社会党 (フランス)

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政党 フランスの旗 フランス
社会党
Parti Socialiste
成立年月日 1969年
本部所在地 フランスの旗 フランス パリ7区
ソルフェリーノ通り10番地
国民議会議席数
30 / 577   (5%)
(2017年6月)
元老院議席数
109 / 348   (31%)
2014年
政治的思想・立場 中道左派
社会民主主義
民主社会主義
公式サイト www.parti-socialiste.fr
国際組織 社会主義インターナショナル
欧州社会党
社会民主進歩同盟
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テンプレート:社会民主主義 社会党(しゃかいとう、Parti Socialiste)は、フランス社会民主主義中道左派政党である。略称はPS中道右派共和党と対する主要二大政党の一つである。社会主義インターナショナル加盟政党。ミッテランオランドの2人の大統領ジョスパンら計6人の首相を輩出している。

歴史

旧社会党(SFIO)

フランスにおける社会主義政党の起源は第三共和政が発足した1870年代まで遡ることができる。さまざまな思想を背景に成立した諸政党は、1902年までにジュール・ゲードを中心とする左派のフランス国社会党(PSDF)と、ジャン・ジョレスを中心とする右派のフランス社会党(PSF)にまとまり、この2党は1905年第二インターナショナル(労働者インターナショナル)の提言を受け入れ第二インター・フランス支部としての(旧)社会党(SFIO / 「統一社会党」とも)に統合された。SFIOは結党後9年で第一次世界大戦の勃発に直面し、反戦を唱道していた指導者ジョレスが右翼暗殺されたのちにはゲードが入閣するなど政府の戦争遂行政策に協力した。

ところが大戦末期頃から主流派に反対し反戦を唱える党内左派が勢力を増し、ロシア革命の成功にも影響されて主導権を掌握した左派は1920年コミンテルンへの加盟を決議して党を共産党へと改組、レオン・ブルムを始めとしてコミンテルン加盟に反対する少数派の社会民主主義者たちはかろうじてSFIOの党名を維持した。しかしSFIOはその後順調に党勢を回復、当初対立していた共産党とも協力関係を結び1936年にはブルムによる人民戦線政権が発足した。その後のナチス・ドイツによる占領とヴィシー政権による支配の時期、多くのSFIO党員はレジスタンス運動に活躍し、その実績を背景に第二次世界大戦後初期のフランス政治の一翼を担った。

1950年代末に始まるド=ゴール時代において、SFIOは当初ド=ゴールに協力したもののほどなくして対立を深めて下野、ギー・モレ書記長のもとド=ゴール体制下での野党第一党として存在感を示した。しかし1968年五月危機に直面して、SFIOは第五共和政に不満を抱く民衆に対し左翼の側からの長期的ヴィジョンを提示するだけの力量がないことが露呈、直後の総選挙で大敗した。党内からは社会主義調査センター(CERES)など左派の理論家集団を中心に党組織を大胆に再編成するべきであるとの意見が噴出し、SFIOはついに従来の党を解消しSFIOを中心にする左派連合「民主社会左翼連盟」(FGDS)を母体にして新たな社会党に移行することを決定した。

現・社会党(PS)

新社会党の結成

先述のSFIOの決定に基づき、フランス社会党(PS)は、ギー・モレが率いる旧来のSFIOに、FGDS傘下のアラン・サヴァリfrançais版ジャン・ポプランfrançais版がそれぞれに率いる勢力が合流して1969年にひとまず誕生した。その後、1971年6月に開催されたエピネ大会[1]で、共和制度会議代表フランソワ・ミッテラン、マルクス主義のCERES代表ジャン・ピエール・シュヴェーヌマン、北部出身の社会主義の闘士ピエール・モーロワ、中道社会主義者ガストン・ドフェールらを中心にフランスの社会主義者が大同団結し、社会党に合流する形で現在至る組織が形成された。第一書記には旧社会党員ではなく、共産党との連携を主張するミッテランが新規合流組の結束により就任した。

