ニュルンベルク裁判
ニュルンベルク裁判(ニュルンベルクさいばん)は、第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日 - 1946年10月1日)。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれた。日本の極東国際軍事裁判(東京裁判)と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。
最初の主な裁判(英語:Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal, IMT)と、それに続く、ニュルンベルクを占領統治していたアメリカ合衆国による12の裁判(英語:Nuremberg Military Tribunals, NMT. 1949年4月14日まで行われ、一般には「ニュルンベルク継続裁判」として、最初の主な裁判とは区別される)で構成された。
Contents
前史
戦前の認識
いわゆる「人道に対する罪」という言葉の淵源は1909年のハーグ陸戦条約に見られるが、用語として成立したのは戦後になってからだった[1]。第一次世界大戦後の1919年1月、連合国は、国家元首をも含む戦争開始者の責任を裁く国際法廷の設置について討議を行った。この方針は採択されなかったものの、ヴェルサイユ条約に前ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を国際条約の信義に背いたとして国際法廷で裁くという条項に反映された。しかしヴィルヘルム2世の裁判は実現せず、またドイツの戦争犯罪容疑者を国際法廷で裁くこともドイツ側の拒否にあい、ライプツィヒ戦争犯罪裁判として行われたドイツ国内の戦犯裁判は、ほとんど形式的なものに過ぎなかった。
また、オスマン帝国のアルメニア人虐殺に対しては、連合国側の15人委員会が「人道に対する罪」として取り上げようとした際、アメリカおよび日本は「これを認めれば、国家元首が敵国の裁判にかけられることになる」として反対した。またアメリカは国際法廷の設置そのものに前例がないとして反対した[2]。 その後も国際法廷に関する協議は行われていたが、明確な条約は締結されなかった[3]。
連合国の戦犯裁判方針の形成
第二次世界大戦勃発直後から、連合国間ではドイツによる前例のない残虐行為を非難する声が高まっていた。1940年11月にはポーランド亡命政府とチェコスロバキア亡命政府が、ドイツの占領下にある両国の領域における残虐行為は、史上例がないと非難した共同宣言を発表した[4]。1941年10月25日にはアメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相がそれぞれドイツの残虐行為を非難する声明を発表し、特にチャーチルは「これら犯罪の懲罰は、今や主要な戦争目的の一つ」であるとした[4]。11月5日にはソビエト連邦のヴャチェスラフ・モロトフ外相も同様の発言を行い、英米と歩調を合わせた[4]。
1942年1月13日にはセント・ジェームズ宮殿に集まったベルギー、ルクセンブルク、チェコスロバキア、ポーランド、ギリシャ、オランダ、ノルウェーの各亡命政府代表と自由フランス代表が「組織された裁判の手続きにより」、市民に対する残虐犯罪を犯したもの達を処罰することを、「主要な戦争目的の中に入れる」ことを決議した[5]。オブザーバーとして参加していた中華民国の代表もこの原則に同意し、この方針を中国大陸に存在する日本軍にも適用する意志を示した[6]。またソビエト連邦もこの方針に同意した[6]。イギリスは戦犯裁判に当初乗り気ではなかったが、これらの国々の突き上げによって戦犯裁判について検討せざるを得なくなった。また、日本の占領によってイギリスの軍民が被害を受けているという報告が多く寄せられ始めたことも背景にあった[7]。6月にはチャーチルが連合国戦争犯罪捜査委員会の設置をアメリカに示唆し、7月には閣議でこの方針を承認するとともに、戦争犯罪人の扱いに関する内閣委員会を設置することを決定した[6]。 この討議では、外相アンソニー・イーデンと大法官ジョン・サイモンが国際法廷による裁判に反対意見を表明している[6]。
1942年10月7日、ルーズベルト大統領とサイモン大法官はそれぞれ、連合国戦争犯罪捜査委員会の設置と、戦犯裁判のためのあらゆる証拠を収集することを表明した[6]。しかし第一次世界大戦後のライプツィヒ裁判の失敗から、具体的な戦犯裁判には米英は消極的であったこと、さらにソビエト連邦の裁判参加問題もあって、具体的な決定はなかなか行われなかった[6]。ソビエト連邦は自国の構成共和国、とくにバルト三国に設置された社会主義政権を代表として認めるよう要求し、イギリスはこの要求を拒否した[8]。ソビエト連邦は即時の戦犯裁判開始を求めていたが、イギリスは捕虜となっている将兵が報復されることを怖れ、大半の戦犯裁判は戦争中には行われなかった[9]。1943年10月20日からロンドンで開催された17カ国会議によって連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)の設置が決まった。11月1日にはモスクワ宣言が発表され、局地的な戦争犯罪被告人については被害国で裁くものの、国家・軍・ナチ党の指導者の裁判については今後決定されるとされた。
UNWCCは1944年1月11日に第一回正式会合を行い、まず何が戦争犯罪であるかの討議を開始した。この討議の中で、「戦争という犯罪」や、従来の戦争犯罪の枠に収まらない残虐行為(ナチス・ドイツが行ったリディツェ・レジャーキ村の殲滅行為など)も裁判の対象に加えるべきであるという主張が行われた。10月3日、UNWCC総会は「戦争犯罪人裁判のための最高司令官による混合軍事法廷設立を支持する勧告」を賛成8、反対4で採択した[10]。この勧告では文民による国際法廷の開催と、明文化された条約の他に、「文明諸国民の間で確立した慣習、人道の法、ならびに公衆の良心の命ずるところから由来する諸国家の法の諸原理」「法として認められた一般的な実践の証拠としての戦争の国際的な慣例」をも根拠とするべきであるとしており[11]、「人道に対する罪」は含まれていたものの、「平和に対する罪」は含まれていなかった[12]。UNWCCは実際の裁判運営についてはイギリス外務省に一任するとしていたが、イギリス政府はUNWCCの勧告の多くに拒否反応を示した。イギリス政府は戦争犯罪については従来の狭い定義を用いるべきであると考えており、ドイツ国内におけるユダヤ人に対する迫害(ホロコースト)を対象に加えることにも反対し、戦後成立するドイツ政府に裁判を任せるべきと回答した[13]。アメリカ国務省も「人道に対する罪」を対象とすることには反対しており[14]、主要戦犯裁判については消極的であった[15]。
しかしヘンリー・モーゲンソー財務長官は1944年7月にヨーロッパから帰還すると、アメリカ政府の対応がドイツに対して寛大すぎると非難を行うようになった[16][17]。モーゲンソーはナチス戦犯のリストを作り、これら戦犯を即決で銃殺刑に処するよう主張するとともに[17]、ドイツが犯した文明に対する犯罪を裁判で裁くよう主張した[18]。アメリカ政府内でモーゲンソーの意見が影響力を持つようになると、陸軍長官ヘンリー・スティムソンは危機感を抱くようになった。スティムソンはモーゲンソーの方針がかえって新たな戦争の原因となると考え、全てのナチス指導者を裁判で裁くよう主張した[19]。9月25日のケベック会談でモーゲンソーは戦犯の即時射殺をルーズベルトとチャーチルに提案し、両首脳は一時これを了承している[19][20]。ところがモーゲンソーの戦後ドイツ統治計画「モーゲンソー・プラン」がマスコミからの非難を受けると、ルーズベルトとモーゲンソーの関係は冷却化し、モーゲンソーの影響力は低下していった[19]。こうしてアメリカ政府内での戦犯裁判問題については陸軍省が主導権を握ることになった[19]。
