ジョージ1世 (イギリス王)
ジョージ1世(英語: George I、1660年5月28日(グレゴリオ暦6月7日) - 1727年6月11日(グレゴリオ暦6月22日[注釈 1]))は、グレートブリテン王国及びアイルランド王国の国王で、ハノーヴァー朝の開祖である[1]。また、神聖ローマ帝国のブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝侯でもあり、ドイツ語名をゲオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig)という。英国王としての在位期間は1714年8月1日から1727年6月11日、ハノーファー選帝侯としての在位期間は1698年1月23日から1727年6月11日である。
ジョージはドイツのハノーファーで生まれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の領地や選帝侯位称号を父や伯父たちから相続した[注釈 2]。スペイン継承戦争などヨーロッパにおける一連の戦争により、ジョージのドイツ領地はその治世中に拡大した。イギリスで又従妹のアン女王が死去してステュアート朝が断絶すると、母のゾフィーがステュアート家の血筋だったことから、54歳でグレートブリテン王国の国王ジョージ1世として迎えられた[注釈 3]。
しかしドイツで生まれ育ったジョージ1世は英語を理解できず、文化も異なるイギリス国民から嫌われた。イギリスの政務もサー・ロバート・ウォルポール[注釈 4]に任せきりにして、それがイギリスにおける責任内閣制(「国王は君臨すれども統治せず」)の発達を促す結果になった[1]。
ジョージ1世は母国ハノーファーへ戻る途中で卒中を起こして死去、ハノーファーで埋葬された。
Contents
幼年期
ジョージは1660年5月28日に神聖ローマ帝国のハノーファーで生まれた[注釈 5]。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子エルンスト・アウグストとゾフィー・フォン・デア・プファルツの間に産まれた。ゾフィーは母エリザベス・ステュアートを通じて祖父のイングランド王ジェームズ1世の血を引いていた[3]。
ジョージが生まれた時点で、父と実子のいない3人の伯父のドイツ領地の唯一の相続人となった。1661年、ジョージの弟フリードリヒ・アウグストが生まれ、2人は家族の間でそれぞれゲルゲン(Görgen)とグシェン(Gustchen)と呼ばれ、一緒に育てられた。ゾフィーが1664年から1665年の間、療養のためにイタリアへ旅行して家を留守にしていたが、その間でも息子たちの女家庭教師と定期に文通し、息子たちの育ちに気をかけた[4]。ゾフィーが旅行を終えた後、彼女はエルンスト・アウグストとの間でさらに4男1女をもうけた。ゾフィーは手紙でジョージを責任感のある誠実な子供と形容、弟や妹たちの模範となりうると述べた[5]。
1665年にはジョージの伯父の1人クリスティアン・ルートヴィヒが子供なくして死去したが、残りの2人の伯父が1675年までに結婚したため、彼らはジョージの継承権に疑問を呈し、2人が子供をもうけた場合にはジョージが継承できない可能性があるとした。エルンスト・アウグストはジョージを狩りや乗馬に連れて行き、軍事について教育した。ジョージの将来が不安定であることを案じたエルンスト・アウグストは当時15歳のジョージを仏蘭戦争の戦役に連れて行き、戦闘でジョージを教育するとともにその能力を試そうとした[6]。
1679年、ジョージの伯父の1人ヨハン・フリードリヒが男子のないまま死去、エルンスト・アウグストがカレンベルク侯領とゲッティンゲン侯領を継承し、首都はハノーファーに置いた。今やジョージの伯父のうち唯一存命中なのはゲオルク・ヴィルヘルム1人となり、彼は愛妾エレオノール・ドルブリューズと正式に結婚して娘ゾフィー・ドロテアを嫡出子にしたが、さらに子供をもうける可能性はありそうになかった。サリカ法により領土の継承は男子に限定されたため、ジョージと弟たちが父エルンスト・アウグストや伯父たちの領地を相続することはほぼ確実視された。1682年にはハノーファー家が長子相続制の採用を合意、これによりジョージは領地を弟たちと分割することなく全て相続することができた[7]。
結婚
同年、ジョージは従妹ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレと結婚、サリカ法で規定されなかった収入を確保した。この閨閥の目的は歳入を(健全な程度に)増やすことと、ハノーファーとツェレの統一を推進することにあった。ジョージの母ゾフィーははじめゾフィー・ドロテアの出身(王族ではなかった上、庶子だったのを認知されて嫡出となった経緯がある)を見下して結婚に反対したが、結婚がもたらす利益をもって説得された[8]。
1683年、ジョージは弟フリードリヒ・アウグストとともに大トルコ戦争の第二次ウィーン包囲に参戦、一方のゾフィー・ドロテアは息子ゲオルク・アウグストを出産した。翌年、フリードリヒ・アウグストは長子相続制の採用を知らされた。元々予定された、父の領地の一部を相続することができなくなったという事実により、フリードリヒ・アウグストと父、そしてジョージの間で確執が生じ、フリードリヒ・アウグストが1690年に戦死するまで続いた。ブラウンシュヴァイク=リューネブルクが統一目前であることと、ルンスト・アウグストが大トルコ戦争に継続して貢献したことを鑑みて、エルンスト・アウグストは1692年に神聖ローマ帝国の選帝侯に叙された。これにより、ジョージの将来は父の選帝侯領と伯父の公国の相続と、より一層に明るくなった[9]。
