マルティン・ボルマン
マルティン・ルートヴィヒ・ボルマン(Martin Ludwig Bormann、1900年6月17日 - 1945年5月2日)は、ドイツの政治家。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)総統アドルフ・ヒトラーの側近・個人秘書を長らく務め、その取り次ぎ役として権力を握った。ルドルフ・ヘスの失脚後は官房長となり、党のナンバー2となった。親衛隊名誉指導者でもあり、親衛隊における最終階級は親衛隊大将。ヒトラーの政治的遺書によって党担当大臣として指名されたが、ベルリン陥落の混乱の中で消息を絶った。戦後長い間行方不明とされてきたが、総統地下壕脱出の際に青酸で服毒自殺していた事が近年証明された[1][2]。
Contents
略歴
生いたち
ドイツ帝国プロイセン王国ザクセン州(現在はザクセン=アンハルト州)のハルバーシュタット近郊のヴェーゲレーベンに生まれた。父は郵便局員テオドール・ボルマン(Theodor Bormann)。母はその妻で郵便代理人の娘アントニエ(Antonie)(旧姓メンノン、Mennong)。父テオドールは短期間だがプロイセン胸甲騎兵連隊の軍楽隊でトランペット奏者をしていたことがある。父の軍内での階級は特務曹長だった[3][4]。
テオドールとアントニエの夫妻には二人の息子があり、ボルマンは長男だった。弟にアルベルト・ボルマンがいる。ボルマンの「マルティン」の名は宗教改革家マルティン・ルターに因んで名付けられた[3]。父テオドールは1903年、ボルマンが3歳の時に死亡した。半年後、母アントニエは生活を安定させるため、銀行支店長アルベルト・フォルボルン(Albert Vollhorn)と再婚した[3][4][5]。
1909年にボルマン一家は継父とともにヴァイマルへ移住した[2]。ヴァイマルの小学校を卒業した後、ヴァイマルの実科ギムナジウムに入学した[6]。14歳の時に第一次世界大戦が勃発した。ボルマンは1918年に陸軍第55砲兵連隊に入隊したが、前線には出ていない。彼はニュルンベルクで将校の当番兵をしていた。軍での最終階級は砲兵二等兵だった[6][7]。
第一次世界大戦後
戦後、継父の家には戻らず、メクレンブルクの大農場で農業助手として働くようになった。まもなく農場主ヘルマン・フォン・トロイエンフェルス(Hermann von Treuenfels)に秘書・会計係としての能力を認められて、メクレンブルク、パルヒム、ヘルツベルクの農場の管理を任せられた。トロイエンフェルスはドイツ義勇軍の活動に深く共鳴しており、義勇軍兵士を次々と自分の農場に受け入れていた。ボルマンは彼らの管理にもあたっていた[8][9]。またボルマン自身も1922年にゲルハルト・ロスバッハ中尉率いる「ロスバッハ義勇軍」に入隊した。同義勇軍のメクレンブルク地区の部長兼会計責任者を務めた[10]。1922年12月にはドイツ民族自由党(DVFP)に入党している[8]。
1923年5月31日夜、ロスバッハ義勇軍のメンバーの小学校教師ヴァルター・カドウがリンチ殺害された。カドウは義勇軍から「ボルシェヴィキのスパイ」であるとの容疑をかけられ、ルール地方のフランス占領軍に対する抵抗の英雄であったアルベルト・レオ・シュラゲターを占領軍に密告したと疑われており、また義勇軍から借りた大金を返さず、会計責任者のボルマンと金銭的なトラブルを抱えていた。1923年7月にボルマンはカドウ殺害の犯人の一人として逮捕された。1924年3月12日にライプツィヒで他の逮捕者ルドルフ・フェルディナント・ヘス(後のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長)らとともに裁判にかけられ、禁固1年の刑に処された[8][11][12]。
1925年3月に刑期を終えて釈放された[13]。ヘルマン・フォン・トロイエンフェルト所有のパルヒムの農場に帰り、農場管理の仕事に戻ったが、1925年5月にはこの職を離れることとなった[8]。フォン・トロイエンフェルトの夫人エーレンガルトに手を出して主人の不興を買ったのが原因とも言われるが、定かではない[14]。
ナチ党入党
農場の仕事を失業した後、禁止されていた突撃隊の偽装組織「フロントバン」に入隊。1926年から1928年にかけてヴァイマルで発行されていたナチ党の新聞『国家社会主義者(Der National Sozialist)』の会計係となった[8]。1927年2月に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した(党員番号60,508)[8][15]。1927年4月に突撃隊に入隊した(最終的に1931年12月18日に突撃隊大佐に昇進している)。1927年11月から1928年11月にかけてナチ党のテューリンゲン大管区の報道部長に就任した[8]。はじめボルマンが演説台に立った事もあったが、ボルマンは演説者としてはまったくの無能であり、落ち着きがなかったり、どもったりすることが多くて道筋を立てて話す事ができなかった。ついにはボルマンが演説台に上がっただけで聴衆の嘲笑がおこるようになったため、党はボルマンに演説を禁止した。そのためボルマンの演説を記録したテープは現存していない[14]。1928年4月から11月にかけてはテューリンゲン大管区の会計責任者となった[8]。
