橘百貨店
株式会社橘百貨店(たちばなひゃっかてん)は、日本の小売業者のひとつ。宮崎県宮崎市において『ボンベルタ橘』を運営している。「ボンベルタ」はかつて所属していたイオングループが展開する百貨店の名称(ボンベルタ百貨店)である。なお、日本百貨店協会には加盟していない(宮崎県内では、後述する宮崎山形屋のみが該当する)。
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略歴・概要
橘百貨店をはじめとする橘グループは、有力な地元資本の共同により設立され、のちに後藤家による同族経営となった、百貨店を核とする企業である。百貨店の建物は、当初は橘通りに面する地上5階建てであったが、その後裏通り側に増築し、増築部分には地下に食料品売場も設置されている。さらに、裏通りを隔てた場所にも店舗が建設され、既存館と連結された。
グループは、全盛期には映画館(橘会館)、スーパーマーケット(橘ストアー)、ホテル、各種レジャー施設などを経営し、宮崎県内において一大勢力を誇った。とくに、宮崎市民には、夜9時に流される「家路(新世界より)」のサイレンによって親しまれていた。しかし、1975年の橘百貨店の倒産により、グループの力は急速に衰退していった。橘百貨店グループが宮崎市中心部に所有していた不動産は、橘会館が宮崎放送(建て替えを経て1984年に「MRTセンター」として移転、MRT miccなど)、ホテルが宮崎セントラル会館(2005年にイオンモール宮崎に「宮崎セントラルシネマ」と移転。現在のセントラルシネマ宮崎)など、様々な企業に受け継がれた。
倒産の契機
宮崎市に1972年以降、イズミヤ(レマンショッピングセンター)、寿屋(2002年の一時閉鎖を経て現在のカリーノ宮崎)、ユニード(閉店、現在のアゲインビル)、宮交シティ(宮崎ショッパーズプラザ)と大型店が相次いで開業し、全国的にも有数の商業激戦区となった対策として1973年に都城市の都城駅前に新規出店、拡大路線へ舵を切った。しかし都城市は「全国一の大型店激戦地区」としてNHKに取り上げられた程のオーバーストア状態だった(当時の状況は都城大丸のページに詳しい)。更に都城駅前の土地区画整理事業も完成前で人通りがまばらで、かつ十分な駐車場を確保しなかったこと、そして、都城大丸・ナカムラデパート・寿屋都城店・ダイエー都城店との店舗規模拡大を伴った過度な競争に敗れ、30億円を目標としていた売り上げは14億8300万円にとどまり、わずか2年後の1975年には撤退へと追い込まれた。なお、都城店の建物は旭化成サービス(本社:延岡市)が12億1800万円で引き継いで1975年10月17日に「旭サービス」として開店。都城市ではその後約20年間にわたりこの5店舗が競い合う状況が続いた。
主戦場となる宮崎市でも、橘通りにある百貨店『宮崎山形屋』が同時期に高級路線へと転換し増収に成功したのとは対照的に、橘百貨店のフロア・接客態度は旧態依然としたままで売り上げは低迷。1974年9月には給与の一部を商品券としたことに対して労働基準監督署から厳重勧告を受け、社会的信用も失いつつあった。拡大路線後の1973年に起きた第1次オイルショックによる景気後退、そして、1975年に手形詐欺に遭ったことが追い打ちとなり倒産した。倒産直前に大手資本のニチイ[1]と全面提携に踏み切ったものの、遅きに失した状態であった[2]。
ジャスコによる再建、ボンベルタ橘としてリニューアル
橘百貨店は1976年にジャスコ(現在のイオン株式会社)が再建。1977年に『橘ジャスコ』として再オープンし、1988年には全面改装してイオングループの百貨店『ボンベルタ橘』としてオープンした。若者・中年以下向けを主なターゲットとした品揃えで競合の宮崎山形屋と棲み分けを図ったが、それが故に2005年のイオンモール宮崎開業による打撃は宮崎山形屋より大きかった。宮崎山形屋の新館オープン前には、得意とするキャリアウーマン向けのブランドをさらに充実させるリニューアルを行い、宮崎山形屋やイオンとの差別化を図ったが苦戦、その後は百貨店から事実上専門店ビルへと業態を転換。また、イオングループの中でも、百貨店というきわめて珍しい業態が今後も存続するのか非常に不透明な状況であった。
イオングループからの離脱
それでもイオングループはイオンモール宮崎出店時に「ボンベルタ橘は存続させる」としていた[3]が、結局2007年9月28日にイオンは百貨店事業を縮小することを決定し[4]、2007年11月1日付でクアトロエクゼキューションズがイオンの取得している全株式(600万株のうち99.97%)を取得したことによりイオングループから離脱した[5]。
