東区 (大阪市)
テンプレート:日本の行政区 (廃止) 東区(ひがしく)は、かつて大阪府・大阪市にあった区。現在の大阪市中央区北部・東部に相当する。
概要
東を大阪環状線、南をおおむね長堀通・安堂寺橋通・順慶町通、西を西横堀川(阪神高速1号環状線北行き)、北を土佐堀川・大川・寝屋川に囲まれた、ほぼ長方形の区域であった。郵便番号は東部が540、西部が541。
大阪のシンボルである大坂城や江戸時代から大阪経済の中心地であった船場を管轄していたため、歓楽街のイメージがある南区に対して、「東区」をステイタスとしてこだわる者が年配者を中心に多かった。東区役所跡地には大阪産業創造館が建っている。
歴史
1879年の郡区町村編制法施行により大阪府東区が発足。1889年の市制施行により区域と名称はそのまま大阪市の下部組織へ移行したが、決して東区が吸収されたわけではなかった。現在のような行政区ではなく、東京市、京都市の区と共に法人格を有し(明治44(1911年)9月市政改正勅令)、区議会(正式には区会)を持ち、明治23年(1890年)学事通達により学校設置区(当初は高等小学校、後に実業学校を設置)でもあり、中等教育と財産区を併せ持った性格の法人区であった。
しかし、1940年4月の地方税法改正により区の独自課税権を奪われ、区立女学校の維持管理ができなくなり、1943年9月「大東亜戦(太平洋戦争)時下、時局の重大性に鑑み、大阪市政の運営とこれの発展向上に寄与するため」「区有財産の大阪市への寄付に関する議案」区会が可決[1]、更には1943年11月には、区議会が解散を決議、法人区としての53年の歴史を終えた[2]。
以下の最後の東区会議長あいさつ(東区会史)を読むと、大東亜決戦戦時体制構築のために大阪市が区を廃止に追い込んだことがわかる。
- 「このほど、決戦国体体制の整備、行政簡素化の国策に従い東区会の解散を断行するもの。思えば昭和15年(1940年)の税制改正で財源を失い、学区制解散、東女学校の市移管などをやむを得ず行ってきた。53年の歴史のある区会を解散することは東区民の長年の努力を考えると感慨無量で堪え難い。我が子を失う気持ちだ。長年の努力の結果の成果を更に高めていってもらえると信じて大阪市に引き渡すので市長以下誠心誠意をもって対処をお願いする」
1989年2月13日、南区と統合されて中央区となり、100余年に及ぶ歴史の幕を閉じた。
- 1869年(明治2年) - 大坂三郷再編により、東大組が発足。
- 1875年(明治8年) - 大区小区制施行により、東大組が第1大区となる。
- 1879年(明治12年) - 郡区町村編制法施行により、第1大区が東区となる。区役所を備後町2丁目に設置。
- 1880年(明治13年) - 区役所を淡路町1丁目に移転。
- 1886年(明治19年) - 区役所を高麗橋1丁目に移転。
- 1889年(明治22年) - 市制施行により、大阪市の行政区へ移行。
- 1897年(明治30年) - 大阪市第1次市域拡張により、東成郡玉造町・清堀村・東平野町・西高津村の全域と中本村の猫間川以西・鶴橋村の大阪鉄道(現在の大阪環状線)以西を東区へ編入。
- 1901年(明治34年) - 区役所を本町1丁目に移転。
- 1925年(大正14年) - 上記のうち旧東平野町・西高津村域を天王寺区へ分区。
- 1943年(昭和18年) - 旭区より鴫野町の城東線(現在の大阪環状線)以西を編入し、城東線以東を城東区・東成区へ、末吉橋通以南を天王寺区へ移譲。
- 1989年(平成元年) - 南区と統合され、中央区となる。
著名な出身者
- 浅原源七 - 日産自動車社長
- 石井好二郎 - 同志社大学教授、旧東区出身
- 市田忠義 - 参議院議員、日本共産党書記局長
- 岩田久二雄 - 昆虫学者(神戸大学名誉教授)、旧東区船場出身
- 英錦匡男 - 大相撲力士
- 岡田彰布 - 阪神タイガース及びオリックス・バファローズの選手・監督を歴任
- 岡田圭右 - お笑いタレント(ますだおかだ)
- 山茶花究 - 俳優、芸人
- 田中徳三 - 映画監督
- 内藤剛志 - 俳優
- 中井一夫 - 元衆議院議員・神戸市長、旧東区瓦町(船場)出身
- 松尾昭典 - 映画監督