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ヴェルフ家(ドイツ語: Haus Welf)は、中世の神聖ローマ帝国で皇帝位を争った有力なドイツの諸侯。ヴェルフェン家(Haus Welfen)とも呼ばれる。
Contents
概略
初期中世にバイエルンから発して、その分家がユーラブルグントの王となった。さらに初期ヴェルフ家の断絶後、その後を継いだヴェルフ=エステ家(ヴェルフェン=エステ家)が勢力を誇り、さらに分家であるブラウンシュヴァイク=リューネブルク家からイギリスのハノーヴァー王家が出ており、フェラーラとモデナのヴェルフ家が近代まで続いた。歴史に大きな足跡を残したのがヴェルフ=エステ家で、ザリエル朝、ホーエンシュタウフェン朝と帝位を争ったが、神聖ローマ皇帝となったのはオットー4世のみだった。叙任権闘争における教皇派(ゲルフ)とはこの家を指す。
初期ヴェルフ家
ヴェルフ家が歴史に最初に顔を出すのは9世紀初めのことである。ヴェルフ家のシュッセンガウ伯ヴェルフはバイエルンの有力貴族であり、その娘ユーディトはカロリング朝の皇帝ルートヴィヒ1世に嫁いでいた。ルートヴィヒ1世は817年に帝国整序令を発し、長男ロタール1世にイタリアと帝位を、次男ピピンにアクィタニアを、三男ルートヴィヒ2世にバイエルンを与えると決めていた(以上3人の息子はユーディトの子ではない)。
ところが823年にユーディトが四男カール(シャルル)を生み、ヴェルフ家は彼にも領土を要求する。ルートヴィヒ1世もこれに応えてカールにアレマニア、アルザス、ブルグントなど広大な領域を与えることに決めたため、カロリング朝は親子兄弟の相続を巡る内戦に陥ることとなった。この内戦は843年のヴェルダン条約で決着し、この時既に亡くなっていたピピンを除く3兄弟がフランク帝国を分割することになった。
ユーラ・ブルグンドのヴェルフ家
シュッセンガウ伯ヴェルフの直系の子孫はバイエルンやシュヴァーベンに勢力を誇ったが、ヴェルフの子コンラート1世の次男コンラート2世の家系はブルグント地方で勢力を拡大した。9世紀末、東フランク王でイタリア、帝位、西フランクをも束ねフランク王国を再統一したカール3世が甥のアルヌルフの反乱により廃位されると、フランク王国は混乱に陥った。この混乱に乗じ、888年、コンラート2世の息子のユラ伯ルドルフがユラ(ジュラ)山脈以北のブルグントを束ね、ブルグント王国(別名ユーラブルグント王国)を建国した。ユラ山脈以南にはアルル伯ユーグが割拠し、キスユラブルグント王国を建国した。
ルドルフ1世の息子ルドルフ2世はイタリアに積極的に介入し、922年にはイタリア王を称した。また、933年にはキスユラ・ブルグント王国に侵攻してこれを併合、アルル王国を建国して首都をアルルに置いた。
しかしルドルフ2世の孫ルドルフ3世には子供がなく、1032年の彼の死によりユーラ・ブルグントのヴェルフ家は断絶した。その王位はルドルフ3世の姉のギーゼラが神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の母親に当たるため、神聖ローマ皇帝に相続され、以後ブルグント王位は歴代皇帝が称することになった。
ヴェルフ=エステ家
バイエルンのヴェルフ家も1055年のケルンテン公ヴェルフ3世の死と共に断絶した。ヴェルフ3世の姉のクニグンデは9世紀から続くロンバルディアのエステ辺境伯アルベルト・アッツォ2世と結婚していたため、バイエルンのヴェルフ家はエステ家に相続されることになった(このためヴェルフ=エステ家(Haus Welf-Este)、またはヴェルフェン=エステ家(Haus Welfen-Este)ともいう)。
ヴェルフ=エステ家は1070年にクニグンデとアルベルト・アッツォ2世の次男ヴェルフ4世がバイエルン公となってドイツに基盤を築いた。子のヴェルフ5世(肥満公)は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と対立し、叙任権闘争においてローマ教皇と結び教皇派のトスカーナ女伯マティルデと結婚したため、教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれるようになる。しかし、ヴェルフ5世は子がなく弟のハインリヒ9世(黒公)がその後を継いだ。
ザリエル朝が断絶すると、ハインリヒ9世の長男でバイエルン公を継いだハインリヒ10世(尊大公)はホーエンシュタウフェン家のコンラート3世と帝位を争った。1140年のヴァインスベルクの戦いの「掛け声」からヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと呼ぶようになり、これがイタリアに伝わり教皇派と皇帝派(ゲルフ対ギベリン)となる。
ハインリヒ獅子公はザクセン公、バイエルン公を兼ね、舅のイングランド王ヘンリー2世と結び大勢力を誇ったが、フリードリヒ1世との争いに敗れ、ノルマンディーへ亡命している。ザクセンとバイエルンは没収され、それぞれアスカーニエン家のベルンハルト3世、ヴィッテルスバッハ家のオットー1世に与えられた。
ハインリヒ獅子公の嫡男オットー4世は皇帝ハインリヒ6世の死後、ハインリヒ6世の弟で、オットー4世の岳父でもあるフィリップと皇帝位を争った。当初形勢は不利だったが、フィリップが暗殺されたために念願の皇帝となった。しかし、ローマ教皇インノケンティウス3世と対立し(この時はヴェルフ派が皇帝派となり、ホーエンシュタウフェン派が教皇派となっている)破門され、1214年のブーヴィーヌの戦いに敗れ、フリードリヒ2世に皇帝位を奪われ、1218年に失意のうちに没した。
