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[[File:Izu Ōshima Relief Map, SRTM-1.jpg|thumb|伊豆大島の地形図]]
 
[[File:Izu-Oshima-IMG 4759.jpg|thumb|伊豆大島の[[三原山]]]]
 
'''伊豆大島'''(いずおおしま)は、[[伊豆諸島]]北部に位置する伊豆諸島最大の[[島]]。[[本州]]で最も近い[[伊豆半島]]からは南東方約25kmに位置する。大島と名のつく島は日本各地にあるが、[[国土地理院]]では伊豆大島と表記する。面積は91.06[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]。行政区域は、[[東京都]]'''[[大島町]]'''である。
 
  
== 概要 ==
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'''伊豆大島'''(いずおおしま)
大島は伊豆大島火山と呼ばれる水深300〜400mほどの海底からそびえる[[活火山]]の陸上部分であって、山頂火口のある[[三原山]]は[[カルデラ]]内に出来た[[中央火口丘]]である。数多くの[[噴火]]の記録が残っているが、最近では[[1912年]]〜[[1914年]]、[[1950年]]〜[[1951年]]、[[1986年]]に中規模以上の噴火があり、特に1986年の噴火では全島民が避難した。また、この期間中にはしばしば小規模な噴火を起こしており、[[1957年]]の噴火では死者が1名出ている。三原山の最高峰は三原新山と呼ばれ、標高は764m。[[火山噴火予知連絡会]]によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている<ref>{{Cite web |url = http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/47volcanoes.pdf|title = 火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山|publisher = 気象庁|accessdate = 2016-02-25}}</ref>。
 
  
5月から8月にかけて南南西風が[[卓越風]]であり、それ以外は北東風が卓越風である。
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[[東京都]][[伊豆諸島]]中最大で最北端にある火山島。[[活火山]]で,[[常時観測火山]]。通称伊豆大島。[[富士火山帯]]に属する。島の中央に最高峰の[[三原山]](758m)がある。複式成層火山([[複式火山]])で[[火口原]]には[[溶岩]]が堆積,[[寄生火山]]も多い。有史以来,数多くの噴火が記録されている。今日もなお活動中で,1986年11月の大噴火では,全島民に避難命令が出された。南部の波浮港(はぶこう)は[[爆裂火口]]の跡で漁港,避難港として利用。島の周囲は[[海食崖]]が発達し,東岸では標高 150m以上にもなる。[[海洋性気候]]で冬でもそれほど冷え込まない。冬季の西風は強く,海は荒れる。常緑広葉樹林が発達し,[[ツバキ]][[ツツジ]]の植生で知られ,北東部,泉津の大島海浜植物群落,シイノキ群叢は国の[[天然記念物]]。サクラ株([[オオシマザクラ]]の巨木)は国の特別天然記念物。女性のあんこ姿,[[つばき油]]は有名。古くは流刑地であったが,今日では観光客が多く,本土から航空路と船便がある。一島で[[大島町]]を構成。[[富士箱根伊豆国立公園]]に属する。面積 91.05km<sup>2</sup>。人口 8461(2010)。
 
 
[[2007年]][[日本の地質百選]]に選定された。[[2010年]]には日本[[ジオパーク]]に認定された。
 
 
 
== 火山活動 ==
 
; 古期火山群
 
: 伊豆大島ができる前には'''岡田火山'''、'''行者窟火山'''、'''筆島火山'''があり北海岸から東海岸にかけて露出している。岡田火山は岡田港の西から乳ヶ崎にかけての海食岸に断続的に露出し主に[[玄武岩]][[溶岩流]][[火砕岩]]の成層構造とそれに貫入する[[岩脈]]からなる。行者窟(ぎょうじゃのいわや)火山は東部海食岸に露出する2・3枚の安山岩[[溶岩]]からなる。筆島火山は行者窟火山の南の海食岸に露出し玄武岩溶岩流と火砕岩の互層とそれに貫入する多数の岩脈からなる。筆島は筆島火山の主火道内の強固な火道角礫岩が海食に耐えて残ったもの。これらの火山群は[[鮮新世]]末〜[[更新世]]に活動したと考えられているが、詳しい活動年代はわかっていない。
 
