国立戒壇

提供: miniwiki
移動先:案内検索

国立戒壇(こくりつかいだん)は、日本国家として建立する本門の戒壇と言う意味。

概要

仏教系新宗教の在家団体である立正安国会(後の国柱会)の創立者田中智學が、1902年(明治35年)の『本化妙宗式目』において最初に提唱した概念である。

大日本帝国時代の法華宗各派においてこの構想は、天皇帰依の実現こそ広宣流布実現の近道という当時の一般的な状勢判断と結びついて、広汎な支持を受けた。

日蓮の手紙「三大秘法稟承事」に書かれているように、国の許可を受けて戒壇を建立するのが日蓮の悲願であり、遺言であると弟子たちは受け取っている。

歴史的にみても、戒壇の建立は国家的な事業であった。しかし、第二次世界大戦以降、政教分離を規定した新憲法が施行され、天皇が主権者でなくなると、天皇帰依を前提とした国立戒壇論の意義は変化することとなり、法華宗各派において論じられることがなくなった。しかし、日蓮正宗およびその信徒団体は、国立戒壇という用語を使用し続けた。

1970年(昭和45年)4月15日衆議院予算委員会において日本共産党谷口善太郎が「国立戒壇は政教分離を規定する憲法に違反するではないか」と指摘する。これを受け、日蓮正宗および創価学会は、国立戒壇という用語の使用を自宗内で禁止した。しかし、日蓮正宗の信徒団体だった妙信講(現・冨士大石寺顕正会)は使用禁止命令に従わず、国立戒壇という用語を使用し続けたため日蓮正宗を破門されている。妙信講は破門されたのちに宗教法人「顕正寺」として独立し「日蓮正宗顕正会」と名乗る。1996年に宗教法人「顕正会」、通称「富士大石寺顕正会」と改め、引き続き国立戒壇論を主張している。

仏教系新宗教各派における国立戒壇

創価学会

創価学会は、2代会長戸田城聖が就任した直後の1950年代前半には「王仏冥合」「国立戒壇」を目指し、その実現を主張していた[1]。戸田は自ら筆を揮っていた機関誌『大白蓮華』の巻頭言で「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」[2]と述べていた。ただし同時に、「未来の日蓮門下に対して国立戒壇(本門の戒壇)の建立を命ぜられたものであろう」とも述べ、戒壇を建立する主体はあくまで日蓮門下であって権力たる日本国政府ではない[3]と明言している。

戸田の後任となる3代会長池田大作は1960年(昭和35年)の会長就任に当たり、「戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進の指揮を執らせていただきます」と挨拶した[4][5]。池田は1965年(昭和40年)、500万世帯弘通を達成した創価学会を代表して大石寺に正本堂建立を発願する。この時、日蓮立正安国論真筆において用いた「クニガマエの中に民衆の民と書いて『囻(クニ)』と読む」文字の解釈を基に、日蓮が意味する国の意味は国家権力ではなく、民衆であるという新たな見解を明らかにした。

そして、日蓮仏法を奉じる民衆の代表たる正宗総講頭、および当時その地位にあった創価学会会長の発願で戒壇は建立できると説明した[6]

しかし、この考え方に日蓮正宗内では妙信講が「国立戒壇はあくまでも国家権力の許しを得たものでなければならない」と反発(後述)。外部からも1970年(昭和45年)の共産党による「国立戒壇論は『国から特権を受け』ることになり憲法20条に違反する思想といわなければならない」という非難を受け、学会・日蓮正宗宗門は守勢に立たされた(前述)。この指摘に対し創価学会では「国立戒壇について」という文書で、次のように回答している。

  1. 本門戒壇とは本尊をまつり信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきである。
  2. 一時、本門戒壇を国立戒壇と呼称したことがあったが、本意は1で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門も事業として行うのであって、国家権力とは無関係である。


一方で、「国立戒壇の『クニ』は「クニガマエの中に民衆の民と書いて『囻(クニ)』と読む」文字」という見方は引き続き学会教学部内を貫く思想となり、これが1972年(昭和47年)に正本堂が完成した際「御遺命達成。ありがとう」という池田会長名義のメッセージが出される原因になったと見る向きがある。

その後平成時代になって池田は「戦後民主主義体制で主権在民になった以上民衆の意思が『勅宣・御教書』に代わるものである」「正宗を国教にするとかえって一国化し大聖人の御精神に反してしまう」と説明し、この問題の決着を図った[7].