救済基金責任者
1928年11月15日には突撃隊の最高司令部の中におかれた救済基金(共産党などとの殴り合いで負傷したが、治療費を出すことが出来ない同志のための金庫)部門に勤務した。さらに1930年8月25日にはこの組織が党全体の救済基金部門となり、ボルマンがその部長に任じられた[8]。この任務をへて突撃隊財政支援の専門家と化したボルマンは裏方の事務に徹して確実に勢力を拡大させていく[16]。
1929年9月2日にはナチ党の有力者ヴァルター・ブーフの娘ゲルダと結婚。二人の結婚式にはアドルフ・ヒトラーも立会人として出席している。1930年4月14日に長男を儲けたボルマンは、ヒトラーの名前と自分の名前に因んでアドルフ・マルティンと名付けた[17]。
ヒトラーの側近
ヘスの副官時代
1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーとナチ党が政権を掌握。ボルマンは1933年7月4日に副総統(ルドルフ・ヘス)個人秘書兼官房長(Persönlicher Sekretär und Chef der Stabskanzlei des Stellvertreters des Führers)に任じられた[8]。これを機にボルマンは救済基金の事務所からヘスの事務所へ移ることとなった。以降ヘスが英国に単独飛行する1941年までヘスの副官という立場でヒトラーの側で活動していくこととなる。
アルフレート・ローゼンベルクはヘスの秘書をしていた時期のボルマンについてこう回顧している。「ヘスを訪問すると、ボルマンの姿を時折見かけたが、後にはほとんど一緒にいた。この数年総統昼食会に出ていたが、後にはゲッベルスの横にボルマンがいつも姿を見せていた。総統は明らかにヘスにいらついており、ボルマンが代わりに命令を処理していた。この時点から彼の『なくてはならない存在』を目指した活動が始まった。」[18]。
彼は絶えず鉛筆とメモ用紙を持ってヒトラーの言葉をメモを取っていた。バルトゥール・フォン・シーラッハがそのメモは何に使うのかとボルマンに聞くとボルマンは「総統が考えている事を常に把握しておきたいからだ」と答えたという[19]。
またボルマンは1933年7月3日に「アドルフ・ヒトラー・ドイツ産業界基金」の責任者に任じられていた。これはクルップなどドイツ産業界がヒトラーに献金を行うために作った機関である。この機関の金について会計報告は不要とされていた。金銭に無頓着なヒトラーに代わってボルマンがこの金を預かっていた。オーバーザルツベルクのヒトラーの山荘の改築もボルマンが請け負い、ヒトラーから高く評価された[20][21]。
形式的な肩書も増強されていった。1933年10月10日にはナチ党全国指導者の一人に任じられた[6]。さらに1933年11月12日の選挙によりナチ党の国会議員になった[8]。1935年9月7日には帝国農業審議会(Reichsbauernrat)のメンバーとなった。1937年1月30日には親衛隊に名誉隊員として入隊し、親衛隊中将(SS-Gruppenführer)の肩書を与えられた(隊員番号ははじめ278,267だったが、1938年にハインリヒ・ヒムラーから特別な隊員番号555を与えられた。また階級は1940年7月24日に親衛隊大将に上っている)[6]。
しかしながらヘスの秘書時代のボルマンは他の党幹部からはさほど関心を払われる存在ではなかったようである。ヨーゼフ・ゲッベルスもこの時期の日記にはボルマンについて「ボルマンという名前のある党員は」といった書き方をしている[22]。
ナチ党官房長
第二次世界大戦勃発前後はまだ地位を固め始めたばかりで国家政策や党の方針決定に影響を持ってはいなかったが、1941年5月10日に副総統ヘスが独断で和平交渉のためにイギリスへ飛び去った後にその地位が変わってくる。5月11日にヘス単独飛行を聞いたヒトラーははじめ副官ボルマンを「共犯者」と疑い、ボルマンを招集したが、ボルマンはすぐにヘスを批判して「無実」であることを証明した[23]。この件を機にボルマンはヘス夫妻に因んで名前をつけた次男ルドルフと長女イルゼの名前をそれぞれヘルムートとアイケに変えさせている[5]。 さらにボルマンは後継の副総統の座を狙ったが、5月13日にヘス単独飛行の件で党幹部がオーバーザルツベルクの山荘に招集され、この際にヘルマン・ゲーリングがヒトラーに直談判してボルマンの副総統就任に反対の意をはっきりと示した。ヒトラーはボルマンの副総統就任はあり得ない事をゲーリングに明言している。結局、副総統の事務所は党官房(Partei-Kanzlei der NSDAP)と名を改められ、ボルマンはその責任者である党官房長に就任することとなった。副総統にはなれなかったものの党官房長に任命されたボルマンは大きな影響力を得るに至る[24]。ヒトラーはドイツ軍最高司令官としての軍務にますます忙しくなっており、党務にまでとても手が回らなくなっていた。党務は事実上ボルマンにより掌握される事となった。また党務だけでなく、軍部や行政機構にも影響を及ぼすようになっていった[25]。
