秋山好古
秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日(1859年2月9日)- 昭和5年(1930年)11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。日本の教育者[1]
。幼名は信三郎。
陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されており、日本騎兵の父と云われた。
連合艦隊先任参謀として、日本海海戦の勝利に貢献したとされる秋山真之は実弟にあたる。
Contents
年譜
- 安政6年(1859年)1月7日(1859年2月9日):伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩士・秋山久敬、貞の三男として生まれる。名前の由来は論語の一節「信而好古」より。秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石程の下級武士(徒士身分)だった。藩校・明教館(現在の愛媛県立松山東高等学校)に入学し、家計を支えつつ学ぶ。このころ、天保銭一枚(100文に相当[2])にて、銭湯の水汲み、釜焚き、番台の管理をやっていた。
- 明治8年(1875年):教師になる夢を叶えるため、学費のかからない官立大阪師範学校(現在の大阪教育大学)に入学[3][4]。
- 明治9年(1876年)7月:官立大阪師範学校卒業。第三大学区十八中学区堺県河内国第五十八番小学校(現在の寝屋川市立南小学校)を経て愛知県師範学校附属小学校(現在の愛知教育大学附属名古屋小学校)に勤務[5][6]。
- 明治10年(1877年)5月:生活のため(主に弟、真之の生活費と学費を工面するために)教職を辞し[7]、職業軍人を目指す。陸軍士官学校(旧制3期生)入校。
- 明治12年(1879年)12月23日:陸軍士官学校卒業。任陸軍騎兵少尉。東京鎮台に配属される。
- 明治13年(1880年)
- 明治16年(1883年)
- 明治18年(1885年)12月28日:陸軍大学校卒業。参謀本部勤務。
- 明治19年(1886年)
- 明治20年(1887年)7月25日:サン・シール陸軍士官学校に留学した久松定謨の補導役としてフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努める。
- 明治23年(1890年)12月19日:父・久敬が松山で死去。
- 明治24年(1891年)
- 明治25年(1892年)
- 4月27日:陸軍士官学校馬術教官に異動。
- 明治26年(1893年)
- 明治27年(1894年):日清戦争に従軍。
- 明治28年(1895年)5月10日:任陸軍騎兵中佐。
- 明治29年(1896年)
- 明治30年(1897年)
- 明治31年(1898年)10月1日:陸軍騎兵実施学校長に異動。
- 明治32年(1899年)10月28日:陸軍獣医学校長を兼務。
- 明治33年(1900年)7月17日:第5師団兵站監に異動。
- 明治34年(1901年)
- 明治35年(1902年)
- 明治36年(1903年)4月2日:騎兵第1旅団に異動。
- 明治37年(1904年):日露戦争において、騎兵第1旅団長[9]として出征し、第2軍に属して、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦う。また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された永沼挺進隊の活躍は、小説『敵中横断三百里』によって有名となっている。その後、「日本騎兵の父」とも呼ばれた。
- 明治38年(1905年)6月19日:母・貞死去。
- 明治39年(1906年)
- 明治40年(1907年)11月11日:従四位に昇叙。
- 明治42年(1909年)8月1日:任陸軍中将。
- 大正元年(1912年)12月28日:正四位に昇叙。
- 大正2年(1913年)1月15日:第13師団長に異動。
- 大正4年(1915年)2月15日:近衛師団長に異動。
- 大正5年(1916年)
- 大正6年(1917年)8月6日:軍事参議官に異動。
- 大正8年(1919年)
- 大正9年(1920年)12月28日:教育総監となり、陸軍三長官の内の一人となる。また、軍事参事官を併任。
- 大正12年(1923年)
- 大正13年(1924年)4月:私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)校長就任。
- 大正15年(1926年)地元愛媛県教師、井上吉利らとともに、手嶋俊郎遺著『大陸ローマンス』を出版[10]。
- 昭和5年(1930年)
