「玉村町」の版間の差分
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群馬県南部の諸地域と同様に、冬は「空っ風」と呼ばれる強い北風の影響により寒く、夏は暑い。
Contents
地理
群馬県南部に位置し、南を烏川で画され、町の北部を利根川が、町の中央を滝川が流れる。全域が平野部であるが、南部の烏川流域が沖積低地であるのに対し、北部の利根川流域は洪積台地である。町の中心地はかつて例幣使街道の宿場町であった大字下新田である。人口は県内の町村としては大泉町に次ぐ。
町内を流れる主な河川
隣接する自治体
歴史
町村制施行当時の町村
沿革
町村制施行前
玉村町域において「ムラ」造りが始まったのは4世紀初頭のことである。玉村町では143基の古墳が確認されており、形態や副葬品から大和政権との繋がりが指摘されている[1]。律令制のもとでは那波郡佐味郷と鞘田郷が置かれており、12世紀に入ると寄進地系荘園・玉村御厨が成立、伊勢神宮に寄進されている[2]。鎌倉時代に入ると玉村御厨の荘官玉村氏が上野国の守護安達氏のもとで活躍した。室町幕府のもとで関東管領に就任した上杉氏が上野国の守護となったがその勢力が衰えると、北条氏康・上杉謙信・武田信玄の間で上野の領有が争われるようになり、それら勢力の境にあった玉村も戦乱に揺れることとなった[3]。100年にも及んだ戦乱によって江戸開幕の頃には大いに荒廃した。代官伊奈忠次によって「代官掘」の呼ばれる用水路が引かれ、「新田」と呼ばれる集落が中心部に作られた。その後、玉村八幡宮を境にして「上新田村」・「下新田村」の二つの村ができた。江戸時代を通して、玉村宿・五料宿という2つの宿場町が栄えた。沼之上村(現玉村町五料)では天明期に、「卯の泥押」(1783年)、「午の満水」(1786年)と呼ばれる洪水により、壊滅的な被害を受けたこともあった[4]。
玉村町(初代)
玉村町(二代目)
玉村町(三代目)
- 1957年(昭和32年)
- 1960年(昭和35年)4月1日 - 大字西善、山王、中内、東善が前橋市に編入(境界変更)。
- 1976年(昭和51年)4月1日 - 大字五料の一部を伊勢崎市に編入(境界変更)。
町名の由来は、「龍の玉伝説」が満福寺に伝わるが、語源としては利根川や烏川などの「水が溜まり易い場所」であったことに由来すると思われる。
人口
玉村町(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
行政
行政機関
警察
消防
経済
産業
- 主な産業
以前は養蚕が盛んであった。
- 産業人口
- 第一次産業 877人(5.1%)
- 第二次産業 6,957人(40.2%)
- 第三次産業 9,490人(54.8%)
工業
- 大黒食品工業
- 東部工業団地
商業
- ホームセンター
- カインズホーム玉村店
金融
- 信用組合
- かみつけ信用組合玉村支店
- 農業協同組合
- 佐波伊勢崎農業協同組合たまむら支店
地域
町内の大字
玉村地区
- 南玉
- 福島
- 上飯島
- 上之手
- 角淵
- 下新田
- 上新田
- 与六分
- 斉田
- 板井
- 宇貫
- 八幡原
芝根地区
- 川井
- 下之宮
- 箱石
- 五料(沼之上から改称)
- 飯倉
- 小泉
- 五箇
- 上茂木
- 下茂木
上陽地区
- 藤川
- 飯塚
- 上福島
- 樋越
廃止された大字
医療
- 角田病院
教育
小学校
- 公立小学校
- 玉村町立玉村小学校
- 玉村町立芝根小学校
- 玉村町立上陽小学校
- 玉村町立中央小学校
- 玉村町立南小学校
- 私立小学校
中学校
- 玉村町立玉村中学校
- 玉村町立南中学校
高等学校
大学
郵政
- 玉村郵便局
- 芝根郵便局
- 玉村上福島簡易郵便局
- 角淵簡易郵便局
文化
文化施設
- 玉村町立図書館
- 玉村町文化センター
運動施設
- 北部公園サッカー場
- 総合運動公園
- 社会体育館
- 東部運動場
- B&G海洋センター
- 烏川河川運動場
- グラウンドゴルフ場
交通
鉄道路線
町内に鉄道は敷かれておらず、最寄りの駅は、烏川を挟んで南に隣接する高崎市新町地区のJR東日本高崎線新町駅である。
道路
バス
地域放送
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
寺社
- 玉村八幡宮[5]
- 玉龍山満福寺 – 新義真言宗[7]
- 宝蔵寺
- 観音寺
- 光琳寺
- 花台寺
- 普門寺
- 養命寺
- 常楽寺
- 慈思寺
- 東栄寺
- 法道寺
- 観照寺
- 岩崎山 西光寺
- 称念寺[8]
- 樋越神明宮の春鍬祭 : 2002年2月12日に国の重要無形民俗文化財に指定された
古墳
その他
出身有名人
脚注
外部リンク