1941年5月29日、帝国大臣に列するとともに国防閣僚会議の常任議員となる[26]。
さらに党官房長や大臣職より地味であるが、より重要な物として総統の個人秘書的な立場を手に入れたことがある。この職位には初め名称がなく、1943年4月12日になってようやく「総統の秘書兼個人副官(Sekretär und Persönlicher Adjutant des Führers)」という名称を冠された[25][27]。しかしこの立場を手に入れた事はボルマンにとって非常に大きく、ヒトラーの秘書として公私に渉り密接な関係を結ぶきっかけとなった。
秘書となったボルマンは、常に彼のそばを歩くようになり、菜食主義的な生活を送っていたヒトラーのために大好物であった肉を控えるようにするなど徹底的にヒトラーに合わせた生活を送るようになった。ヒトラーの愛犬「ブロンディ」を用意したのもボルマンだった。こうしたヒトラーの影のように仕える奉仕ぶりや、ヒトラーがどの報告に目を通し、どの人間に会うかを決める権限が実質的にボルマンが有したため、「ヒトラーの耳に情報が入るには、まずボルマンを介さなくてはならない」と揶揄されるようになった。情報を監督するためにヒトラーのプライベートな会話も逐一記録させていた。「ボルマン覚書」や「ヒトラーのテーブル・トーク」の名前で知られるこの記録はヒトラーやナチズムに関する一級資料であり、後にヒュー・トレヴァー=ローパーによって出版された。
ボルマンはヒトラーへの情報統制を制度化しようと試み、1943年1月には首相官房長官ハンス・ハインリヒ・ラマースと国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥とともに「三人委員会(Dreimännerkollegiums)」を創設した。この委員会は総統に出された提案を総統に通すかどうかを審議するための機関であった。しかし他の党幹部の反発が強く1944年には解散した[26][28]。
1943年2月のスターリングラード攻防戦の敗北以降、ヒトラーは総統大本営に引きこもりがちになった。以降のヒトラーが主要幹部の中で定期的に会うのはボルマン、国防軍最高司令部総長カイテル元帥、国防軍最高司令部作戦本部長アルフレート・ヨードル上級大将の三人だけになった。それ以外はたまに親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング帝国元帥、各司令官たちが現れるぐらいであった。他の来訪者はヒトラーがどうしても直接会う必要がある者だけに限られた。そしてその判断はボルマンに一任されていた。総統大本営へ入るためにはボルマンの許可証が必要であった[29]。そのためボルマンの権力はドイツの戦況悪化、ヒトラーの引きこもり化とともに増していくこととなった。
このようなボルマンの立場、また彼の上司に媚びへつらう一方で部下に冷酷に接する態度のために、ボルマンは他の党幹部や国防軍上層部から非常に疎まれていた。ヘルマン・ゲーリングは、ニュルンベルク裁判において「ヒトラーがもっと早く死んで、私が総統になっていたら真っ先にボルマンを消していただろう」と発言している。アルベルト・シュペーアも「ヒトラーがボルマンについて少しでも批判的な事を言ったなら、彼の敵は全員その喉首に飛びかかっただろう」と述べている[30]。また副官に「スカートをはいた物なら何でも追い回す」と評されたその女癖の悪さから、エヴァ・ブラウンもボルマンをひどく嫌っていた[31]。
1941年以降の反ユダヤ主義の命令にはほとんど例外なくボルマンの副署があり、反ユダヤ主義にも重大な責任を負う。ユダヤ人を東部に移送する命令や親衛隊の下にユダヤ人の管理を強化する命令、ユダヤ人虐殺を隠ぺいするための命令にサインしている[32][33]。
1944年9月25日にはヨーゼフ・ゲッベルスの下に創設された国民突撃隊の政治・組織指導者に任じられた[27]。