ちなみに、オットー4世の兄ハインリヒ5世はライン宮中伯(プファルツ系ヴェルフェン家)となっていたが、1214年に家督を譲った子のハインリヒ6世が嗣子がないまま急逝したため、姻戚関係にあるバイエルン公ルートヴィヒ1世(オットー1世の子)が相続し、ヴィッテルスバッハ家が代々世襲していった。
ハノーファーのヴェルフ家
オットー4世の弟・リューネブルク公ヴィルヘルムの子オットーは、子のないオットー4世の遺領も相続してブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を称した。この家系はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家として、しばしば領土の分割を重ねながら続いた。14世紀にはヴォルフェンビュッテル侯フリードリヒ1世がルクセンブルク家のヴェンツェルの対立王になっている。また、17世紀から18世紀にはハプスブルク家、ロマノフ家(ロシア)、ホーエンツォレルン家(ドイツ)、オルデンブルク家(デンマーク)と縁組を結ぶなど、勢力を増している。
1692年、その分枝に属するカレンベルク侯(ハノーファー公)エルンスト・アウグストが選帝侯となった。子のゲオルク・ルートヴィヒは1714年にイギリス王位を獲得してハノーヴァー朝を開き、その血統は現在まで続いている。
ハノーファー公国は1814年にハノーファー王国となり、1837年にヴィクトリア女王の即位により同君連合を解消した。ハノーファー王国は1866年にプロイセン王国に併合されたが、最後のハノーファー王ゲオルク5世の孫エルンスト・アウグスト3世に、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の別系統からのブラウンシュヴァイク公国の継承が認められ、その家系は現在まで続いている。
フェッラーラとモデナのヴェルフ家
バイエルンのヴェルフ家のクニグンデとエステ家のアルベルト・アッツォ2世の結婚により、ヴェルフ家とエステ家は合体した。しかしその権力は長男のヴェルフ4世がバイエルン公となる一方で、次男フォルコ1世がエステ辺境伯となることで、ドイツとイタリアに分割されることになる。フォルコ1世の子孫は後にフェラーラ公、モデナ公となった。
フェラーラとモデナのヴェルフ家は、1796年、モデナ公エルコレ3世がフランス革命政権に追放されて断絶した。エルコレ3世には息子はいなかったため、ウィーン会議でモデナ公国が再興された際、公位はエルコレ3世の娘マリア・ベアトリーチェとハプスブルク=ロートリンゲン家のフェルディナント・カール・アントンの息子で外孫に当たるフランチェスコ4世が相続することとなり、オーストリア=エステ大公と称するようになった。
系図
バイエルン公、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家
古ヴェルフ家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クニグンデ | アルベルト・アッツォ2世 エステ辺境伯 | ガルセンダ (メーヌ伯エルベール1世娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴェルフ4世(1世) バイエルン公 (1070-1101) | フォルコ1世 エステ辺境伯 | ユーグ5世 メーヌ伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴェルフ5世(2世) バイエルン公 (1101-1120) | ハインリヒ9世 バイエルン公 (1120-1126) | ヴルフヒルト (ザクセン公マグヌス娘) | エステ家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ10世(傲慢公) バイエルン公 (1126-1138) ザクセン公 (1136-1138) | ヴェルフ6世 スポレート公 トスカーナ辺境伯 (1152-1160, 1167-1173) | ウタ (ライン宮中伯ゴットフリート・フォン・カルフ娘) | ユーディト | フリードリヒ2世 シュヴァーベン公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ11世(獅子公) ザクセン公 (1142-1179) バイエルン公 (1156-1180) | ヴェルフ7世 スポレート公 トスカーナ辺境伯 (1160-1167) | フリードリヒ1世 神聖ローマ皇帝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アグネス (ライン宮中伯コンラート娘) | ハインリヒ5世(1世) ライン宮中伯 (1195-1227) | オットー4世 神聖ローマ皇帝 (1198-1215) | ヴィルヘルム リューネブルク公 | ホーエンシュタウフェン朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ6世(2世) ライン宮中伯 | アグネス | オットー2世 バイエルン公 ライン宮中伯 | オットー1世 ブラウンシュヴァイク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴィッテルスバッハ家 | アルブレヒト1世 ブラウンシュヴァイク公 | ヨハン1世 リューネブルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ1世 | アルブレヒト2世 | ヴィルヘルム1世 ヴォルフェンビュッテル侯 | オットー2世 | マティルデ (バイエルン公ルートヴィヒ2世娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
