内田百間
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內田 百閒(うちだ ひゃっけん、1889年(明治22年)5月29日 - 1971年(昭和46年)4月20日)は、夏目漱石門下の日本の小説家、随筆家。本名:內田 榮造。
戦後、筆名を內田 百閒と改める。別号は百鬼園(ひゃっきえん)。
「百閒」は、故郷岡山にある旭川の緊急放水路である百間川から取ったもの。別号の「百鬼園」を「借金」の語呂合わせとする説もあるが、本人は一応のところ否定している。
迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。後輩の芥川龍之介に慕われたほか[1]、師である夏目漱石の縁故から夏目伸六と親交が深かったことでも有名。
Contents
年譜
- 1889年(明治22年)5月29日 - 岡山市(現在の中区)古京町一丁目百四十五番地に裕福な造り酒屋「志保屋」の一人息子として誕生。祖父の名から「榮造」と命名。父:久吉、母:峯。
- 1895年(明治28年) - 環翠小学校(現在の岡山市立旭東小学校)入学。
- 1899年(明治32年) - 岡山市岡山高等小学校(現在の岡山市立内山下小学校)入学。
- 1902年(明治35年) - 岡山県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)入学。
- 1905年(明治38年) - 父・久吉死去。実家の志保屋倒産。以後、経済的に困窮する。
- 1908年(明治41年) - 第六高等学校(現在の岡山大学)入学。
- 1910年(明治43年) - 東京帝国大学文科大学入学。文学科独逸文学専攻。
- 1911年(明治44年) - 療養中の夏目漱石を見舞い、門弟となる。小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平らと知り合う。
- 1912年(大正元年) - 中学時代の親友堀野寛の妹、堀野清子と結婚。
- 1913年(大正2年) - 夏目漱石著作本の校正に従事。長男久吉生まれる。
- 1914年(大正3年) - 東京帝国大学独文科を卒業。漱石山房では後輩の芥川龍之介と親交を深める。長女多美野生まれる。
- 1916年(大正5年) - 陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)。
- 1917年(大正6年) - 「夏目漱石全集」(岩波書店)校閲に従事。
- 1918年(大正7年) - 海軍機関学校ドイツ語学兼務教官を嘱託される。同校英語学教官であった芥川の推薦による。
- 1920年(大正9年) - 法政大学教授(予科独逸語部)に就任。祖母・竹が死去。
- 1921年(大正10年) - 短編小説「冥途」等を「新小説」に発表。次女美野生まれる。
- 1922年(大正11年) - 処女作品集『冥途』(稲門堂書店)刊行。
- 1923年(大正12年) - 陸軍砲工学校附陸軍教授を命ぜられる。関東大震災に罹災。前年刊行の『冥途』の印刷紙型を焼失。同震災により機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。
- 1924年(大正13年) - 三女菊美生まれる。
- 1925年(大正14年) - 陸軍士官学校教授を辞任、家族と別居。
- 1927年(昭和2年) - 陸軍砲工学校教授依願免官。
- 1929年(昭和4年) - 東京市牛込区(現在の東京都新宿区)の合羽坂に転居(佐藤こひと同居)。中野勝義の懇請を受けて法政大学航空研究会会長に就任
- 1931年(昭和6年) - 航空部長として、学生の操縦による青年日本号訪欧飛行を計画・実現。なお、出発日は自分の誕生日であった
- 1933年(昭和8年) - 随筆集『百鬼園随筆』(三笠書房)を刊行、重版数十を重ねベストセラーとなる。いわゆる「法政大学騒動」を機に法政大教授を辞職。百閒を追い出した陣営には森田草平や関口存男がいた。以後文筆業に専念。
- 1936年(昭和11年) - 長男・久吉死去(24歳)
- 1939年(昭和14年) - 日本郵船嘱託となる( - 1945年)。同年台湾旅行。百閒原作・古川緑波主演で映画「ロッパの頬白先生」製作。
- 1942年(昭和17年) - 日本文学報国会への入会を拒否。
- 1945年(昭和20年) - 東京大空襲により東京都麹町区土手三番町(現在の千代田区五番町)の居宅焼失。隣接する松木男爵邸内の掘立小屋に移住。後年、このころの日記を『東京焼盡(東京焼尽)』として発表。
