小倉宮
小倉宮(おぐらのみや)は室町時代に存在した宮家の一つ。南朝の系統に属する宮家で、始祖は後亀山天皇の子、実名は同時代史料によると恒敦とされる(親王宣下があったかどうか不明)。
室町時代の皇位継承や室町幕府の政権闘争に翻弄され、また自らも政権奪取を試み翻弄されたすえに断絶した。
概略
足利義満がまとめた南北朝合一のさい、南朝の後亀山天皇の子である恒敦を後小松天皇の皇太子とする約束であったが、南朝系の天皇誕生を嫌う後小松天皇の思惑により、応永19年(1412年)8月、称光天皇が践祚する。それより以前にこの動きを察知していた後亀山上皇と恒敦は、応永17年(1410年)吉野に経済的困窮を理由として逃亡するが、本当は後小松天皇をはじめとする北朝側を牽制する目的があったのではないかとされる。しかし、この行動は結局何の意味もなさず、応永23年(1416年)に後亀山上皇は室町幕府の要請で京に帰還する。が、このときに恒敦は父に同行しておらず、この後も吉野でさらに抵抗を続けたと言われる。その後、恒敦は応永29年(1422年)7月15日に父に先立って亡くなる。
応永32年(1425年)頃には称光天皇の病状は悪化する。称光天皇には後継者の皇子がいなかったため、持明院統(北朝)嫡流の断絶が確実となった。そこで、南朝支持者は恒敦の遺児(後に出家して小倉宮聖承となる。この当時は出家していないが便宜上以下「聖承」と書く)らを次期天皇とする運動を幕府に起こすが無視され、称光天皇の後継者となったのは伏見宮家の後花園天皇であった。これに不満を持った聖承は正長元年(1428年)7月6日、伊勢国国司で南朝側の有力者である北畠満雅を頼って居所の嵯峨から逃亡する。満雅はこの当時幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏と連合し、聖承を推戴して反乱を起こすが、持氏が幕府と和解したことにより頓挫、正長元年12月21日に満雅は伊勢国守護・土岐持頼に敗れ戦死する。その後も聖承は伊勢国に滞在したまま抵抗を続けるが、北畠家が赦免されたことにより、聖承の処遇が問題となり、結局聖承は京に戻されることとなる。このときの条件は聖承が「息子を出家させること」、幕府は「諸大名から毎月3千疋を生活費として献上させる」であった。このため、当時12歳の聖承の息子は出家し教尊と名乗り、勧修寺に入る。一方、幕府からの生活費献上の約束は守られることがなく、京に戻った後の聖承の暮らしは困窮の極みだったようである。
その後、永享6年(1434年)2月に聖承は出家、この時点から「小倉宮聖承」を名乗る。嘉吉3年(1443年)5月7日に聖承は死去。唯一の遺児と思われる教尊も禁闕の変への関与が疑われ隠岐島に流罪、のちに消息不明となり、小倉宮家は断絶した。
だが、文明元年(1469年)に紀伊国で南朝の遺臣が小倉宮皇子と称する人物を担いで反乱を起こした。折しも京都では応仁の乱が発生しており、西軍の山名宗全はこの皇子を擁立することを考えていた。紀伊に地盤を持つ畠山義就は擁立に難色を示していたが、足利義視ら西軍大名の説得もあって、文明3年(1471年)8月になると正式に京に迎え入れられた。
しかし、文明5年(1473年)3月18日、宗全が死ぬと皇子は放擲されて各国を流浪し、文明11年(1479年)7月に越後から越前に到達したことを最後に消息を絶った[1][2]。この西陣南帝と呼ばれる人物の素性は明確になっていない[3]。