ゾフィー・ドロテアは1687年に同名の娘ゾフィー・ドロテアを出産したが、それ以降は妊娠することがなかった。ジョージとゾフィー・ドロテアは疎遠になり、ジョージは愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクと同伴することを好み、ゾフィー・ドロテアもスウェーデンのフィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵と不倫した。駆け落ちのスキャンダルに危機を感じたハノーファー宮廷ではジョージの母や弟が思いとどまるよう説得したが効果がなかった。ハノーファーの敵国の外交文書によると、ケーニヒスマルク伯は1694年7月に殺害され、遺体は石の錘をつけてライネ川に投棄された。彼を殺害したのはエルンスト・アウグストの宮廷にいた4人とされ、そのうち1人(ドン・ニッコロ・モンタルバーノ)は15万ターラーもの大金を賞与された[注釈 6][10]。その後、ケーニヒスマルク伯の遺体がバラバラにされ、ハノーファーの宮殿の床の下に埋められたとするうわさが流れた[11]。しかし、ゾフィーを含むハノーファー自体での文献はケーニヒスマルクの行方について全く知らなかったとした[10]。
ジョージとゾフィー・ドロテアの結婚が解消されたが、その理由は不倫ではなく、ゾフィー・ドロテアがジョージを捨てたことであった。父エルンスト・アウグストの同意を得たジョージはゾフィー・ドロテアをツェレのアールデン城に幽閉、1726年に死去するまで解放されなかった。彼女は父や子供との面会を許されず、再婚も禁止され、他人の同伴なしに歩けるのは城のコートヤードだけだった。しかし、彼女は年金や使用人を与えられ、監視のもと馬車を乗って城の外へ出かけることも許された[12]。エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクは1698年から死去するまでジョージの公妾であり続け、1692年、1693年、1701年にそれぞれ娘を出産した。
ハノーファー選帝侯
エルンスト・アウグストは1698年1月23日に死去、遺領はオスナブリュック司教領を除いて[注釈 7]ジョージが継承した。これにより、ジョージは神聖ローマ帝国におけるブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(首都の名前をとってハノーファーとも)、選帝侯および旗手長になった[13]。彼の宮廷は哲学者、数学者のゴットフリート・ライプニッツ、作曲家のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、アゴスティーノ・ステッファーニなどでにぎわった。
ジョージが父方の公国を継承した直後、イングランドとスコットランドの王位継承順位で2位のグロスター公ウィリアムが死去した。イングランドの1701年王位継承法により、ジョージの母ゾフィーは当時王位についていたウィリアム3世と義妹アンが継承者なくして死去した場合、その継承者となることが定められた。この決定の理由は、ゾフィーがプロテスタントのうちイギリス王家の最近親者にあたるためだった。近親者のうち継承順位がゾフィーより上にある56人のカトリック信者は排除された[14]。彼らが王位を継承するために改宗するという望みは薄く、うち数人はすでに断っていた[15]。
1701年8月、ジョージはガーター勲章を授与され、6週間後には元イングランド国王でカトリックとしては最近親だったジェームズ2世が死去した。翌年3月にウィリアム3世が死去、アンが即位した。ゾフィーは王位の推定相続人となった。彼女は当時71歳で、アン女王より35歳年上であったが健康体であり、彼女自身か息子による王位継承を保証するために精力的に働いた[16]。しかし、イギリスの政治と憲法の複雑さを理解していたのはジョージのほうであり、彼は1705年のゾフィー帰化法でゾフィーとその継承者たちをイギリスに帰化させ、また権力の継承を摂政委員会を通じて行うことも定めた[17]。同年、ジョージの伯父で唯一存命だったゲオルク・ヴィルヘルムが死去、ジョージはツェレを首都とするリューネブルク侯領とグルベンハーゲン侯領を継承した[18]。
ジョージがハノーファーを継承した直後、スペイン継承戦争が勃発した。戦争において問題となったのはフランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがスペイン王カルロス2世の遺言に従いスペイン王位を継承することだった。神聖ローマ帝国、ネーデルラント連邦共和国、イングランド、ハノーファー、そして多くのドイツ小国はフランスのブルボン家がスペインまでも支配すると、強力になりすぎることを恐れてフィリップによる継承に反対した。ジョージは戦争に乗じて親仏派のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領に侵攻、途中で戦列の並びを自ら書いた。侵攻は僅少な損害で成功、これによりイングランドとオランダはハノーファーが前に行ったザクセン=ラウエンブルク併合を承認した[19]。
1706年、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルはフランス側についた廉で選帝侯位をはく奪され、同年にジョージは帝国元帥に叙され、ライン川沿岸の帝国軍を指揮した。しかしジョージは同盟者のマールバラ公爵ジョン・チャーチルに騙されて陽動攻撃を行い、また皇帝ヨーゼフ1世がジョージの戦役に必要な軍資金を横領したため大きな成功を収めることはなかった。しかしドイツ諸侯はジョージの働きぶりを認め、1708年にジョージを選帝侯として正式に承認した[20][21]。ジョージは陽動攻撃がフランス軍の目をそらすための作戦であると後に知ったためマールバラ公には根を持たなかった[21]。
1709年、ジョージは元帥職を辞め、以降軍務から身を引いた。1710年、元はプファルツ選帝侯が有した官職であった帝国の大出納官に就任した[22]。バイエルン選帝侯が不在だったため官職が再編されたのだった[23]。後にマールバラ公が政争で司令官の地位が危うくなるとマールバラ公への信任を表明した手紙をマールバラ公に送っている。またマールバラ公が失脚し、トーリー党が強引に和睦を図りイギリス軍を引き上げさせたことに反発、終戦までオイゲンの下で戦い抜いた[24]。1711年にヨーゼフ1世が死去したことで勢力均衡が逆方向に崩される可能性が出て、1713年のユトレヒト条約締結と終戦につながった。フィリップはフェリペ5世としてスペイン王に即位したが、フランスの王位継承権は放棄、マクシミリアン2世エマヌエルはバイエルン選帝侯に復帰した。
