 - 宇都宮間で多重電話伝送を実験して良好な結果を得た。のちに「当時の主流に異を唱える主張で、勇気を要とした」と述べている。1937年に満州国の安東と奉天間で無装苛ケーブル通信方式で長距離電話通信が成功し、1940年に東京と新京間で全長3,000キロメートルの直通電話が開通した。
初期の研究を著した書籍に『無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究』[16]と、同名の東北帝国大学博士論文がある[17]。
著書
- 『デンマークの文化を探る』(向山堂書房、1936年)
- 『農業の国デンマーク』(聖書之農村社、1936年)
- 『南洋諸邦に於ける電気通信事業』(電気日報社、1937年)
- 『技術の新体制』(大政翼賛会宣伝部、1941年)
- 『東亜技術体制論』(科学主義工業社、1941年)
- 『技術人と技術精神』(白揚社、1942年)
- 『戦時生産論』(旺文社、1943年)
- 『決戦下青年に訴ふ』(非凡閣、1944年)
- 『技術者の道』(科学新興社、1945年)
- 『敗戦復興の方途』(科学新興社、1946年)
- 『二等兵記』(日本出版、1950年)
- 『発明記』(東海書房、1953年)
- 『再軍備問答』(東海書房、1955年)
- 『原子力時代を探る』(東海出版印刷、1956年)
- 『死地に追いやられた二等兵の手記』(旺文社、1957年)
- 『新科学時代の政治観』(東海大学出版局、1960年)
- 『その後の二等兵』(東海大学出版会、1971年)
- 『二等兵記 付記 召集事件の背景』(東海大学出版会、1977年)
論文
- 「無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究 」(東北帝国大学に提出した学位論文、1937年11月2日)
訳書
- ホルガ・ベートロプ、ハンス・アルスレフ・ルン、ピーター・マニケ 『デンマークの国民教育と産業組織への進展』(コロナ社、1940年)(横山文三との共訳)
脚注
- ↑ わが父・手島郁郎について語る手島佑郎、NCC(日本キリスト教協議会)『出会い』第13巻第2号(1999年11月発行)、pp.3-29
- ↑ 名誉市民 - 静岡市
- ↑ 博士論文書誌データベース
- ↑ 松前重義・伊藤隆「対談『新体制』の周辺」、小学館『日本の歴史(30)』月報。
- ↑ 1945年に東海専門学校として合併し、後に東海科学専門学校と改称する。
- ↑ 開戦直前の1941年8月にも総力戦研究所で「ソ連の参戦もあるはずだし日本は勝てない」と研究がまとめられていたが、東條は“勝負は時の運だ”と鼻で笑って無視している
- ↑ 松前『二等兵記』
- ↑ これ以前にも宴席でチフスに感染して重体に陥る。
- ↑ 反東條派の東久邇宮稔彦王とコネクションを持っていたので、中野正剛と共に働きかけを行なった松前を直接的に抹殺できないため、証拠は無いが病気に見せた暗殺工作であったかもしれないと松前本人は考えている。
- ↑ 総司令官の名で辞令を発布した。
- ↑ 「今年の辰徳は我慢強かった」父が明かす、原監督秘話 夕刊フジ 2008年10月14日閲覧
- ↑ 訃報 松前紀男さん84歳=元東海大学長 毎日新聞2016年1月5日(2016年1月6日確認)
- ↑ 東海大学医学部
- ↑ 1932年当時の日本では「装荷線輪」と呼ばれていた。
- ↑ 『電信電話学会雑誌』1932年3月 pp. 355-、『発明への挑戦』pp. 161-181 に再録、篠原登、橋本元三郎と連名
- ↑ コロナ社、1936年8月初版
- ↑ 無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究 国立国会図書館蔵書サーチ
関連項目
- 竹槍事件-懲罰召集の例として、比較されることがある。
外部リンク
- “松前重義と建学の精神”. 学校法人東海大学. . 2010年2月14日閲覧.
学職 | ||
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先代: - |
北海道東海大学学長 初代:1977年 ‐ 1981年 |
次代: 松前紀男 |
先代: - |
東海大学工芸短期大学学長 初代:1972年 ‐ 1977年 |
次代: - |
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