元号法
元号法 | |
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日本の法令 | |
法令番号 | 昭和54年法律43号 |
効力 | 現行法 |
種類 | 公法 |
主な内容 | 元号(年号)について定める。 |
関連法令 | 国旗国歌法、皇室典範 |
条文リンク | 総務省法令データ提供システム |
元号法(げんごうほう)は、元号(年号)について定めた日本の法律である。
Contents
構成
本則は次の2項をもって構成される。第2項は一世一元の制と呼ばれる。附則も2項あり。
附則
- 第1項:この法律は、公布の日から施行する。
- 第2項:昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。
経緯
大日本帝国憲法下においては、元号に関する規定は旧皇室典範第12条に明記されていたが、日本国憲法下においては、1947年(昭和22年)に現皇室典範が制定されるに伴って条文が消失し、法的明文がなくなった。しかし、その後も国会・政府・裁判所の公的文書、民間の新聞等で慣例的に[注 1]元号による年号表記が用いられた。昭和天皇の高齢化と、世論調査(1976年(昭和51年))において国民の87.5%が元号を使用している[2]事情に鑑み、1979年(昭和54年)6月6日に第87回国会で「元号法」が成立、同月12日に公布・即日施行(附則第1項)された。
「昭和」の元号はこの法律第1項の規定に基づき定められたものとされ(附則第2項)、「平成」の元号は「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)1989年(昭和64年)1月7日公布・翌日1989年(平成元年)1月8日施行により定められた。
経過
- 1972年(昭和47年) - 自由民主党内閣部会に元号問題小委員会を設置[3]。
- 1975年(昭和50年) - 内閣法制局第一部長角田礼次郎が「元号は慣習で法的根拠はなく、陛下に万一のことがあれば空白の時代が始まる」と答弁[4][5]。
- 1976年(昭和51年)11月10日 - 政府主催の天皇陛下御在位五十年記念式典開催(日本武道館)[3]。
- 1978年(昭和53年)11月24日 - 元号法政府案が示される。
- 1979年(昭和54年)
- 2月2日 - 「元号法案」(所管・総理府本府)が閣議決定され、閣法第2号として衆議院に提出(併せて参議院に予備審査のため送付)される。
- 3月16日 - 衆議院本会議において総理府総務長官三原朝雄が趣旨説明。衆議院内閣委員会(委員長・藏内修治)に付託。
- 3月20日 - 衆議院内閣委員会において総理府総務長官三原朝雄が趣旨説明。
- 4月13日 - 衆議院内閣委員会において参考人意見聴取(参考人:國學院大學教授・坂本太郎、青山学院大学教授・小林孝輔、駒澤大学教授・林修三、慶應義塾大学講師・村上重良、筑波大学教授・村松剛)。
- 4月20日 - 衆議院内閣委員会において原案が起立多数により可決(賛成:自由民主党、公明党・国民会議、民社党、新自由クラブ / 反対:日本社会党、日本共産党・革新共同)。
- 4月24日 - 衆議院本会議において原案が起立多数により可決。参議院に送付。
- 4月27日 - 参議院本会議において総理府総務長官三原朝雄が趣旨説明。参議院内閣委員会(委員長・檜垣徳太郎)に付託。
- 5月8日 - 参議院内閣委員会において総理府総務長官三原朝雄が趣旨説明。
- 5月25日 - 参議院内閣委員会において参考人意見聴取(参考人:評論家・松岡英夫、二松学舎大学教授・宇野精一、日本キリスト教団行人坂教会牧師・木村知己、全日本労働総同盟政治局長・小川泰、東京大学教授・高柳信一)。
- 5月26日 - 参議院内閣委員会において参考人意見聴取(参考人:神社本庁講師・小野祖教、名古屋大学教授・長谷川正安、歴史学者・村尾次郎、日本労働組合総評議会副議長・丸山康雄、東京新聞論説委員・堀健三)。
- 5月30日 - 参議院内閣委員会、地方行政委員会、法務委員会、文教委員会連合審査会が開かれる。
- 6月1日 - 大阪府大阪市において現地聴聞会開催。
