大本営

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ファイル:Imperial general headquaters meeting.jpg
昭和天皇御前の大本営会議の様子(1943年4月29日付朝日新聞掲載)

大本営(だいほんえい)は、日清戦争から太平洋戦争大東亜戦争)までの戦時中に設置された日本軍海軍)の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令=大陸命、大本営海軍部命令=大海令)として発令する最高司令部としての機能を持つ。本来「本営」とは総司令官が控える場所(中世の本陣と同義)で、これを更に仰々しい名にしたもの。

日清戦争日露戦争で設置され、それぞれ終戦後に解散した。日中戦争支那事変)では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま、太平洋戦争終戦まで存続した。連合国からは「Imperial General Headquarters」と呼ばれた。

太平洋戦争末期の敗色が濃厚になるにつれて、さも戦況が有利であるかのような虚偽の情報が大本営発表として流され続けた。このことから現在では、権力者が自己の都合の良い情報操作をして虚偽の情報を発信することを揶揄した慣用として「大本営」「大本営発表」という表現が用いられることがある。

なお、陸海軍連合大演習および陸軍特別大演習においては司令部でなく、天皇行幸行在所(あんざいしょ)を「大本営」と称した[1]

現在は防衛省市ヶ谷地区に庁舎遺構が残っている。

概要

大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関として、1893年5月22日に公布された戦時大本営条例[2]によって法制化された。日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。1893年制定の海軍軍令部条例により平時においてのみ陸海軍の軍令が対等となったばかりであり、戦時大本営条例により戦時における海軍の軍令をも統括していた陸軍の参謀総長のみが幕僚長とされた。同年9月15日、戦争指導の拠点を広島に置くために天皇が移り、大本営も広島に移った(広島大本営)。1896年4月1日大本営解散の詔勅によって解散した。

日露戦争における大本営は1904年2月11日に設置された。このときは1903年の大本営条例の全部改正[3]により軍事参議院が設置され、戦時においても軍令機関が対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされた。1905年12月20日解散した。

日中戦争支那事変)は「事変」であり、正式には戦争ではなかった(とされていた)ため、1937年11月18日、大本営設置を戦時に限定していた大本営条例は廃止され[4]、新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令」が制定された[5]1937年11月20日、大本営が設置され、そのまま太平洋戦争に移行した。戦争末期には長野県松代町(現長野市松代町)に建設した地下壕へ大本営の機能を移転する計画も立てられたが(松代大本営)、未完成のまま終戦を迎え、1945年9月13日に廃止された。「大本営令」は、同年11月30日に廃止された[6]

組織

大本営の組織の実体はほぼ、統帥部たる参謀本部(大本営陸軍部)および軍令部(大本営海軍部)であった。ただし若干ながら、大本営に属さない統帥部員もいた。

大本営会議は天皇臨席のもと、陸海軍の統帥部長(参謀総長軍令部総長)、次長(参謀次長軍令部次長)、それに第一部長(作戦部長)と作戦課長によって構成された。統帥権の独立により、内閣総理大臣外務大臣ら、政府側の文官は含まれない[7]。また軍人ながら閣僚でもある陸軍大臣海軍大臣は、軍政との関連で列席できたが、発言権はなかった。さらに大元帥たる天皇は、臨席はしても発言しないのが慣例であった。

日中戦争時には政軍間の意思統一を目的として、大本営政府連絡会議(一時期、大本営政府連絡懇談会に改称)が設置された。ただ議長たる内閣総理大臣含め、誰もイニシアティブを発揮し得ず、さらに陸海軍のセクショナリズムも作用して、戦争指導や情報共有に重大な欠陥をもたらした。1944年小磯内閣発足後、最高戦争指導会議に改められるも、一元的な戦争指導はついに実現しなかった。

戦果に関する広報も、陸海軍部それぞれの報道部で扱っていた。当初は航空写真を用いて詳密に説明するなど信頼度は高かった。しかし1942年中盤以降の戦局悪化に伴い、戦果を過大に被害を軽微に偽ったり、撤退を「転進」、全滅を「玉砕」と言い換えるなど美化して聞こえをよくするなどプロパガンダに走るようになった(大本営発表)。