グレートブリテンの王位継承
イングランドもスコットランドもアンを女王として承認したが、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーを推定相続人として承認したのはイングランド議会だけであり、スコットランド議会はスコットランド王位の継承権問題を正式には解決していなかった。1703年、スコットランド議会はイングランドがスコットランド商人にイングランドとその植民地における自由貿易を許可しない限りアン女王のスコットランド王位継承者にイングランド王位継承者と同じ人物を選ばないことを決議した。アン女王ははじめ裁可を与えなかったが、翌年には折れて裁可を与え、法案は1704年安全保障法として成立した。これに対し、イングランド議会はスコットランド議会がハノーファー家によるスコットランド王位継承を承認しない場合、イングランド・スコットランド間の貿易を制限し、スコットランド経済に打撃を与えることを決議した[25][26]。やがて両議会は1707年に合同法でイングランドとスコットランドを1つの政治実体に合併し、グレートブリテン王国を成立させるとともに、1701年王位継承法に基づく王位継承を合意した[27]。この合併により、18世紀のヨーロッパにおける最大の自由貿易圏が成立した[28]。
ホイッグ党の政治家は議会が王位継承を決定する権利を持ち、それをアン女王の最近親のプロテスタントに与えることができたと考えた。一方多くのトーリー党政治家はステュアート家のカトリックがより近親だったためその継承権を認めるべきと考えた。1710年、ジョージは王位継承権がステュアート家から剥奪されたが彼が王位継承権を保持したとして、イギリスの王位を継承することを宣言した。「この宣言の目的はホイッグ党の議会が王国を彼に与えたとする主張を潰す[とともに][...]トーリー党には王位の簒奪者ではなかったと納得させた」[29]。
ジョージの母ゾフィーは1714年5月28日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では6月8日)に83歳で死去した。彼女は雨避けのために走った後ヘレンハウゼン庭園で倒れた。アン女王の健康も悪化していたためイギリスの政治家は権力を奪い合い、アンの推定相続人になったジョージはすぐさまに摂政委員会の委員を再編した[30]。アン女王は卒中をおこして話すことができなくなり、1714年8月1日に死去した。摂政のリストが公表され、摂政たちは宣誓し、ジョージはジョージ1世としてグレートブリテン王およびアイルランド王として即位した[31]。しかし、逆風のためにデン・ハーグで海峡通過を待たざるを得ず[32]、9月18日にようやくイギリス入りした。ジョージは10月20日にウェストミンスター寺院で戴冠した[3]。イングランドでは20か所以上の町で戴冠式暴動と呼ばれた暴動がおこった[33]。
ジョージ1世は1714年以降、主にグレートブリテン島に住んだが、ハノーファーへは1716年、1719年、1720年、1723年、1725年と数年ごとに帰国[34]、合計ではイギリスでの治世の約5分の1をドイツで過ごした[35]。王位継承法では議会の許可なくイギリスを出国することを禁じる条項があったが、1716年にハノーファー朝支持ムードのなかで全会一致で廃止された[36][37]。1回目の帰国を除いて、ジョージ1世の不在時は権力がプリンス・オブ・ウェールズのジョージ・オーガスタスではなく、摂政委員会に預かった[38]。
戦争と反乱
ジョージ1世の王位継承から1年経たずに行われた1715年イギリス総選挙はホイッグ党の大勝に終わった。敗れたトーリー党では数人の党員がアン女王の従弟でカトリック信者のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(支持者からは「ジェームズ3世および8世」、反対者からは「僭称者」とよばれた)を王位につこうとしたジャコバイトに共感した。不平を感じたトーリー党員のなかには1715年ジャコバイト蜂起(後に「ザ・フィフティーン」、15年の乱と呼ばれた)に加担した。スコットランドの不平貴族で元国務大臣のマー卿率いるジェームズの支持者たちはジャコバイトへの共感がより強いスコットランドで反乱を起こした。しかし、「15年の乱」と呼ばれたこの反乱は大失敗に終わった。マー卿の戦争計画は拙劣なものであり、ジェームズは到着が遅かった上に資金も武器も足らず、年末には失敗が明らかになった。1716年2月、ジェームズとマー卿はフランスへ逃亡した。反乱が鎮圧された後、いくらかの処刑や所領没収があったものの、ジョージ1世が寛容を示して政府との仲介を行い、没収した財産をスコットランドの学校や国債の償還に使った[39]。
ジョージ1世がトーリー党に不信感を持ったため権力がホイッグ党に移った[40]。ジョージ1世において、ホイッグ党の支配が強力になりすぎて、以降半世紀もの間トーリー党が与党に返り咲くことはなかった。選挙の後、ホイッグ党が支配した議会で七年議会法が成立、議会の会期を(国王による解散を除き)7年に延長した[41]。そのためすでに政権を握っていたホイッグ党は与党の座をさらに長期間保持することができた[42]。