- 1948年(昭和23年) - 東京都千代田区六番町6に三畳間が3つ並んだ新居、通称「三畳御殿」が完成。『新方丈記』。
- 1950年(昭和25年) - 大阪へ一泊二日旅行。これをもとに小説『特別阿房列車』執筆。以後『阿房列車』はシリーズ化、1955年まで続き、百閒の戦後代表作となる。
- 1952年(昭和27年) - 鉄道開業80周年を記念して,東京駅一日駅長に就任。
- 1957年(昭和32年) - 愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』をはじめとする随筆を執筆
- 1959年(昭和34年) - 小説新潮に『百鬼園随筆』を連載開始。死の前年まで続く
- 1964年(昭和39年) - 妻・清子死去(72歳)。翌年、佐藤こひを入籍。
- 1967年(昭和42年) - 芸術院会員に推薦されるが断る。辞退の弁は「イヤダカラ、イヤダ 」[2]として知られる
- 1970年(昭和45年) - 最後の百鬼園随筆である「猫が口を利いた」発表。老衰が激しく以降の作品が書けず、これが絶筆となる。
- 1971年(昭和46年)4月20日 - 東京の自宅で老衰により81歳で没する。戒名は覚絃院殿随翁栄道居士[3]。没後『日没閉門』が出版される。
- 東京中野区金剛寺の句碑「木蓮や塀の外吹く俄風 」から、忌日を木蓮忌とも言う。
人となり
- 老舗の造り酒屋の一人息子であり、祖母に溺愛されて育ったこともあってか、非常に頑固偏屈かつわがままで無愛想な人物として知られ、またそのことを自認もしており、よく作品内の素材に使用した。
- 「官僚趣味」であるとも公言しており、位階勲等や規則秩序が好きであった(本人は陸軍士官学校教官時代に従五位拝受)。この好みのためか、秩序の破壊と復讐を行った赤穂浪士が大嫌いだとも書いているが、作家の丸谷才一は「百閒は、自らを吉良上野介によく似た男として認識していたのではないか」と推理している。
- 持ち前のいたずらっ気やユーモアもあって、特に法政大学教授当時の教え子(なお、百閒自身はこの呼称を非常に嫌っており、「学生」と呼んだ)達から慕われた。還暦を迎えた翌年から、教え子らや主治医・元同僚らを中心メンバーとして、毎年百閒の誕生日である5月29日に摩阿陀会(まあだかい)という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会の由来は、「百閒先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。ここにも百閒一流のユーモアと諧謔を垣間見ることができる。黒澤明監督による映画「まあだだよ」はこの時期を映画化したもの。なお、この摩阿陀会に対する返礼として、百閒は自腹で御慶の会を正月三日に同じ会場(東京ステーションホテルがその主な会場となった)で催した。
- 旧制岡山県立中学校(後の県立第一岡山中学校、現・県立岡山朝日高校)在学当時に父の死により実家の造り酒屋が没落し、それからは生涯金銭的には恵まれなかったようである。旧制第六高等学校(岡山大学の前身校)入学時にも、生徒は原則的に全員入寮が義務づけられているのに、内田家では寮に入る金が捻出できず、学校当局の特別許可をもらって自宅から通学していたほどだった。著作には借金を主題としたものも多いが、借金の大元の原因は明らかにされていない。後年は借金手段を「錬金術」と称し、長年の借金で培われた独自の流儀と哲学をもって借金することを常としていた。「錬金帖」という借金ノートも現存している。
- 文学上の師匠に当たる夏目漱石や、琴、酒、煙草、小鳥、鉄道、猫、郷里の銘菓大手まんぢゅうなどを愛し、それぞれについて多くの著作が残されている。
- 特に琴には岡山時代から熱心に取り組み、上京後は、「春の海」などの作曲で知られる宮城道雄に師事。最初は師弟関係であったが、のちに二人は大の親友となり、彼との交流を描いた随筆は数多い。また、宮城道雄の著書には百閒指導のものが多い。1956年(昭和31年)6月25日未明、宮城が大阪行夜行急行「銀河」から転落死した後、百閒は追悼の意味を込めて遭難現場となった東海道本線刈谷駅を訪問し、『東海道刈谷驛』を記している。