9月15日、マレイ・バーネイズ(Murray C. Bernays)陸軍中佐は、「ヨーロッパの戦争犯罪人の裁判」についての覚書を作成した。この覚書では、戦争以前にドイツが自国民に対して犯した犯罪を裁くことや、「戦争法規に反して殺人、テロリズム、平和的民衆の破壊を犯した共同謀議(conspiracy)」を裁くよう提案している[19][21]。「共同謀議」論は、従来の戦争犯罪に収まらない組織的系統的な残虐行為、いわゆる「人道に対する罪」や、従来の戦争犯罪を行った国家の最高指導者や各級の指導者を裁くために導入されたものであり[22]、具体的にはナチ党と親衛隊、突撃隊、ゲシュタポを含む国家と党の代理人を訴追するためのものであった[21]。スティムソンは従来自国民に対する犯罪を加えることには反対していたが、バーネイズの見解に同意した。11月9日の陸軍・海軍・国務省首脳会議では共同謀議論の採用と、国際条約に基づく国際法廷の開催が決定されたが、侵略戦争開始についてはなおも検討が加えられることになった[23]。司法省や国務省法律顧問は共同謀議論、そして侵略戦争を犯罪とすることについて批判したが、マルメディ虐殺事件が報道されたこともあって、次第にナチスに対する懲罰意見が強くなり始めた。年末には陸軍法務部長室内に戦争犯罪局が設置され、研究が開始された[24]。1945年1月4日、ルーズベルト大統領は「不戦条約違反の侵略戦争開始」を告発に含めるべきであるという覚書に署名し、1月22日には共同謀議論の採用、侵略戦争開始の訴追等が陸軍・海軍・国務省三長官の間で合意された[25]。4月にはハリー・S・トルーマン大統領がこの三長官合意を採用し、アメリカ政府の戦犯訴追方針が固まった[25]。その後大統領側近のサミュエル・ローゼンマン、司法長官フランシス・ビドル、ロバート・ジャクソンらが中心となり、戦犯裁判の基本造りが開始された[15]。
イギリス政府とアメリカ政府の協議が始まったが、イギリス政府は戦犯裁判に難色を示していた。しかし、ナチス政府が崩壊し、総統アドルフ・ヒトラーが自殺すると、イギリス政府は反対方針を取り下げ、裁判を承諾した。これにはヒトラーが法廷で演説するという事態が避けられたことも一因となっている[25]。
戦犯裁判開催は定まったが、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦・フランスの臨時政府は、中小国が参加するUNWCCを裁判に関与させず、自らが裁判の主導権を握る動きを見せ始めた[26]。UNWCCはこれに抵抗しようとしたが、8月8日には4大国間で国際軍事裁判所憲章(ロンドン憲章)が成立し、4大国による戦犯裁判は規定方針となった[27]。ロンドン憲章においては「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」、そしてそれらを犯そうとする「共同謀議」の4点を裁判所の管轄とすることになり、この点では同憲章によって設立された「極東国際軍事裁判」とも共通していた。「人道に対する罪」の導入については、特にロバート・ジャクソンの役割が大きかったと見られている[1]。
裁判官
判事は連合国の主要国のうち、ドイツと直接戦ったイギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4か国からそれぞれ2名ずつ選ばれた。
- ジェフリー・ローレンス(Geoffrey Lawrence、裁判長、イギリス正判事)
- ノーマン・バーケット(イギリス副判事)
- フランシス・ビドル(Francis Biddle、アメリカ正判事)
- ジョン・J・パーカー(John J. Parker、アメリカ副判事)
- アンリ・ドヌデュー・ド・ヴァーブル(フランス正判事)
- ロベール・ファルコ(フランス副判事)
- イオナ・ニキチェンコ(ソ連正判事)
- アレクサンドル・ヴォルチコフ(Alexander Volchkov、ソ連副判事)
被告人
被告となったのは24名の「主要戦犯」(英語: Major War Criminal)であり、うち2名が審理中に死亡、もしくは除外された[28]。高齢を理由に免訴されたグスタフ・クルップに代わって息子のアルフリート・クルップを被告に加える動きがあり、米仏ソ三国は賛成したが、イギリスは反対し、裁判所も被告と認定しなかった[29]。
ドイツの最高指導者だった総統アドルフ・ヒトラー、最高幹部の宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスやSS全国長官ハインリヒ・ヒムラーらはすでに自殺しており、起訴することが不可能であった。また、ナチ党最大の実力者であった党官房長マルティン・ボルマンも行方不明のまま(後年になって自殺していたことが判明)であり、起訴はしたものの欠席裁判(死刑判決)となった。
その点で、戦争の全容解明に困難があったとともに、「自分はヒトラーや上官の命令に従って行動したまでで、責任はない」という被告の弁解が横行することになった。また、国民啓蒙・宣伝省の幹部だったハンス・フリッチェの起訴は自殺したゲッベルスの「身代わり」としての意味合いが強く、フリッチェは結局、この裁判では無罪判決を受けている。
氏名 | 共同謀議への参加 | 平和に対する罪 | 通例の戦争犯罪 | 人道に対する罪 | 量刑 | 地位 | 付記 |
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マルティン・ボルマン | 起訴 | 不起訴 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | ナチ党官房長。 | ナチ党における事実上最大の実力者。裁判当時は行方不明のため、欠席裁判が行われた(ベルリンの戦いの中で自殺したことが1972年に確認された)。 |
カール・デーニッツ | 起訴 | 有罪 | 有罪 | 不起訴 | 禁固10年 | 1943年から海軍総司令官、海軍元帥。アドルフ・ヒトラーの後継大統領。 | Uボートによる通商破壊戦の企画実行者。 |
ハンス・フランク | 起訴 | 不起訴 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | ドイツ法律アカデミー総裁、無任所相、ポーランド総督。 | |
ヴィルヘルム・フリック | 起訴 | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | 内務大臣→ベーメン・メーレン総督。 | |
ハンス・フリッチェ | 起訴 | 起訴 | 起訴 | 不起訴 | 無罪 | 宣伝省幹部(新聞局長→ラジオ放送局長) | 人気のあったラジオニュースキャスター。 |
ヴァルター・フンク | 起訴 | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 終身刑 | 経済大臣・ライヒスバンク総裁 | 1957年5月16日に病気により釈放。 |
ヘルマン・ゲーリング | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | 空軍総司令官、国家元帥、航空大臣、四カ年計画責任者 | ナチ党のNo2、ヒトラーの自殺直前まで後継指名者。死刑執行前日に服毒自殺。 |
