称光天皇
称光天皇(しょうこうてんのう、1401年5月12日(応永8年3月29日[1]) - 1428年8月30日(正長元年7月20日)は、室町時代の第101代天皇(在位: 1412年10月5日(応永19年8月29日) - 1428年8月30日(正長元年7月20日)。諱ははじめ躬仁(みひと)、のち実仁(みひと)に改めた。
Contents
生涯
即位
応永18年(1411年)11月25日、親王宣下を受ける[1]。この3日後に11歳で元服し、加冠役は第4代将軍で内大臣の足利義持が務めた[1]。応永19年(1412年)8月29日に後小松天皇の譲位を受けて即位する[1](即位日は応永21年(1414年)12月19日)[2]。室町幕府の第3代将軍・足利義満とは日野家を挟んで外戚関係にあり、叔母の日野業子は義満の正室だった。『看聞日記』によれば、第4代将軍・足利義持が当初の諱である躬仁の「躬」の字には“身に弓があるのは難がある”として鄂隠慧奯に相談し、「躬」と同音の「実」とすることにした。
病弱と継承問題・崩御
朝廷では後小松上皇が院政を行っていたが、称光天皇は生来病気がちであり[註 1]、嗣子に恵まれなかった。
応永29年(1422年)3月下旬(あるいは4月半ば)以降、天皇は体調を崩し、6月になるとますます病気が進行し、医師も匙を投げるほどであった[3][4]。義持は9月11日に後小松上皇の代理として伊勢神宮に参拝し、その回復を願っている[5]。
12月、称光天皇の病は奇跡的に回復したが[6]、上皇は天皇の後継者の不在を心配して、8月に義持と仙洞御所で相談し、天皇の弟である小川宮を東宮(皇太弟)としていた[7][4][8]。しかし、小川宮も称光天皇と同じように奇行が多く、応永30年(1423年)2月には小川宮が天皇の飼育しかわいがっていたヒツジをひどく欲しがり、強引に譲り受けておきながら即座に撲殺するという事件を起こすなど、兄弟仲も悪かった[9]。さらに天皇は若く、まだ皇子に恵まれる可能性もあったので、この後継者指名はかえって上皇と天皇の関係を険悪にする事になった[10]。
応永32年(1425年)2月16日、小川宮は早世し、後継者は再び不在となった[10][11]。さらに、称光天皇は上皇に対する反発から退位を企てるという行動に出ている[10]。同年6月28日に天皇は内裏を出奔しようとしたため[註 2]、上皇の要請を受けた義持の仲介で慰留されている[12][13]。天皇と上皇の確執を調停できるのは義持以外に存在しなった[14]。
しかし、天皇は若いとはいえ病弱で皇子の誕生は絶望的であった。このため上皇・義持共に後継者を持明院統光厳天皇流で唯一の男児(他にも男児はいたが僧籍に入っていた)である伏見宮家の伏見宮貞成親王に求めていた[15]。しかし、貞成は54歳の同年4月に親王宣下を受けたが年齢的な問題があり、また貞成を後継者にしようとした事で上皇・天皇間の確執が再燃したため、3か月後の閏6月3日に貞成は出家せざるを得なくなってしまった[16][註 3]。
7月25日、天皇は重病に倒れ、義持や中山定親らが慌てて参内するほどだったという[17]。7月29日には天皇も死を覚悟したのか、生母の資子(二位殿)の院号定を行なうよう勅定を出している[18]。しかし、義持からこれを聞いた上皇は「卒璽(軽率な行ない)」であるとして難色を示して同意しなかった[18]。この時は義持の説得で[18]、資子には准三后宣下、光範門院の女院号が定められた[19]。8月1日になると称光天皇は重篤となり、母親の看病や義持の参内を受けた[19]。このため回復の見込みは無いとして義持は葬儀の準備を始めていたほどであったが[註 4]、8月2日になると天皇は快方に向かい、8月5日には全快した[20]。この時の病気は邪気(風邪)だったという[20]。
天皇に見るべき実績がなく、さらに室町幕府の意向で代始改元が認められなかった。改元は16年目に実現するが、その3か月後に崩御した。また、後光厳流の断絶が確実となったことや皇嗣の未定は政情不安に直結し、後南朝勢力が皇位奪還への動きを見せ始めた[21]。
正長元年(1428年)7月20日、28歳で崩御した。死後、貞成の息子である彦仁王が上皇の猶子となって即位し、後花園天皇となった[22]。
人物・逸話
称光天皇は行状に問題が多く、後小松上皇や足利義持をたびたび悩ませたと伝わる。主なものでは、天皇は太刀や刀、弓の扱いを好んでそれをもて遊ぶ事に拘泥し、金の鞭で近臣や女官を打ち据えたため、その行状を聞いた義持が上皇に苦情を提言している[23][24]。また、応永25年(1418年)7月に天皇の寵愛を受けた内侍が懐妊したのを自分の子では無く貞成親王の子だと騒いだため、上皇が義持に密かに調査を依頼し、その結果義持より事実無根として処理されるなどしている[4][25]。いずれにせよ、男子に恵まれなかった天皇は後光厳流の断絶を重圧に感じていたらしく、それが父帝との確執に繋がっていった[26]。
系譜
後小松天皇の第1皇子。母は、権大納言日野資教の養女、光範門院・藤原資子[1](日野西資子。実父は日野資国)