社共共闘時代

1972年6月、ミッテランはユーロコミュニズム路線を推し進めていたフランス共産党と左翼政府共同綱領を締結[2]し、1973年の国民議会選挙(総選挙)で復調を得た。1974年ジョルジュ・ポンピドゥー大統領が任期中に死亡したことにより実施された大統領選挙に左翼統一候補として再びミッテランが立候補、ヴァレリー・ジスカール・デスタン(独立共和派)に敗北するも僅差まで迫った。

1974年の末に、かつてSFIOから分離した統一社会党(PSU)からリーダーのミシェル・ロカールを含めた一部メンバーが再合流した。彼らは左翼キリスト教徒と非マルクス主義のグループを代表し、党内で最も保守的なメンバーとして、フランスの社会主義が市場経済を明確に受け入れたヨーロッパの社会民主主義路線であるべきことを主唱した。また、社会党の議席増加の勢いは共産党を恐れさせ、両党は共同綱領の更新に失敗した。

世論調査の前人気にもかかわらず、左翼連合は1978年の総選挙で敗北したが、1936年以来初めて社会党は共産党より多くの議席を獲得し、左翼第一党の地位を得た。この結果は党内部の危機を引き起こした。ミッテランの社共共闘路線に対して、ロカールは共同綱領が古めかしく非現実的であり捨てることを要求したのである。ミッテランは引き続き社会党と共産党の間の同盟なしで左翼が勝つことができないとして、ロカールに人気があったにもかかわらず1979年の党大会で勝利し、1981年の大統領選挙の社会党候補に選ばれた。

ミッテラン政権時代

1981年5月10日大統領選挙でミッテランが現職のジスカール・デスタンを打ち破って当選して以降、主要政党として定着した。1981年の大統領選挙につづく6月の総選挙で第一党になり、社共連合政権が発足し、大統領職と首相職を社会党が独占した。首相には、ピエール・モーロワが就任。政権発足時より、国有化や積極的投資政策、労働時間の削減等の伝統的な社会主義政策を採ってきたが、インフレや国際情勢に押されて、1982年6月、一転、財政切りつめなどの緊縮政策に転換した。1984年7月、モーロワ内閣が退陣し、ローラン・ファビウスが首相に就任。共産党は連合政権から離脱した。

1986年3月の総選挙では、共和国連合(RPR)とフランス民主連合(UDF)の保守・中道連合に敗北して、社会党のミッテラン大統領と共和国連合のジャック・シラク首相の組み合わせで保革共存というねじれた第一次コアビタシオンが生まれた。

1988年5月、ミッテランがシラクを大差で破り大統領に再選し、直後の6月の総選挙でも第一党に返り咲いた。ミッテランはライバルの党内右派のミシェル・ロカールを首相に指名。ロカールは、社会民主主義混合経済を柱とする「新中道主義路線」を採用する。ロカール退陣後、1991年5月、ミッテランはエディット・クレッソンを史上初の女性首相に指名するが、支持率が急降下し、地方選で大敗したため、1992年4月、クレッソンを更迭し、ピエール・ベレゴヴォワを首相にあてるが、1993年3月の総選挙では歴史的な大敗北を喫し、共和国連合(RPR)のエドアール・バラデュールが首相に就任し、第二次コアビタシオンとなる。

第3次コアビタシオン以降

1995年5月の大統領選挙でシラクにジョスパンが敗北し下野したが、日程を繰り上げて行なわれた1997年6月の国民議会総選挙では、選挙前の予想に反して第一党となり、共産党や緑の党などとともに左翼連合政権を発足させ、リオネル・ジョスパンが首相に就任した(第三次コアビタシオン)。

2002年フランス大統領選挙、6月国民議会総選挙と連敗し下野。ジョスパンが引退し、彼に続くリーダーが不在であるが、2004年欧州議会選挙及び地方選で大勝し、党勢は回復。党首フランソワ・オランド事実婚の妻セゴレーヌ・ロワイヤルは2006年4月7日2007年フランス大統領選挙への事実上のキャンペーンを開始。11月の党員投票により、同党の大統領候補に決定した。しかし2007年の大統領選挙ではニコラ・サルコジに得票比47対53で敗北。サルコジ新大統領によるフィニョン内閣組閣でクシュネルが外務大臣として入閣するなど、党員や支持者中の有力者でサルコジに組する者も現れた。