- 6月2日 - 北海道札幌市において現地聴聞会開催。
- 6月5日 - 参議院内閣委員会において原案が挙手多数により可決(賛成:自由民主党・自由国民会議、公明党、民社党、新自由クラブ / 反対:日本社会党、日本共産党、社会民主連合)。
- 6月6日 - 参議院本会議において原案が起立多数により可決[6]。奏上。
- 6月12日 - 公布、即日施行[7]。
元号法制化
背景
1968年(昭和43年)、明治100年を機に、政府内で国旗、国歌と共に元号法を定める機運が高まり内閣法制局が一世一元とすることを骨子に検討を始めたが[8]、元号を使っているのは日本だけであるとして西暦に統一すべしとの論も強かった[8]。
1977年(昭和52年)の政府が民間委託した世論調査では、元号存続派80%、廃止派5%と、1974年(昭和49年)、1975年(昭和51年)に比べ、存続派が減り、「どちらでもよい」が微増[3][注 2]。元号存続が圧倒的な世論であったのに対し、日本社会党は1977年(昭和52年)1月、「元号は昭和限り、以降は西暦」とする党見解を決定[3]。当時「衆議院内閣委員会は数少ない自由民主党多数の委員会」で与野党逆転テンプレート:何のもありうると見る向きもある状況であった[3]。
運動
1977年(昭和52年)日本青年協議会(日青協)が元号法制化運動を本格化し、「地方から中央へ」を合言葉に地方議会議決運動を展開させた[10]。この運動について、日青協の後見役であった村上正邦は後に「何も特別なことではない。左翼から学び、地方決議が目的達成の早道だと徹底したんだ」と述べている[10]。日本会議では、1977年(昭和52年)9月にの元号法制化を求める地方議会決議運動が始まり、46都道府県、1,632市町村で議会決議を達成したとする[11]。
日本会議事務総長の椛島有三は、日青協の機関誌において「元号法制化に踏み切る時、私どもは「解釈改憲路線」の選択をしました。これまで占領憲法解体という、直接的な明文改憲しか考えてこなかった私どもにとっては大変な選択で、改憲運動の後退になるのではないかというジレンマがありました」と述懐している[4][12]。
元号法政府原案
1977年(昭和52年)当時、1. 昭和以降も元号を存続させるか否か 2. 内閣告示か法制化か の2つの論点があり[3]、政府は当初「告示による」との基本方針を固めていたが[13]、翌1978年(昭和53年)11月17日法制化を閣議決定、総理府と内閣法制局とで法案を作成、23日までに決定し、同年11月24日、政府案が紙面に掲載された[14]。
1 皇位の継承があったときには、新たに元号を定め、一世の間、これを改めない。
2 元号は、政令で定める。
付 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 この法律施行の際、既に用いられている「昭和」は、この法律に基づき定められた元号とする。
— 1978年11月24日 読売新聞 朝刊2面[14]
元号選定手続について
1979年(昭和54年)10月、大平内閣(第1次大平内閣)は、元号法に定める元号の選定について、具体的な要領を定めた(昭和54年10月23日閣議報告)[15]。
これによれば、元号は、「候補名の考案」、「候補名の整理」、「原案の選定」、「新元号の決定」の各段階を践んで決定される。まず、候補名の考案は内閣総理大臣が選んだ若干名の有識者に委嘱され、各考案者は2ないし5の候補名を、その意味・典拠等の説明を付して提出する。総理府総務長官(後に内閣官房長官)は、提出された候補名について検討・整理し、結果を内閣総理大臣に報告する。このとき、次の事項に留意するものと定められている。
- 国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。
- 漢字2字であること(3文字以上は不可。但し、749年から770年にかけては、漢字4文字の元号が使用されている)。
- 書きやすいこと。
- 読みやすいこと。
- これまでに元号又はおくり名として用いられたものでないこと(過去の元号の再使用は不可)。