ルドルフ・ヘス | 有罪 | 有罪 | 起訴 | 起訴 | 終身刑 | ナチ党総統代理、無任所大臣 | 1941年、イギリスへ和平交渉のために単独飛行し、イギリスで捕虜になっていた。 |
アルフレート・ヨードル | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | 国防軍最高司令部作戦部長、上級大将 | 1953年、夫人の控訴に応じた西ドイツの裁判所はヨードルの無罪を宣告したが、アメリカはこの判決の受け入れを拒否した。 |
エルンスト・カルテンブルンナー | 起訴 | 不起訴 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | 国家保安本部長官 | 秘密警察の最高責任者。ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の最高幹部。 |
ヴィルヘルム・カイテル | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | 国防軍最高司令部総長、陸軍元帥 | |
グスタフ・クルップ | 起訴 | 起訴 | 起訴 | 起訴 | 重工業企業家クルップ家の当主 | 体力的に裁判に耐えられず訴追されなかった。 | |
ロベルト・ライ | 起訴 | 起訴 | 起訴 | 起訴 | ドイツ労働戦線指導者、無任所大臣 | 1945年10月25日、公判前に自殺。 | |
コンスタンティン・フォン・ノイラート | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 禁固15年 | 第二次世界大戦開戦前の1938年までの外務大臣→ベーメン・メーレン総督 | 1954年11月6日に病気により釈放。 |
フランツ・フォン・パーペン | 起訴 | 起訴 | 不起訴 | 不起訴 | 無罪 | ヴァイマル共和国時代末期のドイツ首相→ヒトラー内閣の副首相→駐オーストリア大使→駐トルコ大使 | |
エーリヒ・レーダー | 起訴 | 有罪 | 起訴 | 不起訴 | 終身刑 | 1943年まで海軍総司令官。海軍元帥 | ヒトラー政権に海軍として協力。1955年9月26日に病気により釈放。 |
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | 1938年から外務大臣 | 日独防共協定並びに日独伊三国同盟、独ソ不可侵条約の立役者。 |
アルフレート・ローゼンベルク | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | ナチ党外交政策全国指導者。東部占領地域大臣 | 支配人種説を標榜する、『二十世紀の神話』の著者。 |
フリッツ・ザウケル | 起訴 | 起訴 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | 労働力配置総監・テューリンゲン大管区指導者 | 捕虜や住民などの強制連行・強制労働の責任者。 |
ヒャルマル・シャハト | 起訴 | 起訴 | 不起訴 | 不起訴 | 無罪 | ライヒスバンク総裁→経済大臣 | いわゆるナチス前期経済回復の立役者。1944年からはヒトラー暗殺計画に連座し、収監 |
バルドゥール・フォン・シーラッハ | 有罪 | 不起訴 | 不起訴 | 有罪 | 禁固20年 | 1940年までヒトラー・ユーゲント指導者(ナチ党青少年全国指導者)→ウィーン大管区指導者 | |
アルトゥル・ザイス=インクヴァルト | 起訴 | 有罪 | 有罪 | 有罪 | 死刑 | オーストリア・ナチス指導者(アンシュルスの立役者)。オーストリア内相→同首相→独墺合邦後のオーストリア(オストマルク州)国家代理官(総督)→ポーランド総督府副総督→オランダ総督 | |
アルベルト・シュペーア | 不起訴 | 不起訴 | 有罪 | 有罪 | 禁固20年 | 建築家、1942年から軍需大臣 | ヒトラーと個人的にも親しく、総統官邸や国家党大会広場の設計者。 |
ユリウス・シュトライヒャー | 起訴 | 不起訴 | 不起訴 | 有罪 | 死刑 | 反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー』の発行者。1940年までフランコニア大管区指導者 |
裁判の経過
首席検察官となったロバート・ジャクソンは、検察官の任務を二つの段階にわけた。
第一段階は「ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)、ゲシュタポ、その他の組織が一味となった全般的共同謀議を立証すること」であるとし、第二段階を共同謀議の一員である被告を特定することであるとした[30]。この認識に基づいたロンドン憲章により、以下の6つの「犯罪組織(犯罪集団)」が訴追対象となった。すなわち、ナチ党指導部、内閣、親衛隊(SS)、突撃隊(SA)、「ゲシュタポおよびSD(親衛隊保安部)」、さらには「参謀本部および国防軍最高司令部(軍指導部)」であった。裁判にはアーネスト・ヘミングウェイ、エーリカ・マンと言った内外の著名人がレポーターとして傍聴に訪れ、国際的な関心も極めて高かった[31]。
1946年9月30日の判決では、帝国内閣と軍指導部[32]、そして突撃隊は有罪とされなかった[28]。この認定は1945年12月10日に連合国管理理事会によって発令されていた管理理事会法律第10号によって、「犯罪組織」の構成員を対象に、各占領軍政府が訴追を行える根拠となった[33]。ただしこの判決では、その組織が犯罪的組織であると認識していなかった者、国家による強制によって構成員となった者については戦犯から除外する規定があった[34]。
死刑は1946年10月16日に絞首刑によって執行され、禁固者は1947年、ベルリン郊外のシュパンダウ刑務所へ移送された。
ニュルンベルク裁判の後、この裁判の被告に次ぐ立場にある戦争犯罪人、そして「犯罪組織」の構成員に対する二種類の国際裁判が計画されていた[35]。フランスとソ連はこの裁判開催を望んでいたが、アメリカは消極的であり、裁判の終結まで開催決定は先送りされ、結局開催されなかった[36]。ロバート・ジャクソンは4カ国語の通訳は手間がかかり、経費がかさむと理由を挙げているが、実際には連合国間による摩擦を嫌ったアメリカが、単独での裁判を望んだためと見られている[36]。その後、ドイツ国内の各国占領地域でそれぞれ個別の非ナチ化裁判が行われ、ニュルンベルク裁判で無罪となった3人もそれぞれ別の有罪判決を受けた。またニュルンベルクを占領していたアメリカ軍が、ニュルンベルクにおいて行った裁判群は特に「ニュルンベルク継続裁判」と呼ばれる。
裁判に対する評価の論点
事後遡及の観点
「平和に対する罪(侵略戦争)」、「人道に対する罪」は国際条約などで完全に成立したわけではなく、法の不遡及、罪刑法定主義の立場をとる欧州大陸法的な立場からは「法廷による法の創造」が行われた「事後法」による裁判との批判が当時から現在まで根強くある。裁判の弁護人を務めたヤールライスは、裁判について、道徳や人類の進歩の名に於いて要求されているべき法の問題ではなく、現行法の問題と扱うべきであるとして批判し、さらに、ニュルンベルク裁判規約についても、原則的に新しいものを設定することとなり、革命的であるとの見解を表明した。[37]。