グレートブリテン王に即位した後、すでに悪かったジョージ1世と息子ジョージ・オーガスタスの関係はさらに悪化した。プリンス・オブ・ウェールズであったジョージ・オーガスタスはイギリスにおける宗教寛容政策とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領地の併合といった父の政策への反対を煽った[43]。1717年、ジョージ1世に孫が生まれたことで、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスの間で内紛がおこった。ジョージ1世は慣例に従い宮内長官の初代ニューカッスル公爵を洗礼式での名親に指名したが、ニューカッスル公爵を毛嫌いしたジョージ・オーガスタスは言葉でニューカッスル公を侮辱したが、ニューカッスル公は勘違いして決闘の申し込みと考えたため、ジョージ1世は激怒した。ジョージ1世の命令によりジョージ・オーガスタスはセント・ジェームズ宮殿を追放された[44]。ジョージの新しい住居であるレスター・ハウスはジョージ1世の野党のたまり場となった[45]。ジョージ・オーガスタスの妻キャロライン・オブ・アーンズバックは夫とともにセント・ジェームズ宮殿を離れたが、ジョージ1世に引き取られた子供たちとの面会を切望し、結局ジョージ1世とジョージ・オーガスタスは後にロバート・ウォルポールとキャロラインの働きかけで和解した。しかし、この洗礼式での事件の後、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスが親身になることはなかった[46]。
ジョージ1世は治世の初期にはイギリスの外交政策に取り組んだ。1717年にはフランス、オランダとともに反スペイン同盟である三国同盟を締結、1718年に神聖ローマ帝国が加入したことで四国同盟が結成された。直後の四国同盟戦争はスペイン継承戦争と同じ理由で勃発した。1713年のユトレヒト条約はフランス王ルイ14世の孫フィリップをスペイン王フェリペ5世として承認した代わりにフランスの王位継承権を放棄させたが、ルイ14世が1715年に死去するとフェリペ5世は条約を破棄しようとした。
スペインは1719年にジャコバイトによるスコットランド侵攻を支援したが、嵐によりスコットランドに上陸できたスペイン軍は約300人程度であった[47]。4月にはスコットランド西海岸のエレン・ドナン城で基地が建設されたが、1か月後にイギリス艦隊に破壊された[48]。ジャコバイトはスコットランドの氏族から募兵しようとしたが兵士約1千人しか集められず、装備も貧弱だったためグレン・シールの戦いでイギリス砲兵に易々と撃破された[49]。氏族たちはハイランド地方に追い散らされ、スペイン軍は降伏した。そのため、この侵攻はジョージ1世の政府にとって脅威になることはなかった。フランスが敵側に回ったことでフェリペ5世の軍に勝ち目はなく、結局スペインとフランスの王位は分離されたままとなった。同時期にはスウェーデンとロシアのバルト海における覇権争いにより勃発した大北方戦争がハノーファーに有利な形で決着し、スウェーデン領ブレーメン=フェルデンは1719年にハノーファーに割譲され、その代わりハノーファーは割譲に対する賠償金を支払った[50]。
内閣
ハノーファーにおいて、ジョージ1世は絶対君主だった。50ターラー(約12から13ポンド相当)以上の支出、士官の全ての任命、すべての閣僚、ひいては写字生より上級の全ての官僚の任命はジョージ1世の支配下にあった。一方、イギリスにおいては議会を通じて統治しなければならなかった[51]。
1715年にホイッグ党が権力の座を得たとき、主な閣僚はサー・ロバート・ウォルポール、タウンゼンド子爵(ウォルポールの義弟)、スタンホープ卿、サンダーランド伯爵の4人だった。また大陸から帰国したマールバラ公には名誉職を与えている[52]。しかし、1717年にタウンゼンド子爵が罷免され、ウォルポールが他の閣僚との意見不一致で辞任した[53]。その結果、スタンホープ卿は外交を、サンダーランド伯が内政を、それぞれ司った[54]。
サンダーランド伯の権力は1719年に揺らぎ始めた。彼は貴族法案を提出して新しい貴族の創家を制限することで貴族院の人数を制限しようとした。法案が成立すると、反対派の貴族叙任は封じられ、サンダーランド伯の権力が揺るがないものとなるが、結局ウォルポールは「政治家生涯で最も素晴らしい」とされる演説で法案に反対、最終的には廃案となった[55]。翌年、ウォルポールとタウンゼンドは再び閣僚に任命され、名目的には統一したホイッグ党政府が成立した[55]。
金融投機と国債はより大きな問題となっていた。国債の一部は所有者の同意がなければ償還できず、利率が高い時期に発効されたものだった。そのため、国債が償還されることは少なく、イギリスの財政を長期的に圧迫した[56]。1719年、南海会社はイギリスの国債の5分の3にあたる3,100万ポンド分を会社の株と交換で引き受けることを提案した[57]。南海会社はサンダーランド伯、ジョージ1世の愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク、スタンホープ伯(スタンホープ卿は1717年に子爵、1718年に伯爵に叙された)のいとこで大蔵部書記官だったチャールズ・スタンホープを買収して計画を推進した[58]。利子が高く、償還されることのない国債の所有者が低利子で売買の用意な株式との交換に同意させる仕組みは、交換が一見財政的に得するように見えたことにあった[59]。南海会社の株価はうなぎ登りとなり、1720年1月1日には128ポンドだった株価[60]は5月に交換計画が開始したときには500ポンドになり[61]、さらに5月末には890ポンドに[36]、6月24日には最高値の1,050ポンドに達した[62]。会社の成功によりほかの会社にも登記を目的とした資金が流入、そのうち一部の会社は疑わしいものだった[63]。6月、政府はこのような会社の投機を止めようとして、南海会社の支持のもと泡沫会社規制法を制定したが[64]、株価の上昇が止まってしまった後[65]、8月には無秩序な売りがはじまり、9月末には株価が150ポンドまで暴落した。貴族を含む多くの人々は大損を出し、その一部は完全に破滅した[66]。ジョージ1世は6月以降ハノーファーに滞在していたが、内閣の要請により早めに帰国、11月にはロンドンに着いた[67]。
南海泡沫事件として知られるこの経済危機により、ジョージとその閣僚たちは著しい不人気となった[68]。1721年、スタンホープ伯は無実にもかかわらず[69][70]貴族院での弁論からの心労で倒れて病死、サンダーランド伯も公職を辞任した。