; 伊豆大島火山
 
: 現在活動している伊豆大島火山は、古期火山群を覆って4〜5万年前に活動を開始したと考えられている。その時の堆積物は岡田から泉津にかけての海食崖に露出している凝灰角礫岩を主とする地層で玄武岩溶岩流を伴う。浅い海底でのマグマ水蒸気爆発による堆積物と考えられている。
 
: 成長を続けた伊豆大島火山は、およそ2万年前ごろに現在とほぼ同じような陸上の火山活動に移行し、主に玄武岩質の火砕物、溶岩流の互層からなる成層火山体を形成した。島内南西部都道沿いの地層大切断面に見られる火砕物層は、約2万年間に堆積した主に降下スコリア、火山灰からなる地層で、2万年前から現在まで100回以上の噴火活動が認められる。多くの側噴火も発生した。歌にも歌われた波浮港も9世紀に形成された側火山の一つである。側噴火はほぼすべて北北西-南南東方向の割れ目火口から噴出しており、伊豆大島が北北西-南南東方向に延びた形をしているのもそのためである。
 
: 約1700年前に噴火(S2.0噴火)に引き続いて山頂部で発生した大規模なマグマ水蒸気爆発により、現在山頂部に見られるカルデラ地形が作られたと考えられている。このときには低温の火砕流(火砕物密度流)が発生し、ほぼ全島を覆った。その後、少なくとも10回の大規模噴火(噴出量数億トン以上)が発生しており、西暦[[860年]]前後のN1.0噴火、[[1421年]][[応永]](Y4.0)噴火、[[1552年]][[天文 (元号)|天文]](Y3.0)噴火、[[1684年|1684]]-[[1690年|90年]][[天和 (日本)|天和]](Y2.0)噴火、[[1777年|1777]]-[[1792年|92年]]の[[安永 (元号)|安永]](Y1.0)噴火はマグマ噴出量が0.1 DRE km{{sup|3}}を超える大規模な噴火であったと推定されている。<ref>{{PDFlink|[http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/main/58_Izu-Oshima.pdf 58. 伊豆大島] 気象庁, 2016-03-09閲覧。}}</ref>最近2万年間の平均マグマ噴出量は約1.6 DRE km{{sup|3}}/千年となっている。<ref>{{PDFlink|[https://www.gsj.jp/data/openfile/no0613/42Izuoshima.pdf 17)伊豆大島火山 ] 産業技術総合研究所, 2016-03-09閲覧。}}</ref>
 
; [[安永]]の噴火
 
: 歴史噴火記録が十分残されている大規模噴火として、1777-78年の「安永の噴火」がある。1777年8月末にカルデラ内の山頂火口から噴火が始まり、火山毛、スコリアの降下があった。山頂噴火活動は比較的穏やかだったが、翌1778年2月末ごろまで続いた。同年4月19日から激しい噴火が始まり、降下スコリアが厚く堆積し、溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は北東方向に細く流れ、泉津地区の波治加麻神社付近まで流れ下った。5月末ごろには噴火は沈静化した。10月中旬ごろから再び噴火が激しくなり、11月に再び溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は三原山南西方向にカルデラを超えて流れ下ったほか、やや遅れて北東方向にも流れ、現在の大島公園付近で海に達した。溶岩の流出などは年内には収まったが、1783年から大量の火山灰を噴出する活動が始まり、1792年まで噴火が続いた。このときの火山灰の厚さは中腹で1m以上に達し、人家、家畜、農作物に大打撃を与えた。
 
; 明治以降の中規模噴火
 
: 明治以降の噴出量が数千万トンの中規模噴火として、1876-77年噴火、1912-14年噴火、1950-51年噴火がある。いずれも三原山山頂火口から比較的穏やかな溶岩噴泉、ストロンボリ式噴火、溶岩流流出を起こす噴火だった。1876-77年噴火はナウマンによる噴火記載が行われるなど、明治以降の噴火は科学的な噴火観測記録が残されるようになった。これらの中規模噴火に引き続き、十数年にわたって小規模だがやや爆発的な噴火活動が続く傾向があり、1957年には火口近くの観光客が噴火に巻き込まれ1名死亡、53名が重軽傷を負っている。
 