- 典侍:藤原(日野)光子(権大納言典侍) - 日野勝光女
- 内侍:源(五辻)朝子(新内侍) - 五辻朝仲女
- 皇女(1418-?) - 天皇は認知せず
- 内侍:藤原氏 - 高倉永藤女
- 宮人:藤原氏(伊予局・別当局) - 持明院基親女、正親町実秀猶子
- 皇女(1426-?)
- 宮人:鴨氏(紀伊局) - 鴨祐有女
系図
【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | 97 後村上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | 98 長慶天皇 | 99 後亀山天皇 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
栄仁親王 | 後円融天皇 北5 | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102 後花園天皇 | 貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
諡号・追号・異名
追号「称光院」は、天武系の第48代称徳天皇と天智系の第49代光仁天皇の一字ずつを取ったものである。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.59
- ↑ 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.24
- ↑ 吉田・220 頁
- ↑ 4.0 4.1 4.2 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.168
- ↑ 吉田・220 頁
- ↑ 吉田・220頁
- ↑ 吉田・220 頁
- ↑ 『本朝皇胤紹運録』『薩戒記』
- ↑ 吉田・221 頁
- ↑ 10.0 10.1 10.2 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.169
- ↑ 吉田・220頁
- ↑ 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、pp.170-171
- ↑ 吉田・248 頁
- ↑ 吉田・248 頁
- ↑ 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.177
- ↑ 吉田・249頁
- ↑ 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.171
- ↑ 18.0 18.1 18.2 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.172
- ↑ 19.0 19.1 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.173
- ↑ 20.0 20.1 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.174
- ↑ 吉田・248-249頁
- ↑ 「後花園天皇」『朝日日本歴史人物事典』
- ↑ 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.167
- ↑ 『看聞日記』応永23年6月19日条
- ↑ 『看聞日記』応永25年7月14日条から19日条
- ↑ 吉田・248-249頁
註釈
- ↑ 当時の公家の日記には「禁裏御不予」(天皇の病気)の記載が多く見られる。
- ↑ 天皇が琵琶法師を内裏に招いて平家物語を聞こうとしたのであるが、上皇が天皇の行為を前例がないと反対した事から始まり、天皇も上皇が仙洞で先例が無いことをたびたび行ない、下劣な身分を昇殿させていると反論し、「院中において先例なき題目(事柄)はことごとく停止せらるべきなり」と使者の万里小路時房を怒鳴りつけ、さらに「帝位についているが、一事も院(上皇)の御心に叶わず、ことに禁中が窮迫して致し方ない上は、在位に全く執心しません。国の事はしかるべき様に御計らい下さい。我が身においては、天皇の位を辞し申します」と書面を上皇に送付した。(『薩戒記』)
- ↑ 天皇が重篤から回復した後、天皇に貞成が呪詛した事が病気の原因であると讒訴した者があり、これが原因で天皇と貞成が対立したためともされる。なお、讒言した者は南朝・大覚寺統関係者でのちに処罰された(『看聞日記』)
- ↑ 御葬送路のため五条河原に浮き橋を渡すと云々、これ入道内相府(義持)の命と云々。
参考文献
- 書籍
- 伊藤喜良『足利義持』(人物叢書)吉川弘文館、2008年 ISBN 978-4-642-05246-7
- 吉田賢司『足利義持 塁葉の武将を継ぎ、一朝の重臣たり』(ミネルヴァ日本評伝選)ミネルヴァ書房、2017年
- 史料
- 『看聞日記』
- 『薩戒記』
関連項目