- 鉄道に関しては「目の中に汽車を入れて走らせても痛くない」というほど愛しており、代表的著作にも国鉄職員であった「ヒマラヤ山系」こと平山三郎をお供に、全く無目的、ただひたすら大好きな汽車に乗るためだけの「鉄道旅行」を実行した鉄道紀行『阿房列車』シリーズなどがある。ことにその第一作である『第一阿房列車』は、戦後の百閒の代表作となっており、作家阿川弘之、鉄道紀行作家の宮脇俊三も、自らの先達として百閒を挙げている(鉄道紀行の先達としてのみならず、両名とも、文章の達人・名人として、百閒を非常に高く評価している点が特筆される)。 熊本県八代市にある松濱軒(しょうひんけん)に好んで滞在し、東京・八代間を平山と共に何度も列車で往復した。松濱軒は旧八代城主の別邸で、百閒訪問当時は旅館として営業していた。前述の『東海道刈谷驛』も八代行きの復路の出来事を記したもの。酒豪らしく、平山とともに行き帰りの間じゅうはずっと酒を飲んでおり、酒を入れて持参した魔法瓶はすぐ空になり、帰りは食堂車に何時間も居座る始末であった。四国旅行のときは風邪をひいてしまった。この阿房列車シリーズは、車中気味悪い相手が同席した上に、給仕(百閒は「ボイ」と呼んだ)の態度に憤慨した九州旅行を最後に完結した。なお国鉄側も、百閒に対し新編成列車の試乗に招待する、旅先で駅長みずから歓待し宿の手配を行うなどの便宜を図っている。
- 故郷の岡山県への愛郷心は人一倍強く、岡山での幼少時の思い出を幾度も繰り返し書き続け、阿房列車の旅では国鉄岡山駅のホームを必ず踏み、窓から風景を凝視するほどであった。大手まんぢゅうをはじめ、岡山の食べ物にも強く思い焦がれていた。しかし「移り変わった岡山の風景は見たくない」「大切な思い出を汚したくない」として、1942年(昭和17年)の恩師の葬儀(駅からタクシーで乗りつけ帰路はそのままとんぼ返りした)以外は決して岡山に帰ろうとはしなかった。死後、遺志により分骨されて先祖代々の墓に納められ、やっと帰郷が叶うこととなった。
- 晩年には飼い猫のノラとクルツを溺愛した。ノラが失踪し、その後に居ついたクルツも病死してしまい、その悲しみを綴った『ノラや』、『クルやお前か』もまた代表作の一つとなっている。この時ノラについて「今頃は三味線の胴で突っ張っていらあ」と酔った声での電話があったというが、2011年(平成23年)6月、電話を入れたのは友人でドイツ文学者の高橋義孝だったことが、発見された高橋の多田基(ただ・もとい)宛書簡から判明した(もっとも、高橋自身は以前から著作等でこの事実を公表してはいた)。百閒はこの電話を受けた時、悲憤のあまり電話口で泣き崩れ、高橋はこれが原因でしばらく出入り禁止になったという[4]。
- 執筆においては旧字・旧仮名遣いを固守し続け、没後においてもこれを守り通していた。言葉遣いのわずかな違いにも厳しかったことは、弟子の平山三郎『百鬼園先生雑記帳』(三笠書房)[5]での一文からも窺い知ることができる。生誕百年に当たる1989年(平成元年)になり、弟子の小説家中村武志の判断によって、著作権者の遺族の許可の下に、文庫に限っては特殊なものを除いて新字・新仮名遣いで発行されるようになった。
- 女優高峰秀子は、最も愛読する作家として內田百閒の名を挙げている。
著作
主な著書
- 『冥途』(稲門堂書店、1922年)
- 『百鬼園随筆』(三笠書房、1933年)
- 『續百鬼園随筆』(三笠書房、1934年)
- 『旅順入城式』(岩波書店、1934年)
- 『無弦琴』(中央公論社、1934年)
- 『王様の背中』(楽狼書院、1934年)
- 『百鬼園俳句帖』(三笠書房、1934年)
- 『百鬼園日記帖』(三笠書房、1935年)
- 『鶴』(三笠書房、1935年)
- 『凸凹道』(三笠書房、1935年)
- 『有頂天』(中央公論社、1936年)
- 『續百鬼園日記帖』(三笠書房、1937年)
- 『随筆新雨』(小山書店、1938年)
- 『居候匆々』(小山書店、1938年)
- 『北溟』(小山書店、1938年)
- 『丘の橋』(新潮社、1939年)
- 『鬼苑横談』(新潮社、1939年)
- 『菊の雨』(新潮社、1939年)
- 『百間座談』(三省堂、1941年)
- 『船の夢』(那珂書店、1941年)
- 『沖の稲妻』(新潮社、1942年)
- 『百鬼園俳句』(青磁社、1943年)
- 『戻り道』(青磁社、1944年)
- 『御馳走帖』(榜葛刺屋書房、1946年、新稿・三笠書房、1968年)
- 『新方丈記』(新潮社、1947年)
- 『百鬼園夜話』(湖山社、1949年)
- 『贋作吾輩は猫である』(新潮社、1950年)
- 『随筆億劫帳』(河出書房、1951年)
- 『實説艸平記』(新潮社、1951年)
- 『鬼園の琴』(三笠書房、1952年)
- 『阿房列車』(三笠書房、1952年)
- 『無伴奏』(三笠書房、1953年)