人物像
- 風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。
- 青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし、彼自身は「男子に美醜は無用」という価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなかったという。
- 士官学校教授だった作家の内田百間は「鈴木三重吉にそっくりの意地の悪そうな顔」とも記している。
- 酒を非常に好み、当時東京予備門を目指していた真之と暮らしていた時は、「秋山兄弟は茶碗一つで飯を食っている」と噂されるほど貧乏であったにもかかわらず、1日に5合は飲んでいたといわれている。また、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていたが、それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいのことができ、部下たちを感嘆させた。しかし、酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかった。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。
- 極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていたため、シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく勧めたが、「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時、対処出来ない)」「風呂に入るためにこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。
軍人としての秋山
好古は日清戦争後、陸軍乗馬学校長となり、自らのフランス留学の経験を活かし、騎兵研究に没頭する。日露戦争が勃発すると騎兵以外の兵科との連携が欠かせないと考えた秋山少将は、騎兵部隊に歩兵、砲兵、工兵などを随伴させる、秋山支隊という戦闘集団を編成することを考案した。 満州の野でナポレオンを破り、世界最強と言われたコサック騎兵を相手に好戦。さらに黒溝台合戦では奥保鞏大将率いる第2軍に属し、日本軍最左翼を守備していた。しかし、この部隊は40km余りの戦線に対し、わずか8,000人程度の人員しか配置されていなかった。
秋山支隊のような兵力で40kmという広範囲を守ることは不可能であった。このため秋山少将は、拠点防御方式という騎兵としては相容れない考えの戦術を採用した。騎兵という兵種はその特徴である機動力で敵の弱点に対し打撃を与えるものである。一方、秋山少将の考え出した拠点防御方式は拠点に塹壕を掘り穴ぐらに馬ごと潜ってしまい、そこから機関銃などの兵器で攻撃するものであった。この戦術は騎兵の機動力が生かされない一方、不利でありながら防御体制を何とか構築することに成功し、黒溝台会戦の窮地を救い、見事ロシア軍を退却させる。
教育者としての秋山
秋山が21世紀の現在もなお、その輝きを失っていないのは教育者としてである。すなわち秋山の功労、秋山の実践当時は先駆的な内容であったものが、その後80年近くを経て普遍的な基本要素となり、2018年現在の日本の高等学校教育において広く一般化されており[11]、2022年以降の新たな日本の中等教育にもますます重要な基本要素として継承されていく[12]。
- そもそも秋山は子供好きで、学校の教師になるのが夢であった。明治9年(1876年)7月に官立大阪師範学校(現在の大阪教育大学)を卒業後、第三大学区十八中学区堺県河内国第五十八番小学校(現在の寝屋川市立南小学校)に勤務したが、初期の官立師範学校卒業教員であることからすぐに抜擢され、愛知県師範学校附属小学校(現在の愛知教育大学附属名古屋小学校)勤務となり、日本の義務教育の開拓と普及の分野で将来を託望される人物となっている。(日本の官立師範学校は、まずは各府県に教員養成学校を作るための人材を育成する機関(指導的教員養成機関)として明治5年から7年にかけて各大学区に設置され、全国府県がその卒業生を指導的教員として招聘するものとされた。秋山は愛知県に招聘された[13]。)しかし薄給のため、特に弟、真之の生活費と学費を将来的にも工面できないことから、夢を叶えた直後にあきらめ、職業軍人に転向せざるを得なかった[注 1]いきさつがある[14][15]。すなわち秋山は2018年現在の学校区分で小・中学校の教員経験者であり、旧制中学校、2018年現在の学校区分で、高等学校への赴任は初めてであった。