徳地町
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とくぢちょう 徳地町 | |
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廃止日 | 2005年10月1日 |
廃止理由 |
新設合併 山口市、徳地町、秋穂町、小郡町、阿知須町→山口市 |
現在の自治体 | 山口市 |
廃止時点のデータ | |
地方 |
中国地方 山陽地方、山陰地方 中国・四国地方 |
都道府県 | 山口県 |
郡 | 佐波郡 |
団体コード | 35381-7 |
面積 | 290.35km2 |
総人口 |
7,946人 (2004年10月1日) |
隣接自治体 | 山口市、防府市、周南市、阿武郡阿東町、島根県鹿足郡柿木村 |
外部リンク | 徳地町 |
徳地町(とくぢちょう)は、山口県中部にあった町。一町で佐波郡をなしていた。非常に広い地域で、山口市全域の40%近くを占める[1]。
2005年10月1日、山口市および吉敷郡3町(小郡町・秋穂町・阿知須町)と合併(新設合併)し、新たに山口市となり消滅した。
Contents
地理
佐波川上流の中国山地山間部にある。滑(なめら)国有林をはじめとする山林が総面積の約9割を占める。
隣接している自治体
歴史
太古には朝廷の直轄地で、徳地県(あがた)が置かれ、伝説では、出雲種族が移民し開発した一帯で、景行天皇の熊襲征伐の際には手助けをしたという[2]。古くから良質の木材の産地として知られ、鎌倉時代には、1180年に焼失した華厳宗大本山である東大寺(奈良県奈良市)の復興に使う木材をここから切り出したと言われているとのこと。※部材をどこの部分に使われたかは不明である。
森林地帯であることから当時この一帯には生業がなく、東大寺の木材調達のために訪れた重源が村人の貧困を憐れみ、紙や茶の製造を教えたと伝えられている[3]。以降、紙製造は地域の産業となり、毛利藩政時代には藩の事業として大いに発展、徳地紙は名産品として全国に知れ渡った。紙の買い付けに北前船の商人たちが訪れ、街は賑わったが[4]、明治に入り藩の後ろ盾がなくなるとともに衰退していった[5]。
昭和初期には、出雲村、八坂村、柚野村を下徳地、島地村、和田村、串村を上徳地と呼んでいた[3]。昭和、平成と合併を繰り返し、山口市に編入された。旧徳地町地域は、過疎化が進み、限界集落となっている[1]。
沿革
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 出雲村・島地村・串村・八坂村・柚野村が合併して発足。
- 2005年(平成17年)10月1日 - 山口市・吉敷郡秋穂町・阿知須町・小郡町と合併し、改めて山口市が発足。 日徳地町廃止。
歴代町長
産業
稲作と肉用牛の生産、および林業が盛んである。山林の樹種はスギ・ヒノキ・マツなどの針葉樹が大半で、コウゾやミツマタなど紙の原料となる木もある。ここで作られる和紙に徳地和紙文化が今でも残っている。
交通
鉄道路線
バス路線
道路
- 高速道路
- 一般国道
- 都道府県道
主要施設
- 山口県立佐波高等学校
- 長者ヶ原国立青少年自然の家
観光スポット
出身者
- 松浦晃一郎 - 国際連合教育科学文化機関(Unesco)事務局長。島地出身。
- 松原治 - 紀伊國屋書店代表取締役会長兼CEO。
- 宇多田照實 音楽プロデューサー、コンポーザー。宇多田ヒカルの父。藤木出身で、宇多田家代々の墓は藤木に存在し、娘のヒカルも墓参に訪れたことがある。
- 林タキノ - 与謝野鉄幹の2番目の妻。
- 島地黙雷
- 栃忠秀昭 - (十両力士)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 「限界集落論の批判的検討 : 地域振興から社会福祉へ : 山口市徳地地域の高齢者生活調査を中心に」畑本裕介 山梨県立大学人間福祉学部紀要 5, 1-15, 2010-03-05
- ↑ 德地縣と出雲種族『郷土物語』吉村藤舟著 (郷土史研究会, 1935)
- ↑ 3.0 3.1 人德地杣入と生業獎勵『郷土物語』吉村藤舟著 (郷土史研究会, 1935)
- ↑ 「重源上人から山頭火まで : 徳地町の語り部・赤木森さん大いに語る」安渓 遊地 , 安渓 貴子 山口県立大学國際文化學部紀要 11, 55-67, 2005-03-25
- ↑ 『関門地方経済調査』市立下関商業学校編 (市立下関商業学校, 1935)
外部リンク
- 徳地町(廃止)