朝倉義景
朝倉義景 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 天文2年9月24日(1533年10月12日) |
死没 | 天正元年8月20日(1573年9月16日) |
幕府 | 室町幕府:越前国守護職 |
氏族 | 日下部姓朝倉氏 |
朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。
Contents
生涯
家督相続と前半生
天文2年(1533年)9月24日、越前国の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。生母は広徳院(光徳院)といわれ、若狭武田氏の一族の娘で武田元信か武田元光の娘とされる[注釈 1]。 このとき、父の孝景は40歳であり、唯一の実子であったとされる(しかし出生については異説がある)[2]。幼名は長夜叉と称した。義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切が不明で、伝わる逸話もほとんどない[3]。
天文17年(1548年)3月、父の孝景が死去したため、16歳で家督を相続して第11代当主となり、延景と名乗る[3]。9月9日には京都に対して代替わりの挨拶を行なっている(『御湯殿上日記』)[3]。
当初は若年のため、弘治元年(1555年)までは、従曾祖父の朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐されていた。
天文21年(1552年)6月16日、室町幕府の第13代将軍・足利義輝(当時は義藤)より「義」の字を与えられ、義景と改名する。この頃、左衛門督に任官した[4]。将軍の「義」の字を与えられて一等官である左衛門督の官途を与えられた事(それまでの朝倉当主は左衛門尉などの三等官)は歴代朝倉家当主の中では異例のことで、これは義景の父・孝景の時代に室町幕府の御供衆・相伴衆に列して地位を高め、また義景が正室に管領であった細川晴元の娘を迎えたことにより幕府と大変親密な関係を構築し、また衰退する室町幕府にとっては朝倉家の守旧的大名の力をさらに必要として優遇したためという[5]。庭籠の巣鷹を義輝に献上して交流を深めていたことも知られている[6]。
弘治元年(1555年)に宗滴が死去したため、義景は自ら政務を執るようになる。
永禄2年(1559年)11月9日には、従四位下に叙位された[7]。永禄6年(1563年)8月、若狭国の粟屋勝久を攻めた。この頃の若狭守護である武田義統は守護として家臣を統率する力を失っており、粟屋勝久や逸見昌経らは丹波国の松永長頼と通じて謀反を起こしていた。このため朝倉軍は永禄6年以降、主に秋に粟屋氏攻撃のために若狭出兵を繰り返している(『国吉城籠城記』)[注釈 2][8]。永禄7年(1564年)9月1日、朝倉景鏡と朝倉景隆を大将とした朝倉軍が加賀国に出兵。9月12日には義景も出陣して本折・小松を落としたのを皮切りとして、9月18日には御幸塚、9月19日には湊川に放火して大聖寺まで進出した後の9月25日に一乗谷に帰陣している[9]。
好機を逃す
永禄8年(1565年)5月19日、将軍・足利義輝が松永久秀らによって暗殺された。義景は義輝暗殺を5月20日に武田義統の書状で知っている[10]。8月に朝倉軍は若狭に出兵している[11]。また、8月5日に義輝の叔父にあたる大覚寺義俊が上杉謙信に充てた書状によれば、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が7月28日に幽閉先の奈良を脱出して近江国に移ることになった背景には朝倉義景の画策があったとしており、この段階で義景は義輝の家臣であった和田惟政・細川藤孝・米田求政ら脱出に関わった人たちと連絡を取り合っていたとみられている[12]。9月8日、松永久秀に矢島御所から追われ、若狭武田家を頼っていた覚慶改め義秋が越前敦賀に動座したため、義景は景鏡を使者として遣わし、その来訪を歓迎した(『上杉家文書』『多聞院日記』『越州軍記』)[11]。
義秋は朝倉家の後援を期待して朝倉・加賀一向一揆の和睦を取り持とうとしたりした。しかし両者の長年の対立は深刻ですぐに和睦できるものではなかった。また、永禄10年(1567年)3月、家臣の堀江景忠が加賀一向一揆と通じて謀反を企てた。加賀国から来襲した杉浦玄任率いる一揆軍と交戦しつつ、義景は山崎吉家・魚住景固に命じ堀江家に攻撃をしかける。景忠も必死に抗戦をするが、結局、和睦して景忠は加賀国を経て能登国へと没落した。これは朝倉景鏡の讒言による内乱であったと『朝倉始末記』は記している[13]。 11月21日、義秋を一乗谷の安養寺に迎え、11月27日に義景は祝賀の挨拶を行なっている[14]。義秋の仲介により12月には加賀一向一揆との和解も成立している[15]。