秋山の北予中学校校長就任はその前年に郷里の友人、井上 要から「学校長不在になることになってしまい困っている。名前だけでもかしてはくれないか。」と請われたことからであるが、これに対して秋山は実際、「俺は中学校のことは何も知らんが、他に人がいなければ校長の名前は出してもよい。日本人は少し地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。俺で役に立てばなんでも奉職する。」と快諾、さらに井上 要の、たまには学校に出てきて生徒たちと遊んでやってほしいの言に対し、ところで名前だけとはいかがなものか。中身がなければ(実際に学校に校長がいなければ)駄目であると単身、東京を離れて就任した。以降、辞任まで1日も欠勤せず、生家から登校したという[16][17]。
- 秋山にとっての校長就任、校長職は元帥に勝る人生の最高位であった。校長に就任した秋山と植岡寛雄少将が語っていたとき、植岡が無遠慮に「閣下はよく禿げましたね。どうしてそんなに禿げたのですか。」と尋ねたところ、秋山は怒ることもなく「これか。俺が今の地位(校長職)を得るまでの苦労は並大抵のことではなかった。その間に俺は何千回、何万回となく頭を下げてきたから、とうとうこのように禿げてしまった。」と答えている。秋山は「男子にとって必要なことは、若いころに何をしようかということであり、老いては何をしたかということである」を信条とし、予備陸軍大将、それも三長官まで上った者としては例のない格下人事となった北予中学校奉職は、実は秋山自身の人生の総括を意味する、すなわち後世に結果を遺す重要なことであった[18]。
秋山の本質は穏やかな性格の根っからの教育者、争いを好まぬリベラリストであり、第二次世界大戦後の民主教育者、すなわち現代民主主義国家の学校教育に通じる先駆的教育者として今日、評価されるようになっている[19][注 2]。軍人時代の部下、犠牲者の霊を生涯に渡って弔い続け、当時の世界情勢から日本が次第に傾倒していく全体主義的な流れを嫌い、自らの功績を努めて隠した。中学校長就任後、生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」などと頼まれても「そんな昔のことを訊いて何になるのか。今は中学の校長である」と一切断り、軍服姿(もっとも軍服での登校を嫌い、軍服を着るのは指定されている時に限られていた。)の秋山の写真を生徒に販売しようとする動きがあった際には断固として止めさせ、武勲を披露することは無かった。そして「生徒は兵士ではない」とし、学校での軍事教練を極力減らし、生徒が落ちついて学ぶことのできる環境を整えることに尽力している[20][21]。 秋山は当時、先進的すぎて解らないの意味も含む「超教育家」とも評され[22]、このことが秋山の軍人としての実績と相まって教育者としての秋山の先駆的業績の本質を20世紀の終わりまで埋もれさせることにもなった。実際、秋山の出身大学が秋山を教育者と認めたのは21世紀になってからである[23]。すなわち当時、中学校の校長職はいわゆる名誉職であり[注 3]、秋山のように正規に教員の資格を有する普通教育現場の心得のある者が校長に就任し、毎日登校して直接に生徒に接することだけでも珍しく、加えて教育学的に研究した生徒教授まで実践というのは皆無に等しい状態であり、秋山は異例中の異例であったためである[注 4][24] 秋山は社会的集団教育(普通学校教育)の目的を、21世紀の現在にも通じる「個人の確立(独立)による社会(国家)の確立(独立)」「個人の生活安定による個人の確立」「個人の生活安定のための個性(適性)の見出しと育成」と考えており、実学、勤労を重視し、生徒個人の人格形成、そのための個性・適性を見出して育てることに徹し、その実践として毎日、早朝から校門に立ち、登校してくる生徒ひとりひとりに挨拶をする、よく生徒を誉め、誉めるのと同時に、字をきれいに書きなさいといったことなどを丁寧に指導する、いつも微笑みをたたえて生徒の様子を眺めている校長であった。そして生徒に「もう私は老いている。私が死んでしまった時には、私の屍を踏み越えて未来に進みなさい」との訓示をする校長であった[25][26]。 一方、秋山は生徒、教職員の不祥事は全て校長の責任に帰するものとし、在任中に何度も引責辞職願を理事会に提出、都度、驚かれて慰留されている。当時の中学校では全国的に、生徒のみならず教員も、遅刻、無断欠勤は普通であり[注 5]、秋山はこの学校側の計画性のなさに中等教育の諸問題の根本がある、学生が独立している(自我が完成されている)ことを前提とした高等教育と、独立途上にある(自我の形成途上である)生徒を相手にする中等教育は異なるものであるとし、遅刻・欠勤した教員の担当授業を自ら代行し、定刻開始、定刻終了、欠課なしとしてみせた。