岩垂寿喜男

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岩垂 寿喜男(いわたれ すきお、1929年昭和4年)4月25日 - 2001年平成13年)3月7日)は、日本政治家。本名の読みは「いわだれ すきお」。

衆議院議員(8期)、環境庁長官第33代)を務めた。

来歴・人物

長野県東筑摩郡笹賀村(現松本市)の農家に生まれる。1944年2月、自ら志願し海軍通信学校に入学。本来は2年制の学校であったが、戦況の悪化により促成カリキュラムが組まれ、同年12月に卒業した。海軍通信学校卒業後、鹿児島県鹿屋基地で教員補を務める。1945年第二次世界大戦敗戦により復員する。その後、長野県東筑摩農学校(現長野県塩尻志学館高等学校)に編入学し、中央大学専門部法学科に進学。大学は一部(昼間部)に入学したが、生活費を捻出するために昼間は大日本印刷で働き、二部(夜間部)の授業を受講し1951年に卒業。

在学中に日本社会党に入党し、棚橋小虎の選挙を手伝う。棚橋の参議院議員当選に伴い、岩垂は棚橋の秘書になるが、間もなく秘書の職を辞して故郷の笹賀村へ帰省した。

1954年、故郷の笹賀村は市町村合併により松本市の一部になり、翌1955年、25歳で松本市議会議員選挙に出馬するが次点で落選した。その後弁護士をめざすが肺浸潤を患い、司法試験を断念する。1956年日本労働組合総評議会本部書記に採用され、1960年安保闘争では安保反対国民会議事務局次長を務め、反対運動の先頭に立った。しかし全日本学生自治会総連合(全学連)の過激な行動に対しては批判的であった。同年10月11日浅沼稲次郎日本社会党委員長から衆議院議員総選挙への出馬の要請を受けるが、浅沼は翌日暗殺される(浅沼稲次郎暗殺事件)。結局この時は出馬を決断せず、その後は市民運動に関わる。

1972年第33回衆議院議員総選挙中嶋英夫の後継で旧神奈川2区から日本社会党公認で出馬し、初当選。名字の「いわたれ」表記はこの時からである。議員当選後も引き続き市民運動や、公害対策をはじめ環境問題にも関与した。また超党派の自然保護議員連盟の結成に関わり、自身は幹事長に就任した(会長は自由民主党大石武一)。1986年土井たか子の社会党委員長就任に伴い党中央委員、総務局長に起用される。1990年(平成2年)に中央執行委員へ指名され、党内閣部会長、環境部会長、厚生部会長を歴任。

1993年、社会党惨敗後の特別国会の首班指名選挙では、日本新党細川護煕ではなく山花貞夫社会党委員長に投票した。また細川内閣が成立をめざした政治改革四法案にも党議拘束に反して反対票を投じ、党規違反で3ヶ月間の党活動禁止処分を受ける。細川内閣退陣後、社会党は羽田内閣で閣外協力に転じ、岩垂は自社さ連立政権の樹立を推進した。

1996年、自社さ連立の第1次橋本内閣環境庁長官に任命され、初入閣。在任中、長良川河口堰建設問題で建設省環境庁の定期協議を実現する。同年の第41回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退した。

2001年3月7日、心不全のため神奈川県鎌倉市の病院で死去。享年71。

エピソード

  • 大日本印刷や中央大学では、賃上げの労働争議学生運動に加わり、それを見た社会党員で恩師の青柳竜郎の勧めを受けて、それが社会党への入党、棚橋小虎参議院議員の選挙を手伝うきっかけになった。棚橋の当選後は秘書になるが、棚橋の息子が秘書になる代わりに間もなく岩垂は職を辞した。
  • 社会党では飛鳥田一雄石橋政嗣両委員長就任に尽力し、1986年第38回衆議院議員総選挙での社会党惨敗後、石橋後継に土井たか子を擁立し、委員長に就任させる。しかし、石橋委員長は続投を望んでいたため、以降岩垂と石橋は疎遠になった。
  • また社会党内では伊東秀子小森龍邦らと並ぶ最左派の理論家で知られた。1993年第40回衆議院議員総選挙では、日本労働組合総連合会山岸章会長らの意向により左派外しの選別推薦が行われ、岩垂や土井たか子上田哲らは連合から推薦を得られなかった。
  • 自社さ連立の村山内閣下では、ルワンダに現地調査へ赴き自衛隊のPKO(国際連合平和維持活動)派遣を決めたため、変節を批判された。
  • 岩垂の死去後5年経った2006年2月に行われた社民党の党大会で、衆院に小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革法案に賛成したのは、その後の党勢激減を踏まえれば「正しかったとはいえない」との新見解をまとめ、当時法案に反対して処分された岩垂ら9人の名誉回復が図られた。

政策

脚注

  1. 第123回国会 - 衆議院 - 法務委員会 - 15号 平成4年6月19日

外部リンク


議会
先代:
村山富市
日本の旗 衆議院物価問題等に関する特別委員長
1991年 - 1993年
次代:
戸田菊雄

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