冨士大石寺顕正会

大石寺の信者団体から分派した冨士大石寺顕正会は、広宣流布完結の暁には国立戒壇が必ず建立されると位置付ける。

顕正会の広宣流布は、日本国民全てが顕正会の奉じる日蓮仏法を受け入れるか、その前でも国主が帰依した時を持って完結すると定める。そして、広宣流布の完結と同時に建立される戒壇は、日本国家権力の頂点という意味での「国主」を建立当事者としなければならない[8]。またその国主は「ただ一人」であるという『報恩抄』の言葉を厳格に解釈し[9]、この場合は天皇勅宣ないしは天皇の協賛機関たる国会の議決を得て建立が決められた「本門の戒壇」のみが国立戒壇と名乗ることができるとする。つまり、日蓮正宗宗門や創価学会の言う「民衆立戒壇」を認めず、「国家権力立」ないしは「皇室立」のみが国立戒壇となることを強硬に主張する。

正本堂完成の際には、正本堂が日蓮御遺命の戒壇に当たらないこと、権力立戒壇の建立を求める運動は継続していることを宗門・創価学会に確認させるため、「御遺命守護」を両教団との最大の対立軸として掲げ、正本堂に安置された本門戒壇の大御本尊を別の場所に遷座せよと主張した。1998年(平成10年)に大御本尊遷座が実現、正本堂は解体されるが、会長浅井昭衛は一度は賛意を示しつつも「管長阿部日顕の決定が一方的かつ独善的、未だに怨嫉の心を持ち続けている」などと批判して自派の思想を堅持する方針を明らかにした。

そして、『国立戒壇が現行作られるものではなく、未来に作られるとされる以上、現行の憲法で「合憲か違憲か」を考察すること自体不毛の論議である。なぜなら国立戒壇建立時にどのような憲法になっているかは分からない。憲法20条は永遠のものではないし、その改憲を主張することは違憲では無いからである』とし、顕正会は自派の求める「権力公認」の戒壇建立が実現するまであくまでも国立戒壇という用語を使用し続け、宗門・創価学会もまたその原点に立ち返らなければならないと主張している。

脚注

  1. 『聖教新聞縮刷判:昭和26・27・28年度 No.1』聖教新聞社
  2. 大白蓮華1956年2月号巻頭言『自らの命に生きよ 広宣流布の二つの意味』
  3. 戸田城聖著・戸田城聖全集出版委員会編 『戸田城聖全集 1』 聖教新聞社、1981年、214頁。
  4. 大白蓮華2017年7月号p106『池田先生の指導選集「幸福と平和を創る智慧」 26-20 第三代会長就任』
  5. 「創価学会の歴史 池田大作第3代会長・SGI会長の時代」 - 創価学会教学部編『教学入門 世界宗教の仏法を学ぶ』(聖教新聞社 ISBN 978-4412015708)p296
  6. 「本抄の背景・大意 立正安国について」 - 創価学会教学部編『世界広布の翼を広げて 教学研鑽のために「立正安国論」』(聖教新聞社 ISBN 978-4412016194)P15-16
  7. 「第4章 うさんくささと政教分離を巡る攻防 戒壇の建立も自由」 - 佐藤優『創価学会と平和主義』(朝日新書 ISBN 9784022735829)p131-132
  8. 「第二章 三、「国主立戒壇」の誑惑」 - 浅井昭衛『対決を拒否した阿部日顕管長に「最後に申すべき事」』(冨士大石寺顕正会)P44-53
  9. 『創価学会版 新編日蓮大聖人御書全集』P294