ヴェルヴェット・アンダーグラウンド
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド | |
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別名 | ヴェルヴェッツ |
出身地 |
アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨーク |
ジャンル |
アート・ロック サイケデリック・ロック エクスペリメンタル・ロック 実験音楽 前衛音楽 フォーク・ロック フォーク アヴァンギャルド |
活動期間 |
1964年 - 1973年 1990年 1992年 - 1994年 1996年 |
レーベル | ヴァーヴ・レコード、MGM、アトランティック・レコード、ポリドール |
ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド (The Velvet Underground) は、1964年に結成されたアメリカのロックバンド。ヴェルヴェッツという略称でも呼ばれる。
商業的な成功を手にすることなく解散したが、その極めて内省的かつフリーキーなサウンドと、性におけるタブーや薬物など人間の暗部を深く鋭くえぐった歌詞は、同世代のデヴィッド・ボウイやストゥージズ、ドアーズ、後進のパティ・スミスやテレヴィジョンをはじめとする数多くのアーティストに多大な影響を与え、ロックの芸術性の向上に大きな役割を果たした。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第19位。
Contents
来歴
結成からデビュー
1963年、大学を中退したルー・リードはニューヨークに移り、レコード会社の雇われソングライターをしながら自分名義のレコード契約の機会をうかがっていた。1964年のある日、リードはウェールズ出身で現代音楽を学ぶためにアメリカに来ていたジョン・ケイルと出会う。共通の音楽的アプローチを有していた二人は意気投合し、バンドの結成を模索。1965年頃にはスターリング・モリソン(ギター)、アンガス・マクリーズ(パーカッション)の二人が加わるが、半年ほどでアンガスが脱退。後任にモーリン・タッカー(ドラムス)が加入すると、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」名義で本格的な活動を始める。このバンド名は道端に落ちていたペーパーバックのSM小説のタイトルから付けられた。
初期のヴェルヴェッツはグリニッジ・ヴィレッジのカフェ・ビザールを拠点として演奏していた。ある晩、彼らの演奏を目にしたアンディ・ウォーホルは大いに気に入り、自身が企画していた音楽・ダンス・フィルム・照明・そして聴衆をも巻き込むマルチメディア・イベント「エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル」での演奏を要請する。同イベントで演奏を行ったヴェルヴェッツは、ニューヨークのヒップな文化人たちに熱狂的に受け容れられた。これがきっかけで、ウォーホルのプロデュースの下でのデビューアルバムの制作が決定する。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ
アルバムの制作に先立ち、ウォーホルの提案により、ファクトリー(ウォーホルのスタジオ)に出入りしていたドイツ生まれのニコがヴォーカルとして参加する(ウォーホルはデビュー作リリースをバックアップする条件としてニコの参加を打診したという。リードはデビューのためにこの提案を受け入れ了承したが、内心は不満だった。後年、リードは当時の状況に関して「とにかくニコは特別扱いだった。良い曲は全部ニコに取られてしまうので困った」と語っている)。こうして5人組となったヴェルヴェッツは1967年3月、ウォーホルによるバナナのジャケットで知られる『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』でデビューを飾ることになる(ただし、ニコは作品名から判るようにバンドに加入したわけではなく、あくまでゲスト的な扱いである。実際、ライブには数回しか参加しておらず、本作リリース時にはすでに離脱していた)。当初は3万枚ほどしか売れずヒットしなかったが、後に再評価され、今では名盤とされている[1]。
セカンドから4枚目まで
バンドは、CBGBやマキシズ・カンサス・シティなどのライブハウスで、コンサートをおこなった[2]。やがて彼らはウォーホルとの関係を断ち、ニコが脱退した後の1968年1月、セカンド・アルバム『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』を発表。より前衛色を強め、ホワイトノイズを多用した17分に及ぶ大作「シスター・レイ」が並ぶなど、より暴力性とノイジーさが際立つ作品となった。
しかし、アルバムの制作途中でリードとケイルの関係が悪化、ヴェルヴェッツを主導していた立場のリードに対してケイルはヴェルヴェッツの中で居場所を失い、このアルバムを最後にリードによってケイルは脱退させられる。
