東宝映画
東寶映畫株式會社[1](とうほうえいが-、1937年9月10日 設立 - 1943年12月10日 合併[2])は、かつて東京に存在した日本の映画会社である。第二次世界大戦前に阪急資本が設立した「東宝映画配給」を含めた4社が合併して設立、わずかの間にメジャー映画会社の一角となり、東宝の前身となったことで知られる。
データ
略歴・概要
前史
メジャー会社へ
1937年(昭和12年)9月10日[2]、東京市世田谷区砧(現在の東京都世田谷区成城)にあったポストプロダクション「写真化学研究所」とその子会社の映画スタジオ「ピー・シー・エル映画製作所」、京都市太秦にあった大沢商会の映画スタジオである「ゼーオー・スタヂオ」(J.Oスタヂオ)と阪急の小林一三が前年に設立した東京の映画配給会社「東宝映画配給」の4社が合併して設立された[3]。初代社長には、ピー・シー・エル映画製作所創立者の植村泰二が就任した[4]。トーキーに特化した東西2つの映画スタジオをもち、東京・日比谷を中心とした興行網をもつ強力な会社ができたのである。
この合併によって、旧ゼーオー・スタヂオは時代劇を製作する「東宝映画京都撮影所」(現存せず)へ、旧ピー・シー・エル映画製作所および旧写真化学研究所は現代劇を製作する「東宝映画東京撮影所」(現在の東宝スタジオ)と名称を変更[3]、このデュアル・プロダクションによりさらに映画製作に力を入れた。
当時の「東宝映画東京撮影所」には、戦後「東洋一」と呼ばれるようになった巨大なNo.8およびNo.9ステージ(1955年3月完成)こそまだなかったが、同年5月に中型のNo.6およびNo.7ステージ、前年の1936年(昭和11年)4月に小型のNo.3およびNo.5ステージを建て、「ピー・シー・エル映画製作所」の当初よりもすでに拡充された設備をもっていた[5]。「東宝映画」となって2年後の1939年(昭和14年)には、これに加えて「東宝映画第二撮影所」(のちの新東宝撮影所、現在の東京メディアシティ)を建設・開所している。また、1941年(昭和16年)には、豊田四郎をメイン監督としたトーキー現代劇を製作していた「東京発声映画製作所」を合併、「東宝映画第三撮影所」(のちの新東宝第二撮影所、現在のオークラランド)とした。時代劇も東京でまかなえるようになり、このとき「東宝映画京都撮影所」は閉鎖・売却された。
1942年(昭和17年)2月1日、映画産業の戦時統制により社団法人映画配給社が設立され、同社団社長に植村が就任したため、東宝映画社長を退任し、その席を副社長の大橋武雄に譲った[4]。
1943年(昭和18年)12月10日[2]、同社は演劇・映画の興行を行う同系列の「株式会社東京宝塚劇場」と合併し、現在の「東宝株式会社」となった[6]。なお、現在、東宝の自社製作を行っている「株式会社東宝映画」は、1971年(昭和46年)に東宝の製作部門を分社化して設立されたもので、同社とはまったく別の東宝連結子会社である。
撮影所
- 東宝映画京都撮影所 (旧J.O.スタヂオ、1937年 改称 - 1941年 閉鎖・売却、現DNPテクノパック関西)
- 東宝映画東京撮影所 (旧ピー・シー・エル映画製作所および旧写真化学研究所、1937年 改称 - 現東宝スタジオ)
- 東宝映画第二撮影所 (1939年 開所 - 1946年 新東宝撮影所と改称、現東京メディアシティ)
- 東宝映画第三撮影所 (旧東京発声映画、1941年 改称 - 1947年 新東宝第二撮影所と改称、現オークラランド)
関連事項
- 写真化学研究所 - ソニーPCL (増谷麟、植村泰二)
- ピー・シー・エル映画製作所 (森岩雄)
- 大沢商会 - J.O.スタヂオ (大澤善夫)
- 東京宝塚劇場 (企業)、東宝映画配給 (小林一三)
- 東京発声映画 (豊田四郎)
- 東宝 - 東宝スタジオ
- 南旺映画
- 東宝映画 (曖昧さ回避)
註
- ↑ 同社の本正式表記。出典 : 『東寶映畫十年史』、東寶映畫株式會社、1942年。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 東京地判 平成20(ワ)6849 損害賠償請求事件 著作権 民事訴訟、最高裁判所、2009年10月11日閲覧。
- ↑ 3.0 3.1 東宝映像美術公式サイト内の「会社案内 」の「沿革」の項の記述を参照。
- ↑ 4.0 4.1 引用エラー: 無効な
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タグです。 「植村泰二邸
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 東宝スタジオ公式サイト内の「ヒストリー」の記述を参照。
- ↑ 東宝公式サイト内の
「東宝株式会社 IR情報 会社略歴」「会社の沿革 - 会社情報|東宝WEB SITE」(2009年10月11日閲覧・左記訂正)の記述を参照。