この批判は戦時中から存在したが、刑法学者シェルドン・グリュックは「侵略戦争の遂行は不法である」「国家の名において犯された犯罪行為で政府構成員の個人の罪を認めることは何等遡及的ではない」と反論している[38]。しかしグリュックも侵略戦争の罪に疑義が呈されることは認識しており、より疑義の少ない「通常の戦争犯罪」だけでなく、侵略戦争の罪を加えて複雑化したのはなぜかという疑問を呈している[39]。裁判直後、バイエルン州首相でもあった法律家ハンス・エーハルトは、1939年の段階で侵略戦争の罪で裁くことは不法であるとしながらも、これらの観点が導入されたのは政治的な配慮によるものであるとし、将来の戦争抑止という意味で一般的な正義の感覚を代弁しているとしたうえで、「これほどまでのおぞましい犯罪者集団を罰するのに、既存の法概念では明らかに不充分と思われたからだ」としている[24]。首席検察官ロバート・ジャクソンはこのエーハルトの意見について同意できない点があるとしながらも、「これまでに出たおなじみの批判にくらべると、ずっと有益な議論を示していると思う」としている[24]。
戦争・人道犯罪抑止の観点
ニュルンベルク裁判がホロコーストをはじめとする人道的事件に対して、充分な措置を行えなかったという批判も存在している。マイケル・マラスやジェフリー・ロバートスンはホロコーストやポライモス等を正当化したナチズムを断罪した裁判として高く評価しているが、ローレンス・ダグラスやP.ノヴィックはホロコーストに注意を喚起するために、裁判は充分な役割を果たさなかったと批判している[1]。
戦勝者による裁判の中立性
この軍事法廷は「勝者の連合国によって敗者となったドイツの戦犯を裁く」という異例な形式の裁判であった。ウィリアム・ボッシュ(William Bosch)はスティムソンらのアメリカ首脳の戦犯裁判方針を、道徳主義的・法遵守主義的傾向を見、「同じ事でも枢軸側がやれば悪、連合国側がやれば必要悪」とする「ダブルスタンダード」の傾向があると指摘している[24]。リチャード・マイニアは、連合国の正当化に裁判が利用されたという面を指摘している[40]。戦後を通じて「勝者である連合国による断罪」という政治的行為が、「侵略戦争」や人道に対する罪を非難する動きに、否定的な影響を与えたのではないかと指摘する声が存在している[41]。
またニュルンベルク裁判における全ての裁判官がアメリカ、イギリス、ソ連、フランスという戦勝国だけから出ていたため、これが戦勝国による軍事裁判であることを考慮したとしても、裁判の中立性を著しく欠いていた。これに対して、極東国際軍事裁判では比較的中立的な立場に立てたインドからも判事が召請されており、ラダ・ビノード・パール判事が個別意見として全被告人を無罪とする意見を出している。
ニュルンベルク裁判アメリカ検事団長のロバート・ジャクソン連邦最高裁判事の上司で、当時アメリカ連邦最高裁長官だったハーラン・フィスケ・ストーン判事 (Harlan Fiske Stone) は、雑誌『フォーチュン』の記者とのインタビューで次のように答えている。
ニュルンベルク裁判は、戦勝国が敗戦国に正当性を押し付けた裁判でした。つまり、敗戦国が侵略戦争を行ったというわけです。しかし私は今でも残念に思いますが、ニュルンベルク裁判は法的には全く根拠を欠いた裁判でした。それは裁判ではなく、戦勝国の政治行動だったというのが、最も正しい言い方でしょう。
ニュルンベルク裁判はコモン・ロー〔不文法〕、あるいは憲法の装いの下で罪人を裁いたのであり、これが私を考え込ませています。私たちはある命題を支持してしまったようです。つまり、いかなる戦争においても、敗戦国の指導者は戦勝国によって処刑されねばならない、という命題です。
また、尋問官その他のスタッフには欧州からの亡命者が多く、そのために裁判は「復讐裁判」的な色彩を一層強くしたという指摘がある。ニュルンベルク裁判の判事を務めたが、裁判の手続きを批判して辞任したアメリカのウェナストラム・アイオワ州最高裁判事(Charles F. Wennerstrum, 和訳ではヴェンナーストラムとも表記されている)は、こう述べている。
今日知っているようなことを数ヶ月前に知っていたとすれば、ここ(ニュルンベルク)にやってきたりはしなかったであろう。明らかに、戦争の勝者は、戦争犯罪の最良の判事ではなかった。法廷は、そのメンバーを任命した国よりもあらゆる種類の人類を代表するように努めるべきであった。ここでは、戦争犯罪はアメリカ人、ロシア人、イギリス人、フランス人によって起訴され、裁かれた。彼らは、多くの時間と努力、誇張した表現を使って、連合国を免責し、第二次大戦の唯一の責任をドイツに負わせようとした。裁判の民族的な偏りについて私が述べたことは、検事側にも当てはまる。これらの裁判を設立する動機として宣言された高い理想は、実現されなかった。検事側は、復讐心、有罪判決を求める個人的な野心に影響されて、客観性を維持することを怠った。将来の戦争に歯止めをかけるためになるような先例を作り出す努力も怠った。ドイツは有罪ではなかった。ここでの全体的な雰囲気は不健康であった。法律家、書記、通訳、調査官はつい最近にアメリカ人となった人々(亡命したユダヤ系住民のこと)が雇われていた。これらの人々の個人的な過去は、ヨーロッパへの偏見と憎悪に満ちていた。裁判は、ドイツ人に自分たちの指導者の有罪を納得させるはずであったが、実際には、自分たちの指導者は凶暴な征服者との戦争に負けただけだと確信させたにすぎなかった。証拠の大半は、何トンもの捕獲資料から選別された資料であった。選別を行なったのは検事側であった。弁護側がアクセスできたのは、検事側がふさわしいとみなした資料だけであった。…また、アメリカ的正義感からすれば嫌悪すべきなのは、検事側が、2年半以上も拘禁され、弁護士の立会いもなく繰り返し尋問を受けた被告による自白に頼っていることである。控訴権もないことも正義が否定されているとの感を受ける。…ドイツ国民は裁判についての情報をもっと多く受けとるべきであり、ドイツ人被告には国連に控訴する権利を与えるべきである。 — "Nazi Trial Judge Rips 'Injustice,'" Chicago Tribune, Feb. 23, 1948
免責された戦勝国の犯罪
ニュルンベルク裁判の大きな問題点はドイツ側の(戦勝国の憶測によるものも含む)「犯罪」を一方的に断罪したが、戦勝国側の「犯罪」は完全に免責するという基準を持っていたことである[42]。そもそも大戦の原因となったポーランドによるダンツィヒ領の占有問題、1939年9月3日のフランス、イギリスによるドイツへの一方的な宣戦布告は断罪されなかった。また、1939年9月ドイツが西からポーランドへ侵攻した一方で、同じ時期にソ連も東からポーランドに侵攻しており、さらに1939年11月のフィンランドとソ連の冬戦争では、ソ連は侵略の罪状で国際連盟から追放されているにもかかわらず、ニュルンベルク裁判では、ドイツが「平和に対する罪」で告発された一方で、ソ連の「平和に対する罪」は不問に付された。連合軍によるドイツへの無差別爆撃(ドレスデン爆撃などをはじめとして、日本本土への爆弾投下量の10倍にも当たる150万トンもの爆弾がドイツ本土に投下され、少なくとも30万人の非戦闘員が犠牲になった)や、ソ連軍の侵攻によってドイツのソ連占領地区で起きた、ソ連兵による強姦・暴行・殺人事件も裁判では不問とされた。
終戦前後のアメリカ軍によるドイツ人捕虜への虐待による大量死問題も闇に葬られた。ジェームズ・バクー (James Bacque) の『消えた百万人』では以下のような指摘がある。
戦争終結直前の1945年4月以降、野ざらし、不衛生な環境、病気、飢餓がもとで、膨大な数のあらゆる年齢層の男たちに加えて、女子供までが、ドイツのフランスの収容所で死んだ。その数は、確実に80万を超えたし、90万以上であったこともほぼ確実であり、100万を越えた可能性すら十分にある。捕虜の生命を維持する手段を持ちながら、あえて座視した軍によってこの惨事は引き起こされた。救恤団体の救援の手は米軍によって阻まれた。
