禅定
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禅定(ぜんじょう、梵: dhyāna, ディヤーナ、巴: jhāna, ジャーナ、禅那:ぜんな)とは、仏教で心が動揺することがなくなった一定の状態を指す[1]。サンスクリット語の dhyāna の音写である禅と、訳した定の複合語である[2]。静慮とも訳される[3]。
位置づけ
仏教の三学の戒・定・慧と言われるように、仏教においては戒律を守ることと禅定と智慧とは一体になっている。禅定と智慧との関係については、止観を参照。
禅定の実践とは、通常時にひとつの対象に定まっていない心を、ひとつの対象に完全に集中することである[4]。そうして1つの対象に定まったとき、三昧と呼ばれる[4]。禅定の完成には止観を発達させる必要があり、止は心の移ろいを鎮める平静さ、観はものごとが永遠ではなく、苦であり、実体性がない無我であることを洞察することとされる[5]。
禅定の実践によって、心が対象に集中し乱されないとき、三昧(サマーディ)と呼ばれるとされる[4]。
禅定の段階
感覚的経験の世界が欲界であり、禅定の実践によって色界の初禅定に到達する[6][注釈 1]。
色界の段階
色界の定(Rupajhana, 四禅)は以下の4段階があるとする。
- 初禅 --- 諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。
- 第二禅 --- 尋・伺(すなわち覚・観)が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。
- 第三禅 --- 喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。
- 第四禅 --- 楽が止み、一切の受が捨てられた不苦不楽の状態。
無色界の段階
無色界の定(Arūpajhāna)は4段階があるとする[6]。これが、四無色定であり、さらに九次第定とつづく。まだ物質的な領域にある色界の禅定とは異なり、無色界では色蘊(しきうん)がなく、この段階に至った修行者は、触覚、視覚、物質的な構成要素において、微細なものからも完全に離れる修行をするという[7]。無色定者は漢訳では仙人の尊称が付与されることがある[注釈 2]。無色界の定は以下の順に深まる[6]。
- 空無辺処(くうむへんじょ)
- 漢訳で無限の空の領域の意味。
- 識無辺処(しきむへんじょ)
- 漢訳で無限の識の領域の意味。とらえられるべき対象はないことを修行するという[7]。
- 無所有処(むしょうしょ)
- 漢訳で有る所が無い領域の意味。微細な対象がいまだあるという[7]。
- 非想非非想処(ひそうひひそうじょ)
- 漢訳で想が非ず非想にも非ずの領域の意味。旧訳では非有想非無想処ともされる。この完成が有頂天である[7]。
波羅蜜における禅定
色界と無色界の定とは別に、波羅蜜の第5に禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)が置かれるが、混乱を避けるため静慮波羅蜜(じょうりょはらみつ)、禅那波羅蜜(ぜんなはらみつ)、定到彼岸、静慮到彼岸などと訳される。
禅定と坐禅
日本仏教と禅定
日本仏教のほとんどの伝統的宗派においても、禅定を得るための様々な方法論が派生してきたといわれる。曹洞宗・臨済宗における坐禅はもちろんのこと、天台宗では法華禅とも呼ばれる止観を重視し、真言宗では印相を結んだり、陀羅尼や真言を唱える身体性を重視する。浄土宗や浄土真宗では称名念仏である南無阿弥陀仏をくり返し唱える。時宗においては踊りながら念仏を唱え、日蓮宗では題目の南無妙法蓮華経をくり返し唱える。いずれの方法論も、思考や妄想から離れて精神を集中させて禅定に至る行といわれる。
注釈
出典
- ↑ 「禅定」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2014 Britannica Japan
- ↑ 総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典 全一巻』 法蔵館、2005、620。ISBN 978-4831870704。
- ↑ 「禅那」 - デジタル大辞泉、小学館。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 2001, p. 104.
- ↑ ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 2001, p. 105.
- ↑ 6.0 6.1 6.2 ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 2001, p. 120.
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 2001, pp. 127-128.
参考文献
- ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 『ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく』 菅沼晃訳、春秋社、2001。ISBN 978-4-393-13335-4。