義秋は上杉謙信など諸大名にも上洛を促す書状を送っているが、それらの大名家は隣国との政治情勢などから出兵は難しかった。そのため義秋は義景に上洛戦を求め、12月25日には非公式ながら義景の館を訪問している(『朝倉始末記』『越州軍記』)[15]。また義秋が発する御内書に義景は副状を添えており、この時の義景は実質的には管領に相当する立場にあり、「朝倉系図」では義景の地位を管領代として記している[16]。 永禄11年(1568年)3月8日、義秋により広徳院が二位の尼に叙せられた[16]。4月には義秋が義昭と改め、朝倉館で元服した[17]。その後も義昭は朝倉館を訪問して義景に限らず朝倉一門衆とも関係を深めて上洛戦を求めた。だが6月に義景の嫡男である阿君丸が急死して義景は悲しみの底に沈んだ[18]。
このように義景は義昭が望む上洛戦には冷淡であったため、7月に義昭は美濃国を支配下において勢いに乗る織田信長を頼って動座しようとした。義景は止めようとしたが、義昭は滞在中の礼を厚く謝する御内書を残して越前から去った(『足利季世記』)[19]。
信長包囲網
永禄11年(1568年)8月、若狭守護・武田氏の内紛に乗じて介入し、当主である武田元明を保護という名目で小浜から連れ去り越前一乗谷に軟禁し、若狭も支配下に置いた(『国吉城籠城記』)。ただし武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏などは義景に従属することを拒否して頑強に抵抗し、若狭を完全に平定したとは言い難い[20]。この若狭侵攻は当時上洛作戦を展開していた織田信長と浅井長政の援護が目的であったとの説もある。しかし義景は、次第に政務を一族の朝倉景鏡や朝倉景健らに任せて、自らは遊興に耽るようになったと言われている。
永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。上洛した信長は義昭を将軍とし、さらに義景に対して義昭の命令として2度にわたって上洛を命じるが、義景は拒否する。これは朝倉家が織田家に従うことを嫌ったためと、上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否したとされ、また信長も越前は織田領である美濃と京都間に突き出された槍という位置から義景を服属させる必要があったためとされる[21]。
このため永禄13年(1570年)4月20日、義景に叛意ありとして越前出兵の口実を与えることになり、義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることとなる。連合軍の攻勢の前に旧若狭武田家臣の粟屋氏・熊谷氏らは信長に降伏した。また支城である天筒山城と金ヶ崎城が織田軍の攻勢の前に落城した。義景は後詰のために浅水(現在の福井市)まで出兵したが、居城の一乗谷で騒動が起こったとして引き返した[22]。
だが浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲ったため、信長は京都に撤退した。このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿を率いた木下秀吉に迎撃され、信長をはじめとする有力武将を取り逃がした(『革島文書』『信長公記』)。このため、信長に再挙の機会を与えることになった[23]。
元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突する(姉川の戦い)。しかし朝倉軍の総大将は義景ではなく、一族の朝倉景健であり、兵力も8,000人(一説に1万5,000人)だった。朝倉軍は徳川軍と対戦したが榊原康政に側面を突かれて敗北し、姉川の戦いは敗戦に終わり『信長公記』によると浅井・朝倉軍は1100余の損害を出したとされる[注釈 3]。 ただし、後述のようにこの3ヵ月後に朝倉軍は再度出兵を行っており、巷でいわれたほどの大損害を受けたとは考えにくい。だがこの戦いで信長は浅井方の支城の多くを落とすことになり、戦略的に非常に不利な立場に陥った。
8月25日、信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津国に出兵(野田城・福島城の戦い)している隙をついて、義景は自ら出陣し、浅井軍と共同して9月20日に織田領の近江坂本に侵攻する。そして信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込んだ。さらに大津で焼き働きし、9月21日には醍醐・山科に進駐した[25]。