ドイツの敗色が濃くなってきてもボルマンの権力欲は衰えなかった。1944年12月にはボルマンの最大のライバルである親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがオーベルライン軍集団司令官に任じられ、さらに1945年1月にはヴァイクセル軍集団の司令官に任じられ、赤軍との戦闘を指揮した。しかしまともな軍事教養をもたないヒムラーにこのポストを与えるのは異常な人事であった。案の定、ヒムラーは無能な指揮官ぶりを示して更迭されることとなった。この件でヒムラーの権威に大きく傷が入った。参謀総長ハインツ・グデーリアン上級大将によるとこれはボルマンがヒトラーに入れ知恵した結果の人事であったという[29]。1945年4月23日にヘルマン・ゲーリングがベルヒテスガーデンからベルリンの総統地下壕に向けてヒトラーに指揮権の委譲を要求する電報を送る。電報を受けたボルマンは「ゲーリングが裏切った」とヒトラーに報告した。結果、ヒトラーは激怒し、ゲーリングの解任を決定した。ただしボルマンが要求したゲーリングの銃殺刑をヒトラーは却下している。ボルマンは独断でベルヒテスガーデンにいる親衛隊将校にゲーリングの逮捕命令を出している[34][35]。
最期
4月30日、ヒトラーは遺言でボルマンを遺言執行人、そして「ドイツ国党大臣(Reichsparteiminister)」に任命して自殺した。深夜になってボルマンはヒトラーの主治医であるルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー、ヒトラーユーゲント全国指導者アルトゥール・アクスマンと共に総統地下壕を脱出したが、アクスマン以外の二人は生き延びることはできなかった。アクスマンは、一時離れ離れになった後二人の遺体を見つけたが、遺体の死因を確認するどころでは無く、すぐにその場を立ち去っている(その後12月になって連合軍に逮捕された)。
戦後、「総統官邸から北に数キロのヴァイデンダム橋で両名の遺体を目撃した」という証言がアクスマンらにより複数発表された。発掘が行われたが、それらしき遺体は発見できなかった。ニュルンベルク裁判では欠席裁判のまま1946年10月1日に死刑判決が下された。1954年10月にはベルヒテスガーデン地方裁判所はボルマンの死亡を宣言した。しかし、遺体が見つからず、1960年にアルゼンチンで逃亡生活中にモサッドに拘束されたアドルフ・アイヒマンがイスラエルでの裁判中に「彼は南米で生きている」と証言したことで、「ブラジルへ逃亡しナチス残党を集めてナチスの再建を図っている」という噂がまことしやかに語られるようになり、ブラジルでは現地のマスコミが、ドイツ人が多いことで有名なブルメナウなどの南部を中心に「ボルマンの居所をつかんだ」というような報道が度々なされることとなった。
1972年12月、ヴァイデンダム橋から遠くないレアター駅近くの工事現場で2体の人骨が偶然発見された。法医学者・歯科医・形質人類学者が鑑定した結果、シュトゥンプフエッガーとボルマンのものであることが確認された。遺体の口にはカプセルのガラス片と青酸の痕跡が認められた。また、1998年には家族の要請でDNA鑑定が行われ、人骨がボルマンのものであることが再確認された。その後遺骨は荼毘に付され、バルト海に散骨された。
しかし、現在でも遺骨の真贋を疑う者は多い。根拠として、ベルリンの戦いでは何十万もの犠牲者が出たため遺骨を捜そうと思えばすぐに捜すことができ、その中からボルマンの遺骨を発見することは到底不可能に近いこと、ボルマンの遺骨とされる頭蓋骨に確認されたアマルガムなどの歯の治療は戦後にも行われていた形跡があることから遺骨は別人ではないかという説もある。
人物
- 身長は170センチ。ナチ党政権下の祝宴生活で肥満し「ずんぐり」と形容される体型になった[36]。
- ヒトラーを除く他のナチ党政権幹部のほとんどから嫌われた[36]。ゲーリングやゲッベルス、ヒムラーも排斥を試みたが、上記の基金の責任者としてナチスの資金を牛耳っていたため、失敗している。[37]
- ヘビースモーカーだったが、タバコ嫌いのヒトラーの前では決して吸わなかった。吸うときはトイレで吸ったという[38]。
- カメラで撮られることを嫌い、公表される写真にできるだけ顔を出さないようにしていたため、国民からの知名度は低かった。[39]
家族
ナチスの幹部についてしばしば評される「職場では冷酷残忍、家庭では良き夫」という言葉のとおり、ボルマンもまた家庭では良き夫、優しい父親だった。ボルマンはゲルダ・ブーフと結婚し、10人の子供がいた。ただ、ボルマンは妻の他にも愛人を持っていた上に、その事実を妻に隠そうとはしなかった。妻はボルマンが「自分の浮気は国家社会主義のより大きな利益につながる」という説明を信じており、自分と愛人を交互に出産させるようにして、いつでも動員できる妻を持つようボルマンにすすめている[31]。敗戦直前、秘書ヘルムート・フォン・フンメルの機転で一家は南チロルへ脱出。ゲルダは1946年に癌で死亡。子供たちは孤児院で養育された。
弟のアルベルト・ボルマンもヒトラーの秘書として仕えている。ボルマン兄弟はヒトラーの信任を巡って絶えず暗闘を繰り返していた。