サンダーランド伯はその後も個人的にジョージ1世への影響力を保持したが、1722年に急死したことでサー・ロバート・ウォルポールの台頭を許した。ウォルポールは実質的には首相に就任したが、名目的にはそのような役職にはつかなかった(正式には第一大蔵卿および財務大臣)。彼は南海泡沫事件の善後策として債務整理やいくらかの賠償を行って財政を安定化した[71]。ウォルポールが議会戦術を駆使したことで、南海会社が不当な行為を行ったと明示することは避けられた[72]。ジョージ1世が賄賂として無料で株式を受け取ったとする主張[73]には証拠がなく、実際王立文書局には株式購入の伝票が残っており、その伝票はジョージ1世が株価暴落で損害を被ったことを示している[74]。
晩年
1725年、ジョージ1世はウォルポールの要請を受けてバス勲章を復活させた。これにより、ウォルポールはバス勲章を利用して支持者への報奨、または支持者を得ることができた[75]。ウォルポールの権力が大きく増し、自らが選んだ閣僚を任命することができた。先代のアン女王と違い、ジョージ1世は内閣の会議にめったに臨席しなかった。彼の通信はほとんどが私的なものであり、彼が影響力を発揮したのは主にイギリスの外交政策であった。タウンゼンド子爵の助けもあり、彼はオーストリアとスペインの間のウィーン条約への対策、およびイギリスの貿易の保護を目的としたハノーファー条約のグレートブリテン、フランス、プロイセンによる批准にこぎつけることができた[76]。
ジョージ1世はだんだんとウォルポールに頼ったが、自らの意思で閣僚を任免することができた。ジョージ1世の治世末期にはウォルポールはジョージ1世に罷免されることを恐れたが[77]、ジョージ1世が王位についてからの6度目のハノーファー行きの途中で死去した。彼は1727年6月9日(ユリウス暦)にデルデンとノルトホルンの間の道中で卒中を起こし[78]、馬車でオスナブリュックにある司教の宮殿に連れていかれたが[注釈 8]、11日(ユリウス暦)朝に死去した。ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスは父の死をウォルポールから知らされた時、彼は「それは悪い冗談だ」と言って信じようとさえしなかったという[79]。ジョージ1世はライネ城に埋蔵されたが、第二次世界大戦の後にヘレンハウゼン宮殿に改葬された[3]。
ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスはジョージ2世として即位した。ウォルポール自身を含め、ジョージ2世がウォルポールの罷免を計画していたと広く考えられたが、王妃キャロライン・オブ・アーンズバックにより阻止された。しかし、ウォルポールが議会で安定多数を確保したこともあり、ジョージ2世はウォルポールの留任か政情不安を選ぶしかなかった[80]。その後、首相の権力はだんだんと増していき、国王の権力は反比例して弱くなっていった。
死後
ジョージ1世はイギリスでの臣下に嘲笑された[81]。メアリー・ウォートリー・モンタギューなど同時代の人はジョージ1世が公衆の場で無表情だったため彼が無知性であると考えた[82]。英語を話せないとされたためイギリスでは不人気だったが、治世の後半の文書では彼が英語を解せ、読み書きと話すこともできることを示している[83]。彼はドイツ語とフランス語を流暢に話し、ラテン語もよく、イタリア語とオランダ語は少し話せた[35]。彼の妻ゾフィー・ドロテアへの仕打ちは一種のスキャンダルとして扱われた[84]。
イギリス人は彼をドイツ人すぎると見なした。歴史家のラグンヒルド・ハットンによると、イギリス人はジョージ1世がドイツ人の愛人を多数抱えていたと勘違いした[85]。しかし、大陸ヨーロッパでは進歩的で啓蒙思想を支持した統治者としてみなされた。彼は自身に批判的な文書を厳しい検閲に晒せずに出版を許可し、哲学者のヴォルテールが1726年にパリから追放されたときには彼を保護した[81]。イギリスの文献と大陸ヨーロッパの文献は領邦ともジョージ1世が控えめで穏やかな人柄で、財政では慎重であることを示している[35]。ジョージ1世は社交イベントにおいて注目の的となることを嫌い、オペラ鑑賞のときは王家専用のます席を避け、たびたび匿名で友人の家を訪れてカード遊びをした[37]。いくらかの不人気にかかわらず、プロテスタントであるジョージ1世はその臣下からはカトリックの僭称者ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートより良いと考えられた。ウィリアム・メイクピース・サッカレーはこの相反する感情を下記のように記述した:
19世紀の作家、とりわけサッカレー、サー・ウォルター・スコット、マオン子爵などは例えばハーヴィ男爵の回想録などの偏った一次資料に頼らなければならず、ジャコバイトにはロマンチック、ひいては同情的なまなざしで見た。彼らはギルバート・ケイス・チェスタートンといった20世紀初期のイギリス作家に影響を与え、ジョージ1世の治世に対する批評にさらなる反ドイツ・反プロテスタント的な考えを加えた。しかし、第二次世界大戦が終結すると、大陸ヨーロッパの公文書館は20世紀後期の歴史家に開放され、民族主義的な反独感情が退潮した。ジョージ1世の一生とその治世はビーティー、ハットンといった学者に再び探索され、彼の性格、能力などに対する批評はより寛大なものとなっていた[87]。歴史家のジョン・ハロルド・プランブは下記のように記述した:
一部の歴史家は国王[ジョージ1世]のイギリスの事務に対する無関心を誇張し、彼の英語に対する無視の重要性を過大評価した。彼はフランス語で閣僚との対話を難なくこなすことができ、彼が全ての事務に興味を持ったことは外交政策と宮廷を深く影響した。[88]
しかし、ジョージ1世の性格はわかりにくいままであった。彼は娘への手紙では優しく親切だったが、公の場では愚鈍で不器用だった。彼の母は「彼を冷淡でまじめすぎると考えた人々に彼は陽気に振舞うことができ、彼は事を心から真摯に感覚し、表面よりも敏感であることを説明した」[5]というが、それが最も的確かもしれない。彼の本当の性格がどうであれ、彼は不安定な王位を継承した。それが政治に対する知識と悪知恵によるか、偶然と無関心によるかにかかわらず、彼は王位をハノーファー朝と議会の手中に収めた[35]。