しかし信長が軍を近江に引き返してきたため、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙する(志賀の陣)。このとき信長は比叡山に自らに味方するよう求めたが無視された。また10月20日に織田・朝倉間で小規模な戦闘があり、信長は義景に日時を定めての決戦を求めたが義景は無視した(『言継卿記』『尋憲記』『信長公記』)[26]。11月25日、信長は義景の退路を断つために堅田に別軍を送った。11月26日に朝倉・織田間で合戦になり痛み分けとなる。11月28日、足利義昭・二条晴良らが坂本に下向して和睦の調停を行なった。さらに信長は朝廷工作を行なったため、12月に信長と義景は勅命講和することになる。なおこの勅命講和の対象が延暦寺だけに限定されていたとする指摘もある[27]。
元亀2年(1571年)1月、信長は秀吉に命じて越前や近江間の交通を遮断・妨害した。6月11日、義景は顕如と和睦し、顕如の子・教如と娘の婚約を成立させた(『顕如上人御書札案留』)[28]。7月に六角承禎が京都に侵攻しようとした際には、洛中で放火などしないようにという書状を送っている(『田川左五郎氏所蔵文書』)[28]。8月、義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが、逆に信長に兵站を脅かされて敗退した。この後、信長は前年に朝倉に協力した比叡山を焼き討ちした。
元亀3年(1572年)7月、信長は小谷城を包囲し、虎御前山・八相山・宮部の各砦を整備しはじめた。これを見た浅井氏は朝倉氏に「長島一向一揆が尾張と美濃の間を封鎖したので、今出馬してくれれば織田軍を討ち果たせる」と虚報を伝え、義景はこれを信じて支援に赴いた。しかし義景は攻勢には出ず、織田軍から散発的な攻撃を受けると、前波吉継や富田長繁ら有力家臣が信長方に寝返った。9月には砦が完成。信長は再び日時を決めての決戦を申し入れてきたが、義景はまた無視した。9月16日、信長は砦に木下秀吉を残し、横山城へと兵を引いた。
10月、甲斐国の武田信玄が西上作戦を開始し、遠江・三河方面へ侵攻し、徳川軍は次々と城を奪われた。この出兵の際、信玄は義景に対して協力を求めている[29]。これを受けて信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で打って出たが、虎御前山砦の羽柴隊に敗退。12月3日には部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、そのため信玄から激しい非難を込めた文章を送りつけられる(伊能文書)[30]。
元亀4年(1573年)2月16日、信玄は顕如に対して義景の撤兵に対する恨み言を述べながらも再度の出兵を求め、顕如もまた義景の出兵を求めている。3月に義昭が正式に信長と絶縁すると、義景の上洛の噂もあったというが(耶蘇会日本年報)、義景は動かなかった[31]。
4月12日、朝倉家にとって同盟者であった武田信玄は陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。このため、信長は織田軍の主力を朝倉家に向けることが可能になった。
一乗谷炎上
天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いて近江に侵攻する。これに対して義景も軍を率いて出陣しようとするが、数々の失態を犯し重ねてきた義景はすでに家臣の信頼を失いつつあり、「疲労で出陣できない」として朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否する[注釈 4]。 このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣した。
8月12日、信長は暴風雨を利用して自ら朝倉方の砦である大嶽砦を攻める。信長の奇襲により、朝倉軍は敗退して砦から追われてしまう。8月13日には丁野山砦が陥落し、義景は長政と連携を取り合うことが不可能になった。このため、義景は越前への撤兵を決断する。ところが信長は義景の撤退を予測していたため、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受けることになる。この田部山の戦いで朝倉軍は敗退し、柳瀬に逃走した[注釈 5]。
信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受けてしまう[注釈 6]。 義景自身は疋壇城に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延らの武将が戦死した。