- 『第二阿房列車』(三笠書房、1954年)
- 『禁客寺』(ダヴィット社、1954年)
- 『東京焼盡』(講談社、1955年)
- 『第三阿房列車』(講談社、1956年)
- 『いささ村竹』(筑摩書房、1956年)
- 『鬼苑漫筆』(三笠書房、1956年)
- 『ノラや』(文藝春秋新社、1957年)
- 『東海道刈谷驛』(新潮社、1960年)
- 『つはぶきの花』(筑摩書房、1961年)
- 『けぶりか浪か』(新潮社、1962年)
- 『クルやお前か』(東都書房、1963年)
- 『波のうねうね』(新潮社、1964年)
- 『馬は丸顔』(朝日新聞社、1965年)
- 『麗らかや』(三笠書房、1968年)
- 『夜明けの稲妻』(三笠書房、1969年)
- 『残夢三昧』(三笠書房、1969年)
- 『日没閉門』(新潮社、1971年)
新編再刊・全集
- 『現代知性全集27 內田百閒集』(日本書房、1959年)
- 『私の「漱石」と「龍之介」』(筑摩書房〈筑摩叢書〉、1965年)
- 『內田百閒全集』(全10巻、講談社、1971-73年)
- 『現代の随想2 內田百閒』 平山三郎編(彌生書房、1981年)
- 『新輯 內田百閒全集』(全33巻、福武書店、1986-89年)
日記
作品集(文庫再刊)
- 旺文社文庫『內田百閒文集』(全39巻、旺文社、1979-87年)
- 福武文庫『內田百閒文庫』(全29巻、福武書店、1989-94年)、※以下は各・新字新かな遣い、アンソロジーによる文庫オリジナル版も刊行。
- ちくま文庫『內田百閒集成』(全24巻、筑摩書房、2002-03年)。主に旺文社版+福武版の新装再刊
- 中公文庫で、「ノラや」、「一病息災」、「御馳走帖」ほか(3冊は新装改版、他はアンソロジー)
- 新潮文庫で、「阿房列車」(1・2・3)、「百鬼園随筆」が新版再刊
- 他に岩波文庫(種村季弘編)、講談社文芸文庫(池内紀編)、ちくま文庫で各2冊。
関連作品
- 映画
- ロッパの頬白先生(1939年、東宝、監督:滝村和男、主演:古川緑波、原作:內田百閒)
- 百閒ファンを公言する高峰秀子はこの作品に出演している。百閒本人は少なくとも日記等によればこの映画はあまり好きではなかったらしい。
- ツィゴイネルワイゼン(1980年、東宝、監督:鈴木清順、主演:原田芳雄、原作:內田百閒『サラサーテの盤』)
- まあだだよ(1993年、大映、監督:黒澤明、主演:松村達雄 內田百閒と門下生を描いた作品)
- 福武文庫版「まあだかい」では解説に黒澤明のインタビューを収録。そのなかで「夢」の赤富士のシーンは「東京日記」からの着想だと発言している。
- 眠り姫(2007年、charm point、監督:七里圭、主演:つぐみ 百閒の小説『山高帽子』を原案とする山本直樹の漫画『眠り姫』の映画化作品)
- 漫画
- 絵本
- 『冥途』(金井田英津子画 2002年)
- 音楽
內田百閒文学賞
岡山県および岡山県郷土文化財団が主催する、岡山ゆかりの作品に与えられる文学賞である。百閒生誕百年を記念して、1990年(平成2年)度に創設された[7][8]。
"「内田百間文学賞」"
脚注
- ↑ 芥川龍之介「内田百間氏」『芥川龍之介全集 第十五巻』岩波書店、1997年1月。
- ↑ 「イヤダカラ、イヤダ」は芸術院会員推薦を辞退する際、当時院長であった高橋誠一郎氏の元へ託したメモがその後簡略化されて伝聞されたものと言われている。
- ↑ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)48頁
- ↑ 愛猫「三味線に」酔って電話 独文学者、告白書簡 朝日新聞 2011年6月6日
- ↑ 著者平山三郎は、関連著作が『実歴阿房列車先生』(下記)、『阿房列車物語』(論創社)、『詩琴酒の人 百鬼園物語』(小沢書店)など多数著した。
また『現代の随想2 內田百閒集』(彌生書房、1981年(昭和56年))を編み、旺文社文庫で手紙・座談と『回想の百鬼園先生』を編んでいる。 - ↑ 各回想記、平山三郎は『實歴阿房列車先生』(初刊・朝日新聞社)、中村武志は『百鬼園先生と目白三平』、増補し『内田百閒と私』(岩波書店〈同時代ライブラリー〉、1993年)。
- ↑ “第十三回岡山県「內田百閒文学賞」の作品募集を開始します”. 岡山県. . 2016閲覧.
- ↑ “內田百閒文学賞”. 岡山県郷土文化財団. . 2016閲覧.
関連項目
- 安住院(內田百閒墓所)
- 岡山県出身の人物一覧
- 大日本帝国陸軍文官一覧
- 大日本帝国海軍文官一覧
外部リンク
典拠レコード: