足利持氏

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足利持氏
時代 室町幕府
生誕 応永5年(1398年
死没 永享11年2月10日1439年3月24日
幕府 室町幕府第4代鎌倉公方
氏族 足利氏

足利 持氏(あしかが もちうじ)は、室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409年 - 1439年)。第3代鎌倉公方・足利満兼の子。

生涯

幼少期

応永16年(1409年)、7月の父・満兼の死去によって9月に鎌倉公方となる[1]。翌応永17年(1410年)8月[1]、叔父である足利満隆が持氏に対して謀反を企てているとの風説が立ち、持氏が関東管領であった上杉憲定の屋敷に逃げ込むという騒動が発生する(『鎌倉大草紙』など)が、憲定の仲介により持氏の異母弟の乙若丸を満隆の養子とすることで和睦・落着した[1](騒動は反憲定の勢力が満隆と結んだために発生したものであったため、その煽りを受けて憲定は翌年に関東管領を辞任している)。同年12月に元服[1]して4代将軍足利義持より偏諱(「持」の字)を賜って持氏と名乗った[2](弟の乙若丸(改め持仲)も、同様に「持」の字を受けている)。

持氏は公方となったものの若年であり、新たに関東管領となった上杉氏憲(後の禅秀)の補佐を受けていた。北日本の奥羽地方は鎌倉府の管轄で持氏の2人の叔父である篠川公方足利満直・稲村公方足利満貞が治めていたが、応永20年(1413年)に伊達持宗が両者に逆らい反乱を起こしたため、持氏は奥州国人衆に召集を呼びかけ反乱を鎮圧した。

しかし持氏は禅秀を疎んじるようになり、禅秀は満隆・持仲と結んでいたため、両者の間の対立が次第に激しくなった。応永22年(1415年)に禅秀は関東管領を辞し、持氏は上杉憲基(憲定の子)を後任として就任させた。

応永23年(1416年)、遂に禅秀・満隆はクーデターを起こし、持氏・憲基は一時鎌倉を追われて駿河に追放された(上杉禅秀の乱)。しかしこの反乱は、翌年に幕命を受けた越後上杉房方・駿河の今川範政らによって鎮圧され、禅秀・満隆・持仲は自害、持氏らは鎌倉に復帰した。

ところが、さらに翌年の応永25年(1418年)には関東管領の憲基が急死し、幼少であった憲実が後任に就任すると若年の鎌倉公方を更に幼い関東管領が補佐するという事態が発生する。そのため、本来は上位者である鎌倉公方の命令を伝えるために関東管領が作成する施行状を作成することが出来ず、持氏本人が憲実の代理で施行状を作成するという事態が応永31年(1424年)まで続いている[3]

将軍との対立

京都の将軍と鎌倉公方の対立は、持氏の祖父・足利氏満の時代にすでに始まっていた。この時は関東管領上杉憲春の諫死で対立は未然に防がれたが、関東に支配権を延ばそうとする将軍と、それに抗する鎌倉公方の衝突は宿命的なものであった。

応永30年(1423年)に京都扶持衆小栗満重室町幕府の命令を受けて反乱を企てたとしてこれを攻め滅ぼし、続いて同じく扶持衆の宇都宮持綱桃井宣義を倒して関東から親幕府勢力の一掃を図った(小栗満重の乱または応永の乱)。これに対して室町幕府4代将軍足利義持は持氏討伐を計画するが、持氏の謝罪によって討伐は中止された。だが、関東御扶持衆を用いて持氏の勢力拡大を牽制しようとする幕府側とそれに対抗しようとする持氏の対立は深刻化する一方であった。

応永32年(1425年)、5代将軍であった足利義量が病死し、正長元年(1428年)に前将軍であった義持も病死して将軍職が空位となると、持氏は自身が足利氏の一族であるという名分から6代将軍の座を望んだ。しかし、管領畠山満家三宝院門跡満済らの協議によって、6代将軍は義持の弟4人のうちから籤引きで選ばれることになり、この結果、天台座主義円が還俗して足利義教として将軍職を継承することとなった。