後年、リードは本作の制作状況に関して、「ウォーホルとの関係を断ったことから自由に作れるようになったが、結果的に歯止めがきかなくなり、まとまりを欠く物になった。そして、最終的にケイルが脱退する事態になってしまった」と語ってる。
ケイル脱退後、ダグ・ユールが加入した。1969年3月にサード・アルバム『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド』(『Ⅲ』とも表される)を発表。全体に叙情的な面が目立つが、前作のような過激さも併せ持っている。また、このアルバムに関しても、リードは後になって、次作と同じように、会社側に勝手にリミックスされたと主張している(リードの言う所のオリジナル・ミックスはボックスセットに収録されている)。
バンドとしてはこの時期が最も安定しており、スタジオ音源、ライブ音源ともに大量に残されている(いくつかはその後公式にリリースされており、非公式な物も多く流通している。また、この時期に制作された楽曲の多くは後にルー・リードのソロアルバムに収録されている)。ただし、レコードの売り上げは相変わらず芳しくなく、レコード会社から契約を切られてしまい、当時レコーディング中であった4枚目のアルバムはお蔵入りとなってしまう。
その後、新たにレコード会社との契約が決まり、心機一転、4枚目のアルバム『ローデッド』の制作に入る。お蔵入りしたアルバムの内容を大幅に見直し、全曲新たにレコーディングされ、楽曲自体も多くが新曲となった。内容は、「スウィート・ジェーン」や「ロックン・ロール」といったリードが後年になっても演奏する曲を含むオーソドックスなロックンロール・アルバムであり、以前のような前衛的、実験的な要素は押さえられ、ポップな仕上がりとなっている。ただし、リードは会社側で勝手にリミックスしたと主張しており、このアルバムをあまり評価していない(この件に関しては諸説ある。ダグ・ユールは、会社側が勝手にリミックスしたというリードの主張に対して異論を唱えている。彼によると、当時のバンドはレコード会社から全く注視されていないマイナーな存在で、そんなバンドのレコーディングに会社が介入してくるとは考えにくい。また、当時のバンドの体制はリードの独裁に近く、リミックス出来る立場にいたのはリードだけであり、他の人間の手になるとも考えにくい。結論として、当時、レコード会社を移り、何とか売れなければとの思いがリードにあり、ポップでコマーシャルなリミックスを施したことに対して、リード自身が後悔して言い繕ってるのではないかと語っている。リードが主張するところのオリジナル・ミックスはボックスセットに収録。また、リードの主張する当初の構想に沿った形のアルバムとして、リミックスを含む"Fully Loaded Edition"が後年リリースされている)。ちなみに、このアルバムのドラムとしてクレジットされているのはモーリン・タッカーだが、実際は妊娠中でほとんどドラムを叩いておらず、実際にドラムを叩いたのは、ダグ・ユールの弟であるビリー・ユールと数人のスタジオ・ミュージシャンである。レコーディング後半頃からリードの精神状態が急激に悪化し(レコード会社移籍のプレッシャーが原因と言われている)、その後ライブツアー(このツアーでも、モーリン・タッカーに代わりビリー・ユールが参加)の途中に突然失踪し、そのまま脱退してしまう。1970年8月の事であった。結局、『ローデッド』がリリースされたのは、リードの脱退、1ヶ月後の1970年11月となった。このアルバムはその後、ロングセラーとなり、結局、ヴェルヴェッツのアルバムとしては最も売れたアルバムとなった。
リードの突然の脱退により、バンドの活動は暗礁に乗り上げるが、レコード会社の意向やライブの契約の関係もあり、結局バンドは継続されることとなる。ダグ・ユールを中心にバンドの立て直しが図られ、ユールがボーカル兼ギターに転向(ユールはリード在籍時から、試験的にボーカルを担当しており、リード自身、ユールをバンドのフロントマンとして自身は裏方に回るという構想を持っていたという)、新たなベースとして、ウォルター・パワーズが加入、ドラムにはモーリン・タッカーが復帰、ギターはそのままスターリング・モリソンが残留し、新たな4人編成のバンドとして再スタートを切る。しかし、1年後、スターリング・モリソンが脱退、代わりにキーボードのウィリー・アレキサンダーを加入させ、何とかバンド継続の道を探るが、ほどなくモーリン・タッカーも脱退し、ヴェルヴェッツの実質的な活動はここで終了する。しかし、この時点で、まだレコード会社との間にアルバムリリースの契約が残っており、残されたユールは一人で、スタジオ・ミュージシャンを使い、何とか、ヴェルヴェッツ名義のラストアルバム『スクイーズ』を完成させ、リリースに漕ぎ着ける(ちなみに、このアルバムにはディープ・パープルのイアン・ペイスがスタジオ・ミュージシャンとして参加しドラムを叩いている)。このアルバムのリリースをもって、ようやくバンドは正式に解散となった。リリースされたのは、1973年2月の事であり、リードの突然の失踪からすでに2年あまりが経過していた。リード脱退後のユール主導となった、この時期のヴェルヴェッツに対して再評価の動きもあり、様々な音源が発掘、リリースされている。