他に連合軍、ソ連の戦争犯罪には、戦時国際法に違反したレジスタンス(パルチザン)活動の積極的な支援がある[43]。
ロンドン協定への批判
1945年8月8日、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝連合国はロンドン協定 (London Charter of the International Military Tribunal) を定めて、裁判の法的枠組みを設定した。しかし、近代刑法における原則である法の不遡及が守られず、被告の控訴は否認され、恣意的な裁判審理手続きを定めた裁判は、近代裁判とはかけ離れていた。
また、当裁判の法的根拠であるロンドン協定には、アメリカ検事ジャクソン、フランス予備裁判官ファルコ、ソ連検事ニキチェンコが署名している。このことは、ニュルンベルク裁判が、立法者、検察官、裁判官を兼ねることを禁じた「司法権力の分割」という根本的な原則からして大きく逸脱していたことを意味している。
人道に対する罪や平和に対する罪は、法廷が設置される以前には存在しておらず、間に合わせに作り出され、法的な基準に反して、遡及的に適用された。
- 第13条は法廷は独自の裁判審理手続きを定めると決定している[44]。
- 第18条は国際軍事法廷の本質を明確に表している。
- 「第18条 起訴事実に関係のない案件および陳述は、その種類のいかんを問わず、一切除外する」[45]。弁護側に許されているのは、起訴状にある罪状についてのみ弁護活動ができるだけで、そもそもの戦争の原因となったドイツ経済を崩壊し、ドイツ領土を周辺国に割譲させ、ヒトラーを台頭させたヴェルサイユ条約に対する批判など、ドイツに有利であり、連合国に不利な弁護活動は禁止された。
- 第19条により証拠の採用基準がまったく存在しない。
- 「第19条 法廷は、迅速かつ非法技術的手続を最大限に採用し、かつ、適用し、法廷において証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するものである。」[46]
- 第21条により連合国当局やソ連、共産国家の人民委員会が文書、報告書、記録で確定した全てのことは、顕著な事実と認められる。
- 「第21条 法廷は、「公知の事実」については、証明を求めることなく、これを法廷に事実と認める。法廷は、戦争犯罪捜査のため同盟諸国において設立された委員会の決議および文書を含む、連合諸国の公文書および報告書並びにいずれかの連合国の軍事法廷またはその他の法廷の記録や判決書をも、同様に法廷に顕著な事実と認める。」[47]
- 第26条は控訴を全く認めていない[48]。
アメリカ合衆国最高裁・裁判長ハーラン・フィスケ・ストーン判事は、ニュルンベルク裁判は連合国による集団リンチであると述べている。
検事ジャクソンは、ニュルンベルクで高度な集団リンチ (high-grade lynching party in Nuremderg) を行なっている。彼がナチスに何をしているのかについては気にかけていないが、彼が法廷と審理をコモン・ローにしたがって運営しているという振りをしているのを見ることは耐え難い。 — Alpheus T. Mason, Harlan Fiske Stone: Pillar of the Law, Viking, New York 1956, p.716.
冤罪
ニュルンベルク裁判では、ドイツ側の戦争犯罪が告発されたが、その中には現在冤罪であったことがはっきり分かっているものもある。
カティンの森事件
カティンの森事件は、今日ではロシア政府も当時のソ連が虐殺を実行したと認めている事件であるが、ニュルンベルク裁判当時は、ソ連検事は虐殺の責任をドイツに押し付けようとした。1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について討議が行われた。しかしこの告発は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[49]。
「絶滅収容所」
ドイツ国内には存在しなかった「絶滅収容所」
ダッハウ強制収容所などドイツ国内にあったとされていた大量殺害を行うためのガス室を備えた絶滅収容所の存在も現在では否定されている。「ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンヴァルトでも、ユダヤ人その他の囚人は、ガス処刑されなかった。ダッハウのガス室は『完成しておらず』稼働していなかった」とされる[50]。
ニュルンベルク裁判で、大量ガス殺戮の現場証拠として法廷に提出されたのは、アウシュヴィッツ収容所の物的証拠ではなくダッハウ収容所のシャワールームの水栓であった。
裁判では、ダッハウ収容所はシャワー室を改造したガス室の存在した絶滅収容所だと断定され、絶滅収容所はドイツ各地に存在したとされた。反対尋問は許されず600万人のユダヤ人虐殺が認定された。
しかし現在では、イスラエルの学者でも、ダッハウ収容所で大量ガス処刑が行なわれたという者はいないし、ドイツ国内に絶滅収容所があったという者もいない。ナチの戦犯追及に尽力したユダヤ人活動家、サイモン・ヴィーゼンタールも、ドイツ国内には絶滅収容所はなかったと述べている。
現在、絶滅収容所であったとされているのは、ソ連軍が占領して調査した東ヨーロッパの収容所である。これらの収容所は戦後しばらく、ソ連が立ち入りを禁止したために、西側の調査団は調査を許されなかった。そのため、ソ連が解放した収容所の実態についての議論が尽きない状態になっている。歴史修正主義、マルコポーロ事件も参照。
ソ連による告発とプロパガンダ
ソ連検事による「人間石鹸」のねつ造
ニュルンベルク裁判では、ソ連検事が「人間の死体から石鹸を作ることが行なわれた」と告発し、裁判の判決も「犠牲者の死体の脂肪から石鹸を商業生産する試みがなされた」と断定した。だが、この「人間石鹸」は、戦時中の連合国の反ドイツ宣伝から出たものであり、その宣伝によれば、ドイツはユダヤ人の死体から石鹸を作っており、その証拠にユダヤ人ゲットーに配給されている石鹸には「RJF」(Reines Jüden Fett, ユダヤ人の純粋脂肪)というイニシャルが刻まれているというのである。しかし、この「RJF」は、戦時中に石鹸と洗濯用品の生産・配給に責任を負った機関「帝国産業油脂洗剤局」(Reichesstelle für Industrielle Fett und Waschmittel) の略語「RIF」の誤読であった。
今日では、正統派の「ホロコースト史家」も脂肪から造られた「人間石鹸」の実在を否定している。マイクル・シャーマーはなぜ人はニセ科学を信じるのか』において、「人油石鹸については化学的に否定されている。生体内で作られる脂肪酸の炭素鎖の長さは偶数になるはずだが、人油石鹸と言われているものを調べてみると奇数のモノの比率が高い。石油から合成している証拠である」と述べている。
第一次大戦時にすでに「ドイツの死体製油工場」について反ドイツ・プロパガンダ宣伝が既に行われており、その内容は「ドイツは人間の死体から脂肪をとり石鹸を作っている」という第二次世界大戦で行なわれた反ドイツ宣伝とほぼ同じ内容であり、このプロパガンダがそのまま利用された[51]。