すなわちこれは2018年現在言われているところの生徒の学習権保証のひとつである。しかし秋山は当該教員を叱責、処分することはなく、一身に自らの責任として自らを処分したことから、北予中学校では教職員の勤務態度が大きく変わり、遅刻・無断欠勤をする者がおよそいなくなり、教員は自主的によく勉強し、各々が学習指導計画を立てて実行するようになった。この実践と成果は全国に新聞報道され、全国の中学校、女学校などの中等教育機関で、授業の定刻開始、定刻終了、欠課なしが実施されるようになり、併せて中等教育に携わる教員の自主性とその責任範囲について明確化させるものとなった[27][28]。 さらに特筆されるのは、当時珍しかった朝鮮への修学旅行の実施である。これは全く支配者としてではなく、関東大震災での朝鮮人虐殺事件に心を痛めた秋山が、生徒たちの異文化への理解や敬意を育むために考え、実施したことであった[29]。 そして最晩年の世界大恐慌の際には、国際協調の観念を涵養する大切さを生徒たちに説き、デンマークはもとは貧しい国であったが、国民の農地改良によって豊かになった例を紹介し、日本も国民の勤労さえあれば必ず大丈夫であると説き続けたことなどである[30][31]。 つまり2018年現在も続いている日本の高等学校教育の重要な基本部分を構築した1人が秋山であり、教育界でも猛将となった秋山の功労もあって、その後の太平洋戦争、日本の敗戦と占領、学制改革によっても、日本の中等学校教育はその軍国主義的な内容を除いただけで温存され、日本の各中等教育学校の伝統文化がそれぞれの新制高等学校に継承され、今日に至ることになっている[32]。 なお秋山のこれらの教育方針と実践は現在の愛媛県立松山北高等学校の校長室に秋山直筆の「荒怠相誠」(荒んだ心や怠け心を互いに戒め合う)としてなお掲げられ、同校校訓のひとつ「心」と一致し、2018年現在の同校教育方針である「自立・進取・敬愛を重んじ、豊かな人間性と社会性を養うとともに、個性や能力を生かす教育の充実を目指し、平和な国際社会に貢献できる国際感覚豊かな人間を育成する。」とも一致している[33]。 秋山は書に長けており、揮毫を頼まれることが多かった。松山市の近辺には好古の揮毫した石碑等が多数置かれている。愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである[34]。
交友関係
- 陸士旧3期では内山小二郎、柴五郎、青木宣純と親密な友人であった。上原勇作とは親密と言えるほどではなかったが、内山、柴という共通の友人を持ち、上原に高く評価されていたこともあり上原閥であった。本郷房太郎も親友であったが、本郷と仁田原重行が対立し本郷が辞職勧告を受けて予備役入りした際に、教育総監としてこれを阻止することはしなかった。
逸話
- 弟・真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話がでたが、「お父さん、赤ん坊をお寺へやっちゃ厭ぞな。おっつけうちが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるがな」と両親へ懇願した[35]。
- フランス留学中、腸チフスに罹るが、医師の診察を受けずに自力で治癒した。その為に一時的に頭髪が全て抜け、禿げ頭になったという逸話がある。(頭髪は後に復活)
- 非常に質素な生活を送り、贅沢を嫌った。例えば、食事の際のおかずは沢庵漬のみ。真之が居候をしたときも食器は1つで使いまわす。足袋を履かせない。他の兄から貰った縮緬の帯を使わせない。千切れた下駄の鼻緒を直そうとしている真之を見て「暇があるなら裸足で行け」と叱責したと伝えられる。
- 欲の無い人物として知られている。凱旋した際、給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていた。
- 第2回万国平和会議に参加。各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。
- フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。
- 陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
- 福沢諭吉を尊敬していて、自分の子供はみんな慶応義塾に入れた。
系譜
宗清━信久━久良━久軏━軏久━久徴━久敬┳則久 ┣正牟(岡家養子) ┣好古(長兄・則久より家督相続) ┣道一(西原家養子) ┗眞之
栄典
- 位階
- 1880年(明治13年)6月5日 - 正八位[36]
- 1883年(明治16年)4月9日 - 従七位[36]
- 1886年(明治19年)11月27日 - 正七位[36][37]
- 1893年(明治26年)1月10日 - 従六位[36][38]