また陸海軍部同士だけでなく、内部の交流・意思疎通も、昭和期になると希薄化した。特に作戦参謀と情報参謀の対立は激しく、敵軍の動向を軽視し、無謀な作戦を立案する悪癖を生んだ。これは、作戦参謀は恩賜組(陸大卒業上位5位以内)で固められていたのに対し、情報参謀はそうではなかったこと等から、作戦参謀が情報参謀を軽視していたことにも起因する[8]と言われる。軍令部の情報担当は「くされ士官の捨てどころ」と自らを卑下した[9]。なお、作戦参謀と情報参謀の対立が悪影響を及ぼした一例としては、作戦参謀が作戦を現場の指揮官に伝達するときに、現地情勢および相手の戦闘方法の情報を情報参謀が伝達するようになったのは敗戦が濃厚となってきた1944年6月から、という事が挙げられる(それまでは現地情報などの伝達は一切なかったので、自力で現地取材を行うか、引き揚げてきた同期等から情報収集していた)。

陸軍部

  • 陸軍参謀部
    • 総務課(人事・経理・文書)
    • 第1部
      • 第1課(教育:課長は教育総監部第1部第2課長の兼任 ちなみに第1部が1課から3課までを、第2部が4課から6課までを所掌していた)
      • 第2課(作戦・防衛・兵站)
    • 第2部
      • 第4課(1945年4月30日廃止。業務は第12課が引き継ぐ)
      • 第5課(ロシア情報)
      • 第6課(欧米情報)
      • 第7課(支那情報)
    • 第3部
      • 第10課(運輸)
      • 第11課(通信)
    • 第4部(1945年4月30日から部長は陸軍省軍務局長が兼任)
      • 第3課(編成・動員:課長は1945年4月30日から陸軍省軍務局軍事課長が兼任)
      • 第12課(戦争指導:課長は陸軍省軍務局軍務課長の兼任)
    • 第14課(軍政。1943年2月13日廃止)
    • 第16課(ドイツ・イタリア情報。1943年10月15日廃止)
  • 中央特種情報部
  • 陸軍副官部(長は高級副官と称し、参謀本部総務課長が兼ねた)
  • 兵站総監部
    • 総監(参謀次長が兼任。1945年5月16日から陸軍次官が兼任)
    • 参謀長 (参謀本部第1部長が兼任)
    • 運輸通信長官部 (長官は参謀本部第3部長)
      • 野戦高等電信部
      • 野戦高等郵便部
    • 野戦兵器長官部(1937年11月-1943年10月は陸軍省兵器局長、以後は陸軍兵器行政本部総務部長の兼任)
    • 野戦航空兵器長官部(航空本部第2部長の兼任)
    • 航空通信保安長官部
    • 野戦経理長官部(長官は陸軍省経理局長)
    • 野戦衛生長官部(長官は陸軍省医務局長)
  • 陸軍報道部(1945年6月2日、大本営報道部に統合)
  • 陸軍管理部(部長は参謀本部総務課長)

海軍部

  • 海軍参謀部
    • 第1部(作戦・戦争指導・国防方針・演習)
      • 第1課(作戦)
    • 第2部(軍備計画・兵器整備・運輸・補給)
    • 第3部(情報計画・海外情報)
    • 第4部(通信・暗号)
  • 海軍副官部
  • 海軍通信部
  • 海軍戦備考査部
  • 海軍戦力補給部(1944年5月20日設置)
  • 海軍総合部(1945年5月27日設置)
  • 海軍戦備部(1945年5月27日設置)
  • 海軍戦力練成部(1945年5月27日設置)
  • 海軍報道部(1945年6月2日大本営報道部に統合)

脚注

  1. 遠藤芳信「日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(12) -1893年戦時編制の成立と帝国全軍構想化路線の展開・変容-」、『北海道教育大学紀要 人文科学・社会科学編』第60巻第2号、北海道教育大学2010年2月、 28頁、 ISSN 13442562、. 2013閲覧.なお、演習における大本営設置は1890年の陸海軍聯合大演習からであり、戦時大本営条例よりも古い。
  2. 1893年(明治26年)5月22日勅令第52号「戦時大本営条例」
  3. 1903年(明治36年)12月28日勅令第293号「戦時大本営条例」
  4. 1937年(昭和12年)11月18日勅令第658号「戦時大本営条例廃止ノ件」
  5. 1937年(昭和12年)11月18日軍令第1号「大本営令」
  6. 1945年(昭和20年)11月30日陸軍省、海軍省達第1号
  7. 日清戦争時には内閣総理大臣伊藤博文・外務大臣陸奥宗光が、明治天皇の特旨により列席した
  8. 堀栄三著作参照
  9. 大井篤『海上護衛戦』「22.殴り込み決戦か護衛強化か」(角川文庫、2014年)

参考文献

関連項目