2007年国民議会議員選挙(6月10日、17日投票)では46議席増の186議席を獲得したものの、選挙後にオランドとロワイヤルが事実婚の解消を発表し、引き続き党勢は混沌とした。2008年3月の地方選挙では支持を伸ばす。

2008年11月に行われた党首選では、左派でリール市長のマルティーヌ・オブリーが立候補し、その結果ロワイヤルは敗北する。その後、集計作業をめぐり双方が対立し、党員の中にはその混乱ぶりに呆れて離党希望者が続出した[3]。再集計により、オブリ陣営の勝利が確定。

2010年3月に行われた地方選においては、国民運動連合を中心とする右派の得票率36%に対し、社会党を中心とする左派連合が54%もの得票率をあげ、コルシカ島を含む本国の22の地域圏の内、21地域圏を制するという地滑り的な圧勝を遂げた[4][5][6]

オランド政権時代

2011年10月、党内の予備選挙によってフランソワ・オランドがオブリーらを破って2012年の大統領選挙の候補に選出された[7]。そして、2012年の大統領選挙では5月6日に投開票が行われた第2回投票(決選投票)でオランドが現職のサルコジを破って当選、ミッテラン以来17年ぶりに社会党出身の大統領が誕生することとなった[8]

大統領選挙に引き続いて行われた議会総選挙では友党も含め314議席を確保して国民議会の単独過半数を制した[9]。これにより社会党を中心とする左派勢力は、上院・下院・県議会・地方議会・主要都市の市長のすべてにおいて多数派を形成することとなった。

2012年10月、オブリーに代わりアルレム・デジールが、2014年4月、アルレム・デジールに代わりジャン=クリストフ・カンバデリスfrançais版が新たな第一書記として選出された。

当初は所得の再分配による福祉拡張、金融規制等の左派政策を打ち出して選挙に勝利したオランド大統領であるが、実際には政権ではマニュエル・ヴァルス首相等の社会党右派が実権を握り、経済政策でグローバル企業への優遇策、労働規制緩和と緊縮財政等の新自由主義路線を推し進め、党内左派や労働者層の反発を招いた。外交政策では対米協調路線を進めた。

歴代党首(第一書記)

  • 1969年 - 1971年: アラン・サヴァリ(Alain Savary)
  • 1971年 - 1981年: フランソワ・ミッテラン(François Mitterrand)
  • 1981年 - 1988年: リオネル・ジョスパン(Lionel Jospin)
  • 1988年 - 1992年: ピエール・モーロワ(Pierre Mauroy)
  • 1992年 - 1993年: ローラン・ファビウス(Laurent Fabius)
  • 1993年 - 1994年: ミシェル・ロカール(Michel Rocard)
  • 1994年 - 1995年: アンリ・エマニュエリ(Henri Emmanuelli)
  • 1995年 - 1997年: リオネル・ジョスパン(Lionel Jospin)
  • 1997年 - 2008年: フランソワ・オランド(François Hollande)
  • 2008年 - 2012年: マルティーヌ・オブリー(Martine Aubry)
  • 2012年 - 2014年: アルレム・デジール(Harlem Désir)
  • 2014年 -: ジャン=クリストフ・カンバデリス(Jean-Christophe Cambadélis)

脚注

参考文献

  • 新田俊三 「フランス社会党」 『現代マルクス=レーニン主義事典』(下) 社会思想社1981年
  • 古賀英三郎 「フランス社会主義」 『社会思想事典』 中央大学出版部、1982年
  • 堀井敏夫 「社会党[フランス]」 『新編西洋史辞典』 東京創元社1983年
  • 山極潔 「フランス社会党」 『大百科事典』 平凡社

外部リンク

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