; 1986-87年の噴火
 
:1974年の噴火を最後に静穏な状態が続き、三原山火口内には直径約300mの竪坑状火孔があった。1980年ごろから地磁気の減少などの変化が認められるようになった。1986年に入ると小規模な地震の群発が島周辺で発生するようになり、7月ごろには地磁気の急減少、比抵抗値の減少、火山性微動の発生など、噴火兆候と考えられる現象が顕著に観測されるようになった。その一方でカルデラ内の水準測量では膨張ではなく沈降が観測されており、噴火は切迫していないとも考えられていた。11月12日になると三原山火口壁から噴気が始まり、15日17時25分に噴火(1986A火口)が開始したことが確認された。19日には三原山山腹を溶岩が流れ下り、カルデラ床に達した。20日には三原山火口からの溶岩の噴出はほぼ終わり、噴火は爆発的になって、衝撃波による光環現象が頻繁に観察された。21日14時ごろからカルデラ北部で地震活動が活発化し、多数の開口割れ目が発見された。16時15分にカルデラ床北部から割れ目噴火(1986B火口)が始まった。溶岩噴泉の高さは1000m以上に達し、噴煙高度は1万mを超え、島内東部にスコリアが大量に降下した。また溶岩流がカルデラ内に流出した。続いて三原山山頂の1986A火口も噴火を再開した。17時46分にはカルデラ内噴火割れ目北西延長のカルデラ外山腹(1986C火口)で噴火が始まり、溶岩流が元町に向けて流下しはじめた。島内北部、西部の住民は島内南部の波浮地区に避難を開始したが、地震活動が南東部に移動するとともに、波浮地区周辺で開口割れ目が発見されたため、再び元町に戻るなど混乱が起きた。最終的に住民全員の島外避難が行われ、帰島は約1ヶ月後になった。割れ目噴火は21時ごろに沈静化し始め、翌22日朝にはほぼ終了した。23日には1986A火口での噴火も終了した。12月18日にも小規模な噴火が1986A火口で起きた。
 
: 1986年12月18日以降表面活動は沈静化していたが、1987年7月ごろから山頂直下で地震が増加し、三原山火口内で旧竪坑状火孔縁の位置にリング状の噴気活動が活発化した。11月16日10時47分に大音響を伴って爆発的な噴火が起こり、火口内を埋めた巨大な溶岩片を火口周辺に吹き飛ばすとともに、リング状の噴気に沿って火口が30m陥没した。18日にも噴火を伴って再び陥没し、直径約300m、深さ約150mの竪坑状火孔が再現した。噴出量に比べて陥没量が大きく、また陥没に伴って地下[[マグマ溜り]]がわずかに膨らむ現象が観測されており、三原山山頂竪坑状火孔内を埋めたマグマが逆流(ドレインバック)したと考えられている。その後火山ガスによる農作物被害が生じたほか、数回小規模な噴火があったが、1990年の噴火を最後に沈静化して現在に至っている。
 
: 1990年以降噴火は発生していないが、現在に至るまで山体の膨張が続いており、地下ではマグマの供給が続いていると考えられている。
 
 
 
== 気候 ==
 
{{Izu Oshima weatherbox}}
 
{{climate chart|大島
 
|3.7|10.7|130.5
 
|3.4|11.2|146.9
 
|6.2|13.5|258.2
 
|10.3|18.0|238.7
 
|14.5|21.5|259.8
 
|18.1|24.0|337.8
 
|21.8|27.1|246.5
 
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|source=[http://www.jma.go.jp/jma/ 気象庁]
 
}}
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 中世以前 ===
 
『[[日本書紀]]』の[[飛鳥時代]]の記述に、[[推古天皇]]28年([[620年]])八月条に掖玖(やく、現・[[屋久島]])の人が「伊豆島」に漂着したとある。この伊豆島は伊豆諸島のことを指していると考えられる。書紀の記録ではほかにも、[[天武天皇]]4年[[4月18日_(旧暦)|4月18日]]条([[675年]][[5月20日]])には[[麻績王]]の子が、同6年[[4月11日_(旧暦)|4月11日]]条([[677年]][[5月20日]])には田史名倉などが伊豆島に[[流罪|流刑]]に処されている。
 
 
 
このように伊豆島は古くから流刑地とされ、『[[続日本紀]]』によれば[[神亀]]元年([[724年]])には[[伊豆国]]が[[安房国]]・[[常陸国]]、[[佐渡国]]などとともに遠流の地に定められた。続日本紀には[[文武天皇]]3年[[5月24日_(旧暦)|5月24日]]([[699年]][[6月29日]])には[[役小角]]が「伊豆嶋」に流された記録があるが、『扶桑略記』での対応記述は「仍配伊豆大島」とされており、この配流地は伊豆大島だったと考えられる。
 