地元回帰「橘ホールディングス」の設立
しかし、橘百貨店を地元回帰させようという動きがおこり宮崎出身の生え抜きの役員がMBOを目的として宮崎の財界に出資の呼びかけを行った。その結果、宮崎の有力企業である米良電機産業と坂下組が出資して『株式会社橘ホールディングス』が設立された。そして橘ホールディングスは2008年7月9日にクアトロエクゼキューションズの所有する全株式を取得し、橘百貨店は橘ホールディングスの完全子会社となった。[6]。また、橘ホールディングスは2013年2月にボンベルタ橘に隣接するエアラインホテルを買収し子会社化。その後、“県民百貨店”としてのリニューアル計画を進めていたがリーマンショックや口蹄疫の発生による経済環境悪化でその時期がずれ込んでいた。
ようやくこれらの影響に目処が立ち、2011年春に5年ぶりとなるリニューアルが実施された。このリニューアルでは100円ショップ大創産業の新業態「ダイソージャパン」、「東急ハンズトラックマーケット」を導入するなど従来の百貨店業態に拘らない大胆な売場作りを行い、注目を集めている。また、このリニューアルが宮崎市中心市街地全体の集客にも波及効果を及ぼしており、同社の役割には期待が大きい。全国的に不振が続く地方百貨店のなかでも健闘している部類に入るとみられる。
また、2011年1月に県内資本であった都城大丸が経営破たんしたことにより、橘百貨店は宮崎県内で唯一の地元資本の百貨店となった。
店舗
現在の店舗
- 本店(宮崎店)(宮崎市)
- 東館
- 西館
- 都城店(三代目:小型店)(都城市)
- ワンフロアの外商出張所と近隣に小型ショップ。2011年開設。都城中央通り商店街の都城大丸南側附近に所在。都城大丸の閉店後、地盤沈下が危惧される中で、都城大丸の一部の従業員やブランドショップなどを引継いでの出店である。
過去に存在した店舗
- 都城店(都城市)
- 都城駅前。1975年閉店。上記しているが、閉店後に旭化成サービスが引き継ぎ、「旭サービス」として開店したが、現在は閉店
- 都城店(二代目:小型店)(都城市)
- ワンフロアの小型ショップ。都城中央通り商店街の都城寿屋百貨店近くに所在。2000年ごろ閉店。
- 延岡店(延岡市)
- 延岡ニューシティーショッピングセンター(旧・旭ジャスコ)の準核店舗として出店。1998年閉店。
沿革
- 1952年 - 宮崎県内の財界人で出資し(初代)株式会社橘百貨店を設立。当時は高島屋と業務提携を結んでいた。
- 1952年10月21日 - 橘百貨店がオープン。
- 1973年11月10日 - 都城店がオープン。
- 1974年 - 9月期の給与の一部を商品券としたことにより、労働基準法違反として労働基準監督署から厳重勧告を受ける。
- 1975年 - 都城店閉店、宮崎地方裁判所に対して会社更生法申請。同時期に手形詐欺に遭う。
- 1976年 - ジャスコ株式会社(現イオン株式会社)が支援に乗り出して橘ジャスコ株式会社を設立。
- 1977年 - 橘ジャスコとしてオープン。
- 1982年 - 会社更生計画終結。
- 1982年 - 橘ジャスコ株式会社と合併。存続会社は橘ジャスコであるが商号は(2代目)株式会社橘百貨店とした。
- 1988年 - 全面改築し、ボンベルタ橘としてオープン。
- 1996年4月24日 - 延岡ニューシティショッピングセンター(現在のイオン延岡SC)の準核店舗「ボンベルタ延岡ニューシティー」がオープン。
- 1998年8月20日 - ボンベルタ延岡ニューシティーが閉店。
- 2007年11月1日 - クアトロエクゼキューションズがイオンの所有する全株式を取得。これにより、イオングループを離脱。
- 2008年7月1日 - 坂下組・米良電機産業が現在の親会社『橘ホールディングス』を設立。資本金は1,000万円[7]。
- 2008年7月9日 - 橘ホールディングスがクアトロエクゼキューションズの所有する全株式を取得。
脚注
参考文献
- 「橘百貨店の多額詐欺事件」『宮崎県大百科事典』宮崎日日新聞社、1983年。
- 「パクリ屋 百貨店倒産のかげで」『読売新聞』1975年11月17日-12月31日(宮崎県立図書館による切り抜きの保存)
- 1977年に『パクリ屋手形詐欺師』(読売新聞西部本社社会部)として書籍化されている。
関連項目
外部リンク
- ボンベルタ橘 | BonBelta
- 公式アカウント