- 1896年(明治29年)3月24日 - 正六位[36][39]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[36]
- 1902年(明治35年)10月20日 - 正五位[36][40]
- 1907年(明治40年)11月11日 - 従四位[36][41]
- 1912年(大正元年)12月28日 - 正四位[36][42]
- 1916年(大正5年)1月31日 - 従三位[36][43]
- 1919年(大正8年)3月10日 - 正三位[36][44]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)
- 1900年(明治33年)5月31日 - 勲五等瑞宝章[47]
- 1901年(明治34年)10月1日 - 勲三等旭日中綬章・功三級金鵄勲章[48]
- 1905年(明治38年)11月30日 - 勲二等瑞宝章[49]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章・旭日重光章・明治三十七八年従軍記章[50]
- 1913年(大正2年)11月28日 - 勲一等瑞宝章[51]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[52]
- 1918年(大正7年)11月29日 - 旭日大綬章[53]
- 1930年(昭和15年)11月4日(没時叙勲) - 旭日桐花大綬章[54]
- 明治二十七八年従軍記章
- 明治三十三年従軍記章
- 外国勲章佩用允許
- 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章コンメンダトーレ
- 2等赤鷲勲章(en)
- 1等文虎勲章
- レジオンドヌール勲章グラントフィシエ
- 2等聖スタニスラウス勲章(en)
- 2等聖アンナ勲章(en)
子孫
好古の曾孫である秋山純一は陸上自衛隊の三等陸佐であり、第7師団第72戦車連隊第1中隊長を経て[55][56]、現在防衛大学校勤務である(2012年7月26日現在)[57]。
著作
- 『本邦騎兵用兵論』
登場作品
秋山好古を演じた俳優
脚注
注釈
- ↑ 秋山は修業年限2年の師範学校を進級試験制度を使って1年で卒業していることから、本当に薄給のために教師を辞したのか、それともそもそも軍人になるために官立師範学校進学者と卒業者に対する特典(教職に就いて所定年数奉職するか、陸軍士官学校などに進学するかのどちらかで学費全免除とされた。)を求めて官立師範学校に進んだだけであるのかが謎とされ、長年にわたって後者であろうと考えられ、軍人としての評価のみ、北予中学校への赴任も退役職業軍人のいわゆる天下りとして考えられ(軍事教練等が義務付けられていた当時の中学校(男子校)の校長職は退役職業軍人に頼ることが多かったため。)、その教育実践内容と矛盾するところが多かったが(秋山は21世紀現在にも通用する普通教育を考案して実践しており、当時としてはいわゆる反政府的な内容が多く、あまりにも退役職業軍人らしくなかった。)、当時、町村との個別直接契約(2018年現在でのいわゆる非正規雇用)のために、進学希望の師範学校卒業者が選ばなかった一般の小学校、すなわち現在の寝屋川市立南小学校を選んでいた、愛知県からの招聘に応じ、現在の愛知教育大学附属名古屋小学校に赴任していたことから、明確に当初から教員志望であり、教職に就くことによって学費免除を受けようとしたことがわかり、教育者としても学術的研究と評価の対象になり、これによって新たに多くの史料が発見された。なお、20歳から受検資格を得られるとされていた官立師範学校になぜ16歳にして入学できたのかなど、2018年現在も不明な点が多く残されている。
- ↑ 時は大正デモクラシー、秋山の在任中に松山でも大きな学校民主化騒動が起こり、秋山はその仲裁役を引き受けているが、実力行使、犠牲(退校)もいとわず闘うと主張した生徒団体に対し、君たちは自由獲得の崇高な精神で闘っているにもかかわらず犠牲もいとわないとは卑怯である。文部省は校則に従うことのできない者はどんどん退校させろと言っており、喧嘩をしたところで学校は不満分子を退校処分とするだけで動かせない。大きな騒動になれば、学校は最終的に軍をもって鎮圧するだけのことである。学校や校則が気に入らないのであれば自ら退校する、そもそもそのような学校に入学しないことによって闘うべきではないのか。不評な学校は入学者がいなくなって淘汰されるから、改善する以外にはなくなる。このようなつまらぬことをして、その学校や校則を自ら良しとし、自ら学びを求めに来ている者までも巻き添えに犠牲にしてはならないと諭し、事態を収拾させている。