- 俗用されているものでないこと(人名・地名・商品名・企業名等は不可)。
整理された候補名について、総理府総務長官、内閣官房長官、内閣法制局長官らによる会議において精査し、新元号の原案として数個の案を選定する。全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。内閣総理大臣は、新元号の原案について衆議院及び参議院の議長及び副議長に連絡し、意見を聴取する。そして、新元号は、閣議において、改元の政令の決定という形で決められる。
現在の元号
脚注
注釈
- ↑ ただし、裁判所における民事事件に関する文書に関しては、1876年(明治9年)の明治9年司法省達第27号「民事裁判ニ付手続並ニ口書判決文等年月日記載方」で、「年号何年何月何日」のように年号を記載すべきである旨定められている。もっとも、この司法省達は、既出の年月日を再度記載する場合に、「同年」とか「同日」という語を使わないようにすべきとするものであり、元号の使用を定めることを目的としたものではない[1]。
- ↑ なお、1977年(昭和52年)8月に内閣府政府広報室が実施した「元号に関する世論調査」では、
・ 存続派 78.4%(あった方がよい 58.9%、どちらかといえばあった方がよい 19.5%)、
・ 廃止派 6.7%(廃止した方がよい 3.4%、どちらかといえば廃止した方がよい 3.3%)、
・ どちらでもよい 11.4%であり[9]、
1976年(昭和51年)8月の前回調査の
・ 存続派 75.7%(あった方がよい 56.8%、どちらかといえばあった方がよい 18.9%)、
・ 廃止派 5.8%(廃止した方がよい 3.2%、どちらかといえば廃止した方がよい 2.6%)、
・ どちらでもよい 15.7%[2]
から、存続派が微増し、「どちらでもよい」が減少している。
出典
- ↑ 明治九年 法令全書 内閣官報局(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 2.0 2.1 元号に関する世論調査(昭和51年8月) 内閣府政府広報室
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 “自民、法制化チラリ 「元号」あなたは賛成 ? 反対 ? 野党ブツブツ - 国民議論を”. 読売新聞: p. 朝刊14版 7面. (1977年2月22日)
- ↑ 4.0 4.1 “(日本会議をたどって:9)解釈ひとつで憲法は変わる”. 朝日新聞: p. 夕刊4版 2面. (2016年11月18日)
- ↑ “第七十五回国会 衆議院 内閣委員会議録 第七号 (PDF)”. pp. 16-17 (1975年3月18日). . 2017閲覧.
- ↑ 官報 (号外) (PDF) 25-26頁(通号 583-584頁).昭和五十四年六月六日.国会会議録検索システム。2017年3月28日閲覧。
- ↑ 元号法 総務省法令データ提供システム。2017年3月28日閲覧。
- ↑ 8.0 8.1 “元号制度 政府内に両論 "法制化して根拠を" "むしろ西暦一本に"”. 読売新聞: p. 朝刊14版 2面. (1968年7月4日)
- ↑ 元号に関する世論調査(昭和51年8月) 内閣府政府広報室
- ↑ 10.0 10.1 “(日本会議をたどって:10)地方から「中央制圧」”. 朝日新聞: p. 夕刊4版 2面. (2016年11月21日)
- ↑ 国民運動の歩み 日本会議
- ↑ 清原淳平 『岸信介元総理の志憲法改正』、2015-05-03。ISBN 9784793904707。
- ↑ “来週までに素案 自民小委 法制・告示の両面検討”. 読売新聞: p. 朝刊14版 2面. (1977年11月4日)
- ↑ 14.0 14.1 “「一世一元を明記」 元号法 政府案まとまる 制定懇で検討、内閣が決定”. 読売新聞: p. 朝刊14版 2面
- ↑ 元号選定手続について、昭和54年10月23日、内閣官房、国立公文書館(ref.本館-3A-015-00・平11総01509100)。
関連項目
外部リンク
- 元号を改める政令
- 国会会議録検索システム - 第087