佐世保大空襲
佐世保大空襲(させぼだいくうしゅう)は第二次世界大戦中のアメリカ軍による、1945年(昭和20年)6月28日午後11時50分から翌29日午前2時頃までに行われた長崎県佐世保市に対する空襲(戦略爆撃)。当夜は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突いたものであり、死者が1,200人以上に及んだ。
この日には同じように岡山県岡山市が空襲を受けている(岡山大空襲)[1]。
佐世保市では毎年6月29日に空襲犠牲者の追悼式を行っている。
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概要
この空襲の前の1945年(昭和20年)3月9日・13日にアメリカ軍の偵察機が来たり、4月8日や5月24日には同軍の爆撃機・ボーイングB29が来襲し佐世保市民100人余りが犠牲になったが、市民には詳しい状況は知らされていなかった。
そして、アメリカ軍側は6月29日に佐世保市の空襲実施を決定した。この日の佐世保市は梅雨の最中で雨が降っており、「今日は来ないだろう」という市民の不意をつく形での深夜の空襲となった。
午後11時50分頃にアメリカ軍のB29爆撃機141機が佐世保市上空に飛来し、焼夷弾投下を開始。推定1,200トンという大量の焼夷弾を2時間ほどの短時間の間に市街中心部一帯に投下し、市内は一部を除きほぼ壊滅状態となった[2]。
弓張岳、但馬岳を始めとする市内各所に設置された高角砲台による応戦もまるで歯が立たなかった。
なお、当時、佐世保鎮守府が設置されていた佐世保基地には、空襲による被害はほとんどなく[2]、市街地を中心に焼夷弾を投下したことが伺える[3]。
鎮魂慰霊平和祈願之塔
1977年、佐世保空襲犠牲者遺族会によって佐世保市中央公園に鎮魂慰霊平和祈願之塔が建立された。平和の祈りを捧げる人をモチーフとしてあり、台座の全面には空襲の悲惨さを後世に伝えるためのレリーフが施されている。(制作者・河田邦彦)また、塔の裏手には、空襲当時利用されていた防空壕がある。
佐世保市の被害
- 罹災面積:約1,782,000平方km
- 罹災戸数:12,037戸(全戸数の35%)
- 罹災者数:約65,000人
- 死者数:1,226人以上(佐世保空襲犠牲者遺族会調べ)