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カール1世(ドイツ語: Karl I.、1887年8月17日 - 1922年4月1日)は、最後のオーストリア皇帝(在位:1916年11月21日 - 1918年11月12日)。ハンガリー国王としてはカーロイ4世(ハンガリー語: IV. Károly)。オーストリア帝国内ボヘミア国王としてはカレル3世(チェコ語: Karel III.)。福者。
Contents
概要
大伯父であるフランツ・ヨーゼフ1世の後継者として1916年に即位し、オーストリア=ハンガリー帝国の統治者となった。第一次世界大戦に敗れて「国事不関与」を宣言したが、王権神授説の観点から退位は拒絶した。莫大な皇室財産のほとんどを新生のオーストリア共和国に没収された後、二度にわたってハンガリー国王への復帰運動を企てたが失敗し、ポルトガル領マデイラ島に流されて困窮の中で病死した。
カトリック教会への篤い信仰心を持ち、フランス首相クレマンソーからは「中欧における教皇[1]」と、時のローマ教皇ベネディクト15世からは「私のお気に入りの子[1]」と呼ばれ、20世紀の国家元首としては初めての福者になった。
生涯
幼少期
1887年8月17日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇族オットー・フランツ大公とザクセン国王ゲオルクの娘マリア・ヨーゼファの長男として、ドナウ川の河畔に位置するベルゼンボイク城に生まれる。
当時は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の長男ルドルフ皇太子が存命であり、皇弟カール・ルートヴィヒ大公の孫として誕生したカールは帝位継承とはかけ離れた存在だった[2]。そのため、カール誕生のニュースは、宮廷に関する他の記事といっしょに扱われたに過ぎなかった[2]。
オーストリア皇帝 フランツ・ヨーゼフ1世 | メキシコ皇帝 マクシミリアン | カール・ルートヴィヒ 第2位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オーストリア皇太子 ルドルフ 継承順位第1位 | フランツ・フェルディナント 第3位 | オットー・フランツ 第4位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール 第5位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1889年1月30日、2歳に満たないときに「マイヤーリンク事件」でルドルフ皇太子が謎の死を遂げた。皇位継承者はしばらく決定されなかったが、皇弟カール・ルートヴィヒ大公かその長男フランツ・フェルディナント大公のどちらかが後継者だと目された。将来フランツ・フェルディナント大公が身分相応の女性との間に男児を儲けることが当然視されており、オットー・フランツ大公とその息子カールの出番はないと考えられていた。ルドルフ皇太子の死後も、依然としてカールの立場には変化がなかったのである。
少年期
一家の領地であるヴィラ・ヴァルトホルツや父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていたプラハで、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずにホテル・ザッハーのロビーを横切るという事件を起こしたこともあった[3]。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。
皇族の義務として受けた宗教教育によって、カールはローマ・カトリック教会への篤い信仰心を持つようになった[4]。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの聖母マリアの聖堂に行くのを好んだ。
ある日、ライヒェナウ・アン・デア・ラクスの領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した[4]。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、神の母を傷つけたという思いで泣き出してしまったという[4]。
1896年、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢ゾフィー・ホテクと恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで1900年に貴賤結婚した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。1906年、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。
パルマ公女ツィタとの結婚
マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガルの用意周到な計画によって、1909年にツィタ・フォン・ブルボン=パルマと出会う[注釈 1][7]。マリア・テレサは亡き祖父カール・ルートヴィヒ大公の3度目の妻で、すなわちカールの義理の祖母にあたり[6]、さらにツィタにとっては母の妹であった[7]。カールとツィタはこれ以降、宮廷内のほとんどの人間に気付かれることなく親密な交際をするようになった。
将来の皇帝となるであろうカールに、フランツ・ヨーゼフ1世は自身の孫娘エリーザベト・フランツィスカを嫁がせようと考えたが、血縁関係が近すぎることを心配するカールの母マリア・ヨーゼファの反対に遭った[8]。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、今度はオルレアン家の血を引くデンマーク王女マルグレーテをカールと結婚させようと考えた[8]。
1910年秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された[9]。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた[9]。1911年5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた[10]。しかし旧パルマ公国の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した[10]。