義景は疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。8月15日、義景は一乗谷に帰還した。ところが朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていた。義景が出陣命令を出しても、朝倉景鏡以外は出陣してさえ来なかった[注釈 7]。
このため義景は自害しようとしたが、近臣の鳥居・高橋に止められたという[33]。8月16日、義景は景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、東雲寺に逃れた。8月17日には平泉寺の僧兵に援軍を要請する。しかし信長の調略を受けていた平泉寺は義景の要請に応じずに、東雲寺を逆に襲ったため、義景は8月19日夕刻、景鏡の防備の不安ありとの勧めから賢松寺に逃れた。
一方、8月18日に信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、居館や神社仏閣などを放火した。この放火は三日三晩続いたのである[34]。
最期
従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていた義景であったが、8月20日早朝、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃する。ここに至って義景は自刃を遂げた。享年41[34]。
死後
死後、高徳院や小少将、愛王丸ら義景の血族の多くも信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害され、かくして戦国大名としての朝倉氏は滅亡した。義景の首は信長家臣の長谷川宗仁によって、京都で獄門に曝された。
その後、浅井久政・長政共々髑髏に箔濃(はくだみ)を施され、信長が家臣に披露している(「杯にして酒を飲ませた」というのは作り話である)。この信長の行為を桑田忠親は「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している[35]。この桑田説に対して、宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり、今生と後生を合わせた清めの場で、三将の菩提を弔い、新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している[36]。
辞世
- 「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
- 「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」
人物・逸話・評価
- 義景は当時の状況を考慮して、足利義昭を奉じての上洛をしなかった。実際に義昭は他の多くの大名家に上洛を促しても無視されており、仮に義景が上洛して義昭を将軍とするとなると三好家と事を構える事にもなり、当時の浅井・朝倉連合の実力ではこれを破って上洛する事は難しかったと思われる[16]。
- 浅井長政の離反で信長は前に朝倉軍、背後に浅井軍という絶体絶命の窮地に陥ったが、信長や有力武将の多くを取り逃がした上に近江に出兵したのが5月11日であり、しかも大将は朝倉景鏡で義景は自ら出陣しなかった[37]。
- 志賀の陣で信長が四方に敵を構えて窮地にあった時、信長の挑戦を無視して応じなかった。先鋒隊が京都付近まで迫っていたのに、自らは山科に留まって信長帰洛と和睦の機会を与えた。勅命講和に関しても信長に浅井領を除く近江の領地を承認するというものであり、実質的には信長優位の講和であった[38]。
- 義景は子宝に恵まれず、他に兄弟もいなかったため、外交などの立場は非常に弱く朝倉家滅亡の一因を成した[39]。
- 義景前半の治世では宗滴という信頼できる名将が存在し、その死後も深刻な政治情勢に巻き込まれることが無かったため越前は周辺諸国に比べて安定・平和・栄華を極めた。このため当時の越前を訪れた者は「義景の殿は聖人君子の道を行ない、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃えている。また公家の三条西公条なども越前を羨んだという[40]。
- 義景は各地の大名へかなり多くの書状を発給しており、足利将軍家、美濃国の遠藤氏、越後上杉氏、遠方では薩摩国の島津氏、出羽国の大宝寺氏、安東氏、常陸国の土岐治英など、かなり広範囲にわたって外交を行っている形跡が見られる。また、武田信玄に仕え、諸国使番として各地を巡り、信玄上洛作戦の際にも朝倉氏に使者として赴いた日向宗立から武田流戦術の秘伝を学んだと、前出の土岐治英に書簡を出しており、戦術についても決して伝統的なものに拘らずに新しい戦術を取り入れようとしていた人物である事が窺える[41]。
