中根之
提供: miniwiki
2017/10/19/ (木) 08:41時点におけるja>Duck775による版 (Check Wikipedia ID:64)
中根 之(なかね すすむ、1910年9月21日 - 没年不明)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球審判員。
来歴・人物
第一神港商業では第6回選抜中等学校野球大会に出場し、決勝戦で広陵中を3-1で下してチームは優勝した。
1936年に名古屋軍入団。初年度の秋季リーグで打率.376を記録し、プロ野球の初代首位打者となった[1]。この記録は1リーグ時代、戦前のプロ野球での最高打率である。プロ野球史上3人(ほかに岡村俊昭・正田耕三)しかいない「本塁打0本の首位打者」でもあった。
1937年にイーグルスへ移籍。1938年の秋季リーグを最後に引退。
引退後は、1952年に毎日オリオンズの二軍コーチ[1]、翌1953年には二軍監督に昇格し[1]、1955年の時点では養成主任として二軍コーチに戻っている[2]。のち、パシフィック・リーグでプロ野球審判員を務めた[1]。二出川延明が「俺がルールブックだ」という発言をしたとされる試合において、そのきっかけになったジャッジをしたのが中根である。
1963年8月、近鉄のジャック・ブルームに対する判定(退場を宣告)をめぐり、近鉄ファンを名乗る人物からの脅迫状が届く。中根はリーグ幹部と相談して休養を取り、そのまま審判を辞任した[3]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1936春夏 | 名古屋 | 12 | 45 | 38 | 4 | 8 | 2 | 0 | 0 | 10 | 4 | 3 | -- | 3 | -- | 5 | -- | 0 | 4 | -- | .211 | .302 | .263 | .565 |
1936秋 | 25 | 111 | 93 | 20 | 35 | 2 | 3 | 0 | 43 | 7 | 7 | -- | 4 | -- | 11 | -- | 3 | 8 | -- | .376 | .458 | .462 | .920 | |
1937春 | イーグルス | 52 | 221 | 185 | 32 | 57 | 6 | 4 | 2 | 77 | 13 | 12 | -- | 5 | -- | 27 | -- | 4 | 21 | -- | .308 | .407 | .416 | .824 |
1937秋 | 20 | 82 | 62 | 16 | 18 | 1 | 1 | 1 | 24 | 9 | 2 | -- | 2 | -- | 15 | -- | 3 | 8 | -- | .290 | .450 | .387 | .837 | |
1938春 | 35 | 147 | 127 | 22 | 36 | 5 | 1 | 1 | 46 | 8 | 4 | -- | 1 | -- | 18 | -- | 1 | 13 | -- | .283 | .377 | .362 | .739 | |
1938秋 | 37 | 154 | 135 | 20 | 29 | 7 | 2 | 3 | 49 | 12 | 11 | -- | 3 | -- | 14 | -- | 2 | 21 | -- | .215 | .298 | .363 | .661 | |
通算:3年 | 181 | 760 | 640 | 114 | 183 | 23 | 11 | 7 | 249 | 53 | 39 | -- | 18 | -- | 90 | -- | 13 | 75 | -- | .286 | .385 | .389 | .774 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 首位打者:1回 (1936年)
背番号
- 15 (1936年)
- 16 (1937年 - 1938年)
- 50 (1955年)[2]
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『ベースボールマガジン』第10巻第4号、ベースボールマガジン社、1955年、 73頁。
- 森岡浩(編著) 『プロ野球人名事典 増補改訂第3版』 日外アソシエーツ、1992年。ISBN 4-8169-1128-6。