ハノーファー王国

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ハノーファー王国ドイツ語: Königreich Hannover)は、現在のドイツ北部、ニーダーザクセン州に存在した国家。

1803年フランスに占領されたブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領が領土を回復し、1814年ウィーン会議によって王国に昇格することで成立した。 ドイツ連邦の加盟国となり、1866年普墺戦争に敗れてプロイセン王国に併合され、消滅した。以降は1946年までプロイセンの一州となった

歴史

神聖ローマ帝国領邦の一つであったブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国は、分割相続によっていくつもの公(侯)領に分割された。1432年ヴォルフェンビュッテル侯領から分割されたカレンベルク侯領も、そうした領邦の一つであった。カレンベルク侯位は1584年に断絶によってヴォルフェンビュッテル侯領に継承されるが、1635年にカレンベルク侯領はゲッティンゲン侯領と共に、再びヴォルフェンビュッテル侯領から分割された。そして1636年に首都がパッテンセンからハノーファーに遷されたため、ハノーファー公と呼ばれるようになった。

1692年、ハノーファー公エルンスト・アウグストが選帝侯となったことにより、その公国はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領、通称ハノーファー選帝侯領となった。1714年、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒはジョージ1世としてイギリス王に即位した(ハノーヴァー朝)。ドイツにおいても、リューネブルク侯領の継承(1705年)、スウェーデンからのブレーメンフェルデン(ブレミッシュ=フェルデン)の割譲(1719年)、と勢力を拡大していった。

1803年には、ナポレオンによる神聖ローマ帝国解体の一環としてオスナブリュック司教領を併合したものの、選帝侯領はフランスに占領され、1807年にはヴェストファーレン王国の一部となった。選帝侯領がフランスに占領された後も10年間、ゲオルク3世(イギリス王ジョージ3世)と家臣はロンドンで独自の外交を続けた。 1813年に選帝侯ゲオルク3世は領土を回復し、1815年ウィーン会議により王国に昇格した。これは王国となっていたヴュルテンベルク公国と地位を等しくするためであった。さらにウィーン会議でハノーファーは、リューネブルク侯領であったエルベ川右岸や東にあったいくつかの飛び地と引き換えに、プロイセン王国からヒルデスハイム司教領、東フリースラント、リンゲン伯領、及びミュンスター司教領の北部を獲得した。また、ドイツ連邦に参加し、連邦議会の議席を得る。

ハノーファーの王位継承規定はイギリスと異なっていたため(サリカ法典を採り、女子のハノーファー王位継承を認めていなかった)、イギリスとハノーファーの同君連合1837年ヴィクトリアがイギリス女王に即位したときに解消され、女王の叔父エルンスト・アウグストが即位した。このとき、イギリス的な自由主義国家体制も破棄されたために、これに抗議するグリム兄弟らによってゲッティンゲン七教授事件が起こされた。

1866年普墺戦争でハノーファー王国はオーストリア方に就いたため、敗戦後にプロイセンに併合されて州となった。第二次世界大戦後の1946年に、イギリスの占領下でオルデンブルクブラウンシュヴァイクシャウムブルクと合併してニーダーザクセン州となり、ハノーファーの名前は国名としては消滅した。

歴代君主一覧

年号は、在位期間を示す。

1837年にイギリスで女王ヴィクトリアが即位すると、サリカ法を採るハノーファー王国はその叔父エルンスト・アウグストが継承し、同君連合は解消された。

1866年にハノーファー王国はプロイセン王国に併合され、ゲオルク5世と王太子エルンスト・アウグスト(2世)は廃位された。王太子の子エルンスト・アウグスト(3世)ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の皇女ヴィクトリア・ルイーゼとの縁組により、同族の遠戚の死後空位となっていたブラウンシュヴァイク公国の公位の継承が認められた。

ハノーファー州知事一覧

年号は、在任期間を示す。

脚注

参考文献

関連項目