語録
ボルマン本人の発言
- 「沈黙が普通は一番賢い。人はどんなことがあってもいつも真実を言うべきなのではなく、十分な理由があってそれが本当に必要な時だけ言えばいい。」(妻への手紙の一文)[40]
- 「僕は嫌というほど知らされた。醜さ、歪曲、中傷、おべっか、愚かさ、低脳、野心、虚栄心、金銭欲。要するに人間の嫌な面ばかり。ヒトラー総統が僕を必要とされている間はどうにもならないが、いずれ僕は政治から離れる。決心したんだ!」(1944年10月7日の妻へあてた手紙)[41]
人物評
- 「ボルマンが残忍なのは分かっている。しかし、あいつの関わった仕事には筋が通っている。ボルマンに任せれば、私の命令は直ちにどんな障害があっても実行される。ボルマンの報告書は実に正確に仕上げられているから、私はイエスかノーと言うだけで済む。他の連中なら何時間もかかる書類の山も、あいつなら10分で片づける事が出来る。六カ月後に私にこれを思い出させてくれ、とボルマンに頼んだら、実際に思い出させてくれると確信できる。」(アドルフ・ヒトラー)[42][43]
- 「彼は雄牛のような男だが、誰も次の事を忘れてはならない。ボルマンに難癖をつける者は、私に難癖をつけているに同じだ。そしてこの男に逆らう者には誰であれ、私は銃殺命令を出す。」(アドルフ・ヒトラー)[44]
- 「ボルマンは大した権力を持っていた。ボルマンは私も知らないようなヒトラーの極めてプライベートな事を熟知していた。たとえばベルリンの総統地下壕には午前4時まで、場合によっては午前6時まで開かれるお茶会があった。その際にヒトラーが同席を認めたのは女性秘書たちとボルマンだけだった。このような場でしばしば重要な決定が下される事も少なくなかった。」(ヘルマン・ゲーリング)[45][46]
- 「ボルマンは総統を墜落させ、ナチの理想を墜落させた。彼はヒトラーに媚びへつらう、卑屈な下男だった。」(ポーランド総督ハンス・フランク)[47]
- 「彼は決して長い休暇を取ったりしなかった。自分の影響力が少なくなる事を絶えず気にかけていた。」(1969年、ヒトラー内閣軍需大臣アルベルト・シュペーア)[48]
- 「複雑な問題を単純化し、簡単明瞭な形で提示し、その要点を明確な文章で短く表現する能力をボルマンは持っていた。手際はまことに鮮やかであったから、彼の圧縮されきった報告書にはその問題に対する答えが暗に含まれていた。」(SD対外局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将)[43]
- 「部下にとって彼は何をやりだすかわからない上司だった。いま非常に友好的に、礼儀正しく彼らに接していたかと思うと、数分後にはサディスティックなやり方で散々に貶した。しばしば彼は荒れ狂ったので、誰もが思わず目の前に気の狂った男がいるという印象をもった。」(ヒトラーの運転手エーリヒ・ケンプカ)
- 「個人的功名心、権力欲、財政も含めて組織や管理の問題を処理する事務能力、強い劣等感、それらが調和せずにバラバラに合成された物が彼の性格だった。彼は自分に関心のある事しか考えない冷たい活動家としてスターリンの道をたどっていた。つまり厳格な党独裁の価値をよく理解しており、その考えに基づいて党を組織的に強化した。」(ヒトラー内閣食糧相リヒャルト・ヴァルター・ダレ)[30]
キャリア
階級
受章
- 黄金ナチ党員章(1934年)
- 血の勲章(1938年9月5日)
- 大管区名誉徽章
- ヴァルテラント大管区名誉徽章
- テューリンゲン大管区名誉徽章
- 銀鷲章
- オリンピック勲章
- 一級オリンピック勲章(1936年)
- フロントバン徽章
- 親衛隊名誉短剣
- 親衛隊全国指導者名誉長剣(1937年12月1日)
- 親衛隊名誉リング(1937年12月1日)
- 親衛隊私服ピン(2402番)(1937年2月)
- アルテケンプファー章
- イタリア王冠勲章(イタリア王国勲章)
- 大将校章
- ローマ鷲勲章(イタリア王国勲章)
- 大十字章
- 功労勲章(ハンガリー王国勲章)[5]
注釈
ボルマンに関係する文献
- ジェームス・マクガバン 『ヒトラーを操った男―マルチン・ボルマン』 西城信訳、新人物往来社、1974年
- ハリー・パターソン 『ヴァルハラ最終指令』 井坂清訳、早川書房、1979年。
ボルマン生存説をテーマにした長編小説。ハヤカワ文庫で再刊 - ラディスラス・ファラゴ 『追及 マルチン・ボルマンとナチの逃亡者 上・下』 寺村誠一訳、早川書房、1977年
- 檜山良昭 『ナチス副総統ボルマンを追え』 東京書籍、1993年、ISBN 4-487-79152-9
- グイド・クノップ 『ヒトラーの共犯者.下 12人の側近たち』 高木玲訳、原書房、2001年。ISBN 978-4562034185