再結成から現在
解散後もメンバーは付かず離れずの状態でそれぞれ交流が続いていたのだが(実際、ユールやタッカーはリードのソロアルバムに参加しているし、ライブやイベントなどで顔を合わせることも多かった)、1987年のアンディ・ウォーホルの死を契機に交流が活発になり、1990年、リード、ケイル、モリソン、タッカーの4人で再結成。この時は一時的な物だったが、1992年、本格的に再結成され、ライブツアーを行う(いずれもダグ・ユールは不参加。不参加の理由については単純に誘われなかったからと答えており、誘われていれば参加したと思うと語っている)。しかし、ツアー後半から、リードとケイルの中が再び悪化し、ツアー終了とともに活動停止状態になり、予定されていた新作アルバムの制作は中止された(ツアーのライブ盤のみ発売)。その後、1995年にモリソンが死去。1996年のロックの殿堂入りの際にはリード、ケイル、タッカーの3人が顔を揃えたが演奏は行わなかった。また、2009年のイベントではリード、タッカー、ユールの3人が顔を揃え、ヴェルヴェッツとしてインタビューに答えている。
メンバー
- ルー・リード(Lou Reed、1942年3月2日 -2013年10月27日 )- ボーカル、ギター、ピアノ、キーボード、作詞、作曲
- グループの中心人物。ヴェルヴェッツ結成から脱退まで多くの楽曲と全てのアルバムの制作を主導。1970年に脱退して以降はソロとして活動。
- ジョン・ケイル(John Cale、1942年3月9日 - )- ヴィオラ、ヴァイオリン、ギター、ベース、ボーカル、作曲
- ダグ・ユール(Doug Yule、1947年2月25日 - )- ギター、ベース、ドラムス、ボーカル
- ケイルの脱退に伴い1968年に加入。1973年に解散するまで参加。後半では中心人物として活躍し、リード脱退後は実質的なリーダーとなる。解散後は主にスタジオミュージシャンとして活動。リードのソロ・アルバムに参加したこともある。
- スターリング・モリソン(Sterling Morrison、1942年8月28日 - 1995年8月30日)- ギター、ベース、コーラス
- モーリン・タッカー(Maureen Tucker、1944年8月26日 - )- ドラムス、コーラス
- アンガス・マクリーズ(Angus MacLise、1938年3月4日 - 1979年6月21日)- ドラムス
- 1965年の結成時に参加、同年脱退。
- その他、短期間だが、ウォルター・パワーズ、ウィリー・アレキサンダーが正式なメンバーとして参加している。それ以外にも正式なメンバーではないがビリー・ユール、イアン・ペイスなど数名がサポートメンバーとして参加している。
タイムライン
ディスコグラフィー
スタジオアルバム
- ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ - The Velvet Underground and Nico (1967年3月12日)
- ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート - White Light/White Heat (1968年1月30日)
- ヴェルヴェット・アンダーグラウンド - The Velvet Underground (1969年3月)
- ローデッド - Loaded (1970年9月)
- スクイーズ - Squeeze (1973年2月)
関連書籍
- 『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ』(2010年、ブルース・インターアクションズ) ジョー・ハーヴァード (著)、 大鷹俊一 (解説) ISBN 4860203771
関連項目
- アンディ・ウォーホル
- ルー・リード
- ニコ
- ローリング・ストーンズ
- ブライアン・ジョーンズ
- ドアーズ
- ストゥージズ
- エレクトラ・レコード
- テレヴィジョン
- パティ・スミス
- フランク・ザッパ
- ピザ・アンダーグラウンド - パロディ・バンド
脚注
外部リンク
- ワーナーミュージック・ジャパン - ヴェルヴェット・アンダーグラウンド
- The Velvet Underground Web Page (英語)
- ヴェルヴェット・アンダーグラウンド - DMOZ
- "Style It Takes" (John Cale on Studio 360 radio program from June 2, 2006); MP3 file; John Cale performing "Style It Takes" (talking about Andy Warhol, the subject of that song).
- "Loop" from Issue 3 of Aspen magazine (December 1966).