1911年6月24日、ローマ教皇ピウス10世はツィタに「私はあなたの未来の夫を祝福します。彼は次のオーストリア皇帝になるでしょう」と言った[11]。ツィタらが次の皇帝はフランツ・フェルディナント大公であると訂正しても、ピウス10世は次の皇帝はカールであると繰り返したという[11]。同年10月21日、シュヴァルツアウの城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。
第一次世界大戦、勃発
1914年6月28日、サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、第一次世界大戦が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た[12]。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという[12]。
やがてカールのもとには時のローマ教皇ピウス10世からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが[13]、しかし当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。セルビア王国への最後通牒についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった[14]。カールは新たな皇位継承者になったにも関わらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した[14]。
フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いで、開戦後しばらくしてカール一家はシェーンブルン宮殿で皇帝と同居するようになった[15]。カールは老帝から大いに信頼され、次のような評価を受けている。「朕はカールを非常に高く評価している。カールは朕に明確に意見を表明する。しかし朕が考えを固執するときには、それに従う気持ちを失ってはいない[15]。」
参謀本部長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは、開戦後もカールに活躍の場を与えようとしなかった[16]。カールの日程は歓迎会、謁見、練兵場への訪問などの実働を伴わない公務で埋められていたが、1915年7月にようやく皇帝の側近に任命され、決済の済んだ報告書を見せられるようになった[16]。カールはオーストリア首相とハンガリー首相から政治の講義を受けるようになったが、この生活は長続きしなかった[17]。若い大公を側近から外すよう求める声に、フランツ・ヨーゼフ1世が屈してしまったのである[17]。そしてカールは新設のイタリア第20部隊に派遣されることになった[17]。
イタリア戦線においてカールは、イゾンツォの戦いの際に、皇位継承者でありながら自ら水中に飛び込んで川に溺れかけた男を助けた[13]。また、従軍司祭であったロドルフォ・スピッツルによれば、アシエロへの過酷な行軍の中で、傷のために歩行不可能となった兵士を助けるためにとりなしたという[13]。
即位
1916年11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった[18]。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながらこう語ったとされる[18]。「朕は、多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった……」同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で死去し、カールはオーストリア皇帝「カール1世」と呼ばれることとなった。
新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた[19]。ハンガリー人の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた燕尾服の着用を不要とするなどした[19]。侍従武官アルバート・マルグッティはカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている[20]。
先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった[20]。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった[20]。
1916年12月30日、カールはハンガリー国王「カーロイ4世」として即位することとなった[21]。聖イシュトヴァーンの王冠を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にも関わらず荘厳華麗な即位式がブダペストのマーチャーシュ聖堂で挙行された[21]。この即位式においてカールはこう宣誓した。「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と[22]。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった[22]。
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ジクストゥス事件
1917年3月23日夜、カールはラクセンブルク城において、皇后ツィタの二人の兄パルマ公子ジクストゥスとグザヴィエ公子と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利のみを追求する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏との単独講和を締結するためであった[24]。ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。
カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており[25]、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという[25]。また、ある写真家の前で「誰もこのようなことを神の御前で申し開きすることはできない。できるだけ早くこれを終わらせなければ」と涙を流しながら述べたこともある[26]。早期に戦争を終結させたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らに渡したこの時の手紙が、かえってヨーロッパ中を騒然とさせることになる[27]。
