台湾省
テンプレート:中華民国の一級行政区画 台湾省(たいわんしょう)は、中華民国の省の一つ。中華民国政府の実効支配地域(中華民国自由地区)の多数を占めるが、自由地区には福建省の金馬地区(金門県・連江県)も含まれ、かつ台湾島内の台北市、新北市、桃園市、台中市、台南市および高雄市は直轄市で台湾省の管轄外にある。そのため、台湾省と「政治実体としての台湾」(自由地区)とは一致せず、自由地区を指す場合は主に台湾地区と表記される。
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概要
1947年の省政府設置以降は、中国国民党が政権を握る台湾国民政府下で一党独裁の統治を行なわれ、地方自治行政は有名無実化していた。1990年代になると政治の民主化が進んだが、同時に中央政府の行政効率化も進められ、1998年以降は地方自治体としての機能を「凍結」(中央政府の出先機関に組み込み)させられている。
1949年以降、中国大陸を統治する中華人民共和国政府も台湾省の領有権を主張しており、並存する二つの「中国」政府が互いに台湾省の領有を主張するという政治問題(台湾問題)を生み出している。
地理
台湾省は略称を「台」(たい)と称し、中国大陸とは台湾海峡を隔てた場所に位置する台湾島の大部分と周辺島嶼、及び澎湖諸島を領域とする。北は東シナ海、東は太平洋、南西は南シナ海に面しており、北西は台湾海峡を挟んで福建省と、東は日本と、南はバシー海峡を挟んでフィリピンと接している。
台湾島の地理についての詳細は、台湾#地理を参照のこと。
省設置の経緯
当初、台湾と澎湖諸島の行政区分は歴史的に福建省とされていたが、19世紀後半になると清朝は日本などに対する国防上の観点から台湾の必要性を認識し、1885年に台湾省を台湾に新設した。しかし、1895年に日清戦争で清が日本に敗北すると、下関条約によって清朝は台湾と澎湖諸島を日本に割譲することが取り組められ、台湾省は設置からわずか10年で廃止された。その後、日本政府は台湾を台湾総督府の統治下に置いたが、1945年に日本が第二次世界大戦に敗北したことによって、台湾は連合軍の委託を受けて台湾に進駐してきた中華民国軍の統治下に入り、50年にわたる台湾総督府の統治が終焉した。
台湾に軍を進駐させた中華民国・南京国民政府は、1943年のカイロ宣言における取り決めを基にして台湾を自国領に編入し、台湾省行政長官公署を設置して統治に当たらせていた。しかし、行政長官公署の統治に対して台湾住民は反発を募らせていき、1947年には 二・二八事件が勃発するまでになった。その為、中華民国政府は事件鎮圧後に行政長官公署を廃止し、1947年5月17日に台湾省を設置することで台湾の統治体制をより強固なものとしていった。だが、 国共内戦における中華民国軍の敗北によって、 1949年10月1日に中国共産党が中華人民共和国政府を建国すると、南京国民政府は中央政府機構を同年12月に全て台湾島へ移して共産党との内戦を続け、同時に冷戦における共産主義の防波堤という役割も果たしていった。
なお、一方の中華人民共和国における建国後の台湾省の扱いについては、台湾省 (中華人民共和国)に記載されているので、そちらを参照のこと。
台湾国民政府時代
中華民国の台湾省は、1947年の設置時点では清朝時代の台湾省と所轄区域が同一であり、省都も台北市に置かれていた。しかし、1949年12月に国共内戦に敗れた南京国民政府が首都を台北市に移転し、1955年の大陳島撤退作戦までに現在の自由地区以外の地域を中国人民解放軍に制圧されると、中華民国政府の統治区域と台湾省の統治区域がほぼ同一の区域として重複するようになり、台湾省政府が本来行うべき地方自治業務に支障を来すようになった(省の役割については中華民国の行政区分を参照)。台湾国民政府は地方行政の円滑化を目的として、1957年には省政府を台北市から台湾中部にある南投県南投市の中興新村に移転した。更に1967年に台北市を、1979年に高雄市をそれぞれ政府直轄市に格上げすることで台湾省から分離した。
中央政府と台湾省の所轄区域がほぼ一致して非効率であるにもかかわらず、台湾国民政府が台湾省を設置し続けたのは「中国全土を代表する政府」という立場を政府が採り続け、将来中国大陸の領土を奪還することを想定していたためである。その後1990年代になると李登輝中華民国総統(任期:1988年~2000年)の民主化政策により、1994年に台湾省政府の首長(台湾省政府主席)が、1996年に中華民国総統が相次いで民選化された。しかし、これにより国土の97%、人口の85%(1997年[1])から選出される台湾省の新首長(台湾省省長)の得票数が総統のものを上回る可能性が生じた。
政府は、1997年の憲法増修条文第四次改憲によって、1998年12月20日をもって台湾省の省としての機能を「凍結」した。その結果、省政府は行政院の出先機関として中央政府に組み込まれ、同時に地方選挙で選出されていた省長と省議会もそれぞれ省主席と省諮議会に改組された。この一連の動きを、台湾では「虚省化」と呼んでおり、以降の省主席や諮議会議員は行政院長が指名し、総統が任命する研究・儀礼的活動が主な業務の存在となっている。
なお失職する省議員への救済策として、立法院の定数は台湾省議会の定数分増加し、164名から225名となった。これは2004年の第七次改憲によって立法委員定数が半数に削減されるまで続いた。
また、台湾省の下にあった16県5省轄市は、「凍結」以降は中央政府(内政部)が直接監督することになった。ただし、省レベルの税収や業務は中央政府に移管され、県や省轄市の機能や財政に大きな変化はない。
虚省時代の台湾省
省政府の機能が「凍結」された後も、台湾省の名は行政機関の名称等に残っていた。だが、行政機能の変遷と共に「台湾省」を名乗っていた一部機関等も徐々に改名されており、2007年5月には上水道事業を行う台湾省自来水公司(臺灣省自來水公司)から、2013年1月には台湾省北(中、南)区国税局(臺灣省北(中、南)區國稅局)から、それぞれ台湾省の名が外された。また、自動車ナンバーからも、2007年に登録地名自体が削除されたため、台湾省ナンバーが消滅した。
行政区画
中華民国台湾省の管轄行政区画は3省轄市11県である。
脚注
- ↑ 若林正丈『台湾の政治』219p(東京大学出版会 2008年)
関連項目
- 台湾省を実効支配する政府に関する内容は中華民国
- 中華民国の地方自治体としての台湾省に関する項目は下記の通り
- 中華民国の公式な行政区分については中華民国の行政区分
- 現在の中華民国の実効支配地域(台湾地区)の行政区分については台湾の行政区分
- 1885年から1895年まで清が設置していた行政区分の台湾省については清朝統治時代 (台湾)
- 中華人民共和国の「台湾省」については台湾省 (中華人民共和国)
外部リンク
- 中華民国・台湾省政府 ※1998年12月20日をもって、政府機能を「凍結」。