- ↑ ゆえに井上 要は秋山に名前だけでもと請っている。なお2018年現在でも制度上、これは残されており、高等学校長は必ずしも教育職員免許状所有者でなくてもよく、学校常駐の義務もない。
- ↑ その他、秋山は校長在任中も将軍として常に新聞社などの取材対象であり、特にそれらによる記録は明らかに誇張や捏造と考えられるところが多く、2018年現在も新たな史料の発掘作業が続けられている。
- ↑ 当時の旧制中学校の教員は旧制大学修了者、高等師範学校修了者、無資格者などによる構成で、大学のスタイル(高等教育のスタイル)の多くがそのまま中学校に持ち込まれていたためである。秋山も、高等教育は学問、自由闊達なものでなければならないが、中等教育はまだ学問とはならないとして指摘している。
出典
- ↑ 「大阪教育大学学長メッセージ」大阪教育大学ホームページ 2013年8月閲覧。長年、軍人としてのみの評価であったが、史料研究の結果、大阪教育大学は秋山を現代民主学校教育に通じる自校出身の秀逸な教育者として認め、大阪教育大学学長自ら秋山の在籍と卒業の事実を公開して評した。
- ↑ 100文銭として発行され、明治維新後は新貨8厘に通用した。『新訂 貨幣手帳』/株式会社ボナンザ/1982年→同書・pp150-151およびp178による。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 「大阪教育大学学長メッセージ」大阪教育大学ホームページ 2013年8月閲覧。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 「大阪教育大学学長メッセージ」大阪教育大学ホームページ 2013年8月閲覧。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 『官報』第3818号 明治29年3月25日 敍任及辭令
- ↑ 編成としては旅団であったが、実際は歩兵と砲兵を編入していたので戦闘単位としては「支隊」であり秋山支隊と言った。編成は支隊主力、三岳支隊、豊辺支隊、種田支隊の4個支隊からなる。
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション 秋山好古。
- ↑ 学習指導要領「生きる力」現行学習指導要領の基本的な考え方 文部科学省。2018年1月閲覧。
- ↑ 学習指導要領「生きる力」次期学習指導要領 文部科学省。2018年1月閲覧。この中で後述の秋山の実践は2018年現在実施されている現行学習指導要領よりもさらに明確に明文化された
- ↑ 「我が国の学校教育制度の歴史について」平成24年1月 国立教育政策研究所。
- ↑ 『北予中学・松山高商楽屋ばなし』「松山に於ける私人秋山翁」 井上 要 著 1933年 国立国会図書館所蔵。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 『北予中学・松山高商楽屋ばなし』「俄かに光る北予中学」「松山に於ける私人秋山翁」井上 要 著 1933年 国立国会図書館所蔵。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 「大阪教育大学学長メッセージ」大阪教育大学ホームページ 2013年8月閲覧。
- ↑ 『北予中学・松山高商楽屋ばなし』「無言の教、無為の化」「徹底せる私学観」「松山に於ける私人秋山翁」井上 要 著 1933年 国立国会図書館所蔵。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 『北予中学・松山高商楽屋ばなし』「超教育家の識見」井上 要 著 1933年 国立国会図書館所蔵。
- ↑ 「大阪教育大学学長メッセージ」大阪教育大学ホームページ 2013年8月閲覧。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 『北予中学・松山高商楽屋ばなし』「超教育家の識見」井上 要 著 1933年 国立国会図書館所蔵。
- ↑ 『北予中学・松山高商楽屋ばなし』「超教育家の識見」井上 要 著 1933年 国立国会図書館所蔵。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 『北予中学・松山高商楽屋ばなし』「超教育家の識見」井上 要 著 1933年 国立国会図書館所蔵。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ 愛媛県立松山北高等学校公式サイト
- ↑ 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
- ↑ “秋山好古の言葉”. 秋山兄弟生誕地. 公益財団法人常盤同郷会. . 2017-8-19閲覧.