- ベルギー復興の支援
- アドリア海への通行権を伴ったセルビア王国の独立の保証
- ロシア皇帝ニコライ2世退位後のサンクトペテルブルクの状況が明確になった時点での、コンスタンティノープルのロシアへの割譲の賛成
手紙は上記のような内容で、さらに次のように明記してあった[27]。
朕はジクストゥスを通して、フランス大統領レイモン・ポアンカレ氏に内密に通告する。同盟国の皇帝として、(ドイツ帝国領)アルザス=ロレーヌ地域のフランスへの返還は正当であると認め、あらゆる手段を行使して、これを支援する考えである。
フランス政府は、パルマ公子を仲介としてのオーストリア=ハンガリー帝国との講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた[28]。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった[28]。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した[28]。つまりこの単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。
しかし、1918年にフランス首相クレマンソーがこの秘密交渉を暴露してしまった[24]。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し[29]、次にその手紙の存在を認め、「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言ってしまった[29]。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し[30]、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ってその領土を割譲させようとしたことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった[30]。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家のプロパガンダも広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つブルボン=パルマ家出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。
戦後になって、批評家アナトール・フランスは次のような意見を述べている[26]。
「 | 大戦に参戦した国家の責任者の中で、オーストリアのカール皇帝だけが品位のある人物であったが、誰も彼に耳を貸そうとはしなかった。彼は心から平和を願っていたが、そのためにみんなから軽蔑されたのだ。こうして唯一無二のチャンスは失われてしまった。 | 」 |
帝国諸民族の離反
1918年、同盟国側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反(チェコスロバキア、ポーランドなどが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カールは帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。
10月12日、帝室の保養地バーデンにすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかしチェコ人と南スラヴ人からは「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と返答された[31]。ボヘミア、クロアチア、ガリツィアなどで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した[32]。
オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。
カールにはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けてハンガリー王国議会では、1867年のアウスグライヒの前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された[33]。
11月3日、カールは正式に帝国連邦化を宣言し、同日イタリア王国とヴィラ・ジュスティ休戦協定を結び無条件降伏した。
「国事不関与」の宣言
11月9日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言した。その直後ドイツではドイツ社会民主党の主導する政権が誕生したことを受けて、オーストリア社会民主党はオーストリア皇帝も退位するよう要求し始めた[34]。キリスト教社会党は王党派であったが、彼らも最終的には皇帝退位に同意した。
11月11日午後3時、シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」において、カールは次の声明文に署名した[35]。
今般の戦争責任は朕の負うところではないが、帝位継承以来、忌まわしい戦禍から国民を救出すべく不断の努力を重ねてきたつもりである。国民が憲法に則った国民生活を確立し、独立国家発展への道を開拓することに対して、これを阻止する考えはない。わが国民を愛する心に変わりはなく、自由にはばたかんとする国民の前途に、朕自身が障害となることは本望ではない。朕はドイツ系オーストリア暫定政府が決定した今後の国家体制を以前から承認してきた。国民は今後、政府代表者の手に委ねられよう。朕はすべての国事行為の遂行を断念するとともに、現内閣の解散をここに宣言する。国民が一致融和の精神のもとに、新体制を確立していくことを切に望む。国民の至福が、朕の当初からの篤い祈願であり、国内の平穏によってのみ、戦禍は癒されよう。
これはハインリッヒ・ラマシュ首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか!朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した[36]。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した[36]。続いてこの最終的草稿文は皇后ツィタにも見せられたが、ツィタもカールと同様に「これは退位以外の何物でもありません」と怒った[37]。この際にも、退位宣言ではないことが起草者によって保証された[37]。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた[35]。