ユダヤ系のホロコースト研究家ラウル・ヒルバーグ教授も、カナダでのツンデル裁判で「手短に答えれば、私は人間の脂肪から石鹸がつくられた、ということを信じていない」と述べている。またホロコースト史家のイスラエル・ガットマンは「今日ではそれが大規模に行われたことはない」と述べている。なおホロコースト否定派はどちらも否定する傾向があり、そうした者は思想犯として訴追されている。
アウシュヴィッツ収容所の犠牲者数についての誇張
1945年1月27日、ソ連軍がアウシュヴィッツ収容所に到達し、約7,500名の収容者がソ連兵士によって解放された。ニュルンベルク裁判でソ連検事は、アウシュヴィッツで「400万人」が虐殺されたと告発した。アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスも裁判で「250万人がガス室で殺され、そのほか50万人が飢えと病気で死亡した」と証言している。しかし、現在ではこの人数は公式に否定され、ヘスの裁判の際には最大でも150万人を超えないと認定された[52]。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、ソ連崩壊後の1995年に「400万人」から「150万人」に改められた。世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。これらの数字についても疑問視している研究家もいる。
- ラウル・ヒルバーグ「約100万人のユダヤ人が殺された。25万以上の非ユダヤ人が死亡した」(1985年)。ユネスコの数字とほぼ同じ。
- ジェラルド・ライトリンガー (Gerald Reitlinger)「80万 - 90万人」(1953年)
- ジャン=クロード・プレサック (Jean-Claude Pressac)「63万人から71万人」「そのうち47万人から55万人がガス処刑されたユダヤ人であった」(1994年)
- フリツォフ・マイヤー (Fritjof Meyer)「50万人」「そのうちガス処刑による犠牲者は35万人であった」(2003年)
アーサー・R・バッツ (Arthur R. Butz) 教授らホロコースト修正主義者たちはもっと少ない数字を挙げている。アウシュヴィッツの死者の総数は「15万に達するが、そのうち約10万がユダヤ人であった」、大半のユダヤ人は殺されたのではなく、とくにチフスの疫病によって死んだのであり、殺虫剤ツィクロンBはガス処刑にではなくチフスを媒介するシラミを駆除するために使用されたと主張している。ドイツにおいてこのような論調は、1995年に制定されたドイツ刑法130条をもとに厳しく規制されており、おもに修正主義者の著作が繰り返し焚書処分にされている。さらに、実際に毎年10,000名から15,000名のドイツ人が思想犯として訴追されている[53]にもかかわらず、このような議論はますます激化している。
A・J・P・テイラーによる裁判資料批判
裁判で証拠とされた資料文書について、イギリス人の歴史学者A・J・P・テイラーはこのように述べている[54]。
これらの資料文書は厖大で立派にみえるけれども,歴史家が使用するには危険な資料である。これらの文書はあわただしく殆んど手当たり次第に,法律家の訴訟事件摘要書を根拠づけるために蒐集されたものである。これは歴史家のとる方法ではない。法律家は訴訟を目的とするが,歴史家は状況を理解しようとする。法律家を納得させる証拠はしばしばわれわれを満足させるものではないし,われわれの方法は彼らには著しく不正確にみえるようである。だが法律家ですら,今日ではニュールンベルクでの証拠について疑念を抱いているにちがいない。文書は被告人の戦争犯罪を証明するためだけでなく,原告である諸大国の戦争犯罪を隠すためにも選択されたのである。ニュールンベルク法廷を設立した四大国のいずれかが単独で裁判を行なったとしたら,中傷はさらにひどかったろう。西欧諸国は独ソ不可侵条約をもちだしただろうし,ソ連はミュンヘン会談やいかがわしい取引をもちだして報復したであろう。四大国に法廷が委ねられたため,第一に実行可能な方法はドイツの単独責任を前もって仮定することであった。評決は裁判に先行し,文書はすでに決まっている結論を証拠立てるために提出されたのである。 — A・J・P・テイラー『第二次大戦の起源』吉田輝夫訳、中央公論社、31-32頁。
被告に対する暴行や弁護団への不法行為
ニュルンベルク裁判での証拠採用基準は近代の裁判基準から大きく逸脱しており、通常の裁判でならば、信頼できないものとして却下されるような伝聞証言が、犯罪を立証する証拠として採用され、弁護団には裁判資料を閲覧する機会、検事側の証人に対する反対尋問の機会がほとんど与えられず、その一方で弁護側の証人は様々な脅迫を受けて、出廷を妨げられたり、退廷させられたりしたからだという。もっと問題であるのは、被告が逮捕・尋問の過程で脅迫ひいては拷問を受け、自白を迫られていることである。アウシュヴィッツ収容所の所長であったヘスも、尋問の際にリンチを受けている。
ドイツ近代史の専門家であり、ミュンヘン大学教授でもあったヴェルナー・マーザー博士 (Werner Maser) はこの問題点について、こう述べている[55]。
弁護団の証人や援助者は、ときどき頃合いをみて、また執拗に脅迫を受けたりして、強引に出廷させてもらえなかったり、あるいは退廷させられたりすることも珍しくなく、さらには自分たちの声明を検閲されたり、押収されたりしたうえで、検察側の証人にされたりした。1946年5月になってやっと刑務所入りをしたオズワルド・ポール (Oswald Pohl) は、アメリカおよびイギリス役人から尋問を受ける際、椅子に縛りつけられ、意識を失うほど殴りつけられ、足を踏まれ、ついにワルター・フンク (Walther Funk) の有罪を証明するものを文書で出すと約束するまで虐待された。
これに反して検察側によって証人やその文書の申し立てを適切とみなされた時はいつも、それらは法廷では自由に使用することができた。しかし検察側の一定の証人たちが、ややもすると、弁護団側の反対尋問にもちこたえられそうもないと判断されると、検察側や法廷は単なる宣誓供述書で満足するのだった。この種の宣誓供述書は、裁判の経過中に、数千通も書かれたのであった。」 — ヴェルナー・マーザー著、西義之 訳『ニュルンベルク裁判』
ダッハウ戦争犯罪裁判における暴行・不法行為
ダッハウ裁判やマルメディ裁判では,自白を引き出すための拷問は一般的であったという。弁護団から、ドイツ被告が公正な裁判を受けておらず、取調べで拷問が行なわれているという告発を受け取った、ダッハウ戦争犯罪裁判調査委員会委員アメリカ・ペンシルベニア州判事ヴァン・ローデンは,その調査報告書の冒頭で「ドイツのダッハウでの合衆国法廷のアメリカ人尋問官は,自白を手に入れるために次のような方法を使った。すなわち、殴打と野蛮な足蹴。歯を折ること、顎を砕くこと。偽裁判。独房への拘禁。僧侶の振りをすること。食糧配給の減額制。無罪の約束」と記している[56]。
国際犯罪観への影響
この裁判によって採用された原則は、1947年の国際連合総会で「ニュルンベルク諸原則」として採択された(決議95-1)。この原則で平和に対する罪、人道に対する罪、戦争犯罪が国際的な罪であると初めて明文化されたほか、国際犯罪においては国内法の範囲は無関係であるとし、単に命令を実行した者であったとしても、責任は免れ得ないことなどが定められた[57]。また検察官は最終論告においてユダヤ人の虐殺を「ジェノサイド」と形容し、「ジェノサイド罪」を国際法上の犯罪として位置づけようとする動きの中で、この言葉は法的実効性を持つものと考えられるようになった[58]。
ドイツにおけるニュルンベルク裁判観