この将軍職相続に義持の猶子となっていた持氏は不満を持ち、新将軍の義教を『還俗将軍』と軽んじ、義教の将軍襲職祝いの使者を送らなかった。さらに元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。

関東管領・上杉憲実は持氏と義教の融和を懸命に努めたが、持氏はこれに応じずに逆に憲実を遠ざけ、上杉氏庶流の上杉憲直一色直兼簗田満助ら近臣を重用し、やがて憲実が持氏に討たれるという噂が流れるまでになる。永享9年(1437年)には憲実は施行状の発給を止め、間もなく関東管領を辞職している(なお、これ以降関東管領の施行状の発給は途絶する)。一方、幕府においても義教と度々対立していた斯波義淳が永享4年(1432年)に管領を辞し、また宥和派であった畠山満家が翌永享5年(1433年)に、満済が永享7年(1435年)に没すると義教を止めることのできる人間は存在しなくなった。

永享の乱

永享10年(1438年)6月、持氏の嫡子賢王丸元服を迎えて名を改める際、本来ならば将軍に一字を拝領する慣例であったが、それを行わず「義久」と名付けた。憲実はこの元服式に出席せず[4]、憲実と持氏の対立は決定的となった。8月、憲実は鎌倉を去り、領国の上野国へ下った。これを憲実の反逆と見た持氏は一色直兼に命じて討伐軍を差し向け、自らも武蔵国府中高安寺に出陣する。

将軍・義教は憲実の救援のため、篠川公方足利満直(上杉禅秀の乱後持氏と対立)や駿河守護今川範忠の出兵を命じた。さらに禅秀の子上杉持房教朝らを含む幕府軍を派遣する。同時に持氏追討の治罰綸旨の発給を求め、持氏は朝敵となった。9月27日には持氏軍は敗れて相模の海老名まで引いたが、鎌倉を守護していた三浦時高等武将の裏切りが相次いだために兵は逃亡し、持氏は孤立無援となった。

持氏は鎌倉に引く途中で憲実の家宰長尾忠政(芳傳、長尾忠綱の子)と出会い、憲実に義教との折衝を依頼する。その後鎌倉称名寺で出家し、永安寺に幽閉された。憲実は持氏の助命と義久の公方就任を懇願したが[5]、義教は許さず、憲実に持氏の追討を命じた。永享11年(1439年)2月10日、憲実の兵が永安寺を攻撃、持氏は自害して果てた(永享の乱)。義久と稲村公方足利満貞も自害した。

持氏の自害により鎌倉公方は一旦滅亡することになるが、彼の遺児である春王丸安王丸を担いだ結城氏朝持朝父子が蜂起し、関東の混乱は続いた(結城合戦)。この反乱も幕府に鎮圧され結城氏朝父子は自害、春王丸・安王丸は幕府に捕らえられ処刑されたが、後に春王丸らの兄弟で生き残っていた成氏が鎌倉に帰還、鎌倉公方に就任するも上杉氏と対立、享徳の乱を引き起こし北関東へ逃れ古河公方を称することになる。

官歴

※日付=旧暦

  • 1410年応永17年)12月22日、元服し、持氏と名乗る。同日、従四位下に叙し、左馬頭に任官
  • 1420年応永27年)12月、従三位に昇叙し、左兵衛督に転任。
  • 1438年永享10年)10月、出家。

系譜

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「mochiuji1」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「kotobank」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  3. 亀田俊和「鎌倉府施行システムの形成と展開」、『ヒストリア』214号、2009年のちに亀田俊和 「鎌倉府施行状の形成と展開」『室町幕府管領施行システムの研究』 思文閣出版、2013年。ISBN 978-4-7842-1675-8。と改題
  4. なお、『喜連川判鑑』では元服式はわざわざ源義家の先例を調べて行われたもので憲実はこの命名に反対したが無視されたとする。
  5. 『喜連川判鑑』では永享10年時点で義久は既に死亡していたとも

関連書籍

  • 田辺久子 『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』 吉川弘文館、2002年。ISBN 9784642077897。

関連項目