 
 
『殿暦』[[永久 (日本)|永久]]元年[[10月22日]]条([[1113年]][[12月9日]])の記事によれば、同年に[[醍醐寺]]の[[仁寛]]([[立川流 (密教)|立川流]]の祖)が罪を得て「伊豆大島」に流されたという。
 
 
 
[[琉球王国]]の[[正史]]『[[中山世鑑]]』や『[[おもろさうし]]』、『[[鎮西琉球記]]』、『[[椿説弓張月]]』などでは、[[源為朝]]は[[保元の乱]]に敗れて捕らえられ、伊豆大島に配流された後に島々を掠領したために[[工藤茂光]]に攻められたが、伊豆諸島の人々の助けで現在の[[沖縄県]]の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖[[舜天]]になったとされる。真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』を産んだ。この話に基づき、[[大正]]11年には沖縄県に為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている<ref>なお、『中山世鑑』を編纂した[[羽地朝秀]]は、摂政就任後の[[1673年]]3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」)なお、最近の[[遺伝子]]の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広士]][[札幌大学]]教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞 2010年4月16日)するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。</ref>。
 
 
 
=== 中世 ===
 
伊豆諸島は伊豆国に属しており、[[中世]]に入ると伊豆大島も伊豆国の[[知行国主]]の支配を受けた。また[[北条氏]]は伊豆[[守護職]]を[[世襲]]していたが、北条氏の滅亡にともない終結した。『[[太平記]]』には[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]初期の争乱で[[陸奥国|奥州]]へ向かった兵船が嵐のため伊豆大島に漂着したという記述があるが、史実か定かではない。
 
 
 
[[応永]]3年[[7月23日_(旧暦)|7月23日]]([[1396年]][[9月3日]])には伊豆守護・[[上杉憲定]]に伊豆大島などの[[伊豆諸島]]を含む伊豆国の所領が交付されたという記録がある。この所領は前年七月二四日に父・[[上杉憲方]]の遺領として安堵されたものだった。また、『八丈島年代記』によると金川(現・[[神奈川県]][[横浜市]][[神奈川区]])の領主・奥山宗林が[[八丈島]]、[[八丈小島|小島]]、[[青ヶ島]]、[[三宅島]]、[[御蔵島]]の代官となったとされるが、記述のない伊豆大島は別の代官が任命されていたか不明である。この後、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]になると[[後北条氏]]が伊豆諸島全体を支配するようになった。なお、[[天文 (元号)|天文]]21年[[9月19日]]([[1552年]][[10月17日]])の噴火の際に鎮静を願った祈祷札が今も元町の薬師堂にある。
 
 
 
=== 近世 ===
 
[[近世]]に入ると、島内は海方(または船手稼、浦方)と呼ばれる新島、岡田と、山方(または山手稼、釜方)と呼ばれる竈方野増、差木地、泉津の計5村で構成されるようになる。さらに後に差木地村から波浮湊村が分かれた。なお、[[天正]]18年([[1590年]])に関東の領主が[[徳川家康]]になった後も、伊豆諸島ではしばらく北条氏の旧臣の支配が続き、その後に[[江戸幕府]]の[[代官]]が治めるようになった。なお、[[生類憐れみの令]]の際に江戸などで集めた[[鳶]]・[[鷹]]・[[雉子]]などが[[宝永]]5年([[1708年]])まで20年余りにわたり島で放鳥された。やがて[[寛文]]10年([[1670年]])に代官の、[[享保]]8年([[1723年]])には[[手代]]の渡島も禁止され、以後は新島村の[[神主]]である藤井氏が行政を担当した。地役人を世襲で助ける島の有力者を島代官と称した。なお、享保2年([[1717年]])の改革により、島へ渡る役人と島の有力者を、それぞれ島役人、地役人と呼ぶようになった。
 
 
 
1703年12月31日(元禄16年11月23日)の[[元禄関東地震]]の大津波で、湖だった[[波浮港]]が外海とつながった。
 
 
 