「第3部.影の男―マルティン・ボルマン」がある。 - アンナ・マリア・ジークムント 『ナチスの女たち 第三帝国への飛翔』 (西上潔訳、東洋書林、2009年)ISBN 978-4887217621
ボルマンの妻 「第1章―ゲルダ・ボルマン」がある。「ナチスの女たち 秘められた愛」が同時刊。 - 『ヒトラーの遺言 1945年2月4日-4月2日』 篠原正瑛訳・解説、(原書房 1991年、新版2011年)
ボルマンが書きとどめたという、いわゆるボルマンメモの和訳。ただし、この文書の真贋については複数の歴史家が疑問視している。
参考文献
- ジェームス・マクガバン 『ヒトラーを操った男―マルチン・ボルマン』 新人物往来社、1974年
- グイド・クノップ『ヒトラーの共犯者 下 12人の側近たち』 (原書房、2001年)。ISBN 978-4562034185
- アンナ・マリア・ジークムント 『ナチスの女たち 第三帝国への飛翔』 東洋書林。ISBN 978-4887217621
- ウォルター・ラカー、井上茂子・木畑和子・芝健介・長田浩彰・永岑三千輝・原田一美・望田幸男訳、『ホロコースト大事典』(柏書房、2003年)、ISBN 978-4760124138
- ジョン・トーランド著・永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー』(原著は1979年、1990年、集英社文庫全4巻)
- Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)(英語)ISBN 9329700373
出典
- ↑ Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)146・154ページ
- ↑ 2.0 2.1 アンナ・マリア・ジークムント著『ナチスの女たち 第三帝国への飛翔』(東洋書林)11ページ
- ↑ 3.0 3.1 3.2 グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)183ページ
- ↑ 4.0 4.1 ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)14ページ
- ↑ 5.0 5.1 5.2 Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)154ページ
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)146ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)184ページ
- ↑ 8.00 8.01 8.02 8.03 8.04 8.05 8.06 8.07 8.08 8.09 8.10 Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)147ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)185ページ
- ↑ ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)16ページ
- ↑ ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)18ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)186ページ
- ↑ ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)19ページ
- ↑ 14.0 14.1 グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)187ページ
- ↑ ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)22ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)189ページ
- ↑ ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)24ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)193ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)196ページ