グルーベンハーゲン家 | ゲッティンゲン家 | オットー3世 | ヴィルヘルム2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴェンツェル ザクセン選帝侯 リューネブルク侯 | オットー (ザクセン選帝侯ルドルフ1世子) | エリーザベト | マティルダ | ルートヴィヒ (ヴォルフェンビュッテル侯マグヌス1世子) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マグヌス2世 ヴォルフェンビュッテル侯 | カタリーナ (ベルンブルク公ベルンハルト3世娘) | アルブレヒト3世 リューネブルク侯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲッティンゲン家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン家
ハインリヒ1世 | アグネス (マイセン辺境伯アルブレヒト2世娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルブレヒト | ユーディト (ブランデンブルク=シュテンダル辺境伯ハインリヒ1世娘) | ハインリヒ2世 | エルヴィーズ (フィリップ・ディブラン娘) | エルンスト1世 | ヴィルヘルム | アーデルハイト =ケルンテン公ハインリヒ6世 | アーデルハイト =東ローマ皇帝アンドロニコス3世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョヴァンナ1世 ナポリ女王 | オットー ターラント公 | フィリップ エルサレム大元帥 | アリス (キプロス王ユーグ4世寡婦) | アルブレヒト1世 | ヨハン | フリードリヒ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エルヴィーズ =キプロス王ジャック1世 | エーリヒ | オットー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ3世 | エルンスト2世 | アルブレヒト2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ4世 | フィリップ1世 | エーリヒ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エルンスト3世 | ヴォルフガング | フィリップ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリーザベト =ホルシュタイン=ゾンダーブルク公ハンス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブラウンシュヴァイク=ゲッティンゲン家、中リューネブルク家、ヴォルフェンビュッテル家
アルブレヒト2世 リューネブルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユッタ (ヘッセン方伯ハインリヒ1世娘) | オットー1世 リューネブルク公 | アグネス (ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯ヘルマン娘) | マグヌス1世 リューネブルク公 | ゾフィー (ブランデンブルク=シュテンダル辺境伯ハインリヒ1世娘) | エルンスト1世 ゲッティンゲン公 | エリーザベト (ヘッセン方伯ハインリヒ2世娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マグヌス2世 | カタリーナ (ベルンブルク公ベルンハルト3世娘) | アルブレヒト3世 リューネブルク公 | ルートヴィヒ | マティルデ (リューネブルク公ヴィルヘルム2世娘) | オットー1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ1世 ドイツ対立王 | アンナ (ザクセン選帝侯ヴェンツェル娘) | マルガレーテ (ザクセン選帝侯ヴェンツェル娘) | ベルンハルト1世 | ハインリヒ1世 | アグネス =スウェーデン王アルブレクト | オットー2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンナ =チロル公フリードリヒ4世 | オットー4世 | フリードリヒ2世 | ヴィルヘルム1世 | ハインリヒ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベルンハルト2世 | オットー5世 | フリードリヒ3世 カレンベルク公 | ヴィルヘルム2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ1世 | ハインリヒ1世 | エーリヒ1世 カレンベルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オットー1世 ハルブルク公 | エルンスト1世 | フランツ ギフホルン公 | ハインリヒ2世 | ゲオルク ブレーメン大司教 | エーリヒ2世 カレンベルク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オットー2世 ハルブルク公 | 新ブラウンシュヴァイク家 新リューネブルク家 | カール・ヴィクトール | フィリップ・マグヌス | ユリウス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴィルヘルム・アウグスト | クリストフ | オットー3世 | ハインリヒ・ユリウス | フィリップ・ジギスムント オスナブリュック司教 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ・ウルリヒ | クリスティアン ハルバーシュタット司教 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新ブラウンシュヴァイク家、新リューネブルク家
エルンスト1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランツ・オットー | フリードリヒ | ハインリヒ (新ブラウンシュヴァイク家) | ヴィルヘルム (新リューネブルク家) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユリウス・エルンスト | アウグスト2世 | エルンスト2世 | クリスティアン | アウグスト1世 | フリードリヒ4世 | ゲオルク | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルドルフ・アウグスト | アントン・ウルリヒ | イヴァン5世 ロシア皇帝 | フェルディナント・アルブレヒト1世 (ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家) | クリスティアン・ルートヴィヒ | ゲオルク・ヴィルヘルム | ヨハン・フリードリヒ | エルンスト・アウグスト1世 ハノーファー選帝侯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アウグスト・ヴィルヘルム | ルートヴィヒ・ルドルフ | エカチェリーナ | アウグスト・フェルディナント | フェルディナント・アルブレヒト2世 | エルンスト・フェルディナント | ハノーヴァー家 (イギリス・ハノーファー王家) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール6世 神聖ローマ皇帝 | エリーザベト | カール1世 | エリーザベト(アンナ) | アントン・ウルリヒ | フェルディナント | フリードリヒ・フランツ | フリードリヒ・カール・フェルディナント | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハプスブルク=ロートリンゲン家 | カール・ヴィルヘルム・フェルディナント | フリードリヒ・アウグスト エールス公 | イヴァン6世 ロシア皇帝 | ピョートル | アレクセイ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール | ゲオルク | アウグスト | フリードリヒ・ヴィルヘルム ブラウンシュヴァイク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール2世 ブラウンシュヴァイク公 | ヴィルヘルム ブラウンシュヴァイク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
参考文献
- 下津清太郎 編『世界帝王系図集 増補版』近藤出版社、1982年
- Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little, Brown & Company, 1981.
関連項目
- 古ヴェルフ家
- ブラウンシュヴァイク君主一覧
- ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
- リューネブルク侯領
- リューネブルク君主一覧
- ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家
- ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領
- ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル君主一覧
- ゲッティンゲン侯領
- カレンベルク侯領
- ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家
- ハノーファー王国
- ハノーファー君主一覧
- ハノーヴァー朝
- ブラウンシュヴァイク公国
- オレシニツァ公国
- ゲルフ (オンタリオ州)(カナダ)
- ブルノン家(ブラウンシュヴァイク領の由来)
外部リンク
- Die Welfen(ドイツ語)