大島では畑で[[オオムギ|大麦]]、[[里芋]]・[[ダイコン|大根]]・[[ダイズ|大豆]]などを植えていたが、田がなかったため近世前期には[[年貢]]は[[塩]]で納められた。また、後に[[茶]]や[[サツマイモ]]なども栽培され、[[養蚕]]も行われた。[[元禄]]2年([[1689年]])には釜方村などで[[製塩]]された2,000[[俵]]以上の塩が納められ、かわりに246俵の扶持米が給付されている。また、浦方には夏と秋に釣った[[カツオ|鰹]]の4分の1ずつ運上と御口([[消費税|付加税]])、春と秋には[[ムロ]]、[[サバ]]などに10分の1の運上が課せられた。翌元禄3年([[1690年]])に塩年貢は廃止されて金と[[京銭]]による代金納となり、享保7年([[1722年]])には運上も金納となる一方で被下米が減っている。また同8年(1723年)からは[[薪]]、[[海苔]]や魚介類を船で江戸の問屋に売渡し、経費などを除いた利益の1割を上納するようになった。
 
 
 
江戸時代にも流刑地としての役割は続き、『伊豆大島志考』によると[[慶長]]12年([[1607年]])の岡部藤十郎をはじめ、同17年([[1612年]])には[[キリシタン]]の[[ジュリアおたあ]]、[[天和_(日本)|天和]]2年([[1682年]])に[[越後騒動]]に関連して小栗兵庫ら、[[元禄]]16年([[1703年]])には[[赤穂浪士]]の遺児ら4名([[間瀬定八]]、[[吉田兼直]]、[[中村忠三郎]]、[[村松政右衛門]])が流された。また、[[日蓮宗不受不施派]]の[[僧]]なども流されている。しかし流人受入れや[[三宅島]]までの流人船の御用が負担であったため、[[明和]]3年([[1766年]])に貢金の上乗せを条件に流人船御用が免除された。同年以降は大島への流人は途絶え、[[御蔵島]]・[[利島]]とともに[[寛政]]8年([[1796年]])に正式に流刑地から除外された。また、同年には島開所が設けられ、大島を含む伊豆諸島の水産物などは同所以外への販売が禁止された。この航路が長いため搬送中に魚の鮮度が落ちて商品競争力が激減したが、江戸の問屋が船足の速い[[押送船]]に大島の[[水主]]を乗せて魚介類を江戸に運送・販売することを願出て[[文化_(元号)|文化]]13年([[1816年]])に許可されると売上は急増し、漁業が島の産業の中で大きな比重を占めるようになった。
 
 
 
=== 近代以降 ===
 
[[明治]]になると、[[1882年]](明治15年)に秋広平六が西洋[[帆船]]を建造し、本土との往来などに使われた。[[1897年]](明治30年)には相陽汽船が伊東(現・[[静岡県]][[伊東市]])との間で航路を開き、翌年には同航路で実業家・杉本が[[和船]]の運航を始めた。[[1900年]](明治33年)に[[逓信省]]は杉本と契約し、[[郵便]]輸送を開始した。なお、当時の鮮魚や畜産品などの貨物輸送は島民の船で島内の[[元町港]]や波浮港から[[東京市]]・[[横浜市]]へ直接向かった。
 
 
 
[[File:Izu Oshima in 1930s.jpg|thumb|right|250px|伊豆大島(1933年7月)]]
 
[[1906年]](明治39年)には東京湾汽船が大島・伊東間に定期航路を開設し、翌年には東京市〜大島航路や東京市〜大島〜[[利島]]〜[[新島]]〜[[式根島]]〜[[神津島]]航路が[[命令航路]]となり、大島への寄港回数が年間96回以上となった。定期航路が整備されると[[和田三造]]や[[坂本繁二郎]]、[[中川一政]]、[[村山槐多]]らの著名人や芸術家が来島し、島を題材にした作品も残された。また、[[1928年]]([[昭和]]3年)に東京市との間に日航便が就航し、同年には[[野口雨情]]作詞・[[中山晋平]]作曲の[[波浮の港]]の歌が流行したこともあって観光客が増加した。[[1931年]](昭和6年)には三原山の[[砂漠]]([[溶岩]]原の通称)に[[ロバ]]や[[ラクダ]]が導入され、[[1935年]](昭和10年)に大島自然動物公園(現・[[都立大島公園]])が開園している。
 
 
 