称号と紋章
- 1660年5月28日 - 1679年12月18日:ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公爵殿下
- 1679年12月18日 - 1692年10月:ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子殿下
- 1692年10月 - 1698年1月23日:ハノーファー選帝侯子殿下
- 1698年1月23日 - 1714年8月1日:ゲオルク・ルートヴィヒ殿下、神聖ローマ帝国の大出納官及び選帝侯、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公
- 1714年8月1日 - 1727年6月11日:国王陛下
ジョージ1世はイギリスにおいて「ジョージ、神の恩寵により、グレートブリテン、フランス、アイルランドの王、信仰の擁護者など」の称号を使用した。一部、特に条約では「など」の前に「ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公、神聖ローマ帝国の大出納官および選帝侯」が追加された。
ジョージ1世の王としての紋章にはイングランド(クォーターI)、スコットランド(クォーターI、イングランドの紋章とのインペイルメント)、フランス(クォーターII)、アイルランド(クォーターIII)、ハノーファー(クォーターIV)、ブラウンシュヴァイク(クォーターIV)、リューネブルク(クォーターIV)、ヴェストファーレン(クォーターIV)、神聖ローマ帝国の大出納官(クォーターIV)の紋章が含まれた[89][90][91]。
子女
妻ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレとの間で2人の子女をもうけている。
- ジョージ2世(1683年11月9日 - 1760年10月25日) - 1705年、キャロライン・オブ・アーンズバックと結婚。1727年、グレートブリテン王に即位。
- ゾフィー・ドロテア(1687年3月26日 - 1757年6月28日) - 1706年、ブランデンブルク辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルム(後にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世)と結婚。
愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクとの間で3人の娘をもうけている。
- アンナ・ルイーゼ・ゾフィー・フォン・デア・シューレンブルク(1692年1月 - 1773年) - 1707年、エルンスト・アウグスト・フィリップ・フォン・デム・ブッシェ=イッペンブルクと結婚、1714年以前に結婚を解消[92]。1722年、神聖ローマ帝国カール6世によりデーリッツ女伯に叙される[93]。
- ペトロニナ・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク(1693年 - 1778年) - 一代貴族ワルシンガム女伯爵に叙される。1733年、第4代チェスターフィールド伯爵と結婚[94]。
- マルガレーテ・ゲルトルート・フォン・エインハウゼン(1701年 - 1726年) - 1722年、シャウムブルク=リッペ伯アルブレヒト・ヴォルフガングと結婚[93]。
家系
脚注
- ↑ ジョージ1世の存命中、グレートブリテン王国はユリウス暦を使用したが、ハノーファーでは1700年3月1日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では2月19日)にグレゴリオ暦を採用した。
- ↑ ただし父から受け継いだ選帝侯位が他のドイツ諸侯から「正式」に認められるには10年を要した。
- ↑ 長子相続制において、イギリスの王位継承順位では50人以上のカトリックがジョージより上の順位にあったが、1701年王位継承法によりカトリックがイギリス王位を継承することは禁止され、プロテスタントの間ではジョージがアンの最も近い近親者であった。これに対し、ジャコバイトはジョージを廃位して、ジェームズ2世の息子でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを王位につけようとしたが失敗した。
- ↑ サー・ロバート・ウォルポールは実質的にはイギリスの初代首相となった。
- ↑ ジョージがオスナブリュックのとある部屋で生まれ、同じ部屋で死去したとする言い伝えがあったが(例えば、1759年版の歴史大事典で記載されている)、母ゾフィー・フォン・デア・プファルツの回想録(Memoiren der Herzogin Sophie nachm. Kurfürstin von Hannover、A・ケーヒャー編、1879年出版、pp. 1, 68.)では上の2人の男子(ジョージとフリードリヒ・アウグスト)がハノーファーで生まれたとした。またヴォルフェンビュッテルの公文書館で保存されている、ハノーファーからヴォルフェンビュッテルの宮廷に発された4通の通知文書での記述とも矛盾する[2]。
- ↑ 当時年収の最も高い官僚の年収の100倍ほどであった。
- ↑ エルンスト・アウグストは1661年からオスナブリュック司教だったが、オスナブリュック司教職は世襲ではなく、プロテスタントとカトリックが交互に就任した。
- ↑ ジョージ1世の弟、ヨークおよびオールバニ公アーネストは1715年から1728年までオスナブリュック司教だった。
出典
- ↑ 1.0 1.1 『英国王室史事典』p199-200「ジョージ1世」
- ↑ (1981) L'Allemagne Dynastique, Tome III (French). Le Perreux: Alain Giraud. ISBN 2-901138-03-9.