- ↑ ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)35ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)197ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)198ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)199ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)200ページ
- ↑ 25.0 25.1 ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)70ページ
- ↑ 26.0 26.1 Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)149ページ
- ↑ 27.0 27.1 Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)151ページ
- ↑ ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)112ページ
- ↑ 29.0 29.1 ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)104ページ
- ↑ 30.0 30.1 グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)180ページ
- ↑ 31.0 31.1 トーランド、4巻、85-86p
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)219ページ
- ↑ ウォルター・ラカー著『ホロコースト大事典』(柏書房)564ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)228ページ
- ↑ ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)138ページ
- ↑ 36.0 36.1 グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)182ページ
- ↑ 前川道介 『炎と闇の帝国 ゲッベルスとその妻マクダ』 白水社 1995年
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)210ページ
- ↑ 前川道介 『炎と闇の帝国 ゲッベルスとその妻マクダ』 白水社 1995年
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)211ページ
- ↑ ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)122ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)204ページ
- ↑ 43.0 43.1 ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』(新人物往来社)108ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)175ページ
- ↑ 金森誠也著『ゲーリング言行録 ナチ空軍元帥おおいに語る』(荒地出版社)158ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)208ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)212ページ
- ↑ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』(原書房)224ページ
- ↑ Miller,p.146
登場する作品
- アドルフに告ぐ - 史実同様長年ヒトラーに忠実に仕えてきているが、本作においては敗戦直前、遺言でゲッベルスら他の側近よりも不当な扱いをされたことと、現実に目をそらす態度をとり続けるヒトラーに激怒と失望を抱き、ヒトラーを自殺に見せかけて殺害する指示を部下のランプにしている。
- BLOOD+
- ゴルゴ13 - ビッグコミックにて1982年4月発表の第185話『崩壊 第四帝国 狼の巣』で登場。南米に逃亡し、ネオナチの指導者となっている。
- ヒトラー 〜最期の12日間〜 - トーマス・ティーメが演じている。
- ブラジルから来た少年
- スパイ大作戦
- 高い城の男 - フィリップ・K・ディックの歴史改変SF。ドイツと日本が連合国に勝利した設定。
- ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル
- わが教え子、ヒトラー
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