横浜開港に伴う食肉需要の増加で島の[[放牧]][[ウマ|馬]]、[[ウシ|牛]]、[[山羊]]が乱獲されて一時はほぼ絶滅したが、その後は[[肉牛]]の生産が活発になった。さらに明治30年代に[[乳牛]]・[[酪農]]が主流となり、[[1926年]](昭和元年)の島内の飼育乳牛頭数は1,200頭にのぼっている。また、江戸時代末期に生産を解禁された[[炭]]は、従来の主要な商品だった[[薪]]とともに島の有力産業に成長した。この他、島内では古くから灯・整髪・食用に用いられた[[椿油]]は明治以降に[[機械油]]や整髪油として生産が増加した。[[1916年]]([[大正]]5年)の島の産品は一位から順に海産物、牛酪、薪、炭、椿油となっている。
 
 
 
[[インフラストラクチャー]]面では[[1872年]](明治5年)に野増で初の[[小学校]]が開校し、[[1875年]](明治8年)に新島村と波浮で[[郵便局]]が開局した。[[1902年]](明治35年)には下田(現・静岡県[[下田市]])と大島の間に[[海底]][[電線]]が開通している。1916年(大正5年)には元村と野増村で伊豆諸島で初の[[電灯]]が設けられ、[[1927年]](昭和2年)には岡田、泉津、波浮港、差木地で送電が始まった。また、1931年(昭和6年)には島内で、[[1934年]](昭和9年)には本土との間で[[電話]]が開通した。[[1933年]](昭和8年)に大島六か村[[自動車専用道路|自動車道路]]が作られると、[[1935年]](昭和10年)には島内で[[バス (交通機関)|バス]]、[[貨物自動車|トラック]]が運行されるようになった。なお、[[1940年]](昭和15年)には伊豆諸島で最初の接岸[[桟橋]]を持つ岡田港が竣工した。
 
 
 
1923年(大正12年)9月1日の[[大正関東地震]]([[関東大震災]])では、高さ12 mの[[津波]]が襲った。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]中の[[1944年]](昭和19年)には[[小笠原諸島]]への軍事輸送のために島内に送受信所が設置され、[[大日本帝国海軍]]第二[[魚雷艇]][[特別攻撃隊]]の中間基地として波浮港が接収された。また、[[1945年]](昭和20年)6月には[[本土決戦]]に備えて第321師団が編成されている。ほとんどの民家が部隊によって接収され島民は集団[[疎開]]を命じられ、一部は[[長野県]]へ疎開したが、輸送船が足りずに命令は撤回された。
 
 
 
戦後の[[1946年]](昭和21年)[[1月29日]]に、占領政策から伊豆諸島は日本の行政から切り離されることになり、島民の中には暫定[[憲法]]を制定する行動もあった<ref>{{Cite news | title =独立想定し「暫定憲法」 GHQ統治下で日本から分離の伊豆大島 | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 1997-01-07 | page = 1}}、{{Cite news | title =伊豆大島の「暫定憲法」全文 | newspaper = 朝日新聞 | date = 1997-01-07 | page = 30}}、{{Cite news | title =自立への模索53日間、幻の伊豆大島共和国 「暫定憲法」全文発見 | newspaper = 朝日新聞 | date = 1997-01-07 | page = 31}}</ref><ref>{{harvnb|榎澤幸弘|2013}}</ref>が、3月22日に方針が変更されて分離は行われなかった。
 
 
 
[[1952年]](昭和27年)[[4月9日]]に、羽田発福岡行き日本航空301便「もく星号」が三原山の高度600 m(2,000 ft)に衝突し、31人が死亡した。
 
{{See|もく星号墜落事故}}
 
 
 
[[1955年]](昭和30年)4月1日に、伊豆七島国定公園の一部となる<ref>1955年(昭和30年)4月1日厚生省告示第84号「国立公園法により東京都大島大島町等を準用区域に指定し伊豆七島国定公園と称する件」</ref>。
 
 
 
[[1958年]](昭和33年)の[[狩野川台風]]では、24時間雨量約400 mmにより土砂災害が発生し、元町地区の104棟が全半壊し死者、行方不明者各1人を出した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131017/dst13101714340014-n1.htm 55年前の教訓生かせず 大島町長「認識不足だった」]産経新聞2013.10.17</ref>。
 
 
 
[[1964年]](昭和39年)[[7月7日]]に、[[富士箱根伊豆国立公園]]の一部となり<ref>1964年(昭和39年)7月7日厚生省告示第318号「国立公園に関する件」</ref>、伊豆七島国定公園の指定が解除される<ref>1964年(昭和39年)7月7日厚生省告示第319号「国定公園に関する件」</ref>。
 
