後花園天皇
後花園天皇(ごはなぞのてんのう、1419年7月10日(応永26年6月18日) - 1471年1月18日(文明2年12月27日))は、室町時代の第102代天皇である(在位:1428年9月7日(正長元年7月28日) - 1464年8月21日(寛正5年7月19日))。諱は彦仁(ひこひと)。
本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代、658 年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。
生涯
応永26年(1419年)6月18日、貞成親王の第一王子として生まれた。
応永29年(1422年)以降、先代の称光天皇は幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子がなく、称光の同母弟で皇儲に擬せられていた小川宮も応永32年(1425年)に早世したため、その父で院政を敷いていた後小松上皇は、早急に皇嗣を決定する必要に迫られた。
正長元年(1428年)、称光天皇が危篤に陥ると両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の義教)は伏見御所にいた彦仁王を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。
同年7月20日、称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま、7月28日に践祚し、翌永享元年(1429年)12月27日に即位した。天皇の即位は、崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとってはめでたいことであり、父貞成親王もこれを「神慮」として喜んだ。
即位して以降も後小松上皇による院政は継続されたが、永享5年(1433年)10月に上皇が崩御した後は30年余りにわたって親政を行った。この間、同11年(1439年)6月には勅撰和歌集(二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。
天皇の治世、各地で土一揆が起こり、永享の乱(永享10年、1438年)、嘉吉の乱(嘉吉元年、1441年)などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って、朝廷権威の高揚を図った[1]。永享の乱での治罰綸旨の発給は、足利義満の代より廃絶していた朝敵制度が60年ぶりに復活したものであった[1]。以後、天皇の政治的権威は上昇し、幕府が大小の反乱鎮圧に際して綸旨を奏請したため、皇権の復活にもつながっていった[1]。
嘉吉3年(1443年)9月、後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ放火し、後花園天皇は左大臣近衛房嗣邸に逃れるが、三種の神器の一部を奪われた(禁闕の変)。奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。
文安元年(1444年)2月、同母弟の貞常王に親王宣下を行い、同4年(1447年)11月父貞成親王に太上天皇の尊号を奉っている。享徳4年(1455年)1月、後二条天皇の5世孫にあたる木寺宮邦康王に親王宣下を行った。
長禄元年(1457年)12月、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲って神璽を奪還し(長禄の変)、翌年8月には朝廷へ返還された。ここに全ての神器が天皇の手中に帰することになる。
寛正2年(1461年)4月、亀山天皇の5世孫にあたる常盤井宮全明王に親王宣下を行った。同3年(1462年)10月皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与えている。
同5年(1464年)7月19日、成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣足利義政を院執事として院政を敷いた。
応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が勃発した際、東軍細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上記とは異なり上皇はこれを拒否した。兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも、同年9月20日に出家、法名を円満智と号した。上皇の出家は、かつて自ら発給した畠山政長に対する治罰綸旨が乱の発端になったことから自責の念に駆られ、不徳を悟ったからだとされている[1]。この出家は義政の無責任さに対して帝王不徳の責を引いた挙として、世間から称賛を浴びた[1]。
文明2年(1470年)12月27日、中風のため室町第で崩御した。享年53。翌3年(1471年)1月2日に高辻継長の勘申によって後文徳院と追号されたが、漢風諡号(文徳天皇)に「後」字を加えた追号(加後号)は先例がないとする太閤一条兼良の意見があり、諸卿からの意見も勘案した上で、2月19日に後花園院と改められた。
人物
後花園天皇は足利義満の皇位簒奪未遂以後、皇権を回復した「中興の英主」として極めて重要な人物であると評されている[1]。
天皇は詩歌管弦に堪能で、『新続古今集』に12首、『新撰菟玖波集』に11句が入集したほか、歌集『後花園院御製』がある。日記に『後花園院御記』。闘鶏・猿楽・松はやしなどを好み、また学問にも秀でた。
寛正2年(1461年)春、天皇が長禄・寛正の飢饉の最中に御所改築など奢侈に明け暮れる将軍足利義政に対して、漢詩を以って諷諫したというエピソードは著名である(『長禄寛正記』)[2]。その義政とは蹴鞠を通じて親交があり、崩御の際には同じ室町第にいたという事情もあったが、足利義政・日野富子夫妻がその最期を看取り、義政は戦乱中の外出に反対する細川勝元の反対を押し切って葬儀から四十九日の法要まで全てに参列している[3]。
系譜
伏見宮貞成親王(後崇光院。崇光天皇の孫)の第一王子。母は、庭田経有の娘・幸子(敷政門院)。践祚前の正長元年7月17日(1428年8月27日)に後小松天皇の猶子となる。伏見宮家は持明院統の嫡流に当たる。
- 女院:藤原(大炊御門)信子(嘉楽門院、1411-1488) - 藤原孝長女、大炊御門信宗養女
- 典侍:藤原(日野)郷子 - 日野秀光女
- 皇女(真乗寺宮、?-1482) - 真乗寺
- 後宮:藤原(三条)冬子(1441-1489) - 三条実量女
- 生母不詳
- 皇女:照厳女王(?-1464) - 大聖寺門跡
系図
88 後嵯峨天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗尊親王 (鎌倉将軍6) | 【持明院統】 89 後深草天皇 | 【大覚寺統】 90 亀山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟康親王 (鎌倉将軍7) | 92 伏見天皇 | 久明親王 (鎌倉将軍8) | 91 後宇多天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
93 後伏見天皇 | 95 花園天皇 | 守邦親王 (鎌倉将軍9) | 94 後二条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 邦良親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康仁親王 〔木寺宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | 97 後村上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | 98 長慶天皇 | 99 後亀山天皇 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
栄仁親王 | 後円融天皇 北5 | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
御製
思へただ空にひとつの日の本に又たぐひなく生まれ来し身を(後花園院御集)
在位中の元号
- 正長 (1428年7月28日) - 1429年9月5日
- 永享 1429年9月5日 - 1441年2月17日
- 嘉吉 1441年2月17日 - 1444年2月5日
- 文安 1444年2月5日 - 1449年7月28日
- 宝徳 1449年7月28日 - 1452年7月25日
- 享徳 1452年7月25日 - 1455年7月25日
- 康正 1455年7月25日 - 1457年9月28日
- 長禄 1457年9月28日 - 1460年12月21日
- 寛正 1460年12月21日 - (1464年7月19日)
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区京北井戸町の常照皇寺内にある後山國陵(後山国陵:のちのやまくにのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造宝篋印塔。光厳天皇陵と同域に所在する。
文明3年(1471年)1月3日に悲田院にて火葬して埋骨し、翌月、天皇の遺詔によって常照皇寺の光厳天皇陵の傍に移した。幕末修陵の際に光厳天皇陵と併せて「山国陵」と称したが、明治2年(1869年)現陵号に改定。なお、分骨所が京都市上京区般舟院前町の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)、火葬塚が上京区扇町の大應寺境内にある。この火葬塚は、京都府内における近世以前の皇室の陵墓・火葬塚の中で、学術上最も確実なものの1つであるといわれる。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
関連項目