難波
難波(なんば)は、大阪府大阪市中央区・浪速区の地域名称。または、中央区の町名。本項では概ね同区域にかつて所在した大阪府西成郡難波村(なんばむら)についても述べる。
Contents
概要
難波は大阪の二大繁華街の一つであるミナミに包含され、一般的にはその玄関口となる難波駅(南海難波駅)や大阪難波駅(近鉄・阪神難波駅)周辺の繁華街を指す。ミナミが島之内の西半(心斎橋駅界隈)から難波駅界隈までの広範な地域を指すのに対し、難波は概ね道頓堀以南・千日前以西の地域を指し、老舗や高級店が多い心斎橋と比べ、ミナミの玄関口でもある難波は多種多様な商店が混在する。
場合によっては道頓堀・千日前・宗右衛門町・湊町・日本橋を含めた地域まで指すこともあり、今宮・木津(今宮戎駅・大国町駅付近)といった南隣の地域にも難波を冠する施設等が散見される。JR難波駅は難波駅や大阪難波駅と地下連絡通路などでつながっているが、長年親しまれてきた湊町駅という旧駅名と所在地の浪速区湊町という町名から、同駅周辺は現在でも湊町と呼ばれることが多い。ただし、本来の湊町は道頓堀川南岸の一画に過ぎず、現行住居表示の湊町は大半がもと難波である。
範囲
現在の町名で難波と付くものには、
がある。
大阪市営地下鉄の難波駅(四つ橋線は除く)・大阪難波駅・高島屋・なんばマルイが難波に、千日前道具屋筋商店街やなんばグランド花月(吉本会館)、YES-NAMBAビル(よしもと漫才劇場、NMB48劇場)が難波千日前に、なんばパークスや大阪府立体育会館が難波中に所在する。南海難波駅と同駅ホーム下に位置するなんばCITYは難波と難波中に跨っている。
沿革
江戸前期(難波村の移転)
難波の地名の由来となった西成郡難波村は、もともと南船場・島之内・下船場・堀江の一帯にあり、上難波村(南船場)と下難波村(その他)に分かれていた。現在ではほとんど難波と認識されることのない南船場に、難波別院・難波神社があるのはこのためである。江戸時代初期に行われた大坂城下の拡張に伴い、上難波村はわずかに飛地としてその姿を残す程となり、大坂城下が幕府直轄地となる1619年(元和5年)には上難波村の人口は0人となっていた。下難波村は元和・寛永年間に行われた新町遊廓の開発に伴い、道頓堀川以南(現・浪速区元町)へ移転となった。1650年(慶安3年)には木津川沿いの地域が西成郡西側町となり、下難波村から分割された。なお、南船場には上難波○○町という町名が大正初期まで、堀江には新難波○○町という町名が明治初期まで見られた。そして、1700年(元禄13年)に上難波村飛地が下難波村に編入され、難波村と改称された。江戸時代の難波村は藍の産地で知られ、濃色に優れる阿波産の藍に対して難波産の藍は薄色に優れ、難波水藍とも呼ばれた。
江戸後期(難波新地の誕生)
難波村のうち最も早く市街化されて大坂三郷へ組み込まれたのが、概ね現在の中央区難波にあたる難波新地(なんばしんち)である。大阪史上最大級の大火となった1724年(享保9年)の享保の大火の後に、天満橋南詰の本堺町・京橋一丁目・京橋北詰の相生西町と相生東町の一部が火除地となったため、その移転先として道頓堀の南西に元堺町・元京橋町・元相生町の3町が置かれた。その後1765年(明和2年)にこれら3町と元伏見坂町(通称:坂町)の南側が開発され、ここに難波新地一丁目~三丁目が形成された。
明治前期(難波新地の再編)
なんばむら 難波村 | |
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廃止日 | 1897年4月1日 |
廃止理由 |
編入合併 大阪市(南区)、西成郡難波村、西浜町、木津村(一部)、今宮村(一部)、東成郡天王寺村(一部)、生野村(一部) → 大阪市(南区) |
現在の自治体 | 大阪市 |
廃止時点のデータ | |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 大阪府 |
郡 | 西成郡 |
隣接自治体 |
大阪市(南区、西区) 西成郡三軒家村、川南村、西浜町、木津村、今宮村 |
明治に入ると、1872年(明治5年)に坂町が南坂町に、難波新地一丁目が南坂裏町に改称され、翌年には南坂裏町が南坂町に編入され、現在の千日前1丁目に組み込まれて行くことになったが、一方で1872年(明治5年)に元堺町・元京橋町・元相生町の3町が難波新地に編入され、難波新地一番町~四番町に再編。翌年には難波村のうち市街化が見られた区域も難波新地に編入され、難波新地一番町~六番町に再編。この明治初期に拡大された難波新地の範囲が概ね現在の中央区難波の範囲となっている。
