二本柳寛
二本柳 寛(にほんやなぎ ひろし、1917年(1912年説もあり[1])11月20日 - 1970年1月28日)は、日本の俳優である[2][3][4]。本名及び旧芸名は黒井 洵(くろい じゅん)[2][3][4]。戦中戦後、主に敵役として活躍した二枚目俳優である。
来歴・人物
1917年(大正6年)11月20日、北海道札幌市に生まれる[2][3][4]。横浜高等工業学校(1951年廃校)を卒業[2][3][4]。
1933年(昭和8年)、劇団築地座に入団し、『三人姉妹』で初舞台を踏む[2][3][4]。ところが、同劇団は1936年(昭和11年)に解散し、その後は東京中央放送局(現在の日本放送協会)に入社し、そのまま終戦を迎える[2][3][4]。この間、本名の黒井洵名義で1942年(昭和17年)に公開された東宝映画製作の山本嘉次郎監督映画『ハワイ・マレー沖海戦』と、1943年(昭和18年)に製作された満州映画協会・東宝映画共作の島津保次郎監督映画『誓ひの合唱』『私の鶯』の3本の映画に出演している[4]が、1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』など、ほとんどの資料では戦後に映画初出演としている[2][3]。また、日本映画データベースでは黒井旬と記載されているが、誤りである。
1947年(昭和22年)、本名で松竹京都撮影所製作の高木孝一・沢田正平両監督映画『踊り子劇場』に出演し、芸能界に復帰。1948年(昭和23年)、大映に入社。芸名も二本柳寛と改名して、1949年(昭和24年)2月に公開された安田公義監督映画『最後に笑う男』で主演を務めた滝沢修の敵役が入社第一作となる[2][3][4]。また、本作は京マチ子にとっても大映入社第一作でもあった[2]。二枚目ぶりと重厚な演技がたちまち注目され、1949年(昭和24年)公開の森一生監督映画『地下街の弾痕』で早くも主演に抜擢され、再び京マチ子と共演。続いて同年公開の森一生監督映画『わたしの名は情婦』では、水戸光子演じる麻薬強盗の情婦に取材したのがきっかけで、新聞記者の域を超えて彼女の更生に努力する男を熱演して、スケールの大きな二枚目俳優として大成する事が期待される。以後も森一生監督作品に多く出演していたが、1951年(昭和26年)に惜しまれながら退社した[2][3][4]。
退社後は早くも脇役に回り、同年に東宝へ入社するが、僅か1年程で退社してフリーとなる[2][3][4]。以後も多数の作品に主演・助演し、あまり目立たない役が多かったが、1951年(昭和26年)に公開された松竹大船撮影所製作の小津安二郎監督映画『麦秋』では原節子演じる間宮紀子の戦死した兄の親友役、同年の東宝製作の成瀬巳喜男監督映画『めし』では原節子演じる岡本三千代の従兄役、1954年(昭和29年)に公開された新星映画社製作の山本薩夫監督映画『太陽のない街』では組合指導者・萩村を好演するなど、名匠の作品でも堅実な演技力を見せた[2]。1956年(昭和31年)、今度は日活へ移籍[2][3][4]。日活名物のアクション映画に脇役として多く出演した。また、テレビドラマにも出演している。
1970年(昭和45年)1月28日、創映プロダクションが製作した萩原遼監督映画『やくざ非情史 血の決着』の封切りを待たずに、東京都品川区の昭和大学病院で心不全のため死去した。58歳没[2][3][4]。ただし『日本映画俳優全集 男優篇』など、一部の資料では1967年(昭和42年)公開の江崎実生監督映画『黄金の野郎ども』を最後に日活を退社としている[2]。
脚注
- ↑ 『週刊平凡』、1970年2月12日号
- ↑ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 『日本映画俳優全集 男優篇』 キネマ旬報社、1979年、441。
- ↑ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年。
- ↑ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 『日本映画美男俳優 戦前編』 ワイズ出版、2014年。