- 朝倉氏代々の功績を受け継ぎ、一乗谷に京都から多数の文化人を招き、一大文化圏を築き上げている。
- 小笠原流弓術の達者で、度々犬追物を行って弓術を披露している。
- 内政家としては中継貿易に頼っていた貿易を大陸との直接貿易路を開く事によって収益を上げ、また朝倉氏遺跡からガラス工房の跡が発掘された事などから、新しい産業の開発にも力を入れていたと思われる。
- 元亀元年(1570年)の信長との講和の際、信長は義景に対して「天下は朝倉殿(義景)持ち給え。我は二度と望みなし」という起請文を出したという(三河物語)[注釈 8]。
家族
- 義景は天文17年(1548年)、細川晴元の娘と結婚した。しかしこの正室は女児を出産した直後に死去した。
- 義景は2人目の正室として近衛稙家の娘(ひ文字姫)を迎えた。この正室は「容色無双ニシテ妖桃ノ春ノ園ニ綻ル装イ深メ、垂柳ノ風ヲ含メル御形」(朝倉始末記)と評された美女であったが、義景との間に子ができなかったため、離縁されて実家に送り返された。
- 近衛稙家の娘の後、義景は側室の小宰相を寵愛した。彼女は朝倉氏の重臣・鞍谷副知の娘である。小宰相は永禄4年(1561年)に義景との間に初めての男児である阿君丸を生んだ。ところがその後、小宰相は病死し、阿君丸も永禄11年(1568年)に早世した。嫡男・阿君丸と寵愛した小宰相の死去、さらに家臣の離反など、相次ぐ不幸が義景の関心を政治から遠ざけたとされる。
- 義景は小少将を側室に迎えた後、酒池肉林に溺れたと言われている。『朝倉始末記』においては義景と小少将の関係について、「此女房(小少将)紅顔翠戴人の目を迷すのみに非ず、巧言令色人心を悦ばしめしかば、義景寵愛斜ならず」、「昼夜宴をなし、横笛、太鼓、舞を業とし永夜を短しとす。秦の始皇、唐の玄宗の驕りもこれに過ぎず」とある。姉川の戦いの際にも、義景は小少将を寵愛して一乗谷に引き籠っていたとされる。
異説
義景は以下の事実から近江六角氏からの養子であった、という説がある[43]。
- 幼少期に関しての記録がない。守役や乳母などの記録がなく、逸話もない。
- 義景の父(宗淳孝景)と六角氏との間に内容不明の密約があった。
- 義景側近に六角系苗字が多い。
- 六角氏の内紛に介入。
- 六角氏様式の花押と朝倉氏式の花押を併用。
- 六角氏綱の子で仁木氏の家督を継承した仁木義政と親しい間柄であった。
譜代家臣や一門衆の離反など、義景の代で起こった家中の軋轢の原因も、義景が他家からの養子であったことに起因しているとこの説は主張している[44]。
家臣
一門衆
越前の家臣
脚注
注釈
- ↑ 『若州武田之系図』『武田系図』では若狭武田家の出身として記されているのは確かだが、父に関しては異なっている[1]。
- ↑ これは永禄11年(1568年)8月まで続いた。
- ↑ 『言継卿記』では越前衆5000余が討死して大敗としている[24]。
- ↑ 『越州軍記』では「先ず、式部大輔景鏡、出陣あるべきの旨、義景宣いける処に、所労もってのほかなる由にて立たず。魚住備後守は、江州丁野の城の番手にありけるの条、人馬をくつろぐべしとて、是も立たず」とある[32]。
- ↑ このときの朝倉軍の潰走ぶりを
- 「義景立出馬ニ乗玉ヘバ、右往左往ニサワギ、下人ハ主ヲ捨テ、子ハ親ヲ捨テ、我先我先トゾ退ニケル。此間雨降タル道ナレバ、坂ハ足モタマラズ、谷ハ泥ニテ冑ノ毛モ不見。泥ニ塗レテ足萎へ友具足ニ貫テ、蜘蛛ノ子ヲ散ガ如クシテ、其路五六里ガ間ニ、馬物具ヲ捨タル事足ノ踏所モナカリケリ。軍ノ習勝ニ乗時ハ鼠も虎トナリ、利ヲ失フ時ハ虎モ鼠トナル物ナレバ、草木ノ陰モヲソロシクシテ、シドロモドロニ退キケリ」
- ↑ 「山の険阻を云ず馳重りける間、朝倉軍は或は谷へ堰落とされ、或は高岸より馬を馳倒して、其侭討たるる者もあり、唯馬具を抜捨て、逃伸とする者はあれども、返合戦はんとする者はなかりけり」(越州軍記)というような悲惨な状況だったと言われている。
- ↑ 『越州軍記』には、この時の状況が、
- 「義景15日に館へ入せ玉へば、昔の帰陣に引替、殿中粧条寂莫として、紅顔花の如くなりし上籠達も、一朝の嵐に誘はるる心地、涙に袖をしぼり、夜の殿に入せ玉ひても、外の居もなし。寝頭に星を烈し武士老臣も、満天の雲に覆われて、参する人独もなかりければ、世上の事何とか成ぬらんと、尋聞かるべき便もなし」
- ↑ ただし、これは三河物語のみの記述であり、肝心の朝倉側の資料にはこのような記述はない。
出典
- ↑ 水藤 1986, pp. 47-48.