1879年(明治12年)の郡区町村編制法により難波新地は大阪府南区に含まれ、1889年(明治22年)の市制施行によって、大阪市南区へ移行。また同年の町村制施行によって、難波村は西成郡西側町・材木置場町・西高津村字髭剃を取り込み、難波村大字難波・西側・材木置場・西高津となった。
明治後期(難波村の大阪市編入)
1897年(明治30年)には難波村も大阪市南区へ編入された。1900年(明治33年)の大字改編により、大字難波に以下の16町が成立し、難波を冠する町名は難波新地の6町を含め22町となった。なお、大字西側・材木置場は木津川町に、大字西高津は南阪町に改称された。
- 難波河原町
- 難波新川
- 難波蔵前町
- 難波元町
- 難波東円手町
- 難波西円手町
- 難波東神田町
- 難波西神田町
- 難波桜川町
- 難波反物町
- 難波稲荷町
- 難波塩草町
- 難波小田町
- 難波立葉町
- 難波芦原町
- 難波久保吉町
大正 - 戦後昭和(町・区の再編)
1925年(大正14年)、難波新地を除く16町は新設された浪速区へ編入され、同時に難波の冠称を廃した。1943年(昭和18年)には南区と浪速区の境界変更が行われ、河原町北部が南区へ編入された。さらに戦後になって、1967年(昭和42年)には反物町が桜川町へ、小田町が塩草町へ編入された。そして1980年(昭和55年)に浪速区が、1982年(昭和57年)に南区が現在の住居表示を実施。1989年(平成元年)に南区が東区と統合されて中央区となり、現在に至る。
このように現在ではもと難波新地・河原町・新川・蔵前町といった繁華街の範囲だけを指すことが一般的になっているが、歴史的にも現在の地域区分としても難波は繁華街以西の木津川付近までの地域を含む地名である。
平成の再開発事業
南海難波駅周辺は再開発地域となっており、難波駅前の南街会館跡地には、丸井とTOHOシネマズが入居するなんばマルイが2006年(平成18年)9月22日にオープンした。2007年4月完成のなんばパークス2期にも大阪市内最大級のシネマコンプレックス「なんばパークスシネマ」が新設され、映画館数が一気に増えることになった。
また高島屋大阪店(本店)は、既存の本館の改修と新館の増床により、分散しているブランド品と洋品雑貨売り場、レストランをそれぞれ集約・拡張、2011年(平成23年)3月3日にグランドオープンした。増床面積は2万2000平方メートルで、従前の店舗面積と合わせると7万8000平方メートルとなり、西日本最大級の百貨店へと変貌した。高島屋はまた2007年(平成19年)に完成したなんばパークス2期の専門店街のプロデュースも行い、ミナミの集客作戦に大規模な投資をしている。
主な施設
商業施設・商店街・地下街
文化施設・劇場
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難波交差点
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なんばマルイ
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なんばパークス
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なんばウォーク
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髙島屋
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LABI1なんば
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ビックカメラなんば店
交通機関
- なんば駅(大阪市高速電気軌道御堂筋線・四つ橋線・千日前線)
- 難波駅(南海 中央区難波・浪速区難波中・浪速区元町
- 大阪難波駅 - 中央区難波
- JR難波駅 - 浪速区湊町
- 桜川駅 - 浪速区桜川・浪速区幸町
- 大阪市営地下鉄千日前線
- 阪神電気鉄道阪神なんば線
- 汐見橋駅 - 浪速区桜川
- 南海電気鉄道高野線(汐見橋線)
- 芦原町駅 - 浪速区芦原
- 南海電気鉄道高野線(汐見橋線)
難波を冠する神社仏閣
難波大社 (なにわのおおやしろ) - 天王寺区生玉町 - 初代天皇である神武天皇が即位前に創建した神社。
その他
- ゲイ・タウン
- 御堂筋とふたつの高速高架[1]に囲まれた難波4丁目を中心にゲイバーが多く集まり、大阪第2のゲイタウンを形成している。ゲイバーの数は難波4丁目と難波中1丁目だけで43店舗、その周辺を含めると約60店舗ほどになる[2]。 → 詳細は「ゲイ・タウン」項の「ミナミ(難波4丁目を中心としたエリア)」節を参照。
- ヘボン式の表記
- 駅名などのローマ字表記に、ヘボン式表記が使用されることがある(Nanba ではなく、Namba)。