ニュルンベルク裁判は戦犯個人、および組織の罪を裁いたものであったが、ドイツという国家自体については裁かれなかった。カール・ヤスパースはナチス・ドイツをナチ党による不法な簒奪によって生成された「不法国家」であるとみなし、ニュルンベルク裁判の被告となったナチス指導者達は政治犯ではなく、刑事犯罪者であると規定した。この考え方はドイツにおけるニュルンベルク裁判観の主流となり、裁判によって個人やナチス組織の罪が追及されたものの、ドイツ国民やドイツ国の「集団的罪」についてはこれを否定する傾向がある[24]。
裁判中にドイツ国民に対して行われた調査によると、裁判で裁かれる各種犯罪について裁判で初めて知ったものの割合は当初三分の二であったが、終盤には80%を超えた[31]。裁判開始の時点では70%の回答者が被告全員が有罪であると考えていたが、判決後には56%に減少している[31]。また50%が判決は正当であると回答している[31]。また西側占領地域で判決後に行われた国際軍事裁判の形式についての調査では、70%が正しいと回答していたが、4年後には70%が正しくないと回答している[31]。これは少数のナチ党指導者を裁いたニュルンベルク裁判に対し、軍や企業と言った身近な組織が裁かれる印象をあたえたニュルンベルク継続裁判への反発があるとみられている[31]。
またドイツの政界では戦犯裁判は「戦勝国による不当な裁き」との認識で語られており[59][60]このため戦後のナチス犯罪の追及において「戦争犯罪」と「ナチス犯罪」を同一視することが障害となったため[61]1960年代には両者は明確に区別されるようになった。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 芝健介 2001, pp. 22.
- ↑ 「戦争犯罪と法」多谷千香子(岩波書店)P.3-4[1]
- ↑ 林博史 2004, pp. 26-27.
- ↑ 4.0 4.1 4.2 林博史 2004, pp. 4.
- ↑ 林博史 2004, pp. 4-5.
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 林博史 2004, pp. 5.
- ↑ 林博史 2004, pp. 5-6.
- ↑ 林博史 2004, pp. 6.
- ↑ 林博史 2004, pp. 6-7.
- ↑ 林博史 2004, pp. 21.
- ↑ 林博史 2004, pp. 23.
- ↑ 林博史 2004, pp. 25.
- ↑ 林博史 2004, pp. 30-31.
- ↑ 林博史 2004, pp. 34.
- ↑ 15.0 15.1 清水正義 2005-05, pp. 191.
- ↑ 林博史 2004-7, pp. 32.
- ↑ 17.0 17.1 清水正義 2005-05, pp. 196.
- ↑ 林博史 2004-7, pp. 52-53.
- ↑ 19.0 19.1 19.2 19.3 19.4 林博史 2004-7, pp. 53.
- ↑ 清水正義 2004-11, pp. 82.
- ↑ 21.0 21.1 清水正義 2009-12, pp. 7.
- ↑ 林博史 2004-7, pp. 54.
- ↑ 林博史 2004-7, pp. 55.
- ↑ 24.0 24.1 24.2 24.3 24.4 清水正義 2005-05, pp. 188-189.
- ↑ 25.0 25.1 25.2 林博史 2004-7, pp. 61.
- ↑ 林博史 2004-7, pp. 62.
- ↑ 林博史 2004-7, pp. 64.
- ↑ 28.0 28.1 清水正義 2009-12, pp. 4.
- ↑ 清水正義 2009-12, pp. 11.
- ↑ 清水正義 2009-12, pp. 1.
- ↑ 31.0 31.1 31.2 31.3 31.4 31.5 芝健介 2001, pp. 29.
- ↑ 守屋純 2005-10-31, pp. 4.
- ↑ 清水正義 2009-12, pp. 5.
- ↑ 清水正義 2009-12, pp. 5-6.
- ↑ 清水正義 2009-12, pp. 10-11.
- ↑ 36.0 36.1 清水正義 2009-12, pp. 12.
- ↑ 小林宏晨「ニュルンベルグ裁判と弁護人ヤールライス」(『政経研究』第43巻4号/日本大学法学会)
- ↑ 清水正義 2005-05, pp. 187.
- ↑ 清水正義 2005-05, pp. 188.
- ↑ 清水正義 2010-12, pp. 33.
- ↑ 清水正義 2005-05, pp. 190.
- ↑ 「しかしニュルンベルクで敗れたドイツを裁く席に座った署名団の一つ、ソヴィエトが――被告たちと同じく―― (ポーランドに対する)侵略戦争を準備し、1939年9月半ばからその戦争を遂行しただけでなく、 さらに加えて1939年12月14日、イギリスとフランスの発議で、ソヴィエトはフィンランド攻撃を理由として すでに国際連盟から追放されていたこと、そしてロンドン協定調印の日、すなわち1945年8月8日、日本に対して宣戦布告を行ったこと――これらはニュルンベルクでは黙殺されてしまった。 ソヴィエトはポーランド、フィンランド、日本に対して明々白々な侵略戦争を行なったが、このことはニュルンベルクでは何一つ疑いをだしはさまれることもなかったし、ついに罪を問われることもなかった」ヴェルナー・マーザー『ニュルンベルク裁判』西義之訳、403-404頁。
- ↑ 「いわゆるパルチザン(レジスタンス)の《栄光の》戦いは、卑劣な殺人以外の何ものでもない。この戦いの発案者こそ真の戦争犯罪人である。フランス人、ベルギー人から、よく引用される憎悪を感じたことはない。むしろ、ドイツ軍と占領地住民の友好な関係をいくども目撃しているのだ。―パルチザンたちが頭をもたげるのは、自分たちに生命の危険がなくなった時に限られている。彼らは戦ったのではなく、ドイツ軍の構成員個人をだまし討ちにしたのだ。軍事的に見た場合、パルチザンの行動はドイツ軍の作戦に何の影響をも及ぼしていない。しかし、この国際法にもとる戦闘の発案者たちのために無関係な住民が、ドイツ軍の報復処置によってひどい目にあったのである。国民間の憎悪は、パルチザンの犯罪的投入によって計画通りあおり立てられ、長期にわたって深まっていった」クルト・マイヤー(元武装親衛隊少将)『擲弾兵―パンツァーマイヤー戦記』
- ↑ 第13条 「裁判所は、訴訟手続に関する規則を作成する。」
- ↑ 第18条 「公判を、起訴事実により提起された案件の迅速な審理に厳密に限定すること。不当な遅延を生ずるような行為をも防止するため、厳重な手段をとり、起訴事実に関係のない案件および陳述は、その種類のいかんを問わず、一切除外すること」
- ↑ 第19条 「法廷は、証拠に関する法技術的規則に拘束されない。法廷は、迅速かつ非法技術的手続を最大限に採用し、かつ、適用し、法廷において証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するものである。」
- ↑ 第21条 「法廷は、公知の事実については、証明を求めることなく、これを法廷に事実と認める。また、法廷は、戦争犯罪捜査のため同盟諸国において設立された委員会の決議および文書を含む、連合諸国の公文書および報告書並びにいずれかの連合国の軍事法廷またはその他の法廷の記録や判決書をも、同様に法廷に顕著な事実と認める。」
- ↑ 第26条 「被告人の有罪及び無罪に関する裁判所の判決には、その理由を付する。判決は、最終であって、再審査を許さない。」
- ↑ 岡野詩子 2012-11, pp. 190.