2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した[38]。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が王権神授説にもとづいていることを述べ、国王退位は明確に否定した[38]。
オーストリアからの脱出
「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちにシェーンブルン宮殿を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿からエッカルトザウ宮殿に移った。
1919年1月、共和国初代首相カール・レンナーがエッカルトザウ城のカールのもとを訪れた[39]。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた[39]。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった[39]。実際、2月にはエッカルトザウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった[40]。カールはスイスへの亡命を真剣に考え始めた。
近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、ロシア革命の際にロマノフ家を英国王室と縁戚関係にあるにも関わらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった[40]。イギリスから派遣されてきたストラット大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した[40]。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた[41]。これにランナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった[41]。
3月23日、皇帝一家はオーストリアを出国した。翌日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅で、カールはすでに用意してあった次の声明文に署名した[42]。
ドイツ・オーストリア共和国政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。
この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文はローマ教皇やオーストリア首相の手元のみに送付された[42]。3月27日、レンナーは国民議会に「ハプスブルク家は永久に統治権およびすべての特権を失効する」という法案を提出した[43]。この法案は4月3日に可決され、さらに王冠に基づいた財産のみでなくハプスブルク家の私的財産のほとんどが共和国に没収された[44]。わずかに残された財産も、財産税課税のために差し押さえられてしまった[44]。(ハプスブルク法を参照)
ハンガリー国王への復帰運動
皇帝一家に対するスイス側の態度は友好的で、かつ敬意のこもったものだった。入国前には反君主制組織からかなりの批判を受けたが、しばらくするとカールへの批判は鳴りをひそめた[43]。急進的な新聞でも皇帝夫妻の平和への働きかけを評価するようになり、保守的な新聞にいたっては歓迎の意さえ表していた[43]。
1919年3月21日、共産主義者のクン・ベーラらによって共和国大統領カーロイ・ミハーイの政権が倒された(ハンガリー評議会共和国)。クンらは急進的共産政権を打ち立てようとしたため、多くのハンガリーの資産家や政治家がウィーンを中心とする国外に亡命した[45]。新政権に対してホルティ・ミクローシュなどは反旗を翻し、政権を転覆させた[45]。紆余曲折を経て、ハンガリー国民議会は聖イシュトヴァーンの王冠のもとでの王政復古を決議し、ハンガリーの政体は再び王制となった[45]。
カールはエッカルトザウ宮殿で王権停止宣言に署名させられていたが、法的にはあくまでカールが国王であったため、スイス当局もカールを再び王位に登板させようとした[46]。ハンガリーでは、カールの復位を望む者、カール以外のハプスブルクを望む者、新しい王家を望む者、君主制に反対する者もおり、混沌とした状況だった。カールはできるだけ早くハンガリーを訪れて自身がハンガリー国王であることを知らしめようと決心した[46]。
1921年3月、カールがハンガリーに入国すると、王党派の政府高官レハール・アンタルなどが駆けつけてきた[47]。馳せ参じたハンガリー首相テレキ・パールは、カールに向かってこう述べた[47]。「陛下、二つの選択肢があります!このままスイスへ戻るか、ブダペストへ進軍するかのいずれかです!」カールはブダペストを選択した。しかし、自身の掌握した権力を手放そうとしない執政ホルティによって、結局この時のカールの試みは挫折した。
半年後、テレキに代わって首相となったベトレン・イシュトヴァーンと執政ホルティは、ハンガリーで強権的統治を行っていた[48]。国王支持者の計画的な追放が進められており、以前からホルティを危険人物と考えていた国王軍はカールのブダペスト入りを切望していた[48]。こうした情勢を受けてカールは再びハンガリー入国を決断し、子女をスイスに残したまま妊娠中の皇后ツィタとともに飛行機でハンガリーに向かった。1921年10月にカールは再びハンガリーの地に降り立ったが、この試みもまた失敗した。イギリス下院は秘密会議でカールをハンガリーから連れ出すことを外務大臣ジョージ・カーゾン卿に迫り、ちょうど黒海を航行中のイギリス軍艦で移送することが決定された。
マデイラ島への配流、死去
11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた[49]。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌1922年2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた[50]。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという[50]。