 
 
その後、[[1965年]](昭和40年)[[1月11日]]午後11時頃に、元町港のすぐ近くにある寿司屋を兼ねた旅館を火元とする大火があり、折からの強風にあおられて消失面積15万[[平方メートル]]、全焼418戸、罹災408世帯の被害が出て1311名が焼け出される被害がでた。この火災に対しては[[災害救助法]]が適用された。この火災については30キロ離れた対岸の伊豆の熱川や[[稲取]]からも見えたという。
 
{{See|大島大火}}
 
 
 
[[1986年]](昭和61年)に[[三原山]]が噴火した際、全島民が1か月にわたって島外避難した。
 
{{See|三原山#1986年(昭和61年)の噴火}}
 
 
 
[[2013年]](平成25年)[[10月]]には[[平成25年台風第26号|台風26号]]に襲われ、観測史上最大の24時間雨量 824mmを記録し、土砂災害により元町地区を中心に49名の死者・行方不明者を出した。降水量は観測開始以来最大であった<ref>[http://mizu.bosai.go.jp/wiki/wiki.cgi?page=2013年10月台風26号に伴う伊豆大島の大雨土砂災害 2013年10月台風26号に伴う伊豆大島の大雨土砂災害] 防災科学技術研究所 水・土砂防災研究ユニット</ref>。なお、この土砂災害に伴う地盤震動が島内に設置されている地震計で観測されていた<ref>{{PDFlink|[http://www.bosai.go.jp/saigai/2013/img/20131021_02.pdf 防災科研の火山観測施設で観測された伊豆大島の土砂災害に伴う震動]}}防災科学技術研究所</ref><ref>[http://www.jma.go.jp/jma/menu/h25t26-menu.html 平成25年台風第26号 東京都大島町関連の気象情報] 気象庁</ref>が、土砂災害の直前予測に活用が可能と考える研究者もいる。
 
 
 
== 観光 ==
 
* [[三原山]] - 御神火様として昔からあがめられ、「お鉢めぐり」という[[火口]]周遊の遊歩道がある。
 
* [[波浮港]]
 
* [[筆島]]
 
* [[椿祭り (東京都)]]
 
* [[伊豆大島火山博物館]]
 
 
 
== 伊豆大島の社寺 ==
 
[[延喜式]]神名帳には伊豆国[[賀茂郡]]の[[神社]]として波布比売命神社、阿治古神社、波治神社の名があり、それぞれ島内の波浮港の羽布比命神社、野増の大宮神社、泉津の波知加麻神社に比定され、当時からこれらの神社が存在していたことがわかる。[[近世]]初頭の『伊豆国三嶋神主家系図』の記述では、[[慶雲]]元年([[704年]])に三原山が噴火したことから興島([[三宅島]]と推定される)に祀っていた三島宮(現・[[静岡県]][[三島市]]の[[三嶋大社]])を大島に移したという。なお、三島宮はこの後の[[天平]]7年([[735年]])に現在地の[[伊豆国#国府・国分寺・一宮など|伊豆府中]]に遷座した。また『[[今昔物語集|今昔物語]]』には、配流された[[役小角]]が勤行したとされる山で蔵海という僧が[[嵯峨天皇]]の頃に修行を積み、地蔵寺を建立したという話がある。
 
 
 
== 遺跡 ==
 
[[1901年]](明治34年)[[坪井正五郎]]らにより龍ノ口遺跡が紹介された。これが大島で初めて知られた遺跡であり、現在までに51か所の遺跡が確認されている。以下に代表的なものの例を挙げる。
 
 
 
=== 縄文時代 ===
 
* 下高洞遺跡:島西部にあり、伊豆諸島で最古の[[竪穴式住居]]跡がある。縄文早期および中期から晩期。
 
* 鉄砲場岩陰遺跡:島北東部にあり、伊豆諸島で唯一の[[岩陰遺跡]]がある。縄文前期。
 
* 龍ノ口遺跡:島南西部にある。縄文中期。
 
 
 
=== 弥生時代 ===
 
* カン沢遺跡:島北東部にある。
 
* ケーカイ遺跡:島北西部にある。
 
* 下高洞遺跡
 
 
 