- ↑ 3.0 3.1 3.2 Weir, Alison (1996). Britain's Royal Families: The Complete Genealogy, Revised edition. Random House, 272–276. ISBN 0-7126-7448-9.
- ↑ Hatton, Ragnhild (1978). George I: Elector and King. London: Thames and Hudson, 26–28. ISBN 0-500-25060-X.
- ↑ 5.0 5.1 Hatton, p. 29
- ↑ Hatton, p. 34
- ↑ Hatton, p. 30
- ↑ Hatton, pp. 36, 42
- ↑ Hatton, pp. 43–46
- ↑ 10.0 10.1 Hatton, pp. 51–61
- ↑ Farquhar, Michael (2001). A Treasury of Royal Scandals. New York: Penguin Books. ISBN 978-0-7394-2025-6.
- ↑ Hatton, pp. 60–64
- ↑ Schemmel, B. “Hanover”. rulers.org. . 21 August 2007閲覧.
- ↑ Schama, Simon (2001). A History of Britain – The British Wars 1603–1776. BBC Worldwide Ltd. ISBN 0-563-53747-7.
- ↑ Hatton, p. 74
- ↑ Hatton, pp. 75–76
- ↑ Hatton, pp. 77–78
- ↑ Hatton, p. 90
- ↑ Hatton, pp. 86–89
- ↑ 友清、P56、P131、P203、P233。
- ↑ 21.0 21.1 Hatton, pp. 101–104, 122
- ↑ Hatton, p. 104
- ↑ Velde, François R. (2006年9月26日). “Holy Roman Empire”. . 20 August 2007閲覧.
- ↑ 友清、P221、P289 - P290、P348 - P359。
- ↑ Whatley, Christopher A. (2001). Bought and Sold for English Gold?: Explaining the Union of 1707, Second edition. East Linton, Scotland: Tuckwell Press. ISBN 1-86232-140-X.
- ↑ Riley, P.W.J. (1978). The Union of England and Scotland: A Study in Anglo-Scottish Politics of the Eighteenth Century. Totowa, New Jersey: Rowman and Littlefield. ISBN 0-8476-6155-5.
- ↑ テンプレート:UK-LEG
- ↑ “The Treaty of Union”. The Scottish Parliament. 2007年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 20 August 2007閲覧.
- ↑ Hatton, p. 119
- ↑ Hatton, p. 108
- ↑ Hatton, p. 109
- ↑ Hatton, p. 123
- ↑ Monod, Paul Kleber (1993). Jacobitism and the English People, 1688–1788. Cambridge University Press, 173–178. ISBN 978-0-521-44793-5.
- ↑ Hatton, p. 158
- ↑ 35.0 35.1 35.2 35.3 Gibbs, G. C. (September 2004; online edn, January 2006) "George I (1660–1727)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/10538. Retrieved 30 July 2007テンプレート:Subscription required
- ↑ 36.0 36.1 友清理士. “スペイン継承戦争の戦後20年――ユトレヒト条約後の国際関係とハノーヴァー朝下のイギリス――”. . 2017閲覧.
- ↑ 37.0 37.1 Plumb, J. H. (1956). The First Four Georges.
- ↑ “George I”. Official web site of the British monarchy. . 18 April 2016閲覧.
- ↑ Hatton, pp. 174–79
- ↑ Williams, Basil (1962). The Whig Supremacy 1714–1760. Second edition, Revised by C. H. Stuart, Oxford: Oxford University Press, 151–152.
- ↑ “Septennial Act 1715 (c.38)”. The UK Statute Law Database, Ministry of Justice. 2007年9月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 20 August 2007閲覧.
- ↑ Lease, Owen C. (1950). “The Septennial Act of 1716”. The Journal of Modern History 22: 42–47. doi:10.1086/237317.
- ↑ Hatton, pp. 199–202
- ↑ Hatton, pp. 207–208
- ↑ Dickinson, Harry T. (1973). Walpole and the Whig Supremacy. London, UK: The English Universities Press. ISBN 0-340-11515-7.
- ↑ Arkell, R. L. (1937). “George I's Letters to His Daughter”. The English Historical Review 52: 492–499. doi:10.1093/ehr/LII.CCVII.492.
- ↑ Hatton, p. 239
- ↑ Lenman, Bruce (1980). The Jacobite Risings in Britain 1689–1746. London: Eyre Methuen, 192–193. ISBN 0-413-39650-9.
- ↑ Szechi, Daniel (1994). The Jacobites: Britain and Europe 1688–1788. Manchester and New York: Manchester University Press, 109–110. ISBN 0-7190-3774-3.