やがてバターも買えないほど皇帝一家は困窮し、ベビーシッターの給料も3ヶ月間未払いだった[51]。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している[51]。
電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたため、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たらないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけだった。(中略)皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜とクヌーデルだけの粗末な食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母ひとりだった。
3月9日、四男カール・ルートヴィヒの4歳の誕生日プレゼントを買いたいという子供たちを連れてフンシャルに出かけた[52]。このときカールは風邪をひいてしまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化していき、そのうちカールは呼吸困難に陥ってしまった。ツィタは慌てて医者を呼んだが、すでに片肺が侵されているとの診断が下された[52]。治療の甲斐なく、やがてカールは両肺を侵されてしまった。カールは病床で「自分は、わたしの人民たちがもう一度一緒になれるように、苦しまなければならない」とツィタに語ったといわれる[53]。
カールはツィタに「これからはスペイン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と遺言し[54]、1922年4月1日12時23分に死去した[55]。享年34。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている[54]。葬儀には3万人が参列したという。
カールの死から60年以上が経った1989年3月14日、ツィタは96歳で死去した。4月1日にシュテファン大聖堂で葬儀が営まれたが、この日程はマデイラ島でカールが死去した1922年4月1日に合わせてのものだった[56]。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、ムーリ修道院に安置されている[56]。心臓以外のカールの遺骸は、いまだマデイラ島フンシャルにある[55]。オットーによれば、それはカールを寛大に扱ってくれたマデイラ島の人々への感謝のためだという。皇帝廟カプツィーナー納骨堂の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。
列福
福者 カール1世 | |
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福者 | |
崇敬する教派 | カトリック教会 |
列福日 | 2004年10月3日 |
列福場所 | バチカン市国・サン・ピエトロ広場 |
列福決定者 | ヨハネ・パウロ2世 |
記念日 | 10月21日 |
カール1世はその伝えられる数多くのエピソードから、徳の高い人物であったと評価される。アンドリュー・ウィートクロフツは、同じあだ名で呼ばれる先祖よりも「善良帝」の名に値する君主であったと評価している[53]。
1949年、カール1世の列福を求める提案が起こされた[53]。1972年、墓が開かれ、カール1世の体は腐敗していないことが判明した。
2003年12月20日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はカール1世の仲介に帰せられる治癒を「奇跡」と認定する文書に署名した[4]。この時に認められた「奇跡」とは、両足の炎症と激しい苦痛に苦しんでいたポーランドの修道女が、亡きカール1世に祈りを捧げたところ、たちどころに治癒したというものである[4]。この「奇跡」が認定されたことによってカール1世は、2004年10月3日、20世紀の国家元首としては初めての福者となった。
カール1世の福者としての記念日は、ツィタとの結婚記念日である10月21日。
なお、福者から聖人への昇格には、福者に認定された時のものを含めて二つ以上の「奇跡」の認定が必要とされる。カール1世にまつわる「奇跡」はポーランドの修道女の事例以外にも複数あり、それらの調査は現在も行われている。
家族
皇后ツィタとの間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。
名前 | 生年 | 没年 | 続柄 | 備考 |
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フランツ・ヨーゼフ・オットー | 1912年11月20日 | 2011年7月4日 | 第一皇子 | ハプスブルク家当主(1922年 - 2006年) ザクセン=マイニンゲン公爵家のレギーナと結婚。 |
アーデルハイト | 1914年1月3日 | 1971年10月2日 | 第一皇女 | |
ローベルト | 1915年2月8日 | 1996年2月7日 | 第二皇子 | オーストリア=エステ大公 イタリア旧王族マルゲリータ・ディ・サヴォイア=アオスタと結婚。 |
フェリックス | 1916年5月31日 | 2011年9月6日 | 第三皇子 | アーレンベルク家のアンナ=ウジェニーと結婚。 |
カール・ルートヴィヒ | 1918年3月10日 | 2007年12月11日 | 第四皇子 | リーニュ家のヨランドと結婚。 |
ルドルフ | 1919年9月5日 | 2010年3月15日 | 第五皇子 | ロシア人亡命貴族のクセニヤ・チェルニシェヴァ=ベゾブラソヴァと結婚、のちヴレーデ侯カールの娘アンナ・ガブリエーレと再婚。 |
シャルロッテ | 1921年3月1日 | 1989年7月23日 | 第二皇女 | メクレンブルク=シュトレーリッツ大公ゲオルクと結婚。 |
エリーザベト | 1922年5月31日 | 1993年1月6日 | 第三皇女 | ハインリヒ・リヒテンシュタイン(リヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ2世の従弟)と結婚。 |
脚注
注釈
出典
- ↑ 1.0 1.1 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」 p.4
- ↑ 2.0 2.1 グリセール=ペカール(1995) p.89
