伏見宮栄仁親王
伏見宮栄仁親王(ふしみのみや よしひとしんのう・榮仁親王、 正平6年(1351年) - 応永23年11月20日(1416年12月9日))は、南北朝時代、室町時代の日本の皇族。崇光天皇の皇子。読み方は「なかひと」とも。
略歴
正平23年(1368年)正月親王宣下を受け、栄仁と命名される。天授元年(1375年)11月元服し、二品に叙せられる。
祖父にあたる光厳法皇は花園天皇の皇子であった直仁親王(実は、実父は花園天皇ではなく光厳天皇であった)を崇光天皇の皇太子に立ててその子孫に皇位を継承させ、栄仁親王をはじめとする崇光天皇の皇子は全て出家させる意向であった。このため、栄仁の皇位継承の可能性が浮上したのは、皮肉にも正平一統で崇光天皇と直仁皇太子が廃位され、失意のうちに直仁が出家した後の話であり、当初は崇光天皇の弟である弥仁王(後の後光厳天皇)とともに妙法院に入る予定であった(『後光厳天皇日記』応安3年11月3日条)[1]。
崇光上皇は、持明院統嫡流として第一皇子である栄仁親王の即位を念願していた。しかし、皇統が南北朝、さらには北朝自体が崇光上皇、栄仁親王の系統と崇光天皇の弟である後光厳天皇の系統に分立するなど、情勢は栄仁親王の登極が実現するには厳しいものがあった。応永5年(1398年)正月崇光上皇が崩御し、最大の後ろ盾を失った栄仁親王は、同年5月出家した。法名は通智(つうち)。同年8月に洛北萩原殿に移る。
応永6年(1399年)12月伏見殿に移るが、応永8年(1401年)伏見殿が火事で焼け落ち、嵯峨洪恩院に移る。応永10年(1403年)には有栖川山荘(有栖川殿)に移り、有栖川殿と称する。遍歴を余儀なくされた親王であるが、応永16年(1409年)6月に皇室累代の御料である伏見に戻り、伏見殿と称されるようになる。親王の伏見御料は、以後子孫相次いで伝領され、これが伏見宮の起源となる。[2]応永23年11月20日(1416年)薨去(死去)。66歳。法号は大通院。
また、栄仁親王は、琵琶、笙、和歌など諸芸能に堪能で、伏見宮家が楽道を家業とする起源を作った。
系譜
北朝第3代崇光天皇の第1皇子。母は、大納言庭田重資の女、典侍源資子。御息所は三条実治の女、藤原治子(西御方)。
- 妃:三条治子(西御方)
- 女房:宝珠庵(三条実音(大臣家)の女)
- 王子:周乾王(用建周乾)
- 王女:某
- 女房:東御方(三条実継(大臣家)の女)
- 王子:恵舜王
- 王子:某
- 王子:某
- 女房:廊御方(日野西資国(名家)の女)
- 王子:椎野寺主
- 生母不明
- 王子:洪蔭王(松崖洪蔭)
系図
93 後伏見天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)栄仁親王 | 後円融天皇 北5 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)治仁王 | (3)貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102 後花園天皇 | (4)貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
103 後土御門天皇 | (5)邦高親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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