杉原千畝
すぎはら ちうね 杉原 千畝 | |
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生誕 |
1900年(明治33年)1月1日 岐阜県武儀郡上有知町(現在の美濃市) |
死没 |
1986年(昭和61年)7月31日(満86歳没) 神奈川県鎌倉市 |
墓地 | 鎌倉霊園(29区5側) |
住居 | 神奈川県藤沢市鵠沼 1947年 - 1980年 --- 鎌倉市津 1980年 - 1986年 |
別名 | Sempo Sugihara 外務省からソ連派遣の際に、別人として査証を申請するため |
出身校 |
早稲田大学高等師範部英語科(現:教育学部英語英文学科)予科中退 日露協会学校特修科修了 |
職業 | 外務省職員(1924年 - 1947年)、駐リトアニア在カウナス日本領事館領事代理(1939年 - 1940年) |
著名な実績 | リトアニアでユダヤ人を中心とした6,000人以上[1]の避難民にビザ発給 |
配偶者 | 杉原幸子(1914 - 2008) |
子供 | 杉原弘樹、千暁、晴生、伸生(存命) |
受賞 | 諸国民の中の正義の人(1985年)、ポーランド復興勲章(2008年) |
杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)
外交官。第2次世界大戦中,リトアニアの首都だったカウナスの領事館領事代理として,ユダヤ人の難民に日本通過の査証(ビザ)を独断で発給し,亡命を援助したことで知られる。
1919年早稲田大学を中退,外務省留学生としてハルビン(ハルビン〈哈爾浜〉特別市)に留学,ロシア語を学ぶ。1924年外務書記生となり,ハルビンで勤務。1937年フィンランドのヘルシンキ公使館に赴任。1939年カウナス日本領事館領事代理となる。
1940年,ナチス・ドイツの迫害の強まりをうけ多数のユダヤ人難民が日本領事館につめかけるようになると,杉原は 7月以降,避難先の国の入国許可や十分な旅費をもたないなど,査証発給にかかる外務省の規定を満たさない人にも独断で日本通過の査証を発給した。ソビエト連邦のリトアニア併合に伴う同 1940年8月下旬の領事館封鎖までに計 2139家族に査証を発給し,命を救われたユダヤ人は 6000人以上とされる。
ユダヤ人難民らはシベリア横断鉄道でソ連を横断,ウラジオストクから福井県敦賀市に上陸し,日本を経由してアメリカ合衆国などに亡命した。1940年9月以降,杉原はチェコスロバキア,ソ連,ルーマニアの在外公館に赴任。
1945年の日本降伏後,ブカレストの捕虜収容所に収監され,1947年4月に帰国。同 1947年6月外務省を退官。退官は独断で査証を発給した責任をとらされた結果とされる。退官後は商社などに勤務し,モスクワなどに赴任した。
1969年イスラエルの宗教大臣から勲章を,1985年イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を授与された。
1991年外務省により名誉回復。
脚注
出典
- ↑ 6,000人というのは、記録が残っているもののみの値。途中から記録をつけずにビザを発行したため、正確な発行枚数は6,000を超えること以外一切不明。