- ↑ ホフマン(2014) p.280
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」 p.1
- ↑ 江村(2013) p.388
- ↑ 6.0 6.1 グリセール=ペカール(1995) p.54
- ↑ 7.0 7.1 グリセール=ペカール(1995) p.53
- ↑ 8.0 8.1 グリセール=ペカール(1995) p.60
- ↑ 9.0 9.1 グリセール=ペカール(1995) p.61
- ↑ 10.0 10.1 グリセール=ペカール(1995) p.62
- ↑ 11.0 11.1 グリセール=ペカール(1995) p.67
- ↑ 12.0 12.1 グリセール=ペカール(1995) p.96
- ↑ 13.0 13.1 13.2 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」 p.2
- ↑ 14.0 14.1 グリセール=ペカール(1995) p.105
- ↑ 15.0 15.1 江村(2013) p.412
- ↑ 16.0 16.1 グリセール=ペカール(1995) p.113
- ↑ 17.0 17.1 17.2 グリセール=ペカール(1995) p.114
- ↑ 18.0 18.1 グリセール=ペカール(1995) p.120
- ↑ 19.0 19.1 グリセール=ペカール(1995) p.127
- ↑ 20.0 20.1 20.2 グリセール=ペカール(1995) p.128
- ↑ 21.0 21.1 グリセール=ペカール(1995) p.139
- ↑ 22.0 22.1 グリセール=ペカール(1995) p.146
- ↑ グリセール=ペカール(1995) p.125
- ↑ 24.0 24.1 江村(2013) p.421
- ↑ 25.0 25.1 グリセール=ペカール(1995) p.160
- ↑ 26.0 26.1 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」 p.3
- ↑ 27.0 27.1 グリセール=ペカール(1995) p.158
- ↑ 28.0 28.1 28.2 グリセール=ペカール(1995) p.163
- ↑ 29.0 29.1 グリセール=ペカール(1995) p.182
- ↑ 30.0 30.1 バウアー(1989) P.89
- ↑ バウアー(1989) P.112
- ↑ バウアー(1989) P.113
- ↑ バウアー(1989) P.129
- ↑ ジェラヴィッチ(1994) p.131
- ↑ 35.0 35.1 グリセール=ペカール(1995) p.226
- ↑ 36.0 36.1 グリセール=ペカール(1995) p.222-223
- ↑ 37.0 37.1 グリセール=ペカール(1995) p.224
- ↑ 38.0 38.1 グリセール=ペカール(1995) p.230
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- ↑ 40.0 40.1 40.2 グリセール=ペカール(1995) p.234
- ↑ 41.0 41.1 グリセール=ペカール(1995) p.238-239
- ↑ 42.0 42.1 グリセール=ペカール(1995) p.242
- ↑ 43.0 43.1 43.2 グリセール=ペカール(1995) p.246
- ↑ 44.0 44.1 グリセール=ペカール(1995) p.247
- ↑ 45.0 45.1 45.2 グリセール=ペカール(1995) p.251
- ↑ 46.0 46.1 グリセール=ペカール(1995) p.252
- ↑ 47.0 47.1 グリセール=ペカール(1995) p.255
- ↑ 48.0 48.1 グリセール=ペカール(1995) p.261
- ↑ グリセール=ペカール(1995) p.279
- ↑ 50.0 50.1 グリセール=ペカール(1995) p.280
- ↑ 51.0 51.1 グリセール=ペカール(1995) p.288
- ↑ 52.0 52.1 グリセール=ペカール(1995) p.289
- ↑ 53.0 53.1 53.2 ウィートクロフツ(2009) p.368
- ↑ 54.0 54.1 グリセール=ペカール(1995) p.293
- ↑ 55.0 55.1 江村(2013) p.422
- ↑ 56.0 56.1 グリセール=ペカール(1995) p.360
参考文献
- オットー・バウアー 『オーストリア革命』 酒井晨史訳、早稲田大学出版部、1989年。ISBN 4-657-89619-9。
- バーバラ・ジェラヴィッチ 『近代オーストリアの歴史と文化:ハプスブルク帝国とオーストリア共和国』 矢田俊隆訳、山川出版社、1994年。ISBN 4-634-65600-0。
- リチャード・リケット 『オーストリアの歴史』 青山孝徳訳、成文社、1995年。ISBN 4-915730-12-3。
- タマラ・グリセール=ペカール 『チタ:ハプスブルク家最後の皇妃』 関田淳子訳、新書館、1995-05-10。ISBN 4-403-24038-0。
- 江口布由子「第一次大戦期のオーストリアにおける国家と子ども――「父を失った社会」の児童福祉――」(『歴史学研究』第816号、2006年7月)
- 小野秋良、板井大治 『平和の皇帝カール一世:オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝の受難と栄光』 くすのき出版、2008-01-09。ISBN 978-4907754136。
- アンドリュー・ウィートクロフツ 『ハプスブルク家の皇帝たち:帝国の体現者』 瀬原義生訳、文理閣、2009年(平成21年)。ISBN 978-4-89259-591-2。
- 江村洋 『フランツ・ヨーゼフ:ハプスブルク「最後」の皇帝』 東京書籍、2013-12-10。ISBN 978-4-309-41266-5。
- ティモシー・スナイダー 『赤い大公:ハプスブルク家と東欧の20世紀』 池田年穂訳、慶応義塾大学出版会、2014-04-25。ISBN 978-4-7664-2135-4。
- ポール・ホフマン 『ウィーン:栄光・黄昏・亡命』 持田鋼一郎訳、作品社、2014-07-15。ISBN 978-4-86-182-467-8。
外部リンク
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