- ↑ 水藤 1986, p. 48.
- ↑ 3.0 3.1 3.2 水藤 1986, p. 49.
- ↑ 水藤 1986, p. 50.
- ↑ 水藤 1986, p. 53.
- ↑ 宮永一美、「戦国武将の養鷹と鷹書の伝授―越前朝倉氏を中心に―」、二木謙一編 『戦国織豊期の社会と儀礼』 吉川弘文館、2006年。
- ↑ 水藤 1986, p. 225.
- ↑ 水藤 1986, pp. 63-64.
- ↑ 水藤 1986, p. 67.
- ↑ 水藤 1986, p. 68.
- ↑ 11.0 11.1 水藤 1986, p. 70.
- ↑ 渡辺世祐「上洛前の足利義昭と織田信長」、『史学雑誌』29巻2号、1918年。/所収:久野雅司編著 『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』 戒光祥出版、2015年。ISBN 978-4-86403-162-2。
- ↑ 水藤 1986, pp. 71-72.
- ↑ 水藤 1986, pp. 73-74.
- ↑ 15.0 15.1 水藤 1986, p. 74.
- ↑ 16.0 16.1 16.2 水藤 1986, p. 76.
- ↑ 水藤 1986, p. 77.
- ↑ 水藤 1986, p. 79.
- ↑ 水藤 1986, p. 80.
- ↑ 水藤 1986, p. 86.
- ↑ 水藤 1986, pp. 86-87.
- ↑ 水藤 1986, p. 88.
- ↑ 水藤 1986, p. 89.
- ↑ 水藤 1986, p. 96.
- ↑ 水藤 1986, p. 98.
- ↑ 水藤 1986, p. 100.
- ↑ 桐野作人「志賀の陣 和睦の真相」、『歴史読本』56巻7号、2011年。
- ↑ 28.0 28.1 水藤 1986, p. 104.
- ↑ 水藤 1986, p. 112.
- ↑ 水藤 1986, p. 113.
- ↑ 水藤 1986, p. 116.
- ↑ 水藤 1986, p. 117.
- ↑ 水藤 1986, p. 119.
- ↑ 34.0 34.1 水藤 1986, p. 120.
- ↑ 桑田 1958, p. 25.
- ↑ 宮本 2010, pp. 61-62.
- ↑ 水藤 1986, pp. 89-90.
- ↑ 水藤 1986, pp. 98-101.
- ↑ 水藤 1986, pp. 170-172.
- ↑ 水藤 1986, pp. 66-67.
- ↑ 水藤 1986, p. 175.
- ↑ 『完訳フロイス日本史3』54章(本来の第2部32章)
- ↑ 佐々木哲が引用する富山県立図書館所蔵『朝倉家録』所収の『朝倉家之系図』による。
- ↑ 近江六角氏の養子に関する項目
参考文献
- 石橋重吉『朝倉義景』
- 桑田忠親 『淀君』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1958年。
- 水藤真 『朝倉義景』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年。
- 松原信之編 『朝倉義景のすべて』 新人物往来社、2003年。
- 宮本義己 『誰も知らなかった江』 毎日コミュニケーションズ、2010年。
参考論文
- 小泉義博「朝倉義景と景鏡の感状」、『武生市史編さんだより』26号、1995年。
関連事項
史料
- 『越州軍記』