=== 古墳時代 ===
 
* 大久保遺跡:島北部にある。
 
* 和泉浜C遺跡:島西部にある。
 
* 野増遺跡:島西部にある。
 
 
 
=== 奈良時代 ===
 
* オンダシ遺跡:島西部にある。
 
 
 
== 伊豆大島ジオパーク ==
 
'''伊豆大島ジオパーク'''は、[[2010年]](平成22年)9月には[[日本ジオパーク]]に認定された。
 
 
 
== 参考画像 ==
 
<gallery>
 
Izu-oshima.jpg|[[城ヶ崎海岸]]から見た伊豆大島
 
ShikineFromKozuTyoJpDec04-1.jpg|[[神津島]]から遠方に望む。手前は[[式根島]]、左は[[利島]]、右は[[新島]]。
 
Fudeshima.jpg|筆島、[[日本の渚百選]]に選ばれている。
 
</gallery>
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{columns-list|2|
 
* [[大島]]
 
* [[大島節]]
 
* [[三原山]]
 
* [[大島大火]]
 
* [[源為朝]]
 
* [[牛乳煎餅]]
 
* [[東京都の観光地]]
 
* [[大島空港]]
 
* [[ジオパーク]]
 
}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{osm box|r|5304184}}
 
* [http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/317_Izu-Oshima/317_index.html 伊豆大島] - 気象庁
 
* {{PDF|[http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/main/58_Izu-Oshima.pdf 日本活火山総覧(第4版)Web掲載版 伊豆大島]}} - 気象庁
 
* [https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/G01.html 日本の火山 伊豆大島] - 産業技術総合研究所 地質調査総合センター
 
* [http://www.izu-oshima.or.jp/geopark/ 伊豆大島ジオパーク]
 
----
 
* [http://www.town.oshima.tokyo.jp/ 大島町公式サイト]
 
** [https://www.town.oshima.tokyo.jp/soshiki/seisaku/history-index.html 大島小史]
 
* [http://www.izu-oshima.or.jp/ 大島観光協会]
 
----
 
* 防災関連
 
** [http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/rovdm/Izu-Oshima_rovdm/Izu-Oshima_rovdm.html 伊豆大島火山防災連絡事務所] 気象庁
 
** [http://vivaweb2.bosai.go.jp/v-hazard/L_read/58izu-oshima/58izu-o_1m02-L.pdf 防災手帳(噴火編)(地震編)(津波編)] 防災科学技術研究所
 
** [http://vivaweb2.bosai.go.jp/v-hazard/L_read/58izu-oshima/58izu-o_1m01-L.pdf 防災手帳(噴火避難編)]
 
 
 
{{伊豆・小笠原諸島の島々}}
 
{{日本の活火山}}
 
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 +
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[[Category:伊豆諸島]]
 
[[Category:伊豆諸島]]

2018/12/30/ (日) 18:56時点における最新版

伊豆大島
座標 東経139度24分0秒北緯34.73333度 東経139.4度34.73333; 139.4
面積 91.06 km²
海岸線長 52 km
最高標高 764 m
最高峰 三原新山
所在海域 太平洋フィリピン海
所属国・地域 日本の旗 日本東京都
地図
伊豆大島の位置
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伊豆大島(いずおおしま)

東京都伊豆諸島中最大で最北端にある火山島。活火山で,常時観測火山。通称伊豆大島。富士火山帯に属する。島の中央に最高峰の三原山(758m)がある。複式成層火山(複式火山)で火口原には溶岩が堆積,寄生火山も多い。有史以来,数多くの噴火が記録されている。今日もなお活動中で,1986年11月の大噴火では,全島民に避難命令が出された。南部の波浮港(はぶこう)は爆裂火口の跡で漁港,避難港として利用。島の周囲は海食崖が発達し,東岸では標高 150m以上にもなる。海洋性気候で冬でもそれほど冷え込まない。冬季の西風は強く,海は荒れる。常緑広葉樹林が発達し,ツバキツツジの植生で知られ,北東部,泉津の大島海浜植物群落,シイノキ群叢は国の天然記念物。サクラ株(オオシマザクラの巨木)は国の特別天然記念物。女性のあんこ姿,つばき油は有名。古くは流刑地であったが,今日では観光客が多く,本土から航空路と船便がある。一島で大島町を構成。富士箱根伊豆国立公園に属する。面積 91.05km2。人口 8461(2010)。



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