- ↑ Hatton, p. 238
- ↑ Williams, pp. 13–14
- ↑ 今井、P277 - P289。
- ↑ Dickinson, p. 49
- ↑ Carswell, John (1960). The South Sea Bubble. London: Cresset Press.
- ↑ 55.0 55.1 Hatton, pp. 244–246
- ↑ Carswell, p. 103
- ↑ Carswell, p. 104; Hatton, p. 249 and Williams, p. 176
- ↑ Carswell, p. 115 and Hatton, p. 251
- ↑ Carswell, pp. 151–152; Dickinson, p. 58; and Hatton, p. 250
- ↑ Erleigh, Viscount (1933). The South Sea Bubble. Manchester: Peter Davies Ltd.
- ↑ Erleigh, p. 70
- ↑ Dickinson, p. 58; Erleigh, pp. 77, 104; and Hatton, p. 251
- ↑ Dickinson, p. 59 and Erleigh, pp. 72, 90–96
- ↑ Dickinson, p. 59 and Erleigh, pp. 99–100
- ↑ Dickinson, p. 59
- ↑ Erleigh, pp. 112–117
- ↑ Erleigh, p. 125 and Hatton, p. 254
- ↑ Erleigh, pp. 147–155 and Williams, p. 177
- ↑ Erleigh, p. 129; Hatton, p. 255 and Williams, p. 176
- ↑ Black, Jeremy (2001). Walpole in Power. Stroud, Gloucestershire, UK: Sutton Publishing. ISBN 0-7509-2523-X.
- ↑ Black, pp. 19–20, and Dickinson, pp. 61–62
- ↑ Dickinson, p. 63
- ↑ e.g. Black, pp. 19–20
- ↑ Hatton, pp. 251–253
- ↑ “Order of the Bath”. Official website of the British monarchy. 2012年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 7 September 2009閲覧.
- ↑ Hatton, p. 274
- ↑ "George I" (1911). Encyclopædia Britannica, 11th edition. London: Cambridge University Press.
- ↑ Hatton, p. 282
- ↑ 森、P198 - P204。
- ↑ Black, pp. 29–31, 53, and 61
- ↑ 81.0 81.1 Hatton, p. 291
- ↑ Hatton, p. 172
- ↑ Hatton, p. 131
- ↑ Ashley, Mike (1998). The Mammoth Book of British Kings and Queens. London, UK: Robinson. ISBN 1-84119-096-9.
- ↑ Hatton, pp. 132–136
- ↑ Thackeray, W. M. [1860] (1880). The Four Georges: Sketches of Manners, Morals, Court and Town Life. London: Smith, Elder, 52–53.
- ↑ Smith, Hannah (2006). Georgian Monarchy: Politics and Culture, 1714–1760. Cambridge, UK: Cambridge University Press, 3–9. ISBN 0-521-82876-7.
- ↑ Plumb, J. H. (1967). “George I”. Collier's Encyclopedia. 10. p. 703.
- ↑ Williams, p. 12
- ↑ Louda, Jiří (1999). Lines of Succession: Heraldry of the Royal Families of Europe. London: Little, Brown. ISBN 1-85605-469-1.
- ↑ (1974) The Royal Heraldry of England, Heraldry Today. Slough, Buckinghamshire: Hollen Street Press. ISBN 0-900455-25-X.
- ↑ Hatton, p. 411
- ↑ 93.0 93.1 Kilburn, Matthew (2004; online edition January 2008) "Schulenburg, (Ehrengard) Melusine von der, suo jure duchess of Kendal and suo jure duchess of Munster (1667–1743)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/24834 テンプレート:ODNBsub
- ↑ Cannon, John (2004; online edition September 2012) "Petronilla Melusina Stanhope, suo jure countess of Walsingham, and countess of Chesterfield (1693–1778)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/24835 テンプレート:ODNBsub
参考文献
- Black, Jeremy (2001). Walpole in Power. Stroud, Gloucestershire: Sutton Publishing. ISBN 0-7509-2523-X.
- Carswell, John (1960). The South Sea Bubble. London: Cresset Press.
- Dickinson, Harry T. (1973). Walpole and the Whig Supremacy, Introduced by A. L. Rowse, London: The English Universities Press. ISBN 0-340-11515-7.
- Erleigh, Viscount (1933). The South Sea Bubble. Manchester: Peter Davies Ltd.
- Gibbs, G. C. (September 2004; online edn, January 2006) "George I (1660–1727)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/10538. Retrieved 30 July 2007テンプレート:Subscription required
- Hatton, Ragnhild (1978). George I: Elector and King. London: Thames and Hudson. ISBN 0-500-25060-X.
- Plumb, J. H. (1956). The First Four Georges.
- Williams, Basil (1962). The Whig Supremacy 1714–1760. Second edition, Revised by C. H. Stuart, Oxford: Oxford University Press.
- 大類伸監修、林健太郎・堀米庸三編『世界の戦史 第六巻』人物往来社、1966年。
- 森護『英国王妃物語』三省堂選書、1986年。
- 今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』山川出版社、1990年。
- 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史』彩流社、2007年。
- 森護『英国王室史事典』大修館書店、1994年。ISBN 4-469-01240-8
先代: エルンスト・アウグスト |
ハノーファー選帝侯 1698年 - 1727年 |
次代: ジョージ2世 (ゲオルク2世アウグスト) |
先代: ゲオルク・ヴィルヘルム |
リューネブルク侯 ザクセン=ラウエンブルク公 1705年 - 1727年 | |
先代: アン |
グレートブリテン王 アイルランド王 1714年 - 1727年 |