- ↑ 36.00 36.01 36.02 36.03 36.04 36.05 36.06 36.07 36.08 36.09 36.10 『陸軍大将秋山好古外二名特旨叙位ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A11113166400
- ↑ 『官報』第1033号「叙任」1886年12月8日。
- ↑ 『官報』第2858号「叙任及辞令」1893年1月11日。
- ↑ 『官報』第3818号「叙任及辞令」1896年3月25日。
- ↑ 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。
- ↑ 『官報』第7313号「叙任及辞令」1907年11月12日。
- ↑ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
- ↑ 『官報』第1048号「叙任及辞令」1916年2月1日。
- ↑ 『官報』第1979号「叙任及辞令」1919年3月11日。
- ↑ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
- ↑ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
- ↑ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
- ↑ 『官報』第5487号「叙任及辞令」1901年10月15日。
- ↑ 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
- ↑ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ↑ 『官報』第402号 大正2年11月29日 敍任及辭令。
- ↑ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ↑ 『官報』第1898号 大正7年11月30日 敍任及辭令。
- ↑ 『官報』第1157号 昭和15年11月6日 敍任及辭令 。
- ↑ 中隊長は秋山好古のひ孫 北恵庭駐屯地に着任:苫小牧民報社
- ↑ 秋山好古のひ孫は陸自指揮官 研究重ね「信頼されたい」 - 47NEWS
- ↑ 秋山兄弟生誕地 好古の曾孫・秋山純一氏がご来館
参考文献
- 『秋山好古』 水野広徳と松下芳男の共著 秋山好古大将伝記刊行会編 昭和11年(1936年)(復刻:マツノ書店、平成21年(2009年))
- 『秋山好古-明治陸軍屈指の名将』 野村敏雄 PHP文庫、平成14年(2002年)
- 『秋山好古と秋山真之 日露戦争を勝利に導いた兄弟』 楠木誠一郎、PHP、平成21年(2009年)
- 『秋山兄弟好古と真之』 瀧澤中、朝日新書、平成21年(2009年)
- 『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅.4 正岡子規、秋山好古・真之~ある明治の庶民』(中央公論新社、平成19年(2007年) / 中公文庫、平成23年(2011年)3・4月)
- 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治45年7月1日調11ページに記載あり。
関連項目
- 明治の人物一覧
- 愛媛県出身の人物一覧
- 河野氏(秋山氏の本姓とされる)
- 黒溝台会戦
- パウル・フォン・ヒンデンブルク(風体などが似通っていたことからの秋山のあだ名ともなった。川田正澂も参照)
- 坂の上の雲ミュージアム(松山城近くにある)
- 騎兵第1旅団(第2代旅団長)
- 歩兵第22連隊
外部リンク
軍職 | ||
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先代: 平佐是澄 |
陸軍乗馬学校・同騎兵実施学校校長 1998年に改称 第2代:1896年8月15日 - 1900年7月17日 |
次代: 渋谷在明 |
先代: 橋本譲二 |
陸軍獣医学校校長 第5代:1899年10月28日 - 1901年2月23日 |
次代: 渋谷在明 |
先代: 山根武亮 |
清国駐屯軍司令官 第3代:1901年10月25日 - 1903年4月2日 |
次代: 仙波太郎 |
先代: 渋谷在明 |
騎兵第1旅団長 第2代:1903年4月2日 - 1906年2月9日 |
次代: 本多道純 |
先代: 長岡外史 |
第13師団長 1913年1月15日 - 1915年3月15日 |
次代: 安藤巌水 |
先代: 山根武亮 |
近衛師団長 第13代:1915年2月15日 - 1916年8月18日 |
次代: 仁田原重行 |
先代: 井口省吾 |
朝鮮駐剳軍司令官 第5代:1916年8月18日 - 1917年8月6日 |
次代: 松川敏胤 |
先代: 大谷喜久蔵 |
教育総監 第10代:1920年12月28日 - 1923年3月17日 |
次代: 大庭二郎 |