- ↑ Die Zeit, Aug. 19, 1960
- ↑ 池田徳真『プロパガンダ戦史』中公新書,1981年
- ↑ 芝健介 2001, pp. 38.
- ↑ ドイツにおける検閲の実態を調査した論文 (censorship in Germany) を参照。
- ↑ A・J・P・テイラー『第二次大戦の起源』吉田輝夫訳、中央公論社、31-32頁。
- ↑ ヴェルナー・マーザー 著、西義之 訳『ニュルンベルク裁判』
- ↑ E. L. Van Roden, "American Atrocities in Germany" または日本語訳のドイツにおけるアメリカの虐待行為を参照。
- ↑ Principles of International Law Recognized in the Charter of the Nüremberg Tribunal and in the Judgment of the Tribunal, 1950. - 赤十字国際委員会
- ↑ 大量虐殺(ジェノサイド)の語源学-あるいは「命名の政治学添谷育志、明治学院大学法学研究90号、2011年1月、47p
- ↑ 1950年11月8日西ドイツ連邦議会 ハンス・ヨアヒム・フォン・メルカッツ(ドイツ党)「ドイツ兵に加えられた名誉毀損は償うことができません。ドイツ兵の名誉は侵害できない確かなものです」、「名誉ある人びとを品位のない環境で拘禁しておく企てには反対しなければなりません。ドイツ人の魂にのしかかる負担を取り除くために、力強い行動が必要です。マンシュタイン将軍やケッセルリンク将軍のような男たち、つまり目下ランツベルクとヴェルルに収監されている男たちとわれわれは一体です。われわれは、われわれの身代わりにかれらにおしつけられたものをともに背負わねばなりません」(石田勇治『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』より引用)、1952年9月17日西ドイツ連邦議会 ニュルンベルク裁判について フォン・メルカッツ(キリスト教民主同盟)「法的根拠、裁判方法、判決理由そして執行の点でも不当なのです」、メルテン(ドイツ社会民主党)「この裁判は正義に貢献したのではなく、まさにこのためにつくり出された法律をともなう政治的裁判であったことは、法律の門外漢にも明らかです」、エーヴァース(ドイツ党)「戦争犯罪人という言葉は原則として避けていただきたい。……無罪にもかかわらず有罪とされた人びとだからです」(木佐芳男 『〈戦争責任〉とは何か 清算されなかったドイツの過去』 より引用)
- ↑ リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは開戦時の外務次官であった父親エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーがニュルンベルク継続裁判で有罪になった事について「侵略戦争を指導した」とする罪状を「まったく馬鹿げた非難だった。真実をちょうど裏返しにした奇妙な話である(『ヴァイツゼッカー回想録』より引用)」と全面的に否定している。
- ↑ 「1950年代には、ユダヤ人大虐殺などナチの犯罪がしばしば意図的に、あるいは無意識のうちにただの戦争犯罪として語られることが多く、ナチの犯罪者が戦犯として恩赦の対象となったことも訴追を阻害した」「戦後長らくナチの犯罪を戦争犯罪と同一視する傾向が強く、そのことがナチの犯罪訴追の障害となってきた事情があった」(石田勇治『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』より引用)
参考文献
- ペーター・プシビルスキ 『裁かれざるナチス ニュルンベルク裁判とその後』 宮野悦義、稲野強 訳、大月書店、1979年 ISBN 4-272-53005-4
- ヴェルナー・マーザー 『ニュルンベルク裁判 ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』西義之 訳、阪急コミュニケーションズ、1979年 ISBN 4-484-00053-9
- ジョゼフ・E・パーシコ 『ニュルンベルク軍事裁判』(上・下) 白幡憲之 訳、原書房、1996年、2003年新装版
- 上 ISBN 4-562-03652-4、下 ISBN 4-562-03653-2
- レオン・ゴールデンソーン 著\ロバート・ジェラトリー 編\小林等、高橋早苗、浅岡政子 訳『ニュルンベルク・インタビュー』上、下(河出書房新社、2005年)
- 上 ISBN 4-309-22440-7、下 ISBN 4-309-22441-5
- ジェームズ・バグー 『消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所、死のキャンプへの道』 申橋昭 訳、光人社、1995年新装版 ISBN 4-7698-0665-5
- 林博史「連合国戦争犯罪政策の形成 : 連合国戦争犯罪委員会と英米(上)」、『自然・人間・社会』第36巻、関東学院大学経済学部教養学会、2004年、 1-42頁、 NAID 40006274980。
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- 清水正義「ニュルンベルク裁判成立史研究の動向」、『白鴎法學』12(1)、白鴎大学、2005年5月、 181-207頁、 NAID 110004824423。
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- 芝健介「ホロコーストとニュルンベルク裁判(平瀬徹也教授退職記念)」、『史論』第55巻、東京女子大学、2002年、 20-40頁、 NAID 110006607653。
- 岡野詩子「カティンの森事件に関する公開文書から見る歴史認識共有への課題」、『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第34巻、岡山大学大学院社会文化科学研究科、2012年11月、 183-201頁、 NAID 40019507192。
- 守屋純「国防軍免責の原点? : ニュルンベルク裁判:『将軍供述書』の成立をめぐって」、『国際関係学部紀要』第35巻、中部大学、2005年10月31日、 1-17頁、 NAID 110005940940。
関連書籍
関連項目
- 極東国際軍事裁判 - いわゆる「東京裁判」
- 法の不遡及
- ドイツの戦争犯罪
- 国際軍事裁判所憲章
- フランクフルト・アウシュビッツ裁判
- 連合軍による戦争犯罪 (第二次世界大戦)
- 戦争犯罪
- ニュールンベルグ裁判(映画)
- ニュルンベルク軍事裁判(テレビドラマ)
- イラク高等法廷
外部リンク
- The Avalon Project at Yale Law School(裁判の記録)
- アメリカ合衆国における法制度の概要 -U.S Legal System-英米法の概要
- ロンドン協定
- 国際軍事裁判所規約
- 「国際刑事裁判所の設立とその意義」伊藤哲朗国立国会図書館レファレンス,平成15年5月号。
- 「ニュルンベルク法律家裁判と ドイツにおけるその継承」クラウス・ベストライン,本田稔訳,立命館法学 2010年1号(329号)